選択の期限   作:下等遊民

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それでも時間は、こちらを見ている

決定的な出来事というのは、

たいてい後からそう呼ばれる。

その瞬間は、

驚くほど地味だ。

彼女と食事をした。

店は普通だった。

静かすぎず、

うるさすぎず、

会話が途切れても

気まずくならない。

俺たちは、

そういう場所を選ぶのが

上手くなっていた。

彼女が、

将来の話をした。

正確には、

将来そのものじゃない。

引っ越したらどうするか、

仕事が忙しくなったらどうするか、

そういう

「起きたら考えればいい話」だ。

俺は相槌を打った。

否定もしなかったし、

肯定もしなかった。

そのとき、

自分の反応を

少し上から見ている感覚があった。

ああ、

俺は今、

期待されない返事を

しているな、と思った。

彼女は気づいていたと思う。

でも、

気づかないふりをした。

その優しさが、

一番きつい。

帰り道、

並んで歩きながら、

俺たちは黙っていた。

沈黙は、

前より重かった。

嫌いになったわけじゃない。

むしろ逆だ。

彼女はちゃんとしている。

人として、

パートナーとして、

たぶん正しい。

正しい人間と一緒にいると、

自分の未確定な部分が

浮き彫りになる。

それが、

居心地悪い。

別れ話は出なかった。

涙もなかった。

ドラマはなかった。

ただ、

「このままではいられない」

という共通認識だけが、

空気みたいに

そこにあった。

それは、

確認しなくても分かる種類のものだ。

家に帰って、

一人になった。

電気をつけて、

何も変わっていない部屋を見て、

少し安心した。

同時に、

少しだけ絶望した。

俺はこの部屋で、

何年もやっていける。

それが、

簡単に想像できてしまう。

一人でいることに

慣れすぎた人間は、

選択を先延ばしにする

才能だけは

無駄にある。

スマホを見た。

彼女からのメッセージは、

来ていなかった。

それが普通だと、

分かっていた。

分かっているのに、

確認してしまう自分が、

少し惨めだった。

何も壊れていない。

でも、

何かは確実に

動いてしまった。

こういう変化は、

元に戻らない。

音もなく、

証拠も残さず、

ただ配置だけを変える。

俺はその夜、

ほとんど眠れなかった。

考えていたのは、

答えじゃない。

もう逃げ切れない

という感覚だけだ。

 

朝はやっぱり普通に来た。

劇的な目覚めなんてものはなくて、

ただ目が覚めて、

天井を見て、

今日も続いていることを理解する。

世界は、

こちらの決断待ちで止まったりしない。

彼女のことを考えた。

嫌いになったわけじゃない。

失望したわけでもない。

尊敬がなくなったわけでもない。

ただ、

自分が何者であるかを

一緒に曖昧にしていく覚悟が、

まだ足りていない。

それだけだ。

旅のことも考えた。

知らない道、

知らない町、

知らない夜。

それらは今でも好きだ。

でも、

それを「逃げ場所」にした瞬間、

たぶん色が変わる。

自由は、

しがみついた途端に

形を変える。

俺は、

選択が怖かったんじゃない。

責任が怖かったんだ。

家庭を選べば、

旅に行けない日を

自分のせいにしなきゃいけない。

旅を選べば、

一人の夜を

自分のせいにしなきゃいけない。

どちらも、

今までは環境とか、

タイミングとか、

曖昧なもののせいにできていた。

それができなくなるのが、

一番の恐怖だった。

選ぶという行為は、

未来を決めることじゃない。

言い訳を減らすことだ。

それに、

今さら気づいた。

スマホを手に取って、

しばらく眺めた。

連絡はしなかった。

しないことを選んだ、

というほど強い意思もない。

ただ、

「いつかは決める」

という姿勢だけを、

やめた。

決めるなら、

決める。

決めないなら、

その結果を引き受ける。

どちらでもいい。

ただ、

中立を装うのは、

もうやめる。

外に出ると、

空気は冷たかった。

季節は、

俺の内省なんて

一切気にしていない。

道を歩きながら、

俺は少しだけ

背筋を伸ばした。

何かが解決したわけじゃない。

不安も、

恐怖も、

全部残っている。

でも、

逃げ切れると思うのは、

やめた。

それだけで、

世界は少しだけ

正直に見えた。

時間は進む。

俺も進む。

同じ速さじゃなくていい。

立ち止まらなければ、

それでいい。




エピローグ

季節が一つ、進んだ。
部屋に置かれる物が、
少しずつ増えた。
理由は覚えていない。
気づいたら、
そこにあった。
クローゼットの端が
いつの間にか埋まっていた。
誰も「置いていい?」とは言わなかった。
誰も「片づけよう」とも言わなかった。
それが一番、
現実的だった。
ある夜、
床に座って地図を見ていた。
次に行く場所を決めるためじゃない。
家賃相場を確認するためでもない。
ただ、
近くの駅を眺めていた。
「この沿線、
朝は混むらしいね」
俺がそう言うと、
彼女は少し考えてから、
「でも、一本早く出れば平気だと思う」
と答えた。
話題はそれで終わった。
終わったけれど、
戻らなかった。
別の日、
洗濯物を干しながら、
俺は言った。
「二人分だと、
もうひとサイズ大きいの方が楽かも」
彼女は笑って、
「じゃあ、次はそうしよ」
と言った。
主語も、
時期も、
契約の話も出ていない。
それでも、
言葉の向きだけは
はっきりしていた。
相変わらず僕は休みがあれば旅に出る。
でも、
置いていく物が
頭に浮かぶようになった。
それが、
初めてだった。
選んだと言うには、
まだ弱い。
でも、
「戻る前提」は
もう置いていない。
夜、
隣で眠る気配を感じながら、
俺は思った。
これは妥協じゃない。
降参でもない。
ただ、
一人用の未来を
静かに畳んでいるだけだ。
道は続いている。
今は、
玄関に靴が二足ある。
それで、
十分だった。
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