潮風と、腐った魚の臭いが鼻を突く。
波の音が聞こえる。遠くで、怒号とカモメの鳴き声が混じり合っている。
「……う、ぐ……」
目を開けると、そこは灰色だった。
空も、地面も、そして俺の手も。
俺は……死んだはずだ。
営業車で居眠り運転のトラックに突っ込まれて、一瞬で意識が飛んだ。
それなのに、なぜこんな薄汚れた石畳の上で転がっている?
「おい、起きろよ『灰かぶり』!」
腹部に鋭い痛みが走り、俺は咳き込んだ。薄汚れたブーツのつま先が、俺の鳩尾(みぞおち)にめり込んでいた。
見上げると、ニヤついた顔の巨漢がいる。ボーダー柄のシャツにバンダナ。腰にはサーベル。どう見ても日本の景色じゃない。
「今月の『天上金』の取り分が足りねェんだよ。お前のボロ家にあるもん全部出せ」
天上金。
その単語を聞いた瞬間、脳内に電流のような衝撃が走った。
同時に、この身体の持ち主であった少年の記憶が流れ込んでくる。
ここは「北の海(ノースブルー)」。
世界政府加盟国、ルベック王国。
俺の名前はアッシュ 14歳の孤児。
そして何よりここが漫画『ONE PIECE』の世界であるという絶望的な事実。
(マジかよ……転生先がノースブルーの貧民街とか、ハードモードすぎるだろ)
ジェルマ66の侵攻、ドンキホーテファミリーの暗躍、そして冷酷な海軍支部。この海は、四つの海の中でも特に治安が悪い。
「聞いてんのかコラァ!」
巨漢がサーベルを抜き、振り上げる。
死ぬ。転生して五分でまた死ぬ。
恐怖で心臓が跳ね上がった瞬間、俺の身体の内側から「何か」が溢れ出した。
――ザッ!
斬撃が振り下ろされる。俺は反射的に腕を上げて顔を庇った。
だが、痛みはなかった。
代わりに、パラパラという乾いた音が響く。
「あ?」
巨漢が間の抜けた声を上げた。
斬られたはずの俺の右腕が、黒い粉となって空中に舞い散り、そして再び集まって元の腕の形に戻っていく。
「な、なんだコリャ……悪魔の実か!?」
俺は自分の手を見つめた。
指先を意識すると、サラサラと崩れて黒い粒子になる。煙(モクモク)じゃない。砂(スナスナ)でもない。
これは――
「……煤(スス)?」
暖炉の底に溜まる、あの灰と煤だ。
地味だ。あまりにも地味すぎる。
だが、物理攻撃を受け流したということは、この世界の最強種「自然系(ロギア)」であることは間違いない。
「バケモノめ! 死ね!」
男が銃を取り出し、発砲する。
弾丸は俺の胸を貫通し、背後の壁に穴を開けた。
俺の胸にはぽっかりと穴が空き、そこから黒い煤が噴き出しているが、痛みも出血もない。
(勝てる)
俺は直感した。
相手は覇気も知らないチンピラだ。
ロギアの無敵性を理解していない。
俺は地面を蹴った。身体が軽い。煤のように質量を消して加速する。
「うわあぁっ!?」
男の顔面に右手を押し当てる。
イメージしろ。ただの煤じゃない。
火災現場の濃煙、肺を焼き尽くす有毒な微粒子。
「『窒息灰(チョーク・アッシュ)』」
掌から大量の煤を一気に噴出させ、男の鼻と口へ強引に流し込む。
男は白目を剥き、喉を掻きむしりながら泡を吹いて倒れた。
静寂が戻る。
俺は震える手で、倒れた男の懐から小銭入れを抜き取った。
「……生き残ってやる」
この理不尽な海で。
覇王色の覇気なんて持っていない。Dの意志も関係ない。
だが、ロギアの体と原作知識がある。
俺は港の方角を見た。
海賊になるつもりはない。追われる生活は御免だ。
かといって一般人は搾取されるだけ。
ならば選択肢は一つ。
「海軍に入るか……」
そこが一番、安全に力をつけられる場所だ。
まだルフィが海に出るまで時間はある。
それまでに、この『煤』の能力を磨き上げ、大将クラスまで登り詰めれば、誰にも文句は言わせない。
俺、アッシュの『ONE PIECE』生活は、最底辺の路地裏から、煤まみれで幕を開けた。