――シンオウ地方から逃げた。
ダークライの霧に包まれ、視界が真っ暗になったかと思えば、次に見えたのは見知らぬ街の風景。
高いビル。
やけに整った道路。
そして、人の多さ。
「……ここどこだ?」
俺が呟いた瞬間、鼻をくすぐる甘い匂いがした。
バニラみたいな、ミルクみたいな。
……いや、違う。
あの匂いは知ってる。
「ヒウンアイス……?」
俺はゆっくりと顔を上げた。
そこには大きな看板。
街の名前も書かれている。
『ヒウンシティ』
俺は安堵したように息を吐いた。
「……イッシュ地方だな」
よし。
ここなら、まだ大丈夫だ。
シンオウみたいに神話と密接じゃない。
ダークライを見て「世界の危機!」ってなる空気も、たぶん薄い。
イッシュは都会だ。
多少の異常事態なら、「なんかすげーのいた」で流される。
きっとそう。
俺はそう信じたかった。
……信じたかったんだよ。
その時だった。
「……あ」
聞き覚えのある声。
俺が振り向く。
そこにいたのは、二人の少女だった。
片方は帽子をかぶった元気そうな雰囲気。
もう片方は、落ち着いた顔でこちらを見ている。
俺は一瞬で理解した。
理解してしまった。
「……あ、どっちもいるタイプか」
思わず、口から出た。
最悪だ。
イッシュ地方の主人公枠。
トウコとメイ。
原作でも「前作主人公はいる?」論争が永遠に続くトウコが、メイと同時に存在している。
いや、存在してること自体はいい。
問題は――
二人とも俺を見て、目を輝かせていることだ。
嫌な予感しかしない。
メイが、ぱっと笑顔になって手を振った。
「こんにちはー!」
トウコも一歩前に出て、興味深そうに俺を見つめる。
「……あなた、旅の人?」
俺は反射で背筋を伸ばした。
こういう時、下手に取り繕うと余計怪しまれる。
自然に、爽やかに、平凡に。
俺は笑顔を作った。
「……こんにちは。八雲零です」
そして、俺は自分で自分の首を絞める一言を言ってしまう。
勢いで。
誤魔化すために。
その場のノリで。
「……俺はチャンピオンのアイリスなんて知りません」
――沈黙。
メイが一瞬、固まった。
「……え?」
トウコも眉を上げた。
「……アイリス?」
俺は心の中で叫んだ。
(やっちまったぁぁぁぁぁぁ!!!)
言う必要なかった。
絶対言う必要なかった。
なのに俺は、まるで「私は怪しい者です」って自己紹介するみたいに言ってしまった。
俺は慌てて両手を振った。
「いや、違う違う!今のはその……」
メイが首を傾げる。
「……チャンピオンって、アイリスだよね?」
トウコが静かに言う。
「あなた、なんでそんなこと言ったの?」
俺は冷や汗をかきながら、視線を逸らした。
「いや、なんか……その……」
トウコはじっと俺を見てくる。
目が鋭い。
絶対に誤魔化せないタイプだ。
メイはメイで、ニコニコしながら距離を詰めてくる。
この二人、方向性が違うだけで厄介さが同じだ。
俺は心の中で呟いた。
(イッシュ、詰んだかもしれない)
その瞬間。
俺の肩の上で、ミュウがぴょこんと顔を出した。
「みゅー♪」
……やめろ。
やめてくれ。
今出てくるな。
頼む。
トウコの目が見開かれる。
「……ミュウ?」
メイが叫んだ。
「え!?え!?ミュウ!?本物!?!?」
俺は口を押さえた。
(終わった)
さらに、もう片方の肩からセレビィが顔を出す。
「びぃ!」
メイが完全にテンション爆上がりした。
「ええええ!?セレビィもいるの!?!?!?!」
トウコは逆に静かに、しかし危険な声で言った。
「……あなた、何者?」
俺は乾いた笑いを浮かべた。
「……ただの旅人ですよ」
メイが目をキラキラさせて言った。
「旅人ってレベルじゃないよ!?」
トウコは一歩近づいてきて、俺の目をまっすぐ見た。
「あなた、どこの地方から来たの?」
俺は即答した。
「シンオウからです」
トウコが頷く。
「なるほど」
……理解が早い。
いや、理解してない。
納得してるだけだ。
メイは俺の周りをぐるぐる回り始めた。
「ねえねえ!それって、ポケモンリーグ関係者!?」
「え、チャンピオンなの!?」
「伝説使い!?」
俺は首を横に振った。
「違います」
メイは笑顔で言った。
「じゃあなんでミュウとセレビィが肩に乗ってるの?」
俺は黙った。
トウコが、ふっと笑った。
「……嘘、下手だね」
俺は心の中で泣いた。
(俺もそう思う)
その時。
俺のスマホが震えた。
ピコン。
通知。
嫌な予感しかしない。
画面には――
【ヒカリ:零ぃぃぃぃ!!!無事についたよね!?!?】
【シロナ:無事なら連絡しなさい】
【ダイゴ:返事がないが大丈夫か】
俺は青ざめた。
メイが覗き込んでくる。
「え、誰!?ダイゴ!?」
トウコの目が細くなる。
「……あなた、まさか」
俺は咄嗟にスマホを隠した。
「いや、違います」
トウコは静かに言った。
「今、通知に“ダイゴ”って見えたけど」
俺は苦笑いした。
「……見間違いです」
トウコは即答した。
「見間違いじゃないでしょ」
メイがにっこり笑った。
「ねえ零くん!」
嫌な呼び方だ。
距離の詰め方が、完全に「捕獲」なんだよな。
「私たちとバトルしようよ!」
俺は即答した。
「嫌です」
トウコも淡々と言う。
「バトルしないなら、話を聞かせて」
俺はまた即答した。
「嫌です」
メイが笑顔で言った。
「じゃあアイス奢ってくれたらいいよ!」
俺は一瞬だけ黙った。
……アイス。
ヒウンアイス。
甘くて冷たくて、幸せの味。
メイはさらに言う。
「あと、ミュウ触らせて!」
トウコが静かに付け足す。
「それと、あなたの旅の目的も」
俺は頭を抱えた。
詰んだ。
完全に詰んだ。
イッシュに来た時点で、俺の平和は終わっていたんだ。
俺はゆっくり顔を上げ、二人を見て言った。
「……分かりました」
メイがぱっと笑顔になる。
「やった!」
トウコも満足そうに頷いた。
俺はモンスターボールを握る。
仕方ない。
こうなったら、俺は俺のやり方で切り抜けるしかない。
こうして俺は。
イッシュ地方でも、平穏とは程遠いスタートを切った。
次回
「俺が勝ったらヒウンアイス奢ってください」