王国の根底を変える工事
2030年8月〜11月 フォルドン市内及び周辺
インフラ設備の敷設は、フォルドン市内から本格的に開始された。
上下水管の敷設。ガス管の敷設。電気線の敷設。そして、アスファルト道路の造成。
これらの工事は、既存の道路や建物の真下を通る。つまり現在の街の構造そのものを、地下から大きく変えていくことを意味した。
しかし、これらのインフラ設備の敷設は、住民たちに大きな不便をもたらした。
最初の上下水管の敷設工事が開始された時、フォルドン市内の住民たちは、突然の騒音と混乱に見舞われた。
道路の一部が掘り起こされ、大きな土の盛り場ができる。その周囲には、工事の道具や材料が積み込まれ、通路が狭くなる。さらに、一部の道路が「通行止め」になった。
「何じゃ、あの騒音は…!」
「道が使えない!これじゃあ商売にならない!」
「あの大きな穴は何だ…!」
住民たちの苦情は、すぐに王国政府に届いた。
「陛下。フォルドン市内の住民たちから、多数の苦情が上がっています」
首相エリックが、国王に報告した。
「騒音と通行止めによる不便が、商店や日常生活に大きな影響を出しています」
国王はその報告を聞いた後、静かに考え込んだ。
2030年9月中旬 フォルドン市内 上下水管敷設現場
エルドバラン国王は、自ら現場に視察に向かった。
国王の視察は、王国では珍しい出来事だった。通常、国王が市内の工事現場に足を運ぶことは、王国の歴史では記憶にない。しかし彼はこの問題が放置されれば、インフラ設備の建設そのものが住民たちの反対により妨げられると判断した。
視察には首相エリック、外務大臣、そしてロシア側の技術者たちが同行した。
国王は現場を一通り見た後、その周辺の住民たちに直接会った。
最初のうちは、住民たちは国王の出現に驚き、混乱した。国王が自分たちの近所の路上で、自分たちに対話に来た。そのような事態は彼らの経験には無かった。
「陛下…なぜ…」
「ワシは、皆の声を聞きたかった」
国王の言葉は穏やかだが、その根底には真剣さがあった。
「ワシは、この工事が皆たちにとって迷惑であることを知っている。騒音も、通行止めも、本当に困っていることだと思う。しかし、この工事が完了した後に何が起きるか…それを知っていただきたい」
国王は、一つ一つ説明した。上水道が整えば、清潔な水が水道管を通って家の近くに届く。下水道が整えば、汚染された水が街に流れる問題がなくなる。ガス管が整えば、暖房や調理に清潔なエネルギーが使える。電気線が整えば、夜も明るい光が家の中に入る。アスファルト道路が整えば、泥だらけの道路は過去のものとなる。
「ワシはこれを、フォルドンの全住民に、そしてやがてはこの国の民全てに提供したい」
国王の目には、強い意志があった。
「しかしそのためには、今しばらくの不便を、皆たちが受け入れていただく必要がある」
住民たちは、国王の言葉を聞き、静かに考えた。
国王がこれほど丁寧に説明してきた事例は、彼らの記憶にはなかった。王が臣民に理由を語り、受け入れを「お願いする」。それは王と臣民の関係の中で、非常に珍しい場面だった。
「…分かりました、陛下」
住民たちの代表が、静かに答えた。
「今しばらくは、不便を受け入れます」
その言葉に、国王は深く頷いた。
「ありがとう。ワシは必ず、先ほどの約束を果たす」
その後、騒動は収まった。
住民たちの苦情は、完全に消えたわけではなかった。しかし「国王自ら説明を受けた」という事実は、住民たちの心に特別な意味を持った。彼らは、「不必要な暴力や強制ではなく、理由のある変化」であることを理解した。
そしてインフラ設備の敷設は、その後も続けられていった。
病気と希望 ――現代医療技術の導入
2030年7月〜12月 王国各地
ロシア側が技術協力の優先項目の一つとして掲げた「医療技術の導入」は、住民たちの生活に最も直接的な影響を与える技術の一つだった。
ハティリア王国の医療体制は、「魔法の治療」と「薬草による治療」を中心としていた。医師たちは薬草の知識と、治癒魔法(特定の傷や病気を回復させる魔法)を組み合わせて患者を治療していた。しかし治療の幅には限界があった。治癒魔法には、対応できる病気の種類と程度に制限がある。そして、薬草の種類も、王国の生態系に限られていた。
ロシア側の医療技術の導入には、まず「調査」が必要だと判断された。この世界にどのような病気が存在するのか。それらの原因は何か。現代医学の視点から見れば、治療可能なものがどれだけあるのか。
「まず、国内の各地で医療調査を行う」
ロシア連邦医療省の派遣チームの長、イリーナ・ドミトリエンコ博士はこのように決めた。
「王国の各地の病気の実態を把握し、現代医学で対応できるものを優先して治療していく」
ドミトリエンコ博士は、40代半ばの女性で、感染症研究の専門家だった。彼女は、その冷静な判断力と、患者に対する深い共感で知られていた。
2030年9月 ハティリア王国 北部の小村「エルウィア」
ドミトリエンコ博士率いる調査チームは、王国北部の小村「エルウィア」に訪れた。
エルウィアは山中に位置する小さな村で、人口は200人にも足らない。
調査チームは、村の住民たちに医療検診を行った。そして、その中で、一つの深刻な事態を発見した。
「…確認しましょう」
ドミトリエンコ博士は、検診の結果書類を見つめた。その書類には、「肺に白い陰影が見られる」という記述があった。検診の対象は15歳の少女「エルラ」。
エルラは、数ヶ月前から体調が悪かった。慢性的な咳が続き、体が細くなっていった。
「エルラさんの病気…」
村の医師が、ドミトリエンコ博士に近づいた。その医師は40代の、緊張した表情の男性だった。
「私たちは、この病気の原因が何かを把握できていませんでした。しかし治癒魔法も、薬草も…効果がありませんでした」
「彼女のご両親は…」
「不治の病だと判断し、治療をあきらめているのです」
ドミトリエンコ博士はその言葉を聞いた後、深く息を吸った。
「不治の病」。その言葉はこの世界では、多くの病気に対して使われていた。治癒魔法や薬草で対応できない病気は全て「不治の病」として、治療の対象から外されていった。
しかし現代医学の視点では、この少女の病気には名前がある。そして治療方法も確実に存在する。
「結核ですね…」
ドミトリエンコ博士は、その診断を下した。
結核は地球側においても、かつて多くの命を奪った病気だった。しかし20世紀には抗生物質の発見により、治療可能な病気となった。
「エルラさんの親御さんに会わせてください」
ドミトリエンコ博士は、エルラの両親と対面した。
エルラの父は40代の疲れた表情の男性だった。母は30代後半で、目の下には深い色が宿っていた。明らかに娘の病気について、長期間の心労を抱えていた状態だった。
「この病気は…不治の病だと…」
父が静かに言った。その声にはもはや諦めの色があった。
「治癒魔法も、薬草も…全てを試しました。しかし何も変わりませんでした」
「その言葉の通り、この病気には魔法や薬草では対応が難しい」
ドミトリエンコ博士は、正直に答えた。
「しかし」
博士の声に、はっきりとした確信が宿った。
「私たちの医学には、この病気を治す薬があります」
「…え?」
両親の目が、大きく開いた。
「この病気の原因は、非常に小さな「菌」です。「結核菌」という名前で知られる。その菌を体の中で殺す薬が、現代医学には存在します。「抗生物質」と呼ばれる薬です」
「治…せるのですか…?」
「はい。治せます」
ドミトリエンコ博士は、両親の目を見つめた。
「ただし、治療には時間がかかります。数ヶ月間、薬を飲み続ける必要があります。しかし、適切な治療を続ければ…エルラさんは完全に回復します」
両親は、しばらく黙っていた。
「…信じられない…」
母が、涙をこぼしながら言った。
「本当に…治せるのですか…」
「はい。間違いなく」
「お願いします…」
父が、深く頭を下げた。
「お願いします…娘を…救ってください」
治療はその日から開始された。抗生物質の投与は、ドミトリエンコ博士の直接の指導の下で行われた。
彼女は最初のうちは、自分がなぜ薬を飲むのか理解できていなかった。しかし数週間が経つにつれて、体調の変化が現れた。慢性的な咳が減り、体の細さが少しずつ元に戻っていった。
そして、3ヶ月後——
「エルラさんの検査結果は…完全に陰性です」
ドミトリエンコ博士はその報告を受けた後、エルラの両親に伝えた。
「完全に回復しました」
エルラの母は、その言葉を聞いた瞬間、泣き崩れた。父も、目を閉じて、深く頭を下げた。
「ありがとう…ありがとうございます…」
「これは、私たちの力ではありません。今までの歴史で病気で犠牲になった人たちと、その人たちを治そうと努力した先人たちの知恵と努力が生んだ、現代医学の技術です。そしてこの世界にも、今後はこの薬が届くようにする仕組みを整えていきます」
エルウィア村の「不治の病」は、その日以降、「不治」ではなくなった。
エルラのような事例が、調査チームの活動の中で他にも複数発見された。
それらの事例を踏まえて、王国政府は以下の方針を決めた。
村や小さな町には「診療所」を設置し、基本的な診療と抗生物質や基本的な薬の投与を行う。大きな都市には「総合病院」を建設し、外科・内科・産婦人科・小児科などの各科を設置し、より複雑な治療を行う。
医療従事者の入国も始まった。ロシア側の医師や看護者たちが、王国に入り、現地の医師や薬草の専門者たちと組み合わせて、治療の幅を広げていった。
「この世界の薬草には、地球側にはない成分が含まれている」
ドミトリエンコ博士は、その研究の途中で発見した。
「現代医学と、異世界の薬草知識を組み合わせれば…さらに多くの病気に対応できる可能性がある」
その研究は、その後も続けられていった。