海軍の朝は早い。
日の出のラッパが鳴る一時間前、午前4時には雑用係の一日が始まる。
「……皮肉なもんだな」
第80支部、厨房の裏口。
俺は大量の汚れた皿と、油のこびりついたレンジフードを前に呟いた。
俺の能力は『ススススの実』。
あらゆるものを黒く汚す能力だ。
それなのに与えられた最初の任務は「基地内の徹底清掃」だった。
「おいアッシュ! まだ終わってねェのか! 6時までに大砲の手入れもしとけよ!」
「イエッサー、曹長!」
先輩海兵の怒号が飛ぶ。
俺はため息をつきつつ、誰も見ていないことを確認して、レンジフードの排気口に手を突っ込んだ。
「『集塵(ダスト・ギャザー)』」
能力を発動させる。
本来、自然系(ロギア)は体から要素を生み出すものだが、俺は「同化」の応用を試みていた。
排気口に溜まった分厚い油汚れと煤(スス)が、俺の指先に吸い寄せられるように集まり、そして俺の体の一部として取り込まれていく。
一瞬で、ギトギトだった換気扇が新品同様の輝きを取り戻した。
取り込んだ汚れは、後で体外に排出して捨てればいい。
掃除、洗濯、煙突の煤払い。
普通なら半日かかる重労働を、俺は能力を使って数分で片付けていった。
浮いた時間は、全てトレーニングに費やす。それが俺の生存戦略だ。
◇
深夜、人気のない海岸。
俺は一人、月明かりの下で能力の検証を行っていた。
「『煤鉄砲(スス・ガン)』!」
指先から圧縮した煤の塊を弾き出す。
バシュッ、という鈍い音と共に黒い塊が飛び、岩に当たって砕け散った。
「……ダメだ。脆すぎる」
岩には小さな黒い染みがついただけ。ダメージは皆無だ。
煤は炭素の塊だが、ダイヤモンドのような結晶構造ではない。
所詮は燃えカス、ただの脆い炭だ。
これでは人を殺せない。
物理攻撃力が低い。
これが『ススススの実』の最大の欠点だ。
マグマ(サカズキ)のような圧倒的火力も、氷(クザン)のような拘束力もない。
だが、俺には現代知識がある。
「物理で殴れないなら、環境を変える」
俺は両手を広げた。体を霧散させる。
黒い霧が周囲一帯を包み込む。
「『暗黒界(ブラック・ワールド)』」
月明かりが遮断され、周囲が完全な闇に包まれる。
ただの煙幕ではない。
高密度の微粒子が眼球に付着し、瞬きすら許さない強烈な異物感を与える空間。
さらに、微粒子を肺に送り込めば呼吸困難を引き起こす。
これなら覇気使い以外の敵は完封できる。
だが、決定打に欠ける。
もっと「殺傷力」のある使い方は……。
その時、ふと思いついた。
石炭産業の歴史。炭鉱事故。
「……粉塵爆発」
前にも使ったが、あれをもっと意図的に大規模に起こせないか?
俺はポケットからマッチを取り出し、火をつけた。
自分の体(煤)を空気中に最適な濃度で散布する。
自分自身が燃料になるわけだから、爆発すれば俺もただでは済まないかもしれない。
だが、ロギアの体は物理的な衝撃を受け流す。
試す価値はある。
俺は空気中に漂う自分の体の一部に、意識を集中させた。
「――ッ!?」
その時、海岸の岩陰から人の気配がした。
俺は即座に実体化し、身構える。
見回りの兵か? いや、殺気がない。
「誰だ!」
岩陰から出てきたのは、意外な人物だった。
目深に被った帽子、あごについた食べかす。
そして、特徴的なサングラス。
「……パンだ。パンを落としてしまった」
男は地面に落ちたフランスパンを見つめ、心底残念そうに呟いた。
俺の心臓が跳ね上がる。
この男を知っている。
知っているどころの話ではない。
ヴェルゴ。
後の海軍中将にして、ドンキホーテファミリー最高幹部「コラソン」。
なぜ、こんな北の果ての支部に……いや、逆だ。
彼は北の海出身で、海軍に入隊してのし上がっていく過程なのだ。
今、彼はまだ一兵卒(あるいは下士官)のはずだ。
「……あんた、第80支部の兵か?」
「ああ。新入りだ。君は?」
「……雑用の、アッシュだ」
ヴェルゴは俺をじっと見た。
サングラスの奥の目は読めない。
彼が今、どの程度の実力者なのか。
既に覇気を習得しているのか。
冷や汗が流れる。
もし彼がスパイだとバレるような素振りを俺が見せれば、即座に消される。
「アッシュ君。……顔に、ついているぞ」
ヴェルゴが指差した。
俺は慌てて頬を拭う。煤だ。
「君が噂の能力者か。……夜遅くに熱心だな。だが、パンは大切にしたほうがいい」
「……肝に銘じます」
「それと、明日は忙しくなる。早く寝たほうがいい」
ヴェルゴは拾ったパンをパンパンと払い(泥がついているのに気にせず)、一口かじると、そのまま闇夜に消えていった。
明日は忙しくなる?
どういう意味だ?
翌朝、その言葉の意味を知ることになる。
基地内に非常呼集のサイレンが鳴り響いたのだ。
「総員配置につけェ!! 『ドンキホーテファミリー』傘下の海賊団が近海に現れた!!」
俺にとっての初陣。
そして、敵は因縁のファミリー。
昨夜のヴェルゴの言葉が、重くのしかかった。