勇者刑に処される前のドッタさんが、いつも通り自分の(サガ)を抑えきれないせいで何も知らないままに他人の人生をぐちゃぐちゃにするだけの話。

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首吊り狐の憂鬱

 交易路に面したとある宿場町。交通の要衝として盛えているこの町に大量にあるありふれた宿に、小柄な旅人が訪れていた。

 今のこの町の状況のせいで旅人はしばらく部屋の空いた宿を探し歩く羽目になっていたようで、もう日が沈み始めている刻限ということもあってかどこか疲れている様子を滲ませている。

 

「はい、毎度あり。あんたの部屋は2階を登って廊下の突き当りだ」

 

「よかったぁ……どこの宿も埋まっててさ。このまま野宿する羽目になるかと思ったよ」

 

 部屋を取ったことを保証する木札の受け渡しを済ませながら、二人は雑談を続ける。

 

「まあ、今日は特別だからな。あんたの目当ては違うのか?」

 

「知らないよ……ここに来たのもたまたま」

 

 それを聞いた宿の主人は間の悪い時期に来てしまった気の毒な旅人に親近感を覚え、ちょっとした世間話をすることにした。

 

「なああんた、"霧霊旅団"についてどんくらい知ってんだ?」

 

「何それ?」

 

「なんだ、よそから来たくせに知らないのか。ここに来るまでの関所で検問されなかったか?」

 

「ああ、やたら人が並んでたね」

 

「役人共は理由も説明してないのか。……まあ聞かれなきゃ言わないか。じゃあ教えてやるよ」

 

 主人は、旅人に少し芝居がかった口調で話し出す。どこか慣れた様子であった。

 

「と言っても奴らに関する情報はまるで集まってないんだがな。何でも常に移動を続けていて、通り道のあらゆる物を根こそぎ奪い取っちまう悪夢みてぇな盗賊団らしい。正体が一切掴めないから目撃者は全員殺されてるって噂もあるな。ついにその魔の手が隣町にも及んだとかで、ここも警戒体制に入ってるんだとよ。もしかしたら今回の祝祭が奴らの標的なのかもしれないってな」

 

「へぇ……怖いね」

 

 低い背丈に加えて童顔が相まって少年にも見える幼さを滲ませるその旅人は、本心から怯えてそう言っているようだった。どこか所在なさげにしていて、小動物的である。

 

「まっ、ここはノイルハッシュ様のお膝元だし大した悪さはできねえさ。あんたみたいな気弱な人間は絶好のカモだろうし、襲われないように気をつけろよ。……っと!そこで、ウチでは色々売っててな。まずこの外套に刻まれている聖印には……」

 

「忠告どうも」

 

 旅人はこれ幸いと始めた主人の商売口上を聞かずに去っていく。

 主人は商機を逃したことに僅かに嘆息するが、さほど残念ではない。まあ今日のところは仕方がないだろう。自分も店番が無ければ大通りで楽しんでいるところだ。

 さっきの旅人から受け取った金を帳簿に付け仕舞い込もうとしたところで、カウンターの下の棚に置いていたあるものが無いことに気が付いた。

 

「……あれっ?俺の財布は?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夜が始まったというのに眩しい大通りは人でごった返しており、ガヤガヤと賑やかな人混みを小柄な旅人──ドッタ・ルズラスは、淀みなく進む。初めて来た町だが、宿で聞いたように何やら今日は祭りの日だったようだった。

 多すぎる人混みは嫌いだ。ドッタは喧騒の中を歩きながら思う。

 単純に蒸し暑かったりうるさかったり押されたりするのも不快だが、一番はやはり盗めそうなものが多すぎるのがよくない。

 何となく歩いているだけで荷物が多くなってしまうし、盗んだ相手から変な因縁を付けられる機会も多くなる。余所者が多いので自分に注目が集まらないのは不幸中の幸いかもしれない。

 とっとと今日の分の"仕事"は済ませて、軽く娼館にでも寄ってから宿に戻ろうと思った。

 

 人気のない裏路地で、適当に調達した串焼きを頬張りながらなんとなくスッてきたものを確認する。普段なら自分のものを捨てるなんてもったいないことはしないが、今日は特別だ。このまま換金できる場所に行こうとしたら途中で持ち物が溢れかえってしまう。

 とはいえ、ドッタに大した審美眼があるわけではない。明らかに値打ちが付かなそうなゴミを捨て、飲食物は胃に収める。それだけの作業だった。

 

「うわ、この宝石偽物じゃん」

 

 盗品の中のある指輪を大通りから漏れ出る光にかざす。

 その指輪にはまっていた紅玉は輝きが鈍く、専門的な知識こそないが本物を何度か見た事があることもあってドッタの目にも贋作であることは瞭然だった。

 

 ため息を吐きながらも、かさばるわけでも無いしもしかしたら芸術的な何やらで何かしらの値打ちは付くかもしれないと思い、懐にしまい込む。……良くない癖だ。身軽であれば逃げ切れたのにほんの僅かの差で捕まってしまったことが一度あった。ドッタの盗みの腕を考えればやたらめったら盗んでなんでも抱え込むのではなく必要最低限にとどめておくべきだが、そんなことができるような性格ならドッタは泥棒なんてやっていないだろう。

 

 調達した酒を煽りながら歩き、それとなく聞きつけた情報で当たりをつけた"裏"の質屋に赴く。

 金銭そのものを盗むこともできるし、事実さっきの通りでもいくらか拝借したが、衝動的に盗ってしまったものを捨てるのはどうももったいない。売って金に換えるに越したことはない。

 

 ドッタは生きていくだけなら極論金銭を得る必要は無い。食料や衣服といった必需品はそれそのものをいくらでも無料で入手することは可能だ。しかし、宿や娼館といったサービスの恩恵を受けるにはどうしても金が必要である。

 野宿し続けることも不可能ではないが、辛い。やはりできることなら柔らかいベッドで寝たいのだ。

 

 ドッタは、祭りの警備というにはどこもかしこも守衛などの数がやけに多い物々しい雰囲気を見て、なんとなく主人から聞いた噂話を思い出す。関所の検問は遠目に見ただけで()()()()()()ため知らなかったが、親切に教えてくれて助かった。

 ドッタは自分のことをチンケなコソ泥であると自認している。そんな彼にとって、"霧霊旅団"の存在は都合が良くもあり悪くもあった。

 自分の盗みを上手いことそいつらのせいにカモフラージュできるかもしれない。その点はいい。しかし、"仕事場"が重なっているのはいただけない。もしバッティングなんてしてしまったらその日は逃げる羽目になるかもしれない。それはドッタのとある主義に反することだ。

 

 この町は早々に去るべきだろう。裏路地を進みながら、"霧霊旅団"とやらの動向を掴み次第離れる決心をした時、ドッタの耳にこちらに近づいて来る慌てたような足音が聞こえた。素早く近くの家の壁を駆け上がって屋根の上に身を隠す。

 

 しかし、驚くべきことに路地から見て死角に潜んでいたはずのドッタに向けて、高く通る声が響いた。

 

「あっ、あのっ、そこのお方!助けてください!」

 

 ドッタが身を隠しながらそちらに目を向けると、ローブに身を包んだ、おそらく少女がこちらに走ってきている姿があった。フードを被っているが顔をこちらに向けており、明確にドッタのことを認識している。

 気配を消しているはずなのに、人間の注意の向きにくい上方にいる自分に気が付いたことに強い違和感を覚えるが、起こってしまったことを気にするよりも対処法を考えなければならない。

 声を掛けられたせいで少女の追手にこの周囲にいることは感づかれる可能性が高い。面倒になった。

 

 ドッタは卓越した五感で状況を把握する。追っ手は3人……包囲されつつある。足音からして練度は高くないだろうが、それでも弱い自分には荷が重い。それにそもそも自分は前の町で追われたため急いでこの町に逃げてきた立場で、厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ。振り切るのは大した手間ではない。隠れ続けるより、もう逃げよう。

 動き出す直前、つい、癖で少女を観察してしまう。それが良くなかった。彼女の潤んだ目は、明らかにもう後が無い人間のそれであったのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「はぁ……全く酷い目に遭った……」

 

 ドッタは血の滴るナイフを拭い、懐にしまう。聖印兵器を持っている人間がいないのは不幸中の幸いだったが、流石にこの3人が少女を追う人間の全てなんてことは無いだろう。殺してしまった以上、自分が追われる身にならないためにも更なる追っ手に気づかれないよう死体を隠す必要がある。

 

 ドッタは助けを求める弱者を見捨てられない自分の性格を自嘲する。その瞬間は自分の胸中から湧き上がる良心のまま行動してしまうが、事が終わるとどうしても後悔が渦巻く。まったくお人好しがすぎた。いつも自分はこの忍耐力の無さで損ばかりしている。

 

 とりあえずの処理を済ませた後、息を潜めて蹲っている少女のもとに戻った。

 ドッタを視界にとらえ、少女は勢いよく顔を上げる。

 

「まぁ、とりあえず片付いたよ」

 

「あっ、ありがとうございました!本当に……!あなたは命の恩人です!」

 

「あぁ、うん……」

 

 目に涙を湛え、どこか期待に満ちた目で見つめてくる少女に、ドッタは曖昧に返す。

 この少女の目には自分はどう映っているのだろう。まさか颯爽と自分を救いに来た白馬の王子様なんてことはないだろうが、少なくとも3人の人間を殺すことに躊躇が無い殺人鬼でもないようだ。

 

 現実逃避の思いから飲みかけの酒に口をつける。不味い安酒だが、思考がぼやけ、少し楽になる。

 

「……君、なんで追われてたの?」

 

「それは……言ってしまうとあなたを巻き込むことになってしまいます」

 

「もう巻き込まれてるよ。あいつらを殺した時点でぼくもターゲットになるでしょ」

 

 少女は指で涙を拭うと背を伸ばして立ち上がり、緑の目でしっかりとドッタを見つめてくる。

 全身をすっぽりと覆う安っぽいローブをしているが、中に来ている服は絹製で中々高価そうなことが分かった。

 フードの中から、赤みがかった髪が覗いた。

 

「まず、名も明かさずお手を煩わせてしまった非礼を詫びさせてください。私は……フィアと申します。家名はご容赦いただきたく……」

 

「……別に何でもいいけど……ぼくはドッタ・ルズラス。しがない旅人だよ」

 

 その堂々した態度や身なり、家名を伏せる名乗りから、逃げ出した娼婦などではなく貴族かなにかであろうことを理解したドッタは憂鬱な気分になる。普段から貴族の屋敷などに潜り込んで盗みを働いている立場であることを棚に上げ、厄介事に巻き込まれたという思いが脳内のほとんどを占める。

 助けたこと自体は後悔していないし、フィアと名乗る少女自身を恨むことこそしないが、自分が攻撃されるとなればそれは嫌だ。

 

「それで、逃げてたんだし急いだら?まさか何も当てがないなんてことは無いんでしょ?ぼくは一人ならどうとでもなるから、心配しなくてもいいよ」

 

 ドッタは期待半分でそう言いつつも、これで解散なんてことにはならないだろうなというある種当然の予感は持っていた。

 

 そして当然のように、それは的中する。

 

「本当に差し出がましいことだとは私も思っているのですが……私を町から連れ出していただけませんか……?一生面倒を見ろなどとは当然言いません。他の都市まで辿り着ければ、私は生きていく算段はあります」

 

 遠慮がちだが引く様子の無いフィアをどこか白眼視しながら、ドッタは呆れ気味に返す。

 

「君さ……自分で言うのもなんだけど、ただ急に声を掛けられただけで追手を殺すような人間に頼るのはおかしいよ。ぼくが君を追っている連中よりもまともだっていう保証もないと思うけど」

 

「しかし、あなたは事実私を助け出してくれました!それに、何も知らない流れ者だからこそ頼れるということがあるのです。……そして、あなたが私を犯して殺そうが奴隷として私を売り払おうがそれは奴らに捕まるよりはマシな未来だと思います」

 

「……流石にお花畑すぎることが無くて良かったよ。そりゃ、立派な心掛けだね」

 

 ドッタはよく見た目でナメられるが、フィアがそこから自身を悪人でないということに賭けているわけではないようで、ほんの少しだけ安堵するような心境になる。侮ってくる分にはいいが、現実が見えてない人間の相手をするのは疲れる。

 半ば脅すようなドッタの口ぶりにも、フィアは怯むことなく答える。

 

「……私は勘のいい方ではありませんが、あの時あそこにドッタさんがいるということになぜか気づいたのです。こんなこと都合がいい妄言だとも思います。しかし、運命というものがあるならここであなたと出会ったことに違いないと思うんです。ですから、どう転ぶとしてもあなたに頼りたいと……そう思ってしまうのです」

 

 酒を飲み切ってしまった。瓶を適当に道に捨てる。

 

 ドッタは逃避先が無くなったため、嫌になって天を仰ぐ。

 素性も分からない裏路地の他人に助けを求めるということは、フィアは本当に後が無いということだろう。良心が再び鎌首をもたげてくる。ため息を小さく吐くと、フィアの肩がビクッと震えた。

 自分なんかに見捨てられることに怯えている──それがドッタの中で決定的だった。

 

「……いいよ。まあ、ぼくも早々にこの町は離れる予定だったし」

 

 断ることができない。ドッタの衝動は、いつだって彼自身にすらコントロールできるものでは無いのだ。

 

「ありがとうございます!……ぐぇっ!?」

 

 フィアが頭を下げた瞬間、何者かがこちらに近づいている気配を感じたドッタは、フィアを脇に抱え走り出す。

 

 失敗する盗みはしない。一度盗むと決めたら、絶対に盗み出す。それがドッタの主義である。それはもしかしたら、盗みの腕しか持ち合わせていない彼にとって誇りともいえることなのかもしれなかった。

 自分より小柄な少女一人を町から盗み出す。その程度なら、ドッタからすれば大して難しくない仕事だった。

 

 とっとと終わらせることを決意しながら、ただ、部屋を取っていた宿代がもったいないな、とだけ思った。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その日、宿場町を支配するノイルハッシュ家当主、クゼルケン・ノイルハッシュはあまりの仕事量に忙殺されていた。

 自分は傑物ではない。だが当然明日の儀式に向けた準備はもちろん前夜祭たる今日の祭りのためにも多くの手を打ってきて、例年通りなら問題は無かったはずだ。ほんの一月前の巫女殺害事件はあったが、それも代役のフィアを立てることはできた。しかし、当日になってのフィアの脱走はあまりにも想定外だ。

 厳重に施していた対策を破るということは、内部の人間の手引きがあったとみるのが妥当である。しかし、その裏切り者のあたりが付かない。

 あらゆる心労が舞い込んでいる状況だが、なにはともかく当面の目的として、ひとまずフィアの身柄の確保が急務であった。

 絶対に、明日までに連れ戻さなければならない。

 

 秘書が手首の聖印に触れ、悲痛に眉を寄せる。

 なにがあったのかと目を向けると、口を開いた。

 

「お嬢様を連れ戻そうとしていた警備兵の消息が途絶えました……!」

 

「何……つまり奴らが裏切ったのか……?」

 

「いえ、おそらく手引きした者の仕業と思われます」

 

 ここで終わってくれればいいと思ったというのに、と歯噛みするが流石にここだけで終わるとは思っていなかった。本命はまだ残っている。

 だが、悪い知らせというものは重なるものである。急いだように飛び込んできた使用人が叫ぶ。

 

「報告です!お嬢様捜索のために使用する手筈だった"微睡みの紅"がありません!」

 

「なッ……!?倉庫の鍵は私が保管していたのだぞ!?今日のこの瞬間まで消えることなどありえん!」

 

「ですが、事実存在していないのです……!」

 

「盗まれたということか……!?」

 

 ここまでの大規模な犯行、単独犯ではありえない。

 犯行から確実に存在しているはずなのに末端に至るまでその尻尾を掴むことができない、幻のような盗賊団の噂……それら全てが繋がり、確信へと変わる。

 

「我が血族の宝を盗んだのは、"霧霊旅団"か……!兵の配置を急げ!今夜は一人たりとも外に出すな!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ある男は、困惑していた。

 フィアの脱走の手引きをしたまではいい。事実彼女を自発的に軟禁状態から抜け出させることに成功した。

 

 しかし、想定外なことに思ったよりも自分が自由に動けるようになるまで時間がかかった。

 様々な手回しをして町を歩き回る必要があり、さらに自分に見張りも撒く必要があったからだ。

 そしてようやく急ぎフィアの足取りを辿ったところ、とある路地裏で忽然とその痕跡が途絶えていたことは、最悪と言ってもよかった。

 

 男は不可解であると考える。

 元より追手が存在することは予想していたが、傷つけることはできないため手間取ることは予想されたし、奴らが回収して屋敷に連れ帰るより早く追いつけるはずだった。

 

 最も有力な可能性としてあちらの動きが想定よりも早く、迅速な対応で連れ戻されたというものだが……聖印の反応からしてなぜか、ノイルハッシュ家の動きも止まっていない。そして、3人いたはずの追っ手も露と消えている。

 近くにあった新鮮な血痕からして、何か異常事態が起きていることは明白だ。

 

 捨てられた空の酒瓶がすきま風に煽られ転がって高い音だけが、その空間に不気味に響いていた。

 

「一体、何が起こっているんだ……?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ドッタは、屋根の上や入り組んだ路地を手足に仕込んだ鉤爪を器用に引っかけながら身軽に翔ける。

 その身のこなしは遠目に見ればまるで獣か異形(フェアリー)のようであった。

 

「あ……あの、ドッタさん?」

 

「何?」

 

「な……なぜ北に向かっているのですか?町の中心部ですが……」

 

「え?うーん……えっと、多分今この町に張られてる警備は君を捕らえるためのものだから……だと思う」

 

 ドッタは盗みを働く際、盗みの手際のみならず自身の体すらも隠匿する神がかった潜伏能力を発揮する。しかし、ドッタ本人は思考のプロセスを経てではなく感覚的にそれを行っているため、言葉で説明することはほとんどできない。何となく、どうすれば見つからないかがわかるのだ。

 

「……なるほど、厚い警備を突破するより遠回りでも北方の森を抜けるというわけですか。浅慮で口を挟んでしまいもうしわけありません」

 

「ん?ああ、うん。そう、そうだよ」

 

 ドッタは説明する気がないどころかフィアの話自体を適当に聞き流しているため、雑に相槌を打つ。

 抵抗されて暴れないならそれでいい。おとなしくさせるために首を絞めたりするのは流石に気が進まないものだ。

 

 ドッタに計画というものは存在していない。その時、ふと走るのに疲れてきたし野宿を続けるにしても近場の都市まで何日も二人で歩き続けるのは現実的じゃないな、と思った。

 

「ねぇ、君さ。馬には乗れる?」

 

「はい。経験はあります」

 

「じゃあ適当にあげるから、途中からはそれで逃げて。ぼくも工作は手伝うから」

 

 ドッタは適当な馬が盗めそうな馬房のある屋敷に近づいていく。裏手が森に近いのも都合がいい。やけに人の出入りも激しいし、ちょっと馬が一頭か二頭消えてもすぐには騒がれないだろう。

 すると、移動の衝撃に耐えるために体を小さくしていたフィアが顔を上げ、こちらの服をより強くつかんできた。

 

「……ん?あの、ドッタさん……」

 

「どうしたの?」

 

「えっ、いやえっと……あなたは私のこと知ってたんですか?」

 

「そんなわけないじゃん……急に何?」

 

 急にもがきだしたフィアに困惑しつつも、ドッタが足を止めることはない。

 フィアも、何が起こっているのかまるで意味が分からなかった。売り渡すつもりなら追手を殺すなんて敵対することはするわけない。身代金目当てなのか?それにしてはあまりにも手口が杜撰すぎる。

 

 お互い頭に疑問符を浮かべながら、ドッタとフィアは飛び込む。この町で最も大きい、ノイルハッシュ家の屋敷へと。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ノイルハッシュ家に警鐘が鳴る。

 クゼルケンは頭を抱えてしまいたかった。

 

「何者かが屋敷に侵入しました!当主様、こちらへ」

 

「霧霊旅団の手のものか……!?注目を外へと集めここの私兵を引き払わせて盗みを働く算段か……」

 

「今は狙いなどの推測は後回しにすべきかと。急ぎ隠し通路から……ぐあっ!?」

 

 雷杖の光が、秘書を貫いた。

 その現実に頭が追いつかないでいると、飛び込んできた男がクゼルケンの体を蹴り飛ばす。

 

 侵入者がもうこの部屋まで到達したのかと思ったが、違う。

 知った顔だった。

 大型の雷杖を担いだ、少し前に責任を取るためにノイルハッシュ家の使用人でなくなった男。

 

「トルム……なぜ……暇を出した私を恨んでいるのか……?」

 

「いえ、あなた自身はそこまで。ですがこの家の栄光は、今日で終わりです。最後に一つだけ……"微睡みの紅"は、どうやって俺から回収したんですか?」

 

「……?何を……お前が……」

 

「知らぬと言うなら、それもいいです。拷問する時間が稼げると思っているのなら残念でしたね」

 

 閃光がクゼルケンの体を貫く。

 心臓が消し飛ばされ、即死であった。

 

(この小心者の男は確実に手元に置きたがる。"微睡みの紅"は一体どこに……)

 

 ひとまず当主の死体を漁り始めたとき、部屋の扉が開け放たれる音がした。

 もう状況を掴んだのかと雷杖を持ってトルムが振り返った時、そこに立っていたのは──。

 

「えぇ……何これ?」

 

 その場の誰も知らない男の呑気な声が、緊張した空間を上滑りした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ドッタの言葉に対して男は一瞬眉をひそめたが、脇に抱えた少女の姿を見て、驚愕に目を見開く。

 

「フィア様……いや、そうか。そりゃあ、ここに来るに決まっていますか……」

 

「いえ、ここに来たのは完全に想定外というかドッタさんのよく分からない行動と言いますか……ともかく!理由はどうでもいいのです」

 

 フィアが抱えるドッタの手を叩く。

 ドッタが下ろしてほしいということだと解釈して手を離すと、フィアは少しバランスを崩しながらも立ち上がって男に相対した。

 

「トルム……どうしてあなたが、クゼルケンを……」

 

 ドッタはフィアが男の名前を知っている様子を見て、呆れたような安堵したような間抜けな顔をする。

 

「あぁ、やっぱり知り合い?味方ならもう任せたいんだけど……」

 

 ドッタは全くもって事情を掴めていない。文字通りその場からいなくなってしまいたかった。

 

「……いえ……彼は、私の姉の世話係をしていた男だったのですが……」

 

 トルムは、ゆっくりと手に握っている雷杖の先を地面に転がる死体からフィアたちに向ける。

 一触即発の空気だった。

 

「"祝祭"は、今回で終わらせます」

 

「……奇遇ですね。私も、同じ思いです」

 

「それは結構。ですが……あなたがこの町から消えるだけじゃダメだ。血が残ることは火種になる。完全に終わらせるためには巫女の首が必要なんですよ」

 

「まさか……!あなたが姉さんを……!」

 

 

 

 

 

(なんか……思ったより長いな……何でぼくがこんな奴らの因縁に巻き込まれなきゃならないんだ?)

 

 ドッタは、ボーッとしていた。

 フィアが言葉で説得してくれるならそれが一番楽だと思って静観しているが、欠片も自分が知らないお家事情を話されても眠気以外湧いてこない。

 仕方なく割って入ることにした。

 

「あのさぁ!要するに敵ってことでいいの?」

 

 ドッタが声を張ると、両者とも毒気を抜かれたような表情をするが、すぐにお互い気を取り戻す。

 

「えっ?えぇ……まぁ、はい」

 

「……酷いですね、味方ですよ。あなたを運命から救う、ね」

 

 その言葉を言い切る直前、ドッタが即座にフィアを突き飛ばす。瞬間、元々立っていた場所に閃光が走った。

 ドッタはそのままの勢いで男に飛び掛かる。袖からナイフを取り出して首を狙うが、腕を抑えられる。

 

「めんどくさいなあもう……!」

 

「お前は誰なんだよ!」

 

 フィアは倒れた際に打った頭を押さえながら、自分のために戦うドッタに向けて声を上げる。

 

「ドッタさん!私のことはいいから逃げて……」

 

「そういうわけにはいかないよ!」

 

 弱者を見捨てる人間は、最低最悪のクズだ。それになりたくない、というのはある。だが、それだけではない。

 

 他人に命令されたでもなく、自分でフィアを盗み出すと決めたのだ。他者に理解されるとも思っていないが、だからこそ自分自身のため絶対に盗み出さなければならない。

 

 力比べでは敵わないと判断してドッタは一旦距離を置き、大きな窓に背を向けるように立つ。

 

 一瞬の緊張の後にトルムは雷杖を放った。

 再びドッタは機敏に身を躱し、雷杖の一撃を躱そうとする。

 だが、トルムはそれを計算し偏差撃ちしていた。

 

「ぐっ!」

 

 動きの方向はともかく速度はトルムの予想以上だったためか直撃はかろうじて避けたが、ドッタの脇腹を掠める。

 ドッタは勢いを殺すために回転しながら背後にある窓から落ちていった。

 

「ドッタさん!」

 

「動かないでください」

 

 フィアはドッタを案じて窓から身を乗り出しそうとするが、トルムに雷杖を構えられ足を止めざるを得なくなる。

 

「あの程度の人間しか頼る者がいないとは、無様なものですね。あんな得体の知れない奴の心配をしていてよろしいのですか?」

 

「……見ず知らずの私を助けようとしてくださったあの方を侮辱しないでください」

 

 トルムはそれを聞いて小さく鼻で笑う。

 下心込みでも助けてくれる人間があいつしかいなかったというだけだろう。

 

「失礼。……フィア様、残念ですよ。あなたなら理解し、素直に首を差し出してくださると思っていたのに……」

 

 毅然と睨みつけてくるフィアに向けてトルムが雷杖に指をかけたその時──明かりが消えた。

 

 何かの影が絨毯の上を流れる。足払いで体勢を崩されたトルムは受け身を取って立ち上がるが、既にフィアは目の前から消えていた。

 

 月明りしか頼るものの無い暗闇で、うっすらと動いているのが分かった。

 扉が僅かに軋む音がする。マズい。

 

 まるで無から現れたかのような謎の存在。

 トルムは追いかけながら声を張る。心からの叫びだった。

 

「……貴様、何者だ!?一体なぜここにいる!?」

 

「知らない!そんなのぼくが聞きたいよ!」

 

 返ってきたのは、静寂と暗闇に似つかわしくない、高い少年のような声だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 先ほど不覚を取ったように、ドッタは性格的な問題もあり正面戦闘において戦闘訓練を受けた人間と比べて特別強いということはない。

 しかし、遮蔽物が多い闇夜に覆われた屋敷という環境においては熟練の兵士にも引けを取る存在ではなくなる。

 

「どこだ……!"霧霊旅団"……!」

 

 階下からの人間の声がする。

 

 元々フィアを抱えている時にもちょっと盗んでいたが、部屋に戻ってくるまでに適当に盗みまくって改めて自分の存在を喧伝しておいた。

 

 ドッタは人が集まっている踊り場のシャンデリアを叩き落とし、視界を奪いながら派手な音を立てる。

 

 それに反応してやたらめったらに雷杖の射撃が自分を襲うが、狙いがあっていないあてずっぽう程度は回避できる。

 背後から追ってきたトルムを撒くのが主目的だ。

 

 しかし、雷杖の弾幕の中でも、トルムは淀みなくドッタのことを追ってくる。

 

「残念だったな、この屋敷のことなら目を瞑っていても分かるんだよ……!」

 

 トルムの声と同時に正確な射撃が飛んでくる。暗闇ではドッタの目も常人よりかはもちろん働くが、それでもある程度は勘で補わなければならない。そういう意味では、条件は同じと言ってもいいのかもしれなかった。

 

 耳元を擦過し、痺れるような感触とともに喉元からせり上がってくる悲鳴をドッタは噛み潰す。ドッタは臆病な性格だが、危機的状況で騒ぐようなことはあまりしない。

 もし騒げば誰かが助けてくれる可能性があるというならいくらでもみっともなく喚き散らす自信はあるが、物心ついた時から自分一人で生きてきた中で、助けに駆けつける他人などいた試しがない。

 

 結局のところ、自らの力で何とかするしか無いのだ。

 

 耳を掠めたトルムの射撃で進路の階段が破壊される。しかし、ドッタは止まることなく半壊した階段に飛び乗った。

 トルムはそれも計算ずくだったようで、足元目掛けて既に雷杖が放たれていた。直撃こそしなかったが空中に放り出される。

 

 これではいい的になると思ったドッタは類稀なる身軽さで瓦礫を蹴り飛ばして体を中空で回転させ、軌道を変える。直後放たれた射撃を回避し、転がるように着地した。

 

「おえっ……!ぐうぅっ……!」

 

 しかし、その時の衝撃でドッタの腕の中のフィアが激しい空中軌道に遂に耐えきれず嘔吐してしまう。口元を抑えて激しく咳き込んでいる。

 仕方なかったとはいえ、突き飛ばした時に身体を打って脳が揺れたのもあるだろう。

 まずい、とドッタは思う。これ以上フィアに負荷をかけることはできない。抱えて逃げるにも動きは制限されてしまう。

 それにフィアの声で場所も当然バレる。

 

 ドッタはぐるっと一周して当主の部屋に戻ってきた。元よりなんとなくこの部屋が一番逃げやすそうだったから向かっていたこともあるし、まさか戻るとは思われず撒けることを期待していたが、当然後ろから追いかけてくる足音がする。

 

 男の狙撃杖の腕前は見ている。窓から逃げようにも背を打たれるのは自明だ。

 それに相手の立場はよく分からないが、ここは大きい貴族の屋敷だ。時間が経てば経つほど増援が来る可能性も上がる。蓄光塗料を全て消費させるまで逃げ続ける、というのも現実的ではないだろう。

 早々にあの男を退けなければ、ドッタは生き残れない。

 

 逃げることで作った僅かな時間でドッタはフィアをその場に降ろし、彼女に光っている紅玉が嵌った指輪を預ける。自分という存在を限りなく悟られなくするためには、それは邪魔だった。

 ──この日、フィアは驚いた表情をよくする羽目になったが、この瞬間が今日一番であることが明確なほど目を丸くし、呆気に取られた。

 部屋に飛び込んできたトルムも、暗闇に浮かび上がる紅色には覚えがある様子だった。

 

「えっ、これ……」

 

「貴様……俺から"微睡みの紅"を盗んだのか……!?いつ、どうやって……!?」

 

 トルムの方はともかく、フィアもドッタのことをどこか猜疑に満ちた目で見てくる。

 二人の豹変ぶりに、ドッタも困惑する。通りでいつのまにやら盗んでいただけの品にやいのやいの言われても困るというものだ。

 

「えっ?なっ、なにそれ?ぼくはそんなの知らないよ!?」

 

「知らないわけあるか!なら、なぜフィア様にそこまで肩入れする!」

 

 しかし、この家に詳しい自分が何も知らない人間がここまでの超人であらゆる鍵を手にしておいて、なにも理由が無いなど、トルムにはどうしても信じられなかった。心の底からの叫びだった。

 

「なんでって……」

 

 ドッタは思う。どうしてそんなこと気にするのか?撃たれた脇腹が痛い。本当になんでこんなことやってるんだっけ?

 この男の言う通り、大通りで赤い宝石を盗んだからか?それともフィアに何かの価値があると思ったからか?

 ……いや、当然どれも違う。

 

「路地裏でフィアが、ぼくなんかに助けを求めてきたから……」

 

「……は?」

 

 空気が、一瞬緩む。

 

 その理由は分からないし予期していたわけでもないが、脊髄反射でドッタは地面を滑るように飛び出す。

 刹那、ドッタの存在はあらゆる人間の認知から外れた。横にいたはずのフィアですら、ドッタが瞬間移動でもしたのかと錯覚した。

 足音も、衣擦れも、息も、あらゆる音を世界に溶け込ませ、ドッタが発しているものだと認識することができない。

 適した環境と極限状態のドッタの集中が合わさったことが成せる神業であった。

 

 トルムは、それを理解した瞬間意識を即座に切り替え、自らの急所に集中する。装備は確認している。雷杖は所持していなかった。確実に殺すためには近づいてくる必要がある。

 

 一撃貰ってやってもいい。肉を切らせて骨を断つ。その存在を認識した瞬間、確実に打ち抜いてやる。

 

 緊張で、冷や汗が出た。僅かに手元が湿る。

 その瞬間、手の中の雷杖がまるで生きているかのように蠢いた。

 

「はっ、なぁっ!?」

 

 否、錯覚である。

 ドッタが至近まで来てその存在を気取られることすらなく、雷杖をスリ取ったのだ。

 

 そのままやたらめったら男に向けて連射する。

 

「なんでぼくがどうしてこんなに頑張らないといけないんだよ……!」

 

 ドッタの下手くそな射撃は致命には至らなかったが、側頭部とあばらをかすめ、右足と左足に命中した。

 トルムは呻き声を上げて地面に転がった。

 

「急ぐよ!」

 

「えっあっ……」

 

 ドッタは返事も待たずフィアを抱えて男を飛び越え、窓から飛び出し、落ちるように壁を駆け下りる。

 トルムが激痛に軋む体を雷杖を支えに奮い立たせて窓の外を見ると、馬を走らせる影を捕らえる。

 

 ──雷杖は一発分残っている。距離からして届くかは分からない。光も月明りしか無く、震える体で正確な狙撃などできるはずもない。だが、やらない理由にはならない。

 

「くたばれ……盗人が……!」

 

 トルムが指をかけたその時、背後から衝撃があった。

 自分の体が大きく吹き飛ばされ、半身が弾け飛んでいることが分かった。

 

「当主様の仇……!」

 

 トルムは自分を取り囲むノイルハッシュ家の私兵を見る。……殺しもやった。恨みを買っている自分が死ぬのはいい。だが、あいつは誰かが止めなきゃいけない。

 まだ息があるということがわかると、詰問する声が飛んでくる。

 

「恩を忘れた裏切り者が!巫女をどうした!答えろ!」

 

 ドッタを追っていた屋敷の人間が言っていた呼び名を思い出す。か細く震える声で、トルムは最後の言葉を絞り出した。

 

「"霧霊旅団"……あれは、怪物……」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 しばらく馬を走らせ、進んでいく。追手の気配は無い。

 

「こ……この馬は一体?」

 

「さっき落とされた時に馬房が見えたから……戻ってくる前にいい感じの場所まで動かしておいたんだよ。……ごめん、そこそこ距離を稼いだしぼくはここまでにする……」

 

 フィアの体に屋敷でスったいくらかの水と食料を器用に結びつけると、ドッタはフィアから手を離す。馬から転がり降りその場にへたり込んで地面に寄りかかりながら荒い息を吐く。

 

「ド……ドッタさん!?大丈夫ですか!?」

 

 フィアが馬を急ぐように止め、ドッタに心配するように駆け寄る。

 ドッタは止まったことを咎めるように手を振って追い返す素振りをした。

 

「わっ、悪いけど、この先は君だけで逃げて……。怪我もしてないしなんとかなるでしょ……!ぼくはわざと痕跡を残して引き付けるから……」

 

 ドッタは脇腹からの出血を手で押さえながら怪我の具合を測る。

 ドッタの見立てでは、この怪我なら死にはしない。宿場町に戻ることはできないだろうが、近くの村までの地理は頭に入っている。少し休んでからそこで適当な薬屋からちょろまかせば十分だと思った。

 

 そんなことは露知らないフィアは逡巡する。ドッタを助けるべきなのか、自分の身一つで遠くへと逃げるべきなのか……。

 

「ぼくは大丈夫……というか、一人の方がいいから気にしないで……本当に……」

 

 その言葉を聞いて、自分なんぞがドッタの気遣いをしているということの荒唐無稽さを自覚する。ドッタの実力からしたら自分ごとき足手まといだろう。

 フィア自身も疲労がたまっているからか咳き込みを何回かする。……ドッタのことを気にしている場合ではないだろう。

 

 馬に乗ろうとしたが、足が止まる。

 時間は惜しいが、これが最後だと思うとフィアはどうしても感謝の思いを抑えられなかった。

 

「ドッタさん……もう二度と会うことはないでしょう。あなたのことは忘れません」

 

「そう。ぼくとしては、あんまり君のことを思い出したくは無いけど……」

 

「……そんな寂しいことをおっしゃらないでください。……この恩に報いることが何もできず、本当に申し訳ありません」

 

 ドッタは疲労で靄がかかった意識の中で、フィアの態度を煩わしく感じる。

 報酬なんてあると思っていたわけでは無い。ただの親切に対して恩だのなんだの、本当に面倒だ。

 だが、フィアの自責するような顔は、それはそれでドッタの良心に訴えかけてくるところがあった。

 

「じゃあさ……キスでもしてほしいな……君のせいで娼館行きそびれちゃったし」

 

 ドッタは青い顔にどこか冗談めかした笑みを浮かべて言った。

 呆れて早くどこへなりとも行ってほしい。これでもし追いつかれなんてしたときは、自分の苦労が無駄だったということになってしまう。

 

「……その程度のことでいいなら、いくらでも」

 

「え?」

 

 二人の唇が重なる。

 

 少しして、口が離れるとドッタは豆鉄砲を食らったような顔で口を遊ばせている。

 超人的な身体能力を見せてきた姿とはアンバランスでどこかおかしくて、愛らしいと感じてしまった。

 

 今さらながら自分のやったことが気恥ずかしくて、俯きながら最後となる言葉を紡ぐ。

 

「ドッタさん、もし私たちの道が再び交わることがあるなら……その時は絶対に助けになると誓います。何も無くなった私の人生の意味はそこにあると思うのです」

 

 フィアは俯いたまま、手元の紅玉が嵌められた指輪を見る。

 

 これをドッタが持っていたことで、自分たちは巡り合うことができたのだろう。

 フィアの巫女の家系に伝わる紅玉と翠玉はお互いに引きあう性質がある。

 

 この聖印が内部に刻まれた紅玉は姉に与えられたものだ。これが手元に戻ってきたなんて信じられない。

 感極まるような思いで言葉を紡ぐ。

 

「ドッタさん……あなたは私にとって……」

 

 紅玉に灯っていた赤い光が消える。

 

「……え?」

 

 フィアは当惑に包まれ、言葉が止まる。

 対となる翠玉は、ノイルハッシュ家に探られる前に飲み込んだ。自分の体内にあったはずだ。

 

 ──そういえば、屋敷で嘔吐してから喉に違和感があった。しかし、さっきまでしっかりと光っていたのだ。この短時間で紛失するなんてありえない。

 

 ……この短時間で気付かれずに物を遠くへと移動させることができる人間。

 

(いや、そんなわけ、まさか……!)

 

 そう思ってフィアが顔を上げた時──ドッタ・ルズラスの姿は音も痕跡すら残さず消え去っていた。

 

 ……あの時、嘔吐してしまったのは完全なる想定外だった。いやそれよりも、口付けする場所を決めたのはこちらだ。だから、ドッタが盗ることを計画していた訳は無い。だが、それでも彼女は下手人が彼であることを確信した。

 

 フィアは吹き出してしまう。少女の鈴を鳴らすような笑い声が、朝日に照らされながら響いていた。

 

 あの翠玉は自分を縛り付ける鎖であるが、誇りでもあった。

 家族の形見を取り戻し……そして、最後の言葉を伝えるため。

 

 

 

「ドッタさん……いずれ、必ず。あなたから取り返してみせます」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「はぁ……この指輪の翠玉、聖印仕掛けか……正規から値が下がるから嫌なんだよなあ……」

 

 ドッタはふらつく足取りで歩きながら、酷く落胆していた。手の中には唾液に濡れた指輪がある。

 フィアの口腔内から盗んだ指輪の宝石は、内部に聖印が施してあった。指輪を太陽にかざすが、輝きは鈍い。さっきまでは輝いていたのだ。消えたあたり何か細工があるのだろう。

 明確な聖印の効果を適切に知っているならともかく、純粋な宝石としての価値は下がる。

 

 ……元々、フィアから何かを盗む気など毛頭なかった。

 自分より明確に弱者だと思ったからだ。

 

 ──だが、最後の最後。キスする直前、光の反射で口腔内に宝石があることに気づいてしまった。そして、フィアはもう気丈になっていて、自分の手を借りなくても生きていけそうだった。

 だから、つい盗んでしまった。まあいいだろう。命を救ったのだからこれくらいは手間賃として認めてほしい。

 

「いくらになるかな……いや、流石にここらでは売れないか」

 

 ドッタにとって、その宝石に対する関心など無に等しい。おそらくフィアの家系の何かであることは容易に想像がついたことから、彼らの足が付かないほど遠くに移動してから売ることに決め、懐にしまう。

 ただ……文字通り()で盗んだのは流石に初めてだった。そこに関しては、少し得意な気分になる。

 

 

 

「……そう言えば、"霧霊旅団"ってなんだったんだろう……」

 

 

 

 ドッタはそれから間もなくして、翠玉を売る前に4度目の捕縛をされることになる。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「とりあえず全部出せ!」

 

 ドッタは、暴力の化身たるザイロ・フォルバーツに脅迫されていた。

 

 ドッタが勇者刑に処されるに当たって、彼の私物は当然全てが没収された。彼が体の隅々に隠していた貴金属やら宝石やらその他諸々のあまりの量は多くの人間を驚愕させ、それらは分かる範囲で持ち主に返還し、残りは教会の預かりとなっていた。

 先日、ザイロの命令で教会に潜入して工作を行った際のどさくさでドッタはそれらを懐に収めたのだが、いつも通り横にいたトリシールがそれを見咎めてザイロに密告したのだ。

 

「元々はぼくのものなんだからいいでしょ!ぼくがいないと成り立たない作戦だったんだから、ちょっとくらい役得があったってさあ……」

 

「なにがお前のものだ、全部盗品だろうが。それに装飾品なんてお前だって金としての価値しか求めてないんだろ?ベネティムを使って適当に高値で売らせるか物々交換のタネにでもして、少しでも足しにするぞ」

 

 ドッタもこうなったザイロから逃げられるとは思っていない。全身の骨を折られる前に降参するべきだ。

 どれも大した思い入れがあるわけでもない。どこかしらの貴族だか商人だかの家に入って手に入れた他愛もない品々だ。

 手品のように服のあちこちから次から次へと湧いてくる金目の物をザイロは呆れたように眺めていたが、ドッタが一瞬動きを止めたのを見て意外に思う。ドッタがまともな感傷を持ち合わせてるとは思いも寄らないからだ。

 

「どうした?」

 

 翠に輝く宝石がドッタの手の中にあった。

 

「……さぁ?なんだったっけ?」

 

 ドッタは僅かにその宝石について記憶を巡らせたが、特に何も思い当たることは無い。

 ただ、その硬い宝石には似つかわしくない何か柔らかい感触だけが、彼の記憶の片隅によぎっていた。

 

 

 

 少し後に、ドッタの元に再び『昔助けた虫の化身』が現れるのは、また別の話である。


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