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ざくり、ざくりと雪を踏みしめる音が2人分。
風のない夜はいつもよりずっと静かで、電灯の届かない暗闇の先で世界がぽっかりとなくなってしまったみたいだった。隣ではぁ、と手に息を吹きかけるあいりちゃん。さっきから様子がおかしくて、何かを切り出そうとするような、口から出すための言葉を選んでいるような表情で。
「………………」
「………………」
彼女の横顔を眺めていれば、やがて何かを諦めたようにその口を開いた。
「……ウチたちが生きているこの時代なら、生きていさえすれば、どれだけ距離があったとしても、顔を見たり声を聞いたりすることは、あんまり難しいことじゃないよね」
そう言って、あいりちゃんはサクサクと雪を踏み鳴らして、私の少し先へと行き、振り返る。
「だけど、時間が経つほど、その頻度が減ってって、いつか途切れてしまって、気が付けば他人に、なんてお別れもある」
「いきなりプツリと切れてしまうお別れとそうやってゆっくり離れてしまうお別れ、どっちがマシなんだろうね?」
「……………………」
ああ、この夢はそうか。もしかしたら、私の心をあいりちゃんという形をとって代弁してくれているのかもしれない。お別れはいつかくる。12歳差の恋人……あいりちゃんは私と違ってまだ未来がある。可能性がある。
だから、私はたぶん……捨てられてしまうのが怖いんだ。お別れを彼女から告げられるのが怖いんだ。
もしかしたら、この夢は…………。
「…………ねぇ、あいりちゃん」
「なあに、ななこさん」
「私は……どっちのお別れがいいか、なんて選べないよ……」
「そっか……」
私の答えを聞いて、あいりちゃんは私に背を向ける。失望、されただろうか。沈黙。その後に、くるりとこちらへ振り向き、口を開いた。
「……ななこさんに言わなきゃいけないことがあるんだ」
「ウチはね、お別れをするために……ななこせんせを呼んだの」
「っ、それは……っ」
恐れていたこと。あいりちゃんから別れを切り出されること。それをこの夢は……。
「ちょっと長い話になるけど、聞いてくれる?」
「………………うん」
「ありがとう、ななこせんせ」
にこりと微笑んだあいりちゃんの手には、いつの間にか1冊の本があった。古びた革張りの表紙をぱらりと開くと、滔々と、穏やかにお話を始めた。
「昔々、宇宙の真ん中で眠る恐ろしく巨大な神様がいました。名を『アザトース』といいます」
「地球で暮らす人間たちは『アザトース』を畏れ、間違っても目覚めることのないよう、あらゆるものがその境地に近づくことを禁じました。けれど、宇宙の真理を求めた愚かな者により、ある日『アザトース』は地上へと呼び出されてしまいます」
「地球が滅びを迎えようとしたその寸前、アザトースは動きを止め、再び宇宙の彼方へと帰っていきました。別の神『ニャルラトホテプ』が人間の願いを聞き、地球を救ってくれたのです」
「代償として、人間はひとつの契約を交わしました。それは、この先悠久の時間をニャルラトホテプのために費やすこと。『ドリームランド』という夢の世界には、『アザトース』の魔宮に繋がる入口があります。度々、そこを通って『アザトース』の元へ向かってしまう存在がいたのですが、それを見逃していては、また今回のような事態が起こりかねない。だから、『ニャルラトホテプ』の代わりに、人間がその入口を見張ることにしました」
「それは終わりのない契約です。肉体を必要としない『ドリームランド』で人間は永劫の時を生きることも可能です。けれど、人間の精神にもまた限界はありました。数億年を超えて続く役目を一人の人間が果たすことは、難しかったのです」
「人間は『ニャルラトホテプ』にひとつ提案しました。この役目を人間の中で受け継いでいくという方法を。役目を果たした人間がまた元通りに生きていくことができれば、きっと終わりまでの数年は耐えることができる。そしてまた別の人間に役目を引き継ぎ、それをいつか人間、もしくは世界が消え去る瞬間まで永劫に繋いでいく」
「人間のか弱さを哀れに思ったのか、それほどこだわることでもなかったのか。それはわかりませんが、『ニャルラトホテプ』はその提案に同意しました。覚醒世界での一晩。ドリームランドのその領域においての10年余りを監視者として過ごすこと。それを人間一人あたりの役目として、契約は結ばれました……とさ」
そこまで言って、あいりちゃんはパタリとその本を閉じた。難しいことは分からない。分からない、フリをしたかった。けれど、あいりちゃんは私のその想いを否定する。
「ウチに、この順番が回ってきたんだって。これから10年、ウチはななこせんせに会えない。だからその前に会っておきたかったんだ」
諦めたように笑うあいりちゃん。
「ま、まって……それ、その話は……」
狼狽える私。だって、そうでしょ? たかが夢、なんて思ってた。なのに、私の知り得ないお話がでてきて、10年間離れ離れになる、なんて。信じられる訳がない。
「ここに書いてある以外にも神様の類はいるらしくてさ。役目が始まる前に1つだけ、好きな夢を見せてやるって言われてさ。だから、これは夢なんだよ。ウチのわがままを叶えるための夢」
でも、誰とも会えない訳じゃないんだって。この世界にも人間はいるし、きっと退屈はしないだろうって。そんな風に自分の境遇にまだ希望があるのだとわざと明るく話すあいりちゃん。けど、そこで一旦、トーンが落ちて。
「でも、ななこさんと10年会えない。たったの10年って思う?」
「…………ううん、10年は長いよ。そんなの……」
その先を口にできない。だから、私は代わりに、
「……ねぇ、どうしてもあいりちゃんじゃなきゃだめなの?」
「ウチじゃないとだめなんだって。さっき話した神様との契約を破れば、地球や人間がどうなるかもわからないし」
そもそも戻る方法がないんだ。もう『ドリームランド』に連れてこられてしまったから。また、諦めた口ぶりで、そう言う。
「…………さっきの話、さ。あいりちゃんは夢から覚めても、ここでの10年は覚えているのかな」
「元通りって言うからには、この世界のことは忘れちゃってるのかもね」
「………………」
だからか。だから、五億年ボタンの話、なんだ。それと似たような話だったから。10年、だ。5億年と比べたら全然大したことはない。けど、けどさ!
「それでも……あいりちゃんを、そんな長い間1人にはしたくないよっ」
「……ありがと、ななこさん。」
何か、何かできないか。頭を回す。あいりちゃんはここに10年いないといけない。それは変えられない。なら!
「……っ、分かった! 私もここにいる」
その提案に、あいりちゃんは首を横に振る。
「それは、無理だよ。ここはななこさんの夢の世界。目覚めたらななこさんは……ここから無事に帰れるよ」
「いや……だよ。あいりちゃんを、ひとりにしたくない……よ」
「……わがままなんて言うんじゃなかったな、えへへ。」
「…………っ、もう、どうしようもないこと、なの?」
私の言葉に頷くあいりちゃん。
「今ならカムパネルラの気持ちが分かるなぁ。きっと最後にジョバンニに会いたいと思ったんだ。それがたとえ夢の中だとしても。少なくともウチはななこさんの声を聞いておきたかった。これからの10年間、忘れてしまわないように。ねぇ、ななこさん?」
「最後に、抱きしめてもいい……?」
「っ、最後じゃ、ないよ。あいりちゃんのこと、10年でも、何年でも待ってる、からっ! 帰ってきたら10年分、いっぱい好きって伝えるからッ……だからっ!」
あいりちゃんの身体を、ぎゅっと抱きしめる。最後じゃないよって、ずっとずっとこうするからって。
「ふへへへへ、ななこさんに出会えてよかった」
「待ってるからね、あいりちゃん」
「……なんだか余計に寂しくなっちゃった。そうなるってわかってたのになぁ」
「これでお別れなんかじゃない、からっ」
「わしちゃん、ちょっとだけ楽しみなんだよ! こんな経験中々できないからね!」
強がりだって、分かってる。あいりちゃんが『わしちゃん』と言うときは、仮面を被ろうとしてる時だって、私は知ってるから。
「だから、心配しないで、ななこさん」
「……………………うん」
彼女の覚悟を、強がりを否定する言葉はもう言えなくて。
「やっぱり立ち止まってると寒くなっちゃうな。もう少し歩こっか。ななこさんの夢が終わるまで、もうちょっとだけ一緒にいよう」
「っ…………うん」
泣くな、私。ここで泣けば、あいりちゃんが余計に辛くなる。私はそんなこと、できない。しちゃだめだ。
「ありがとう、ななこさん」
儚げに、あいりちゃんは微笑む。
「愛してるよ」
「私も……愛してる」
雪の道を、サクサクと音を立てて歩く。ポツリポツリと話すのは、なんでもない思い出。出会ってから今までの思い出。そうしていれば、たくさんあった思い出も少しずつ尽き始める。何かないか、まだお話することがあったはずだ。そんな風に、私達はどちらともなく話を続けた。
不意に、触れ合った肩から温もりが伝わる。寒いけど暖かくて、それがどうしようもなく寂しいのはきっと、横にいるあいりちゃんが泣きそうな顔をしていたからだ。その横顔も2人分の足音も、雪に音が吸われるように薄れていく。夢が、終わる。
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『誰かの手記』
ウチの隣にあなたがいないのは、やっぱりどうしたって寂しいことです。寂しいと思うことさえ、ウチには大切なことなのです。
だから、孤独に耐えきれない夜はあの夢のことを思い出します。
ウチを呼ぶあなたの声を。
その手の温もりを。匂いを、色を、形を。
ウチは何年だって、忘れることはないでしょう。あなたにまた会えるその日まで、きっと。
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「あ………………」
目が、覚める。いつも通りの朝。けれど、私の頭にはあの夢の出来事がこびりついていた。スマホを触って、あいりちゃんにメッセージを飛ばす。
『今日、これから会えない?』
『もちろん』
そうして、あいりちゃんと約束をして喫茶店へと赴く。夢の中のそれではなく、いつもの通いなれたお気に入りのお店。あいりちゃんに昨夜の話をしてみても、変な夢だと言ってケラケラと笑うばかりで、どうやら何も覚えていないみたい。
「…………」
「ななこ、さん?」
「え、あっ」
「どうしたの? じーっとウチの顔見つめて」
「………………ううん。ただ、あいりちゃんの顔を焼き付けてるだけ」
「ふへへ、照れちゃうよぉ」
なんでもない日。なんでもない時間。なにもなかったように日々は巡る。
いつか訪れる本当のお別れまで、ひとまず私達は今日も隣で。
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END『グッド・ナイト・カムパネルラ』
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