11月15日 午前7時00分 ロシア連邦 モスクワ クレムリン 大統領執務室
セルゲイ・ヴォルコフ大統領は、執務机で書類に目を通していた。
書類の内容はキトグア大陸の経済統計、同盟国との貿易収支、インフラ整備計画等々、多岐にわたる。
異世界に転移してから2年半が経過し、ロシアとキトグア大陸諸国との関係は着実に深まっている。
しかし平和な朝の静寂は、突然破られた。執務室のドアが勢いよく開き、大統領秘書官のアレクサンドル・ペトロフが血相を変えて飛び込んできた。普段は冷静沈着な彼が、こんなに慌てた様子を見せるのは珍しかった。
「大統領閣下!緊急事態です!」
「どうした、何があった?」
「つい1時間程前、ワーザルクト帝国がハティリア王国へ侵攻を開始しました!」
その言葉に、ヴォルコフの表情が一変した。
「何だと!?」
「本日午前6時、帝国軍が国境線を越えて進軍を開始。ペレンゾ半島要塞線に向かって大規模な攻撃を仕掛けています!」
「敵の規模は?」
「まだ未確定ではありますが、現地からの報告によれば最低でも100万以上。おそらくは帝国の総力を挙げた攻撃です!」
「我が軍は?」
「アルゴスタ基地の部隊が既に出動しています。そして要塞線に配置していた我が軍約5,000名も、既にハティリア軍と共に交戦状態に入っています!」
ヴォルコフは深く、そして長く息を吐いて頭を抱えた。
この日が来ることは前もって予想していた。諜報機関からの報告で帝国が急速に軍備を増強していることは把握していた。しかし、それがまさか今日だとは思いもしていなかった。
「国防大臣と外務大臣、それから統合参謀本部議長を今すぐにここに呼べ。緊急会議を開く」
「はい!」
秘書官が部屋を出て行った後、ヴォルコフは窓の外を見た。モスクワの朝の空は曇っていた。まるで、これから起こる嵐を予兆しているかのように。
午前7時30分 同じく大統領執務室
それから30分後、執務室には国防大臣アレクセイ・ソコロフ、外務大臣ナタリア・ペトロヴァ、そして統合参謀本部議長ミハイル・ノヴィコフ大将が集まっていた。
「状況を報告せよ」
ヴォルコフの声は冷静だったが、その奥には緊張が滲んでいた。
「はっ!本日午前6時頃、ワーザルクト帝国がハティリア王国に対して全面侵攻を開始しました」
ノヴィコフ大将が大型モニターに衛星画像と地図を映し出しながら報告する。
「衛星画像と現地からの報告を統計すると、帝国軍の総兵力は推定で200万以上。その内、約100万がペレンゾ半島要塞線に向けて進軍しています」
「我が軍の状況は?」
「アルゴスタ空軍基地の第1機甲旅団と駐留していた第1・第2・第3歩兵大隊、そして航空部隊が既に出動しています。さらにペレンゾ半島要塞線に配置していた我が軍約5,000名も、ハティリア軍と共に交戦中です」
「損害は?」
「現時点では軽微です。しかし…」
ノヴィコフ大将は、一瞬言葉を詰まらせた。
「増援が到着するまでの間に損害は増えるでしょう。特にハティリア軍の損害が大きくなると予想されます。ヴォロヴェツ要塞だけで既に約300名の損害が出ています」
ヴォルコフは、深く息を吐いた。
「エルドバラン国王との連絡は?」
「既に連絡を取っております。国王陛下は我が国の支援を要請しています」
外務大臣ペトロヴァが答えた。
「分かった。国王陛下と直接話をする」
ヴォルコフは執務机の上の赤い電話を手に取った。それは、ハティリア王国との直通回線だった。
数秒後、電話が繋がった。
「エルドバラン国王陛下、私だ」
「ヴォルコフ大統領…我が国は今、存亡の危機に立たされている」
電話の向こうから聞こえてきた国王の声は、疲労と緊張に満ちていた。
「既に状況は把握している。我が国は必ず貴国を支援する。キトグア大陸同盟の条約に基づき、我が国は全力で貴国を支援する。既にアルゴスタ空軍基地の部隊が緊急出動している。それから追加で本国からも大規模な増援を派遣する」
「本当か!?」
エルドバランの声が、僅かに明るくなった。
「ああ、我々は決して同盟国を見捨てない。それがロシアの約束だ」
「…ありがとう、大統領。心から感謝する」
「国王陛下、我々は共に戦う。そして必ず勝利しよう」
「ああ…共に」
電話を切った後、ヴォルコフは閣僚たちを見渡した。
「国防大臣、動員令を発令せよ。第2から第4までの機甲師団と第5・第6諸兵科連合軍、そして航空宇宙軍の戦略爆撃機部隊。その他に必要な部隊は全てキトグア大陸に派遣する」
「了解しました。すぐに各軍の将校たちと会議を開き、配備戦力の精査を行います」
「外務大臣、キトグア大陸同盟の全加盟国に連絡を取れ。今こそ我が国の軍事技術と同盟の絆を見せつける時だ」
「承知しました、すぐに手配します」
「諸君…これは、我々にとっても重要な戦いだ。もしハティリアが負ければ、次は他の同盟国が狙われる。そして最終的には我々は完全に孤立する。国内の石油資源はやがて枯渇し、国の経済は立ち行かなくなる。その後に待つのは大規模な飢餓と国の破滅だ!だから我々はここで戦わなければならない。ワーザルクト帝国の野望を、ここで完全に打ち砕かなければならない!」
「了解しました!」
その場に居た全員が、一斉に答えた。それは、この世界における初の全面戦争の始まりであった。
午前7時00分 ハティリア王国 フォルドン王城 王女の私室
ローゼリア王女は、激しくドアを叩く音で目を覚ました。
「王女殿下!緊急事態です!すぐに起きてください!」
侍女の切迫した声が、扉の向こうから聞こえてくる。彼女はすぐにベッドから起き上がった。彼女は軍人としての訓練を受けており、緊急時の対応は体に染み付いていた。
「分かった、入れ!」
侍女が部屋に飛び込んできた。その顔は蒼白で明らかに動揺しているのが一目でわかった。
「殿下、ワーザルクト帝国が我が国に侵攻を開始しました!」
その瞬間、ローゼリアの心臓が激しく鼓動した。
「何だと…!?」
「本当です!午前6時、帝国軍が国境線を越えて進軍を開始しました!ただいま国王陛下が、緊急閣議を招集しています!」
ローゼリアは一瞬呆然とするが、すぐに冷静さを取り戻した。
「分かった、すぐに行く。軍服を用意して」
「はい!」
侍女が慌てて軍服を取り出す間、ローゼリアは窓の外を見た。城下町は、まだ平穏に見える。しかし遠くからは警鐘の音が聞こえてくる。いよいよ戦争が始まったのだ。
ローゼリアは、この2年間の訓練を思い出していた。
当初はロシアの近代的な戦術や兵器に馴染めず、不満を抱いていた彼女はロシア軍の教官たちとの訓練を通じ、学び、理解し、そして納得した。
現代の戦争は個人の武勇だけでは勝てないということを。組織・戦術・火力・連携。それらが勝利の鍵になるのだと。
そして去年、彼女は第一騎兵軍の隊長に任命された。
AKMSで武装した騎兵たちを率いる、新しい時代の騎兵隊長として。
「殿下、準備ができました」
侍女が軍服を差し出しすと、彼女は素早く手慣れた様子で着替えた。王国軍の制服。胸には第一騎兵軍の徽章が輝いている。
腰にはサーベルとホルスター。その中には就任式の際に父から頂戴したグリップに精巧なエングレービングが刻まれたマカロフ拳銃が収められている。
「行くぞ」
午前7時15分 フォルドン王城 作戦会議室
ローゼリアが会議室に入ると、そこには既に国王エルドバランの他、首相のエリック、国防大臣のガーランド、そして軍の各高官たちが集まっていた。
「ローゼリア」
国王が、娘の姿を認めて声をかけた。
「父上」
ローゼリアは、それに対して敬礼で返答した。今この場では、彼女は王女でも娘でもなく一人の軍人として立っていた。
「既に聞いたか」
「はい。帝国が侵攻を開始したと」
「その通りだ。状況は極めて厳しい」
国防大臣ガーランドが、机上の地図を指し示しながら説明を始める。
「帝国軍の総兵力は、推定で200万以上。要塞線には我が軍が15万とロシア軍が約5,000、既に配置されています。それからアルゴスタ空軍基地からもロシア軍の駐留部隊が増援として出動しております。しかし、いくらロシアの技術があるとは言え、我が軍は数的に圧倒的不利です」
「ロシアからの増援は?」
「先ほどヴォルコフ大統領から連絡があった。大規模な増援を派遣すると約束してくれた。しかし、到着までには時間がかかる」
「それまで持ちこたえなければならない…ということですね」
「その通りだ」
ローゼリアは地図を見つめた。ペレンゾ半島要塞線。そこで今、激しい戦闘が繰り広げられている。
「父上」
ローゼリアは、国王の目を真っ直ぐ見つめた。
「どうかこの私、ローゼリア・アルデンヌ・ハティリアに出陣の許可を頂きたい」
その言葉に会議室が一瞬静まり返り、国王の表情が曇る。
「ローゼリア…お前は私の大切な一人娘だ。もしお前に何かあったら…」
「父上、今の私は軍人であり、そして第一騎兵軍の隊長です。私の部下たちは今、戦場に向かおうとしています。その隊長である私が、安全な場所に一人留まることはできません」
「しかし…」
「父上…私はこの2年間、必死に訓練を重ねてきました。ロシア軍の教官たちから、戦術を学び、武器の扱いを学び、指揮の方法を学びました。今の私はもう子供ではありません、今年で20になります。私は戦えます…いえ、戦わなければならないんです!自ら戦場に赴かないような隊長に、部下たちは命を預け戦ったりなどできないでしょう。お願いです…」
ローゼリアの声は確固たるものだった。彼女のその言葉に国王は長い沈黙の後、深いため息をついた。
「…お前は、本当に成長したな」
「父上…」
「分かった。お前の出陣を許可する」
「ありがとうございます!」
「ただし条件がある。決して無茶はするな。お前の命は、今やお前だけのものではない。この国の未来を担う者の命だ」
「…承知しました」
「それから、副官のガルシア将軍をつけよう。彼は経験豊富だ。お前の補佐をさせる」
「はい」
国王は、娘の肩に手を置いた。
「ローゼリア。必ず、生きてワシの元に帰ってこい」
「はい、父上。必ずや」
午後2時00分 ロシア連邦 モスクワ クレムリン 記者会見場
大統領府の記者会見場には、国内のメディアが続々と集まっていた。カメラが何十台も並び、記者たちが緊張した面持ちで席に着いて発表を待っている。
午後2時、定刻通りにヴォルコフ大統領は壇上に現れた。彼の表情は厳しく、しかし決意に満ちているのが記者たちにも分かった。
カメラのフラッシュが一斉に瞬き、シャッター音がいくつも響く。
ヴォルコフは演台の前に立つと、正面のカメラを見つめる。この映像はロシア全土、そしてキトグア大陸の同盟国に生中継されていた。
「国民の皆さん。そして、キトグア大陸同盟の友人たちへ発表します」
ヴォルコフの声は、マイクを通して会場全体に響き渡った。
「本日、午前6時。ワーザルクト帝国が我々の同盟国であるハティリア王国に対して、全面的な軍事侵攻を開始しました。既にハティリア王国の国境線では大規模な戦闘が発生しましたが、現在は沈静化しているとのことです」
その発表を聞いた途端、会場中がざわめき始め、記者たちが慌ててメモを取り始める。
カメラのフラッシュはより一層激しさを増し、テレビクルーはこの瞬間を逃すまいと映像を撮り続けている。
「これは明白な侵略行為であり、そして我が国とキトグア大陸同盟各国に対する挑戦です。2年前、我々はこの異世界に突如飛ばされ、右も左も分からない状況へと立たされました。そんな我々をハティリア王国は暖かく迎え入れてくれだけでなく、食糧と資源を提供し、友情を与えてくれました。そして彼の国との貿易と相互防衛条約を締結するに至りました。その後、キトグア大陸の8カ国が集まりキトグア大陸同盟を結成しました。この同盟の基本理念は相互防衛です。一国が攻撃されれば、全ての加盟国がそれを自国への攻撃と見なし共に戦う。それが我々が取り決めた約束です」
彼はそこまで言うと、一呼吸置いて再び話し始める。その声には、力が入っていた。
「そして今、その約束を果たす時が来ました。我がロシア連邦は、ワーザルクト帝国に対し相互防衛条約に基づいて宣戦を布告します!ハティリア王国を全面的に支援、支持します。我々は同盟国を決して見捨てません!!現時刻をもって我が国は大規模な派兵を開始します」
その言葉に、会場が一瞬静まり返った。
「派遣する部隊は第2・第3・及び第4機甲師団、第5・第6諸兵科連合軍。合計で約10万名の地上部隊を、キトグア大陸に派遣。更に航空宇宙軍の戦闘機部隊と攻撃機部隊、爆撃機部隊。合計で約200機の航空戦力を投入。
記者たちが驚きの声を上げ驚愕の表情で顔を見合わせている。これだけの部隊の派遣は、異世界転移後のロシア軍にとってかつてない規模だった。
記者たちは理解した。これは異世界転移以来、最大規模の軍事作戦となる事を。
「国民の皆様。我々がこの決断をするのは、決して好戦的だからではありません。我々は平和を愛しています。しかし、不正義と悪に屈することは断じてしてはいけません!ワーザルクト帝国は長年にわたり、周辺諸国への侵略と謀略を繰り返してきました。今から12年前にはかつてのハティリアの友邦であったペレンゾ公国を滅ぼし、その領土を奪い取りました。そして今や、その帝国の魔の手が、我々の友人であるハティリア王国を攻撃しています!これを決して許すわけにはいきません!!」
ヴォルコフはカメラを真っ直ぐ見つめ、演台を拳で勢いよく叩いた。
「我々はこの世界で多くの友人を得ました。ハティリア王国だけでなくアサヒノ国やアルメーン獣人連邦など多くの国々と友好を結んできました。今、その友人たちが危機に瀕しています。ロシアは友人を見捨てません。我々は共に帝国と戦います!」
彼は少々興奮した様子で話し終えると、少し声のトーンを落とした。
「国民の皆さん。これから我が国にとって厳しい戦いになるでしょう。しかし、我々は必ず勝利します。なぜなら、これは正義のために戦うからです。我々は、自由と平和のために戦うからです。我々には強力な同盟国がいるからです。我が国は必ずや悪逆非道なるワーザルクト帝国の侵略を跳ね除け、キトグア大陸の地に平和と安寧をもたらすことをここに誓います!!」
「…皆さま、ご清聴ありがとうございました。ではこれから質問を受け付けますので、ご質問がある方は挙手をお願いします」
ヴォルコフは演台から一歩下がり深く礼をすると、同時に記者たちが一斉に手を挙げた。
同時刻 ハティリア王国 フォルドン王城 国王執務室
エルドバラン国王は、大型モニターでヴォルコフ大統領の演説を視聴していた。演説が終わると、国王は深く息を吐いた。彼の目からは、一筋の涙が流れていた。
「ありがたい…本当に、ありがたい…」
「陛下、ロシアは本気です。彼らは、本当に我々を助けてくれます」
隣に立っていた首相のエリックが声をかけた。
「あぁ…そうだ…我々は一人ではない」
国王は立ち上がった。彼の表情は、決意と希望に満ちていた。
「首相、我が全軍と国民に伝えよ。ロシアの大規模な増援が来る。我々は決して負けない。ロシアが、我々と共にあると!!」
「はい!」
午後3時30分 ロシア連邦 モスクワ クレムリン 大統領執務室
テレビ演説を終えたヴォルコフ大統領は、執務室に戻っていた。
演説は成功。SNS等での国民感情は良好で、国内での支持も得られた。キトグア大陸同盟の各国からも感謝のメッセージが届いている。
しかし、彼の表情は依然として晴れていない。それもそのはず、戦争はまだ始まったばかり。これから先に長い戦いが待っている。
彼が表情を今一度引き締め、これからの事を考えていたその時、再びドアが開いた。
秘書官のペトロフが、蒼白な顔で入ってきた。
「大統領…」
その声の震えと表情を見て、ヴォルコフは嫌な予感を覚えた。
「何があった?」
「オゼラから先ほど…緊急連絡が入りました…」
ペトロフは手に持っていた報告書を彼に差し出した。その手は僅かに震えている。
ヴォルコフが報告書を受け取り、目を通す。その瞬間、彼の顔色が変わった。
「…ネレシア島が、陥落した…?」
戦争は、まだ始まったばかりだ…