「宝くじで一等賞を」と願ったら、外れのサイコロ魔法を引かされました。 ~黒羽根に堕ちた私に救いなんてありません~ 作:黒陽石
マギウスの翼は、徹底していた。
私の名は「
少し寂しいが、その匿名性が心地よくもある。名前を捨てれば、あの無様な自分からも逃げられる気がしたから。
「……ねえ、7番さん。少し、お話しない?」
後ろを歩く8番さんが、突然、声をかけてきた。
聞き間違いかと思って、スルーした。
「7番さん、7番さん」
湿り気を帯びた、震えるささやき声が重なる。
心臓が、警鐘を鳴らすように跳ねた。
私たちは今、マギウスと交わした『九つの約束』の下にいる。任務中の私語、個人の特定、秩序を乱す行為。8番さんが犯そうとしているのは、そのどれにも当てはまる重大な背信だ。
無視すべきだ。
私はフードをかぶりなおした。前を行く6番の背中に集中する。
黒羽根のローブは、冷たく、重い。個を殺し、改めて組織の歯車であろうと決意する。規則を破れば、あの貨物エレベーターに積み込まれるゴミになる。鼻腔には、先ほど見た廊下の染みの、どす黒い鉄錆の匂いが蘇る。
「……お願い、7番さん。聞いて……」
「ひゃっっ」
袖口を掴まれて、小さな悲鳴をあげてしまった。
8番さんの指先から、抗いようのない熱が伝わってきた。組織の冷徹な規律をじりじりと焼き切るような、生々しい人間の体温だった。怯えた小動物のような拍動が、私の鼓膜を優しく、同時に決断を迫るように揺らす。
(話に応じたら、私も同類になる)
舌の上に、胃液のような味が広がった。
これまでどおりスルーを決め込めば安全だ。でも、この熱を振り払えば、私は本当に、名前のない部品として使い潰されるだろう。視界の端で、秋月スミレから受け継いだミサンガの、不器用な編み目が泣いているように見えた。
私は、乾いた唇を、ゆっくりと。
罪悪感と共に割り開いた。
「……何?」
禁忌を犯した。その瞬間、全身の毛穴が逆立つような恐怖と、言いようのない解放感が同時に突き抜けた。8番さんの視線は、私の袖口からチラつくミサンガに釘付けになっているようだ。
「どこで、手に入れたの?」
私は咄嗟に左手を隠そうとしたが、彼女の指先が、私の手首を強く掴んで許さない。
「これ、あたしが編んだんだ……色の組み合わせ、独特だから。スミレちゃんとお揃いで、ずっとつけてる。スミレちゃんは、マギウスが嫌になって辞めちゃったけど……」
8番さんも、左手首をみせた。私と同じデザインのミサンガだ。
「なんで、あんたが持ってるの」
匿名性の壁が、一瞬で崩壊する。彼女は番号を脱ぎ捨て、当事者として私の領域に踏み込んできた。恐怖と期待の混じった眼差しだ。
「……拾ったの。彼女が、魔女になった時に」
私の言葉に、彼女の指先から力が抜ける。代わりに伝わってきたのは、あまりにも切実な体温だった。彼女は泣き笑いのような顔をして、自分の秘密を、私への等価交換として差し出してきた。
「あたし……本当は、テニスが得意だったんだ。引退しちゃったけどね。未練なのかな。魔法もね、テニスボールを撃ち出すだけ。笑えるでしょ?」
大砲をミニチュアにしたようなラッパ銃。
本物のテニスボールを、砲口から装填して撃つ。
「魔法少女なのに、リュックの中はボールでパンパンだったの。笑えるでしょ?」
フードの下で、彼女が本当におかしそうに笑う。つられて私も微笑んだ。名前を捨てたはずの場所で、私たちは互いの「呪い」を見せ合うことにした。
隊長に見つからないよう、掌の中でダイスをそっと振る。
赤の14。青の45。
十四分四十五秒後の未来予知。
なのに、私の脳内には、何も映らなかった。
心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打つ。
これまで、どんなに中途半端な未来でも静止画は見えていた。真っ暗ですらない。予知そのものが機能しない虚無だった。
(これって……その時間には、もう未来が存在しないってこと?)
つまり、死。
私と、8番さんの死。
「……7番さん? どうしたの、急に止まって」
不安げに覗き込む8番さんの顔が見えない。白羽根の隊長に知らせなきゃ。まって。新人の黒羽根が「不吉なダイスが出たから帰りましょう」なんて言って、隊長や、以前からの部下らしい黒羽根が聞き入れるはずがない。
じゃあ、二人だけで逃げる?
まてまて。
あの双子になんて言い訳しよう?
マギウスから除名され、巴マミさんという唯一の救いを失って、みふゆさんを失望させて、またあの孤独な地獄に戻るの?
「……あれ、隊長たちは!?」
気づけば、白羽根の隊長も他のメンバーも、霧に巻かれたように姿を消していた。路地の角を曲がる9番の黒いローブが、死神の鎌のように一瞬だけ翻る。
「8番さん、急いで! はぐれちゃう!」
未来の空白から目を逸らすように、8番さんの手を引いて、夕闇がせまる路地裏へ駆け込んだ。その先に待っているのが、ダイスが予言した終焉だとは分かっていながら。一人で生き延びる恐怖より、二人で地獄へ向かう安堵を選んでしまった。
私達が踏み込んだ路地裏は、昼間でも太陽の光が届きそうにない、街の隙間に切り取られたような空間だった。
赤茶けたレンガの壁には、血管と神経のようにパイプが這いまわる。頭上の狭い隙間からは、夕暮れ時の、重苦しい黄金色の光が差し込んでいた。それは足元を照らすにはあまりにも弱く、かえって闇を深く、鋭く、際立たせていた。
七海やちよ。
雑誌から抜け出したような細身の美女が、そこにいた。
彼女が魔法少女に変身した瞬間。
路地の空気は絶対零度まで凍りついた。
「ここにいたウワサなら、もう倒したわ」
抑揚のない声。モデルのように美しいはずの瞳は、獲物を屠り慣れた猛禽のそれだ。白羽根隊長を含めた十人の魔法少女と敵対しているというのに。彼女がハルバードを構えただけで、私は数歩後退した。
「兵隊は何も知らない」
彼女の戦闘用ドレスの青い裾が、ほとばしる魔力にたなびいた。
「だからアジトがどこにあるかぐらいは……教えてもらうわ」
事前の打ち合わせでは、戦闘に入るまえに、私達がマギウスの翼を理念を語ったり、敵対をやめるよう説得する手筈だった。なのに、言葉が出てこない。やちよの短い言葉が、私達を圧倒している。
「容赦はしない。覚悟しなさい」
――ドンッ!!
視界の端で何かが弾けた。
気づけば、黒羽根二人が壁に埋まっている。
「全員でかかれ!」
隊長の号令。黒羽根たちが跳躍する。次の瞬間、また二人が消えた。ビルの壁が砕ける音と、短い悲鳴。やちよは、まだ槍を振るった姿勢ですらない。
(無理だ……! こんなの、勝てるわけない!)
死への恐怖が、マギウスへの忠誠を上書きする。私は戦いに背を向け、出口へと駆け出した。一人でも生き残って、双子の白羽根に報告する。そんな自己欺瞞のストーリーを脳内で必死に組み立てながら。
路地の出口。
そこに彼女が立っていた。
(……どうして、逃げるの?)
「あ、秋月……スミレ、さん……?」
(ワタシは一人で苦しんでいたのに。アナタは、なぜ来てくれなかったの?)
耳鳴りのような、死者の声。
違う、私は弱くて、足手まといになるから。
必死に言い訳を重ねる私を、スミレさんの幻影が冷たく見つめる。
(アナタが来てくれたら、ワタシは助かった。アナタが来なかったから、ワタシは魔女になった……ねえ、見て。アナタのソウルジェム、ワタシと同じ色だよ)
ドクン、と心臓が跳ねる。
視線を落とすと、ソウルジェムは、ヘドロのような黒い靄に呑み込まれていた。呼吸が荒くなる。心臓が痛い。左手首のミサンガが、手錠のようにきつく締まる。
「いやだ……私は、魔女になんて……っ!」
(誰も助けてくれない。マギウスも、巴マミも、梓みふゆも、最後は自分だけ……。アナタが私から奪ったそのミサンガを、誰かが形見で受け継ぐのよ)
スミレさんの手が、私に伸びる。
それは助けを求める手のようで、私を地獄へ引き摺り込む死神の爪に見えた。「来ないで!」と叫び、後ずさった私の前に――。
「……大丈夫? あなたのソウルジェム、くすんでいるよ?」
スミレさんの幻影が、白いフードを被った人物に上書きされた。大人びた七海やちよに比べて、いかにも愛らしい印象の魔法少女。白と桜色の狩人の装束に身をつつんだ、
「無駄なことは、やめよう?」
なぜか、目の前に立つ桃色の魔法少女が、秋月スミレに見えた。死んだはずの彼女が、私を連れて行くために現れたのだ。環いろはがボウガンを構えた瞬間、私は誤りに気付いた。彼女は死神ですらない。効率的に敵を排除する正義という名の機械だ。
「やめて…! 私を…見ないで…!」
「調子、わるそう。心配だよ……」
向けられた瞳に敵意はない。
それこそが、何よりも恐ろしい拒絶に見えた。
咄嗟に、私は六〇面ダイスを手のひらに具現化し、投げつけた。閃光は一瞬でも、目くらましになり、ひるませる事はできるはず。体勢を崩したところで、マギウスの黒羽根として支給された武器をつかうのだ。
そう思っていた。
――パシュッ。
乾いた音と共に、私の渾身のダイスが空中で弾け飛んだ。
環いろはが放った魔法の矢。
それが、米粒ほどのダイスを、二つ、正確に射抜いたのだ。予知も、爆発も、発動すら許されない。私の運命は、彼女の技量の前で、ただのゴミ屑に過ぎなかった。
「ダイス目が確定すれば、何かが起きたのかな?」
「あ……」
私の口から間抜けな声が出ると共に、8番さんが動いた。私の真横で、ラッパのような携帯型の大砲を構えて、環いろはに向けてトリガーをひいた。
ドゴンッッ!!
テニスボールが発射された。
環いろは……彼女は、8番さんの姿を認めた時点で、対処していた。片膝をついてボウガンを構えていた。連射した魔法の矢が、彼女に向けて低進するテニスボールを空中でとらえる。
大爆発。
その爆風で8番さんがゴロゴロと転がった。
私は、爆発を予期してガードの体勢をとっていたので、踏ん張れた。これはチャンスじゃないか? 環いろはだって、爆風を近距離で浴びたんだ。転んだり、よろけているかもしれない。
私は新たなダイスを生成し、いろはに向けて投げようとする。
その前に。環いろはのボウガンから、新たな魔法の矢がはなたれた。
――パシュッ
衝撃を自覚した時には、右の太ももを熱い激痛が貫いていた。
力が抜け、路面に頭から倒れた。路面に這いつくばり、芋虫のようにのたうち回る。すると、環いろはが近づいてきた。彼女は、魔法少女装束の上に、桃色の透明な被膜のようなものをまとっている。
「あの一瞬でバリアを!?」
「仲間を見捨てて、自分だけ逃げるんですか?」
彼女は道に落ちた石ころをどけるように、淡々と私を無力化した。
「妙な真似はしないで。くじいたことにして誤魔化せます」
抑揚のないトーンが私を縫いとめた。
彼女にむかって投げようとしたダイスが地面に転がる。
ダイス目は……
〔 4 〕 と 〔 9 〕。
……もう、どこにも逃げ場なんてない。視界の端では、路地の喧騒が消えていた。 七海やちよの槍が、白羽根隊長――アネットさんの喉元を、冷たく、深く、捉えている。
「これでおしまいよ。立っている部下はいないわ」
やちよの宣告。隊長の白い衣装は裂け、どろどろの血に染まり、かつての魔法少女の残骸を晒している。
「アジトへの入り方を言いなさい。早く手当てしないと、手遅れになるわよ」
「……マギウスの翼は、弱い魔法少女にとっての……希望……。お前等には……わからない……」
「もう一度チャンスをあげる。ホテル・フェントホープへの入り方は?」
「マギウス、万歳!!」
白羽根隊長が、胸元の留め金を引きちぎった。間髪を入れず、網膜を焼くほどの
――自爆
身を伏せる暇さえない。
逃げ場のないゼロ距離の爆震と爆炎が路地を飲み込む。
――ゴォォォォンッ!!!!!
衝撃に備えて目を閉じた。
なのに、待っていたのは熱風でも、痛みでも、死でもなかった。
「……え?」
恐る恐る目を開けると、そこは水の檻の中だった。立ち昇る毒々しい爆炎を、幾重にも重なる蒼い水の壁が、冷徹に、完璧に、包み込んでいる。
七海やちよ。
彼女がハルバードをひと振りしただけで、白羽根が命を賭した自爆は、小さなボヤへと成り下がった。
やちよ自身や、環いろはだけじゃない。転がっている私たち黒羽根さえも、彼女の魔法は等しく守り抜いていた。
「ふう……気骨だけは、認めてあげるわ」
息をひとつだけ吐いて、やちよは水のヴェールで紫色の焔を消火した。そして魔法を解き、霧散する水を一瞥する。私は、濁ったソウルジェムを抱え、蒼い静寂の中で、惨敗の味を噛み締めていた。
「やちよさん、ありがとうございます! ……白羽根さん、可哀想でしたね」
環いろはが、敵であるはずの私に駆け寄り、本気で心配そうに顔を覗き込んでくる。
「みんな、怪我はない?」
圧倒的な暴力。
圧倒的な善意。
「ごめんね、痛かったよね?」
環いろはが近づいてきて、私のローブをまくって顔を覗き込んだあと、隣にしゃがんだ。拍動と共に血が流れる私の太腿に、手をかざす。脳裏に、フェントホープのエレベーターの血痕が浮かぶ。それを打ち消す、温かな治癒の光。しかし、私にはそれが、死ぬことさえ許さない呪いにしか思えなかった。
「……よかった。これで傷は塞がったはずだよ」
身体が動くようになってしまった。
そのせいで、私はまだこの地獄から退場させてもらえない。
「もう、大丈夫。怖くないから、心配しないで」
うるさい。私に話しかけないで。
「やちよさん……この子、私が治しました。話なら聞けると思います」
やめて。余計なことを言わないで。
「お手柄よ、環さん」
いろはが微笑んで振り返った先。
冷徹な青い影が、ゆっくりと。
こちらへ歩を進めてくる。
七海やちよ。
弱すぎる黒羽根達を迷いなく壁に叩き伏せていた猛禽が、今度は私を情報源として選別したのだ。
(来ないで。こっちを見ないで。
お願い、あっちに行って……!!)
心の中で叫んでも、声にならない。
カツン、カツン、と一定のリズムでアスファルトを叩くヒールの足音。それは、私の余命を削り取る秒針の音だ。彼女の背後に立つ、あの破壊された路地の惨状が、逃げ場のない現実を突きつけてくる。
「ホテル・フェントホープへの入館方法を言いなさい。合言葉か、鍵か、それとも特定の座標か。隠し事は無意味よ。あなたの顔を見れば、嘘ついているかすぐわかるから」
いろはにフードをとられ、私の顔は隠すものがない。至近距離で、アイスブルーの視線が私の瞳を貫く。大人びた、あまりにも美しい顔。けれど、その双眸の奥には、マギウスの野望を阻止するための……あるいは愚行をとめるための……焦燥と、一切の妥協を許さない峻烈な意志が燃えていた。
私なんかが、この人を騙せるわけがない。
かといって、口を開けば……。
裏切り者としてマギウスに殺される。
マミさんが言った希望も、みふゆさんが語る救済も、今いるこの場所も、すべてが崩れていく。
「さあ、話しなさい。無駄な時間を取らせないで……」
蒼い影が私を覆い尽くす。震える唇が、恐怖で何一つ音を紡げない。私は、助けてくれた環いろはを呪いながら、目の前の最強という名の絶望に、魂を削り取られていくしかない。
(……言わなきゃ殺される。でも、言ったらマギウスが滅びる)
七海やちよの冷徹な視線に射抜かれ、私の思考は泥沼に嵌まった。嘘をついても見破られる。真実を売れば、七海やちよと仲間達は、間違いなくホテル・フェントホープへ突撃するだろう。
出入り口を開く鍵は、マギウスの翼の一人一人に与えられた、紋章のブローチだ。黒羽根のローブを着ているときは、留め金となっている。特定の場所でかざし、生体認証を行う。そうすれば、ホテルが存在する異空間への扉が開く。
私は、そのやり方と、特定の場所を知っている!
エレベーターだって、この
まして仲間を連れて殴り込んだとしたら……。
(私のせいで……マギウスの解放計画が潰れる?
私が弱いから魔法少女は救われないの!?)
『運命を変えたいなら、神浜へ来て』
マミさんと、みふゆさんがくれた、あの心地よい温もり。
私のような弱者でも生きていいと肯定してくれた場所。
それを壊す引き金を、私が引くというのか。
(……どうすればいい。どうすれば、私はここから生きて帰れるの?)
心臓が喉まで競り上がってくる。七海やちよの冷徹な瞳が、私の思考をすべて透視しているようで怖い。最悪のシナリオと、生き延びるための模索が、猛スピードで回転し始めていた。
適当な解除方法と、場所を教えたら?
二人が納得した隙に逃げ出すというのはどうだろう?
……無理だ。相手は神浜最強の魔法少女。私の下手な嘘なんて、瞬き一つで見破られる。その時、彼女がどんな報復を私にするか……想像するだけで、ソウルジェムが濁る。
最後の手段は「マギウス万歳」と叫んで、アクセサリーに内蔵された自爆装置を作動させる。導火線はソウルジェムに特殊な振動を与え、大爆発を引き起こす。そうすれば秘密は守れるし、私はマギウスの英雄として死ねる。あの白羽根隊長のように。
(冗談じゃない!! 宝くじに当たって、これからお母さんと幸せになるはずなのに。なんで私が粉々にならなきゃいけないのよ!!)
思考が、袋小路で空回りする。
「ねえ、早く答えてくれないかしら」
やちよのヒールが、アスファルトを鳴らす。
(死にたくない……! お母さんっ……!!)
未来への執着が、忠誠心をいとも容易く粉砕する。混乱と恐怖のあまり、私は無意識に胸元の留め金を弄っていた。カチ、カチ……と、震える指先が金属の感触をなぞる。
やちよの双眸が、鋭く光った。彼女の経験に裏打ちされた直感は、私のその動作だけで「そこに何かがある」と正解を抽出してみせる。逃げ場を失った私の喉から、ひゅいっ……と、乾いた空気が漏れた。
七海やちよの槍が、ゆっくりと伸びる。死神のナイフのような穂先が、私の胸元に触れようとした。その瞬間。誰もいないはずの路地裏に、場違いなほど軽やかな、乾いた拍手の音が響き渡った。
『お見事、七海やちよ……お姉さま』
壁に映し出されたのは、マギウス三賢者の一人、里見灯火のホログラムだった。 「灯火ちゃん!」と駆け寄ろうとする環いろはを、やちよが厳しく制する。
『この映像は、そこの7番さんのブローチから投影されているわ。残念、アクセサリーの秘密に気づかれてしまうなんて。それはGPSであり、記録装置であり、生体認証であり……そして、忠誠心を見極める天秤でもあるの』
幼い天才魔法少女の瞳が、ホログラム越しに私を冷たく射抜いた。
『7番さん。マギウスの秘密を売ろうとしたのは、あなたの罪。でもわたくしには、そんなのどうでもいい。わたくしが本当に腹立たしいのはね――わたくしの至高にして貴重な「灰色の脳細胞」を、あなたの情報漏えいに伴う入り口の閉鎖や移転といった、くだらない雑事に浪費させたことよ』
灯火は心底不愉快そうに、自身のこめかみを指先で叩いた。
『わたくしの知性は、全魔法少女を救済するシステムを構築するためにあるの。それを、あなたの安っぽい保身の後始末に1秒でも使わせた……その手間こそが、何物にも代えがたい万死に値する罪だと思わない?』
裏切りそのものよりも、自分の時間と知能を無駄にさせたことを、最大の罪に据える傲慢さ。
あまりの言い分に、喉の奥が引き攣る。
七海やちよですら、眉間にシワをよせている。
『でも、慈悲深い灯火ちゃんは、手を汚す手間さえも惜しいわ。だから処刑なんてしない……ただの追放で済ませてあげる。さようなら、無価値な7番さん。あとは七海やちよと環いろはに任せるわね』
「え……?」
『あなたは、もうマギウスではない。ただの魔法少女。そうそう、周りの黒羽根さんたちも、連帯責任で“全部”除籍しておいたから』
灯火の姿が消えると同時に、私の手のひらで金の紋章が真っ赤に焼けついた。
「あつっ……!」
思わず手放したブローチは地面に落ち、音もなく燃え尽きた。
ただの煤となって風に消えた。
私の居場所も、救いも、一瞬にして風にさらわれた。8番さんや、他の黒羽根達のブローチも、炭となって崩れ去った。
力が抜けて立てない私を見つめ、七海やちよが静かに口を開く。
その瞳には、かつて不安に震えていた自分自身を重ねるような、淡い哀れみが宿っていた。
「……これでわかったでしょう。魔法少女の運命は、どこへ行っても変わらないわ」
魔法少女は神浜で救われる……なんて、ただの幻想。そういって、やちよは、踵を返して光にむかって歩き出す。
「あなたは、あなたの居場所で、戦い抜きなさい」
「待って、やちよさん!」
環いろは。彼女は私に近づく。
へたりこんだ私の正面に座った。
膝と膝がふれそうだ。
やめて。
その、汚れ一つない瞳で私を見ないで。
私たちが命をかけて守ろうとした救済を、あなたたちはたった二人で蹂躙した。その圧倒的な力の差を誇示しておきながら、なぜ今さら被害者をいたわるような顔ができるの?
「あの、これ……」
彼女は、はにかむような仕草で、魔法少女の装束から小さな紙の切れ端を取り出した。友達にお菓子を渡すような、あまりにも軽やかな手付き。差し出されたそれを、私は拒絶することさえできず、ただ受け取るしかなかった。
「私、あなたのこと……悪い人には見えない。だから、もし、居場所がなくなって困ったら、ここに来て。私の連絡先を書いておいたから」
脳が、拒絶反応で軋む。
この子は、本気なんだ。
私を、自分の正義の内側へ招き入れようとしている。
私にどんな事情があり、どんな覚悟で黒いフードを被ったのかなんて、彼女には関係ない。ただ、道を間違えた可哀想な魔法少女を救いたい……。それだけだ。彼女は私のプライドを、踏み躙ったことにさえ気づかずに、希望を差し出した。
「待ってるね。きっと、だよ」
いろはが立ちあがった。
やちよの後を追って、振り返らず、そのまま光の中へと消えていった。彼女が去り際に見せた、あの慈愛に満ちた微笑み。どんな鋭利な槍よりも深く、私の自尊心を切り裂く。ポケットの中の紙切れが、熱を帯びているように感じる。
「……行った」
二人の足音が遠ざかり、路地裏に完全な沈黙が戻る。
その瞬間、私の膝はガクガクと崩れ落ちた。肺に溜まっていた熱い呼気が、震えと共に漏れ出す。
死神だ。
あの二人は、間違いなく私と8番さんを刈り取るために現れた死神だった。
(生きてる。私、まだ、生きてる……っ!)
ダイスが予言した『十四分四十五秒後の空白』。
あれを回避できた!
最初に予知の魔法を使った時のように!!
生温い夜風が、冷や汗で濡れた背中にまとわりつく。助かったという安堵が、泥のように全身に染み渡っていく。
落ち着きを取り戻すにつれ、別の感情が喉の奥からせり上がってきた。
焼けるような、苦い屈辱だ。
渾身のダイスを羽虫のように撃ち落とされた、あの惨めな光景。
敵としてすら認識されず、慈悲深く、憐みのもとで治療された屈辱。
あんな風に構われなければ、やちよに鍵の存在を悟られ、尋問され、マギウスから追放されることもなかったのに。
頬が赤くなるのがわかる。
ポケットの中で、彼女がねじ込んでいった紙切れの感触が、指先に障る。
(これは救いじゃない。私を、あんたの奴隷にするための招待状だ)
震える指でメモを掴み出した。
私の数字、ダイスの目とは違う字体。
一点の曇りもない、女の子らしい、可愛い数字だ。
力任せに引き裂く。
上質な紙が抵抗する感触。
指先に伝わる細かな振動。
ズタズタになった紙片を、アスファルトに叩きつける。
私のプライドを切り刻んだ彼女への、せめてもの意返しだった。
「マギウスも、あいつも、私も、全部大外れ……」
私は、みふゆさんから感じた甘い香りが、死臭を隠すための、ただの香水だったことに気付いた。彼女の指から伝わってきた悪寒を思い出し、その不快さに舌打ちした。
目の前には、白羽根隊長が飛散した痕跡の煤と、破かれたメモの残骸。私は、自分一人だけが二本足で立っている路地裏で、誰にも届かない罵声を、暗闇へと吐き捨てた。
【第5話予告】信じていた救済は偽りで、縋っていた種は友の死骸だった。すべてを失った絶望の底で、私は初めて「本当の名前」を叫ぶ。。
最終回『大当たり』救いなんていらない。私は不幸で、あんたたちの正義を殺してあげる。
環いろはが「マギウスの翼に所属する子は、間違っている」……とみなしているのは、アニメ版設定資料集 イヌカレーのインタビューからです。