名もなき魔法使い
首筋へ滴り落ちた水滴の冷たさに私は目を覚ました。
ハっとして顔を振り仰ぐ。視界に映るのは、もはや見飽きたいつも通りの湿った絶望。
『なんだよ、寝てたのか?』
私を揶揄するような声が問いかけてきた。
複数の音が重なり合ったような不思議な響きを持つその声の主は、この退屈な牢暮らしにおいて、唯一無二といっていい暇つぶしであり相棒だ。「いや──」
私は声の主──リブロムへ視線を投げた。
「寝ていた訳ではない。目を閉じてジッとしていただけだ」
『へっ! そういうのを寝てたって言うんだよ!』
リブロムは片眼を細めて床の上をクルクル回った。
本当に変な本だ。喋るし、動くし、中に書かれた内容を読めばまるで現実のように追体験できる。
そう、私の相棒であり慰みでもあるリブロムは一冊の魔導書である。
そして私は明日をも知れぬ哀れな捕虜である。
少し、この世界と私たちの状況についても触れておく。
この世界は今や滅びかけていた。
たった一人の魔法使いマーリンに支配され、人間は彼の供物として獄に捕らわれていた。勿論、私も。
いつ彼の生贄にされるか分からぬ不明瞭な絶望を過ごしていたある日、向かいの檻の男がマーリンに殺された。だが、彼はただでは死ななかった。どういう理屈かは知らぬが、いつの間にか魔法を体得し、残虐な支配者に一矢報いようとしたのだ。その結末はあえて語るまいが、それを目の当たりにした私へ語りかけるモノがあった。
それが喋る奇怪な魔導書リブロムだった。
『俺を早く隠せ、奴に見つかっちまう』
言われるがままに私は彼を確保し自分の獄へしまい込んだ。
リブロムは私に自身の中身を読むよう言ってきた。彼の中に記されているのは【とある魔法使い】の記録で、リブロムにはその物語を読み手へ追体験させることが可能なのだという──つまり、物語を読み進めれば進めるほど読み手にも魔法の知識と実力が反映される。すなわち、あの男のようにマーリンに一矢報いる……いや、倒すことも可能になるかもしれないということだった。
私はその日からリブロムを読み進めた。
この牢に捕らわれている限り時間は有限ではあるが、朝も夕も関係ない。邪魔する者もいない。心ゆくまで読書するにはある意味で持って来いの環境だ。それに、それまでの娯楽といえば床を這う虫を叩き潰すくらいだった。そんな陰気な行為に比べれば、はるかに健全だ。
「新しいページはないのか」
ページをパラパラ捲る私へ、リブロムは呆れかえった声で抗議してきた。
『ねぇよ! この活字ジャンキー……いや、戦闘オタク? とにかくテメェは俺のすみからすみまで読みつくしちまったじゃねぇか! もうマーリンの野郎とやり合えるくらいの力はついてる筈だぜ?』
「だが、万が一ということもある。念には念を入れたい」
『慎重なんだか臆病なんだか……んっ!?』
小馬鹿にした表情を刻もうとしたリブロムが、ぶるっと大きく身震いをした。『な、なんだ!?』
私の手から離脱し、バサバサと鳥が羽ばたくような音を立ててページがめくれている。白紙のページが現れると、そこに赤黒いインクが滲み文字列を浮かび上がらせ始めた。
「なんだ、まだあるんじゃないか──」
新しいページが……そう言いかけて、だが私は黙りこんだ。
ページに刻まれていく文字は今まで見たことがない形の物だったからだ。なのに何が書かれているのか断片的にだが理解できた。『呪霊』『指』『領域』『九相図』……聞き慣れない響きもあるが、不穏な雰囲気は感じ取れる。
やがて白紙にびっしり文字が浮かぶとリブロムは珍しく真剣なトーンで忠告してきた。
『お前、このページを読む気だろう?』
「当然だ」
『言っても無駄だとは思うが言っておく。お前流にいうと「念のため」ってヤツだ』
「なんだ?」
『このページは読むな、なにがなんだか俺にも分からんが……ヤベエ気配がビンビンだ。ぜってえロクなことにならねえと思うぜ』
本当に珍しい。リブロムがマーリン以外のことでここまで
だが、そう言われて素直に引き下がるほど聞き分けの良い私ではない。それほどまでに
『あ~だからコイツは嫌なんだ! お前みてえなのと組んだのが俺の運の悪いところだよな!』
リブロムがわざとらしく嘆く。
私はそれを無視して閉じられたページを開いた。その瞬間、まばゆい光が溢れ牢の中を真っ白に染めていった。
『な、なんだ!?』
「くっ……!」
あまりの眩さに視界が焼かれる。思わず目をつぶったその時、私の全身を妙な浮遊感が包んだ。
マーリンか!? と思ったが違ったらしい。リブロムの騒ぐ声が聞こえる。
浮遊感の次は身体が書き換えられる感覚。指先から始まったそれが爪先までめぐる頃、浮遊感がパッと消え、今度はただ重力に従って落下していく。
『まったく最高だよお前といると退屈しねえ! 言っとくけどコレ皮肉だからな!』
頬に受ける冷たい風に目を開けると、細かい星屑が散りばめられた夜空が映った。
リブロムが言う。
『お前その姿……いや、今はそんなことどうでもいいか。魔法でどうにかしねえと叩きつけられて死ぬぜ』
確かにそれはそうだ。
私は頭の中で持ち合わせの供物を思い出した……が、残念なことに落下を回避できそうな物を持ち合わせていなかった。全く、やれやれというヤツである。
騒ぐリブロムをそのままに、私は地面へ視線を向けた。都合のよさそうな柵や木がいくつか確認できた。あれらを利用してどうにかするしかない。まずは、あの鉄柵だ。
ギリギリで体勢を変えて鉄柵を蹴る。次に隣の建築物の壁、木の枝と順々に蹴りつ掴みつしどうにか地面に着地することが出来た。靴の裏から伝わる感触はいやに硬い。
『おい、周りを見てみな』
やや遅れて隣に降りたリブロムが囁くように言うので、私はここで初めてこの地の風景を見た。そして仰天した。
「なんだ、此処は……」
煉瓦が敷き詰められた地面、清流が流れ落ちる壁、敷地を囲む背の高い木々とそれらよりも遥かに高くそびえる建築物。遠くでは色とりどりの光が明滅し、夜だと言うのに多くの人々の気配を感じた。
牢とは、あまりにも違いすぎる。
空気が臭くない。
腐臭も血臭も、死の匂いもない。
代わりに、鉄と油と、どこか甘ったるい匂いが混ざっている。生きている匂いだ。
『……文明レベル、高すぎねえか?』リブロムがぽつりと呟いた。
「少なくとも、私の知る様式ではない」
地面にしゃがみ込み、煉瓦に触れる。
均一。精密。
少なくとも、私の世界ではまずめったにお目にかかれないレベルで整えられている。
「元の世界ではないな」
『随分と落ち着いてやがるな』
「混乱しても仕方がないからな」
『ケッ! 可愛げのねえ奴だな』
「もう少し観察してみよう」
私はリブロムを傍らに抱き、煉瓦の地面を踏みしめた。
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