自宅から大須観音近くのスケートリンクまではさほど遠くないということもあり、徒歩での移動となる。今日は三人を自分の都合に付き合わせてしまう形のため、何かご褒美を準備しないとな、と考えているうちにスケートリンクへの入り口となる階段が姿を現した。
「着いたねー」なんて会話を澪たちとしながら施設内へと入ると、目的のルクス東山FSCのヘッドコーチである女性が恐らくアシスタントコーチなのだろう男性と共に母子と話している姿が見えた。どうやら話し込んでいるようだから待ってようか、と少し離れた丸テーブルを四人で囲んで座る。澪たちの相手をしながらも気になるものは気になるためにちらちらと気づかれないように視線をあちらへと向ける。
こちらから顔が見える位置に座っている女性は、現役の時にスケーティングについて時々アドバイスをくれお世話になった方だ。名前は高峰瞳。ルクス東山FSCのヘッドコーチであり、現役時代はアイスダンスの選手の実力者だった人物だ。そして、その隣に座る男性の顔を見て軽く眉を上げて驚く。
(あれっ?てかあのアシスタントコーチ。もしかして瞳先生の現役最後のシーズン一緒に組んでた人か?確か名前は───)
明浦路司。瞳の最後の全日本で共に4位を獲った相方だ。関係がなかったものだから映像だけだったが、スケーティングに関してはかなり参考にさせてもらった人物であったため記憶に鮮明に残っている。あれだけのスケーティングができていたのにあの全日本以降一切名前を聞かなくなったのだが、どうやらルクス東山FSCのコーチを今はしているようだ。
そして、その手前へと視線を移し、母親の横顔を見て「……あの親子」と咄嗟に声が漏れる。
(結束さん、にいのりちゃん……?久しぶりに見たな)
フィギュアスケート界は世間が狭い。同じ愛知県内で選手をしているのなら尚更だ。そして、家族ぐるみの付き合いになることもざらにある。それは鷲見家と結束家も例に漏れない。お互いの長女が幼馴染でありお互い選手をしていたからその下の自分もそれなりに面識があるのだ。確か、姉から聞いたが、いのりの姉である実叶は今カナダへ留学中だと聞いている。
実叶が引退して以降顔を合わせることもなくなったため久しぶりの再会───といっても間接的にだが───に、「いのりちゃん大きくなってるなぁ」なんて思っていると、いのりの表情が暗い事に気がついた。
(……なんかこの世の終わりみたいな顔してるけどどうしたんだ?)
「どうしたの?葵にい」
「!なんでもないよ」
どうしたんだろうなんて思いつつも、暗い表情のいのりの顔を見れば状況はなんとなく推測できる。が、他所の家庭の事情に口を突っ込めるほどの立場でもなければ話に割り込むほど非常識でもない。そう考えて静観を決め込むように澪たちの相手へと戻ろうとしたときだった。
「お母さん。とりあえず一回滑らせてみましょう」
館内に流れるBGM、大人子どもの喧騒、あらゆる音が混在する中ではっきりと聞こえたその言葉だけが、どうしてかは分からないが無駄に良い耳が拾った。どうやら、一度体験という形で滑ってみるようだ。「どうしたの〜?おにいちゃん」と藍が小首を傾げて問い掛けてきたので「なんでもないよ」と返して、立ち上がって澪たちに声をかける。
「挨拶しに行こっか」
一度挨拶をしておきたかったこともあり、結束親子がリンクへと向かうのを横目にタイミングとしては良い頃合だと考えて三人を連れて、瞳の下へと向かう。すると、瞳が明浦路になにやら詰めかけている様子だった。話が収まったようで明浦路がリンクの方へ向かうのを見て見計らって近づく。
「お久しぶりです。瞳コーチ」
「あら?葵君じゃない!澪ちゃんたちも久しぶりね」
一言交わしたあと、澪たちと目線を合わせるようにかかんで挨拶をする瞳に澪たちも挨拶を返す。瞳は三人の頭を撫でたあと立ち上がると申し訳なさそうに手を合わせる。
「ごめんね。今ちょっと立て込んでて、そのあとでいいかな?」
「構いませんよ。いのりちゃん、スケート始められそうですか?」
「あら。葵君知り合いなの?」
「はい。いのりちゃんは幼かったので覚えていないでしょうが、彼女のお姉さんと僕の姉が仲良くてその繋がりで」
「そうなのね。あ、もしよければ葵君も見てみる?」
ニコニコと、何か企んでいるのがありありと分かる満面の笑みを浮かべてそんな誘いをしてくる瞳にジトっとした目を向けて答えた。
「共犯にはなりませんよ」
「あはは。ばれちゃったか」
「他所の家庭のことですし、結束さんがいのりちゃんがスケートを始めるのに乗り気じゃないことにもある程度理解できるので」
「?それってどういう?」
フィギュアスケートは敷居が高い、言い換えれば始めるハードルが高いというのはこの業界にいる者ならば一度は聞いたことがあるだろう言葉だ。そして、継続して競技に打ち込むのが難しい競技でもある。
長々と言っても意味のない事だから直球に言うが、お金がかかるのだ。フィギュアスケートは。レッスン代にリンクを借りるための費用、コーチへ依頼する費用、衣装代、スケート靴の費用その他消耗品費などなど。七桁が当たり前のように財布ならなくなるのがこの競技だ。
それに、いのりの姉がどのような形でこの競技から離れることになったのかを考えればそう易々と「一回初めて見ればいいじゃないですか」なんて言えるわけがないのだ。それが例え家族ぐるみでの関係があったとしても。だ。他人の家庭のスケートを始めるか否かの事情においそれと口を挟むことなんてできやしない。ただ。
「ただ、」
瞳が疑問符を浮かべながら先ほどの言葉に対して問いかけてくるのを止めて、続けた。
「今日自分は講習、つまりはコーチとして来ているわけで。つまりはいのりちゃんは僕の講習を体験しに来てくれた一人の生徒なんて解釈もできるわけです」
「……詭弁じゃないかしら。それは」
葵の言葉に唖然とした表情を浮かべたのち、苦笑を口元に携えて言う瞳に肩を竦める。自分自身、詭弁が過ぎるとは思っているからだ。
「葵君も本当は気になってるのでしょう?」
「いいえと言えば嘘になりますね。じゃあ、行ってみますか」
そう言ってスケート靴をシューズケースから取り出しながら言う葵に瞳は少し慌てた様子で葵の袖を引っ張った。
「あ、葵君!?」
「はい?何でしょう」
「何でしょうじゃなくて、
その言葉に、「あ、」と葵は無意識に現役の頃の癖が出ていたことに一瞬苦い笑みを浮かべつつたははと笑った。弟妹達からも伝わってくる心配の眼差しに取り出したスケート靴はそのままにリンクの方へ体を向ける。
「確かに、見るだけなら必要なかったですね。行きましょうか」
そう言ってリンクへと歩みを進める葵は気づくことはなかった。スケート靴を履こうとしたのが、昨年以来だということに。
◇◆◇
光を見た。
暗い、昏い中で目指す方向も進むべき道も見えない。
そんな中で見たまるで進むべき道を照らすような。
まるで導くように自らと目指す方向を照らす。
その光は暖かく、眩く、傷ついた心と身体を癒し、奮い立たせてくれる。
そんな光。
この瞬間、止まっていた時計の針が規則的な音を以て、動き出した。
◇◆◇
───私は今が嫌なの
ああ。そうだったのだ。
───わたし!スケート絶対やりたかったの……!
最初から、あの時から。
僕は。俺は。
氷上から、銀盤の上から離れたくなんてなかったのだ。
───わたし、なにもない…………ッ!
先ほどまで銀盤の上で太陽のように眩く輝いていた少女が、目の前で弱弱しく、しかしそれでいて強い意志を以て響かせる慟哭に。
かつての熱が、心臓を燃やすのを感じた。
───……ダメじゃない部分がある自分になりたい。
───みんなと同じようにできないなら、皆の真似して頑張って生きるんじゃなくて、他の子ができないことを頑張りたい……
まだ自分の半分くらいしか生きていない少女が見せる、強く、弱く、濃く、淡い光。
ただ、その光に魅せられて自らの中で轟々と盛っていく。
───私にも誰かに負けないくらい好きなことがあるって
───上手にできることがあるって
ああ。なんて綺麗なのだろう。何故忘れていたのだろう。
かつて、初めて銀盤の上に立ったあの日。
僕は、鷲見葵は。
───私は恥ずかしくないって思いたいの!
『この銀盤の上で、誰にも負けない、特別な表現者になるよ!』
そう誓ったじゃないか。
◇◆◇
「……お兄ちゃん?」
初めに気付いたのはリンクを眺めていた弟が不意に振り向いた時だった。その声音は、驚くような、それでいて微かに喜色を乗せた、そんな声色。
「……葵君?」
次に気づいたのはいつの間にか銀盤に立つための資格を身に着けた上で傍を通り過ぎて少女へと近づいていくのを視界に捉えたこのリンクを拠点にするクラブのヘッドコーチ。彼女は眼を見開いた。銀盤に乗れなくなってから暗闇に覆われていた彼の瞳の奥に、確かに見た。かつての光を。
「……!鷲見、葵選手っ……?!」
「…………あ、葵君?」
二人は瞳以上の驚きを表情に浮かべた。しかし、二人の驚愕は彼女とは別種。それは例えるならまるで亡霊を見たような、それに似た何かだ。だが、それも無理もない。昨年のとある一件以降、事実上の引退とまことしやかに界隈で囁かれたものと同じ認識をしていた二人にとって、この場にいるはずのない人物だったからだ。
「……?、?」
少女の目線と合わせるように膝をついて少女と目を合わせてみれば、涙で顔を濡らししゃくりをあげながらも目をこちらに合わせ誰だろうと小首を傾げる少女に、苦笑を零す。少女が末っ子と同じ年齢くらいの時に実は初対面を済ませているのだが、流石に覚えていないようだ。
先ほどこのリンク全体に轟かせた宣誓をした彼女の言ったことには賛同だ。この子には確かに『リンクに賭ける執念』があった。それを見せた彼女に感謝せねばなるまい。
そして、いつの間にか失っていた。否、自ら捨ててしまっていたものを気づかせてくれて、もう一度拾って見せようという気にさせてくれたこの子に。
いつか大きく翼を広げ高く羽ばたいていく、いやこの表現は適切ではないだろう。
いつか眩く煌煌と輝く光のように、そして大勢の人を魅了する太陽になってみせるのだろうこの少女に。
この少女に魅せられたファン一号として、これから苦楽を過ごし、困難を乗り越えていく結束いのりに。
餞別を送りたいと思った途端、今まで抱いていた恐怖なんてなんてことない些細なことだと思えた。ただ、贈る言葉には注意を払わなければならない。言葉一つが呪いになることだってある。自分の言葉が重しになるなんてことはあってはならない。
そうだ。この言葉にしよう。
「──────」
(なんて、純粋にそれだけを思えたら良かったんだけどね)
本当は、熱に浮かされた今の状態なら戻れると思ったのもある。だが、これは胸の内に仕舞ってこう思うことにしよう。
(新たな扉を開いた少女に倣って、俺もまずは目の前の壁を乗り越えて見せよう……なんてね)
そんなことを思いながら、エッジカバーを外して片足ずつ氷上に乗せる。今までなら乗ることすらできなかったのに、すんなり壁を乗り越えてしまったことに拍子抜けしてしまう。いや、それだけ少女、いのりに影響された部分が大きかったのだろう。
ひんやりとした空気、足下の不安定さ、エッジでバランスを取る緊張感と独特の浮遊感。全てが久しぶりの感覚で、思わず笑みが零れる。
久しぶりの感覚に慣れようとしているうちにいつの間にか氷上から人がいなくなっていることに気がついた。メンテナンスはまだの筈、なんて思っているとまたも久しぶりの感覚に陥っていた。
ちらりとリンクの外を見渡して、気がついた。そして、この感覚の正体も判明した。何かしてくれるのではないか、奇跡を起こしてくれるのではないかという期待の籠った視線だ。
それに気がついた瞬間、口元が緩んだ。嫌なものではない。むしろ、このプレッシャーがより奮い立たせてくれていたのだ。プレッシャーというよりは、後押しだろう、これは。
(これだけ期待されたら、しないわけにはいかないよな)
そう思った時には、既に行動に移していた。向かう先はリンク中央。さっき視界に入った時計は講習の時間までは五分と少し。これだけあればフリースケーティングは終えられるだろう。
銀盤の上に戻ってこれたからといって競技を続けられるかは分からない。なにせ個人の問題ではないからだ。弟妹たちの面倒をどうするのか、資金調達をどうするのかなどなど考えねばならない問題は多い。まあ、競技に復帰するとして、まずすることは各所への挨拶回りだろう。個人の事情で迷惑をかけてしまったのだから。
だが、今はもう戻れないと諦めていた一度離れた筈の場所へ戻ってこれたことへの喜びを堪能することにしよう。
今からする演技は、本来は昨シーズン行うはずだったプログラム。あいにくと曲はかからないが何百と聞き、合わせたのだ。まだまだ覚えている。ただ、頭では覚えていてもブランクはある。競技から退く前のようなベストは出すことはできないだろう。
だが、それがどうした。できないと誰もが思うような奇跡を起こしてこそ最高の演技になる。
(さあ、今の
それは、己に対しての問いかけ。そして挑戦だ。
さあ、奇跡を起こして見せよう。
◇◆◇
「……凄い」
明浦路司は目の前で行われている奇跡のような演技に惹き込まれていた。彼がどうして氷上から去ったのか、その一端を当時画面越しながら見ていたからこそ彼の氷上で表現しているものに感嘆を漏らす。
彼が選手だった頃彼の一番の強みは演技構成───Program Component Score、略してPCSと呼ばれる───、つまりは、スケート技術、各要素のつなぎ、演技力、構成、音楽の解釈にある。
PCS、中でも音楽の感性がずば抜けて繊細で、シニアの選手にも引けを取らない最高水準の完成度を持つ全要素を精密に、観客にどのような捉えられ方をされるのかすら計算されつくしたプログラムを表現する。
だからといって、技術点───Technical Element Score、略してTES───、ジャンプ、スピン、ステップがPCSより劣っていたのかと言えばそうではなかった。むしろ、PCSと同等の練度を誇っていた。
特に彼の代名詞はルッツジャンプにある。難易度が高いとされるこのジャンプを彼は公式記録ではいまだミス、転倒がなく出来栄え点───Grade of Excution、略してGOE───でただの一度の減点を受けたことがなく、それどころかほとんどの場合プラス4か5しか加算されたことがないのだ。しかし、彼が公式で成功させた最高難度のジャンプは四回転ルッツ───4Lz───なのだが、流石にブランクが長いのが大きいのか、四回転ジャンプは今のところ見せてはいない。
それもそうだろう。ブランク明け一発目で難易度の高いジャンプは怪我のリスクが高い。勿論、継続して競技を続けていれば怪我のリスクが下がるのかと言えばそうは言いづらいのがフィギュアスケートの難しいところではある。
だが。
(…………あれ?)
「……ねえ。司君。葵君、ジャンプの難易度どんどん上げていってない?」
「……俺も、そう思った」
司自身、丁度その点に違和感を覚えたところだった。彼のジャンプ構成を思い返してみると、現状このようになっている。
(……残りのジャンプは1回。何を持ってくるつもりだ。というか)
どういうことだ、と思わざるを得ない。何故なら、彼は、鷲見葵選手は半年以上のブランクがあったはずだ。それだというのに、何故ジャンプの難易度を上げていくことを躊躇わないのだ。それに、演技後半になるにつれて体力の消耗などからミスというのは否応なく出てきてしまうものだ。それは彼も分かっているはず。
いや、それよりも。
「どんどん
戻ってきている、というのは彼本来のスケーティングに、だ。お手本のように丁寧で、精緻で大胆。彼の真骨頂に変化してきている。彼のスケーティングの一つ一つを司は目に焼き付けているうちに、彼は飛んでいた。しかも、難なく着氷した直後、間髪入れずにもう一度飛び、完璧に降りてみせた。
その姿に、司は目を見開いた。
「
昨今4回転ジャンプがもてはやされる中、何を3回転くらいでと思う人もいるかもしれないが、彼の事情を知る人ならば、この異常な光景に司と同じように驚くに違いない。それを証明するかのように、リンク外から彼を見つめるほとんどの客からは驚きの声が上がりざわめいている。
演技時間的にも終盤に入っていくにつれて、冷静さを取り戻し始めた司は彼の表情を見て気づいたことがあった。
(凄い、楽しそうだ……)
彼は演技中は楽曲に秘められた物語を表現するために彼自身の素の表情というのは一切見せることがない。だが、今は仄かに笑みを携えて見ているこちらが嬉しくなるほどに楽しんでいるのが伺えた。
最後、彼が動きを静止して少しの間、それが数秒か、数十秒かは分からないが、彼の表現する物語の余韻から醒めていく観衆が、まばらに拍手をしていく。そして、あっという間に雨のように鳴り響いた喝采に彼は少し驚くような表情を浮かべてから、ふわっと笑んで御辞儀を各方向に行う。
一回一回深く、長くお辞儀を行うその姿に、司はいろいろな感情が彼の中で渦巻いているのを感じた。
演技の表現難しすぎる。
A アクセル
Lz ルッツ
F フリップ
Lo ループ
T トゥループ
S サルコウ
Eu オイラー