ミニオン島の極寒の吹雪が、俺の頬を叩く。
だが、寒さよりも遥かに恐ろしいものが、頭上を覆い尽くそうとしていた。
鋭利な糸のドーム…『鳥カゴ』だ。
ドフラミンゴが到着したのだ。
この島はもう、逃げ場のない処刑台と化した。
「……ハァ、ハァ……」
俺は瓦礫の陰に身を滑り込ませた。
ヴェルゴ中佐(今は海賊基地への潜入工作を終え、海軍将校のコートに戻っている)からの通信が入る。
『アッシュ、東区画はどうだ。ガキは見つかったか』
「……いえ、吹雪で視界が悪く。引き続き捜索します」
『急げ。ファミリーが到着した。裏切り者は必ず炙り出す』
通信を切る。嘘だ。
俺の『灰探知(アッシュ・ソナー)』
――空気中に散布した微細な煤が風の流れを読み取り、障害物の位置を把握する能力――は既に"それ"を見つけていた。
俺は雪を踏みしめ、半壊した石造りの倉庫跡へと足を踏み入れた。
そこには、血の海に沈む男がいた。
「……!」
ドンキホーテ・ロシナンテ。コードネーム「コラソン」。
ヴェルゴに全身の骨が砕けるほど殴打され…虫の息だ。
だが、彼はまだ意識を保っていた。
背後にある「宝箱」を守るように背中で隠し、震える手で拳銃を俺に向けようとする。
「……来る、な……海兵……」
その目は絶望に染まっていた。
ヴェルゴの部下が来たと悟ったのだろう。
ここにはもう、希望がないと思っている。
俺はゆっくりと両手を挙げ、敵意がないことを示しながら近づいた。
「銃を下ろしてください、ロシナンテ中佐。……俺は、あんたを殺しに来たんじゃない」
「……!?」
「ヴェルゴ中佐には『何も見つからなかった』と報告済みです」
コラソンの目が大きく見開かれる。
俺は視線を彼の背後――宝箱へと向けた。
あの中に、オペオペの実を食べたトラファルガー・ローがいる。
「……白い町の少年は、その中ですね」
コラソンが激しく咳き込み、血を吐きながら俺を睨む。
「……あいつに、手を出すな……!!」
俺は首を横に振った。
助けたい。だが、無理だ。
俺がここでコラソンを担いで逃げれば、鳥カゴに阻まれる。
ドフラミンゴに見つかれば、俺もローも全員死ぬ。
原作(史実)通り、コラソンが命を懸けてローを隠し通すしか、生存ルートはない。
だが、生存確率を上げることはできる。
「あんたはもう助からない。……それは分かっているはずだ」
残酷な事実を告げる。コラソンが痛みに顔を歪めた。
「だが、少年を逃がす手助けはできる」
俺は手袋を外し、右手を宝箱にかざした。
コラソンが悲鳴を上げようとしたが、声が出ない。
俺が放った煤が彼の口元を一瞬覆ったからだ。
「静かに。……その宝箱、赤くて目立ちすぎる」
俺は能力を発動した。
『煤化粧(スス・メイク)』
掌から放たれた黒と灰色の微粒子が、鮮やかな宝箱の表面に付着する。
一瞬にして、それは瓦礫の山に転がっている「ただの汚れた木箱」へと変貌した。
雪と煤にまみれた背景に完全に溶け込んでいる。
さらに、俺は周囲の雪に散らばっていた「真新しい足跡」と「血痕」の上に、厚く煤を振りかけ、古びた汚れに見せかけた。
これで、視覚的な痕跡は消えた。
「……な、なにを……」
「カモフラージュです。ドフラミンゴの目は誤魔化せても、部下の目は節穴じゃない。これで、遠目にはただの瓦礫に見える」
俺はコラソンの前にしゃがみ込み、小声で早口に告げた。
「俺はヴェルゴの部下として、南側へ誘導をかけます。『海軍の艦が来た』と騒いで、ファミリーの注意を逸らす。……その隙に」
コラソンの目から、涙が溢れ出した。
彼は俺が何者なのか、なぜ助けるのかを問わなかった。ただ、深い感謝と覚悟の色を浮かべ、微かに頷いた。
「……すまない……恩に着る……」
「礼はいいです。……あの子を、自由にしてやってくれ」
俺は立ち上がった。
遠くでドフラミンゴの笑い声が聞こえる気がした。
時間はもうない。
俺は踵を返し、わざと足音を立てて走り去った。
通信機を取り出し、声を張り上げる。
「こちらアッシュ! 南の海岸に人影! 能力者と思わしき反応あり! 繰り返す、南へ急行せよ!」
嘘の報告が、冷たい夜空に響く。
背後で、最期の銃声が聞こえるのを覚悟しながら、俺は雪の中を駆けた。
◇
数時間後。
ミニオン島の悲劇は幕を閉じた。
ドンキホーテファミリーは撤収し、海軍が制圧した。
瓦礫の中から、笑顔で死んでいる男の遺体が見つかった。
そして、その近くにあったはずの「汚れた木箱」は、いつの間にか消えていた。
俺は軍艦の甲板で、遠ざかる島を見つめていた。
隣にはヴェルゴがいる。
彼は不機嫌そうに、頬にハンバーグを付けたまま葉巻を吹かしていた。
「……逃げられたか」
「申し訳ありません。吹雪が強すぎて……」
「言い訳はいい。だが、コラソンは始末した。最悪の事態は免れた」
ヴェルゴは手配書を握りつぶした。
俺はポケットの中で、強く拳を握った。
俺の手はまだ、微かに煤で汚れている。
ローは生き延びたはずだ。
俺が変えたのは、宝箱の色とほんの少しの運命の流れだけ。
だが、その「微改変」が13年後の世界を大きく変えることを俺は知っている。
「行くぞ、アッシュ。本部への栄転が決まった」
「……はっ」
俺はヴェルゴの背中を見つめた。
いつか、この男を倒す日が来る。
パンクハザードの決戦か、あるいはもっと早くか。
その時まで、俺はこの「煤けた正義」を貫く。
ミニオン島の悲劇から数日後。
北の海の孤島、スワロー島。
路地裏のゴミ捨て場で、一人の少年がうずくまっていた。
トラファルガー・ロー。
かつて「白い町」の亡霊と呼ばれた彼は、今、ただの孤独な子供として震えていた。
「……コラさん……」
涙は枯れ果てていた。声も掠れている。
体中が痛い。
だが、あの奇病――珀鉛病(はくえんびょう)の白い斑点は、嘘のように消え始めていた。
『オペオペの実』の能力。
不老手術さえ可能な究極の実を、コラソンは命と引き換えに彼に食わせたのだ。
ローは膝を抱え、自分の記憶を反芻する。
あの時、自分は宝箱の中にいた。
外からはコラソンが撃たれる音が聞こえた。ドフラミンゴの笑い声が聞こえた。
そして、ドフラミンゴたちが去った後、コラソンは最期の力を振り絞って、自分を逃がしてくれた。
だが、一つだけ不可解なことがあった。
(……あの宝箱、赤かったはずだ)
派手な装飾のついた、赤い宝箱。
雪の中では目立って仕方がないはずだった。
なのに、ドンキホーテファミリーの幹部たちは、誰一人としてその箱に気気付かなかった。
いや、それだけじゃない。
自分が箱から這い出した時、手についたのは雪だけではなかった。
――黒い、煤(すす)
箱全体が、まるで焼かれた後のように真っ黒な粉で覆われていたのだ。
誰かが、隠した?
あの極限状態で?
コラさんじゃない。
彼はもう動けなかった。なら…誰が?
ザッ、ザッ、ザッ……。
表通りから、規則正しい軍靴の音が聞こえてきた。
ローの体が硬直する。海軍だ。
あいつらは、コラさんを見殺しにした。
ドフラミンゴと繋がっている裏切り者たちだ。
恐怖と憎悪で足がすくむ中、ローは木箱の隙間から通りを覗き見た。
先頭を歩くのは、サングラスの男…ヴェルゴ。
ローの脳裏に、コラソンが殴り殺される映像がフラッシュバックする。
呼吸が荒くなる。殺される。見つかったら殺される。
ヴェルゴの後ろにもう一人、若い海兵が歩いていた。
灰色の髪、無機質な目をした曹長クラスの男。
「……!」
ローは息を呑んだ。
その若い海兵が、ふと足を止めたのだ。
そして…何気ない仕草で手袋を外し、路地の壁に手を触れた。
ジュッ……。
壁の一部が黒く変色し、そこから少量の煤が噴き出し、風に乗ってローの隠れているゴミ捨て場の方へと流れてきた。
その煤は、ローの目の前で一瞬だけ「矢印」のような形を作り
――路地の奥、逃走ルートを指し示した。
そしてすぐに崩れ、ただの黒い塵となって雪に混じった。
「……アッシュ曹長、どうした」
ヴェルゴが振り返る。
「いえ。……ネズミがいたようですが、見間違いでした」
その海兵――アッシュと呼ばれた男は、表情一つ変えずに答えた。
その視線は、確かにローが隠れている場所を一瞥していた。
だが、そこには「捕獲」の意志はなかった。
あるのは、奇妙な共犯者のような静けさだけ。
「行くぞ。本部の船が出る」
「ハッ」
二人の海兵は去っていった。
ローは呆然と、雪の上に残った黒い染みを見つめていた。
(あいつだ……)
あの海兵が、宝箱を隠したのか?
ヴェルゴの部下が、なぜ?
コラソンの味方だったのか?
それとも、別の何かなのか?
名前は、アッシュ。
灰(Ash)。
「……覚えといてやる」
ローは涙を拭い、立ち上がった。
憎むべき海軍の中に、たった一人だけ、自分を見逃した「煤けた男」がいる。
いつかこの海で生き残り、力をつけたら必ずその真意を問い質してやる。
ローは雪の中、海軍とは逆の方向へと走り出した。
背中の「CORAZON」の文字が吹雪の中に消えていく。
◇
一方、軍艦へのタラップを登りながら、俺(アッシュ)は小さく息を吐いた。
(……生きてたか)
一瞬、路地の奥にあの特徴的な帽子が見えた気がした。
見つかればヴェルゴに報告する義務がある。
だが、俺は「見なかったこと」にした。
それどころか、能力を使って逃げ道を示唆した。
これは反逆だ。
だが、不思議と後悔はなかった。
「何ニヤついている、アッシュ」
ヴェルゴに指摘され、俺は慌てて真顔に戻った。
「いえ。……本部へ行けることが嬉しくて」
「ふん。殊勝な心がけだ。……本部に行けば、"先生"のシゴきが待っているぞ」
ヴェルゴが口元を歪めた。
「"黒腕"のゼファー先生だ。覚悟しておけ」
俺は頷いた。
ローは生き延びた。
コラソンの意志は繋がれた。
なら、俺も自分の戦いを始めなければならない。
海軍本部。
そこは化け物たちの巣窟。
サカズキ、ボルサリーノ、クザンの三大将。
そして、英雄ガープ、仏のセンゴク。
俺の「ススススの実」が、世界の頂点でどこまで通用するか。
巨大な正義の門が、ゆっくりと開こうとしていた。