浮気。メダリスト面白い。オリンピックも面白い。というわけで筆が乗りました。続きは不定期です。
score1 春
───銀盤とも呼ばれるあの氷の上は、
───どれだけ世界一のスケーターでも理想を理想のまま表現することは至難だ。
───しかし、
───その理想を自らの身体で体現し、成功させ、
───氷上でをありのままに、自由に魅力的に舞い踊る奇跡の表現者。
───そういった存在を、この世界では「強い選手」と呼ぶのだ。
───では、その舞台から何らかの要因で道半ばで夢を成すことなく退いた人々は、
───何を残し、その人生にどのような意味を見出していくのだろう。
これは、銀盤の上で奇跡を成し続け、道半ばで銀盤から去った少年が、
銀盤に残した未練を果たし再び奇跡の体現者を目指す。
そんな軌跡を記した物語だ───。
◇◆◇
ピピピ──。ピピピ──。
心地よい睡眠を、邪魔するようにけたたましく鳴る目覚ましに若干機嫌を損ねるように眉を顰め、俯きになって枕に顔を押し付ける。朝があまり強くない者にとって、二度寝を促すように睡魔が促すこの微睡みは悪魔の囁きと言っても相違ないだろう。だが、それに負けるような理性の弱さは持ち合わせていない。
枕に押し付けていた顔を上半身と共に勢いよく枕から引き離す。その拍子にはらりと捲れた掛布団をベッドから降りて整えてから、半覚醒状態の頭のままカーテンを開いて窓を開け放つ。春先の朝らしいひんやりとした空気を胸いっぱいに取り込んでゆっくりゆっくり吐き出していく。同時に、手を組んで大きく伸びをすれば、半覚醒状態の頭は明瞭に、半開き状態だった眼が少しずつ開いていくのが感じられた。
「04:00」と表示された時計の横には、色々書き記された壁掛け式のカレンダーがあり、今日の日付には赤ペンで囲われた上で「入学式」と書き記されていた。不思議と、新学期の期待も新しい環境での不安もそれほど感じてはいなかった。中高一貫校のある種弊害なのかもしれないが、知り合いが確実にいる安心感があることと信頼のおける教師がいることはメリットだろう。
そんなどうでもいいことを考えながら鳥のように見えるロゴが左胸に刺繍されたジャージに着替えて外に出る。早朝ということもあり辺りはまだ薄暗く、人の影は見えない。だが、人気がなくまだ人が寝静まっているこの時間帯がとても好きだ。一つ、深く息を吸って吐き出し、走り出すために大きく一歩踏み出した。
毎日することが当たり前となったランニングを終えシャワーを浴びたあと、制服に着替え身だしなみを整える。最後にネクタイを締めた時には、窓の外は朝日が顔を出しており、陽の光が差し込んでいた。ほのかに感じる陽の暖かさを最後に洗面所を後にして朝食の準備を終えてから、まだ寝ているであろう家族を起こしに二回の寝室へと足を運ぶ。
寝室へとつながる扉をそっと開けてみれば、三人の幼い少年少女が三者三様の寝相を披露しており、掛けられていたはずの掛布団は大きく捲れていた。妹たちのその姿と可愛らしい寝顔に頬が緩む。もっと見ていたい、いっそのこと一緒に眠りたいという欲望を抑え込んで夢の世界にいるであろう意識を引っ張り上げるように呼び起こす。
「
言いながらカーテンを開けて日光を取り込めば、後ろから「……ん~」という唸るような声が聞こえてきた。振り返って再度声を掛ければ、三人は布団が恋しそうにのそのそと起き上がり始めた。そして、そのうちの一人、五人姉弟である鷲見家で次女にあたる澪が眠気眼でこちらを見た。
「……葵にい。おはよ」
「うん。おはよう。顔洗っておいで。もう朝ごはんできてるから」
「……うん」
眠そうだなぁ、と苦笑を漏らしながら部屋から出る澪を見送ればあとの二人もベッドから既に立ち上がっていた。次男の藍、三女、もとい末っ子の茜も起きたようだ。同じ血が流れる家族だからか、それなりに寝起きはスムーズだ。
「おはよう、藍、茜」
「にいちゃんおはよ……」
「おっはよー!おにいちゃん!」
お、と目を瞬かせる。寝起きの機嫌が基本低い茜がテンション高く挨拶をしてきてくれる時はいい夢を見た時だ。茜の頭にぽんと手を置いて微笑みかける。
「おはよう。今日はどんな夢を見たのかな?」
「あのね!おにいちゃんが氷の上でいーっぱいの人に見られながら踊る夢!」
「っ!」
満面の笑みで告げられた茜の言葉に思わず息が詰まる。それは、一年前までよく見せていただろう姿だから。この子にとって、夢に現れるほどに印象に残る光景だったのだろうと思うと、感無量だ。驚きを浮かべた顔を笑みへと変えて、問い掛ける。
「……そっか。どうして嬉しくなったの?」
「いーっぱいの人がおにいちゃんの踊りを見てたのがすっごいうれしかったんだぁ!私のおにいちゃんはすごいんだってこと知ってもらえてるんだって思えたから!だから、それを夢で見れたのがとってもうれしいの!」
「……そっかぁ。ありがとね。そう言ってくれて」
「ごめんね」とは、口にすることはなかった。
嬉しいような、申し訳ないようなそんな複雑な感情を表す言葉をすっと出すことができず、ひねり出せた言葉はそのくらいのものだった。今語られた茜の見た夢は一年前まで現実で為されていたもので、今となっては過去の栄光でしかないものだ。それを満面の笑顔で話してくれるのは素直に嬉しいし報われる思いだ。
氷の上に未練がないのかと言われればないと断言はできない。当然、果たせなかった夢も叶わなかった奇跡もある。ただ、それは我儘だ。それに夢中になるよりも、今はすべきことがある。
積み重ねた努力が自らが望む形で報われるなんてそんな都合の良い現実は訪れるはずはなく、ある日突然理不尽に見舞われて夢を見ることすら許されなくなることだってある。そして、その理不尽が内的要因であっても、外的要因であっても、それを受け入れることだけが自らに許された道なのだ。
「にいちゃん。おなかすいたぁ……」
「そうだよね。分かった。二人ともお顔洗っておいで。一緒に朝ごはんにしよう」
どうやら藍にとっては睡眠欲よりも食欲らしいと眠気眼をこする藍の様子を見て苦笑する。それに対して、空いていた方の手を藍の背中へと持って行き澪と同じように顔を洗ってくるよう促す。
二人と共に一回へと降りて先にリビングへ入ると、準備を終えたのか座ってテレビを見ている澪の姿があった。朝食の配膳をしていると、澪はテレビに固定していた視線を外して立ち上がりながら「葵にい」と呼び掛けてきた。
「葵にいってさ〜。選手復帰しないの?」
コトリ、というグラスを置く音が嫌に耳に残った。澪は年齢に見合わず聡く賢い。彼女が突拍子のなく聞いてくる内容ではないし、気を使ってくれていたのだろうその話をしてくることはなかった。今このタイミングで聞いてきたのには何かあったろだろうと思い、初めにテレビへとちらりと視線を送るとそこには『絶対王者不在の世界ジュニア、戴冠を果たしたのは───』というテロップが表示されていた。
「うん。しないよ。家族が一番大切だからね」
「……ふぅん。そっか」
何処か悲しそうな表情を浮かべる澪を見て、ずくりと胸に痛みが走ったが、気付かないふりをして話題を変えた。
「そうだ。今日入学式で帰るの昼前だからお迎え早めに行くからね」
「うん。分かった~」
「で、一回帰ってから軽くお昼食べて皆で大須観音駅近くのリンク行こうか」
「あれ?今日練習じゃないよ?」
「ルクス東山FSCの瞳コーチに講習依頼されててさ。帰るの夕方以降になりそうだし、その間お留守番させるのも心配だから一緒に来てね」
「ほえ~」
本当に分かってるのかなと思いたくなる気の抜けた返事に大丈夫かなと少し思わないでもない。が、まあ後でもう一度確認しておけばいいやと流して、バタバタとリビングに入ってきた藍と茜も一緒に食卓を囲んだ。
◇◆◇
滝学院高等部。愛知県内屈指の名門校と名高い私立の進学校だ。幼稚舎から高等部までのエスカレーター式で名古屋にあるドームのグラウンドの6倍のキャンパスを持っており、その中に幼稚舎から高等部まであらゆる施設が揃っている。
中等部から通っているため特別不安はないが新鮮さもないため、友人が同じクラスだったらいいな、評判のいい先生が担任だったらいいなくらいの期待感を新学期に対しては持っていない。だが、葵にはもう一つ心配事があった。
(……不安だ)
というのは、妹弟たちに対してだ。三人とも保護者が向かわなければならないような問題を起こすことはないし、この瀧学院に通っているため何かあればすぐに向かうことができるためここまで心配や不安に駆られる必要はないのだが、こればかりはいつまで経っても慣れることはない。
正門をくぐり下駄箱のあるスペースへと来てみれば、視線の奥に人だかりが見えた。瀧学院では毎年新学期になればこの場所で自らが所属することになるクラスを張り出された紙で知ることになる。この人だかりはそれを見ようとしている生徒達だ。
(鷲見葵……鷲見葵……っと、あった。一組)
あちらこちらから聞こえてくる歓喜の声や落胆の声を他所に所属のクラスを探そうと人だかりをするりするりと避けながら自分の名前を探す。どうやら担任は去年、中学三年の時と同じ教師のようだ。教師としての為人については充分知っているが良い大人であり教師だと認識している。幸運だな、と素直に思った。
自らの名前を見つけたあと、人混みから逃げるようにさっさと抜け出して教室のある場所へと歩いていると二の腕の辺りをぽんと誰かが触れる感覚と共に聞こえた「葵くん」という声に半身翻して後ろを見る。
「おはよ。今年もおんなじクラスだよ」
肩に触れるくらいまで伸ばし内に軽く巻かれた亜麻色の髪。二重の大きくぱちりと開かれた目に榛色の瞳。すっと通った鼻筋などなど、学校一の美少女と言われているのにも納得がいく可憐さだ。名前は楠木飛鳥。中学から何気にずっと同じクラスで不思議な縁がある相手だ。
ちなみに、葵と同じくフィギュアスケート経験者で元は名城クラウンSFCに在籍していた経歴を持っていたが、現在は医者を目指すために医学部を志望している。
「すごいよね。4年連続で同じクラスだなんて。運命みたいだね」
「確かに。それに外部から入学してくる生徒だって多いだろうしすごい確率だしね。そう考えると俺は運がいいな」
「?どうして?」
「飛鳥と同じクラスだからね」
「っ……!」
その言葉に露骨にうろたえて顔を赤らめる飛鳥に首を傾げる。友人が一人いるだけでも精神的に楽になる、そういう意味合いで言ったのだが何か気にかかるところでもあったのだろうか。疑問符を頭に浮かべていると、若干挙動不審となっていた飛鳥がぶんぶんと首を振った後、話題を変えるように明るい声色で問い掛けてきた。
「で、でも少し意外だったかも」
「何が?」
「葵君、間大付属行くと思ってたから、私。だからそのまま滝学院の高等部に上がったのが意外だなって」
「あぁ、そのことか」
間大付属。正式名称は間京大学付属高等学校だ。おそらく飛鳥は間大付属にはスケートリンクの設備がありスケート競技をしているものなら進路の一つに入ってくるためにそういう考えを抱いたのだろう。実際、中部の有力選手のみならず他の地方からも間京大学付属高等学校に進学するスケート選手は多い。だが、一つ飛鳥は勘違いをしている。
飛鳥の疑問に納得してから、すっと視線を上げて口を開いた。
「俺はもう現役じゃないからなぁ。行く意味がないよ」
「で、でも!スカウトはされてたんでしょ?」
「ありがたいことにお話は頂いていたけど、丁重に断ったよ」
「どうして……?」
「一年もブランクがあってまともに滑ってないやつよりも、本気で競技に向き合ってる人にスカウトの枠は使われるべきだ」
復帰のためにできることは何でもサポートするとも言ってくれたが、自らの欲求よりも家族の方が大切だ。それに、家族が重荷に感じてしまうことなぞあってはならない。
「……後悔してない?」
「してないよ……してるわけない」
繰り返し口にしたその言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだったことには蓋をするかのように直視することはなかった。
入学式は滞りなく終了し、教室に戻った葵たち新入生は軽いガイダンスをホームルームで行って解散となった。
「あの!もしかして鷲見選手ですか?フィギュアの!私ファンで!」
「そうなんだ。ありがとう。でももう現役じゃないから、そうかしこまられると照れるな。友人としてよろしくしてくれると嬉しい」
「わ、分かった!」
葵と同じように内部進学した生徒は葵にはもう慣れていたが、外部から進学してきた新入生の中には葵の経歴を知っている生徒もいたようだ。それにしても、シニアならまだしもジュニアの選手を追っているなんて相当熱心に応援してくれているようだ。
(……申し訳ないな)
ビシビシ感じる好奇の視線や、応援してくれていたことを直接伝えてくれた同級生への対応をそこそこしてから妹たちがいるだろう場所へと移動する。
その道中、胸の内に引っ掛かるような気持ちの悪さ、いや、この気持ちの悪さが何なのか本当は気づいている。それは、積み上げてきた実績から自然と増えていった自身を応援してくれている方々に対して、どんな形で在れ期待を裏切る形で現役を引退したことに対する申し訳なさだ。
(本当に、どうしようもないほど醜いな)
自らが持つ醜さに、自嘲の笑みを浮かべる。全ては己の選択が齎した結果だ。その責任を背負い続ける覚悟はしていたはずだった。なのに、ふとした瞬間に垣間見える己の弱さにどうしようもなく嫌になる。
それでも、いつまでもウジウジしているわけにもいかない。一度深く息を吸って吐き出し、頭をリセットする。そうこうしているうちに、学童保育を行っている教室へと到着したことを知らせるように、子どもたちの遊んでいるのだろう元気な声が鼓膜を震わせた。
いつものように子供たちのいる教室に隣接されている子どもたちの面倒を見ている大人たちのいる事務室へと顔を見せる。すると、中にいた男性がこちらに気付いたようで何度見ただろう子供に人気な理由が分かる穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
「こんにちは。葵君」
「こんにちは。三人を迎えに来ました。行儀よくしてましたか?」
「勿論。お兄ちゃんに似たんだね。子どもらしいところもあるけれど、とてもいい子にしていたよ」
「……そうですか。ありがとうございます」
「じゃあ、呼んでくるね」
「お願いします」
男性が子どもたちが遊んでいる教室へと入っていってすぐ、弟妹が教室から出てくる姿が目に入った。
「早いね。忘れ物はない?」
「大丈夫だよ。私が見てたから」
「偉すぎでしょ。ありがとう。澪」
「まあね」
ふふん、と胸を張って得意げに笑む澪に頬を緩ませて男性へと向かい合う。
「今日もありがとうございました。また、よろしくお願いします。ほら、三人とも」
「ありがとうございました」と続いた三人に、男性は「気を付けて帰るんだよ」と、変わらぬ柔和な笑みを浮かべながら視線を合わせて返す。それから、さようならと挨拶を口にした葵に続くように三人も挨拶を口にして帰路につこうとしたとき、男性から声がかかった。
「あ、葵君」
「?はい。なんでしょう」
「あまり無理しないようにね。君もまだ子どもなんだから」
「!」
どこか見透かすような心配が見えるその言葉に少し驚いて、笑みを浮かべて頷いた。
「はい」
その笑みが、諦めによるものなのか、自嘲によるものなのか、心配を向けてもらえた嬉しさからなのか、自分自身にも分かることはなかった。そして、その思考をすぐに放棄してこの後の予定であるルクス東山FSCのヘッドコーチから受けた依頼のため、依頼主がいるであろう場所へと向かうのだった。
◇◆◇
この時の僕───鷲見葵───はまだ想像すらしていなかった。
この日の邂逅が、一度手放した運命を再び強く引き寄せることになることを。
再び、銀盤の上に立つ覚悟を示すことになる運命を。