それは、2003年の冬頃のことだった。
メイプルストーリーの正式リリースが始まったばかりの頃。
世界中のゲーマーたちが、Nexonの新作MMORPGに飛びついた。
シンプルな2Dグラフィックス、かわいいキャラクター、冒険のワクワク感。
ゲーム廃人だけではなくカジュアルゲーマーも夢中になれる要素が、そのゲームには詰まっていた。
中学2年生のキリトも、夢中になった一人だ。
ポケモンなどのオフラインゲームしか触ったことのなかった彼だったが、ゲーム攻略の掲示板に貼られていた広告からメイプルストーリーを知り、ベータテストに参加。
初期のメイプルアイランドで、カタツムリを狩り、レベルを上げていく。
その単純作業が、なんと新鮮なことか。
チャットで他のプレイヤーと話すのも楽しかった。
「このゲーム、ヤバいくらいハマるわ」
キリトは友達の誘いも断り、ゲームに熱中した。
学校でも浮いた存在になっていったが、かまわなかった。
なぜならゲームの中に沢山の仲間がいるのだから……!
「お兄ちゃん、今日も学校いかないの……?」
「うるせえ!今日はめいぽの正式リリース日なんだよ!」
正式リリースが始まる日、キリトは学校をサボりログインしていた。
ポイントショップが正式にオープンされると聞き、親のサイフから金を盗み、大量のWEBマネーに変えていた。
卍キリト卍 LV50 スピアマン
それがメイプルワールドでのキリトだった。
「すっげー!お前、ベータテスターか!?」
振り向くと、赤いバンダナを巻いた坊主の細目キャラがぴょんぴょん跳ねていた。
名前は――
クライン
いかにもテンション高そうな動きだ。
「まぁな。正式前からやってる」
キリトは得意げに言う。
「いいなぁ〜!俺、今日から始めたんだよ!操作むずくね?」
「慣れだな。とりあえず命中上げろ。DEX振っとけ」
「なにそれプロのアドバイス?」
クラインが笑う。
そのチャットの軽さが、やけに心地よかった。
周囲では初心者たちがカタツムリを叩き、いつも以上に騒がしい。
正式サービス初日。
世界が開いた日だった。
「なぁ、アドバイスしてくれないか?」
クラインが言う。
キリトは少しだけ迷う。
でも――
「……いいぜ」
二人はヘネシスへ渡り、狩場1に入った。
スライムが大量に湧く。
クラインの剣が振られ、ダメージが飛ぶ。
MISS
MISS
24
MISS
「当たらねぇ!!」
「だから言ったろ。DEX振れって」
「もう振ったわ!!」
チャットが流れるたび、キリトは笑った。
知らない相手なのに、隣でゲームしているみたいな距離感。
これが――オンライン。
そのときだった。
画面が一瞬、固まった。
チャットが止まる。
BGMがループする。
「……ラグ?」
キリトがつぶやいた瞬間。
世界が暗転した。
********************
「ここは……メイプルアイランドか!?」
「それよりも……この現実にいるような感覚……」
キリトはゆっくりと手を開閉した。
カクつきも、遅延もない。
指先の感触が妙に生々しい。
「……は?」
石畳を踏む音がする。
カツン。
今までスピーカー越しに聞いていたSEとは違う。
足裏に“重さ”がある。
空気の冷たさが肌に触れる。
ただPCの前に座っていたはずだ。
なのに今、キリトは――
立っている。
メイプルアイランドの始まりの町に。
「おい!キリト!」
振り向くと、クラインが駆け寄ってくる。
いや、“駆けてくる”というより――
本当に走っている。
息を切らし、地面を蹴り、砂を巻き上げる。
「お前もか!?急に暗転して……気づいたらここ!」
「……夢じゃないよな?」
キリトは自分の頬をつねる。
痛い。
普通に痛い。
「痛ぇぇぇ!」
クラインが叫ぶ。
「やめろって!確認は済んだろ!」
二人は顔を見合わせた。
笑えない。
空が、あまりにも鮮明すぎた。
そのとき。
空間にノイズが走る。
ピシッ、とガラスがひび割れるような音。
空が、割れた。
バキリ、という音とともに、青空がガラスのように砕け散る。
破片は落ちず、空中で静止し、無数の光の粒子へと変わっていった。
その中心に――
巨大な人影が現れた。
黒いローブ。
フードで顔は隠されている。
だが、はっきりと“人間”だとわかる輪郭。
世界そのものが、その存在を映すスクリーンになったかのようだった。
逃げられない。
クラインが息を呑む。
「……GM、か?」
影が、ゆっくりと口を開いた。
声は低く、感情がなかった。
だが、不思議なほどよく通る。
「はじめまして、プレイヤー諸君」
「私の世界へようこそ」
「私の名は――」
「キム・ジョンジュ」
ざわめきが、悲鳴に変わる。
「うそだろ……」
「ネ糞の創業者……?」
キリトの喉が鳴った。
冗談じゃない。
悪い予感しかしない。
ジョンジュは、淡々と語る。
「現在、諸君らは《メイプルワールド》に完全同期している」
「ログアウトは不可能だ」
「そして――」
一瞬、間が空く。
その“間”が、致命的だった。
「この世界での死は、現実世界における死を意味する」
静寂。
風も止まった。
誰かが、膝から崩れ落ちる。
「……は?」
クラインの声が震える。
「冗談……だよな?」
「ふざけんな……」
誰かが叫ぶ。
「帰らせろ!!」
ジョンジュは、まるで虫を見るような目で見下ろした。
「帰還条件は一つだけだ」
「この世界を“完全攻略”すること」
巨大なマップが空に展開される。
メイプルワールド全域。
ダンジョン。
街。
未踏領域。
そして――
最奥。
スリーピーウッド神殿。
「ボスを倒し、世界の核に到達した場合のみ、解放される」
「途中での離脱は、許されない」
クラインが震える声で言う。
「……なぁ、キリト」
「これ……」
「……ゲームじゃねぇ」
キム・ジョンジュの映像が、ゆっくりとフェードアウトする。
【SYSTEM】
チュートリアルは終了しました
――Good luck, Players.
キム・ジョンジュの姿が、完全に消えた。
空は元に戻り、鳥の鳴き声だけが不自然なほど澄んでいる。
誰も、すぐには動けなかった。
そのとき――
足元に、光が落ちた。
ポン、と軽い音。
キリトの前に現れたのは、
小さな手鏡だった。
縁はシンプルな銀色。
どこにでもありそうで、どこか不気味。
【SYSTEM】
アイテム《手鏡》を入手しました
「……なんだ、これ」
クラインも同じものを手にしている。
「イベントアイテムか?」
キリトが鏡を持ち上げた、その瞬間。
――映った。
そこにいたのは、
卍キリト卍 ではなかった。
少し痩せた、
目の下にクマのある、
中学二年生の――
現実の自分だった。
「……は?」
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
クラインが叫ぶ。
「ちょ、待て待て待て!!
なんで俺、現実の顔なんだよ!!」
クラインは、茶髪頭の青年。
キャラメイクの面影は、どこにもない。
周囲でも悲鳴が上がる。
「戻ってる……!?」
「アバターが……!」
「ふざけんな!!」
次の瞬間。
身体が、光に包まれた。
ピリッ、と静電気のような感覚。
キリトの視界が白く弾ける。
【SYSTEM】
アバターデータを解除します
ステータスを初期化します
「……っ!!」
視界が戻ったとき、
キリトの身体は――
軽かった。
異様なほどに。
剣を握ろうとして、気づく。
持っていない。
装備欄が、空だ。
ステータスウィンドウが、強制表示される。
卍キリト卍
LV:1
STR:4
DEX:4
INT:4
LUK:4
職業:初心者
「……は?」
息が、詰まる。
LV50。
何か月もかけて積み上げたステータス。
装備。
全部、消えた。
クラインの絶叫が響く。
「俺もだ!!
LV1!?
ふざけんな!!」
誰かが泣き崩れる。
「俺、会社サボってまで……
なんでこんな……」
そのとき、最後のアナウンスが響いた。
【SYSTEM】
本世界では、リスポーンは存在しません
死亡時、キャラクターは完全消滅します
再作成はできません
キリトの喉が、ひくりと鳴る。
LV1。
装備なし。
死んだら終わり。
ここは、
やり直しの効かないメイプルワールド。
クラインが、震える声で言った。
「……なぁ、キリト」
「俺たち……
最初から……」
キリトは、鏡を握り潰すように強く掴んだ。
「……ああ」
「でも」
キリトは、遠くの森を見る。
カタツムリが、ゆっくりと蠢いている。
「最初からだからこそ」
「――生き残るやつも、決まる」
世界に、モンスターの鳴き声が響く。
ここからが、本当の“デスゲーム”だった。