白い砂浜が、どこまでも続いている。
空は白く霞がかり、雲があるのかどうかさえ曖昧だった。
上も下も、遠くも近くも、すべてが白に溶けている。
けれど不思議と暗くはない。
太陽は見えない。
ただ、太陽に似た光源がどこかに存在しているのだろう、世界は均等に照らされていた。
眩しさはある。
だが熱はない。
肌を焼くような痛みも、汗を滲ませるような温度もない。
影は薄く、輪郭だけが柔らかく滲んでいる。
そして何より――音がない。
風の音も、波の音も、鳥の声も。
何も聞こえない。
匂いもしない。
潮の香りも、砂の乾いた匂いも、空気の匂いすらない。
あるのは白さだけだ。
ここがどこなのか、私には分からなかった。
時間も、距離も、方向も。
全部が曖昧で、境界が溶けている。
それでも足元の砂は冷たく、粒が指の間をすり抜けていく感触は確かに現実だった。
だから夢ではないのだと、思った。
――死んだはずなのに。
梔子ユメは、白い砂浜に立っていた。
どれくらい前から立っていたのかは分からない。
ここでは時計の針も、心臓の鼓動も意味を持たない。
歩いた気もするし、座っていた気もする。
泣いたような気もするし、泣いていない気もする。
ただ胸の奥に残る鈍い痛みだけが、私が「私」である証拠だった。
私は死んだ。
その事実だけは揺るがない。
なのに私はまだここにいる。
何もない白い世界を、ただ歩く。
行き先なんてない。
目的もない。
けれど止まれば、きっと私は私でなくなってしまう気がした。
歩いていると、ときどき遠くの空気が歪むことがある。
蜃気楼みたいに、白い景色が波打つ。
その歪みが見えたとき、私は少しだけ身構える。
――来る。
何が来るのかは分からない。
けれど身体がそう覚えていた。
次の瞬間。
空がざわりと揺れた。
音はないのに、空気が変わるのが分かる。
白い世界が急に冷たくなる。
そして。
降ってきた。
雨だ。
スコールのような激しい雨が、唐突に砂浜を叩きつける。
雨粒が肌に触れる感覚だけが、妙に生々しい。
冷たい。
けれど痛くはない。
雨は一瞬で全身を濡らし、髪を重くし、服を貼りつかせる。
砂浜の白は、雨粒で一瞬だけ濃淡を持ち始める。
音がないのが、余計に不気味だった。
ザーザーと鳴るはずの雨が、ただ無言で落ちてくる。
世界が黙ったまま、濡れていく。
私は立ち尽くす。
逃げ場なんてない。
この砂浜に、屋根も壁も存在しない。
雨はただ降り続ける。
どれくらい降ったのか分からない。
時間の感覚はここでは意味を持たない。
けれど突然、雨は止んだ。
まるで最初から降っていなかったかのように。
空気が元に戻る。
白い世界がまた静寂に包まれる。
私は息を吐いた。
濡れたはずの身体はすぐに乾いていく。
髪の重さも消えていく。
雨が残したものは、砂浜の上の――水溜まりだけだった。
透明で、深くて、底が見えない水溜まり。
水溜まりというには広く、湖というには小さい。
砂浜の中にぽつんと浮かぶその水面は、不自然なほど滑らかだった。
風もないのに揺れ、波紋が勝手に広がっていく。
私はその前に駆け足で向かい膝をつく。
雨が生んだ水溜まり。
まるで誰かが意図的に置いたみたいに、そこだけが異質だった。
そして気づく。
そこに映っているのは、空でも砂でもない。
知らない景色だった。
水面の向こうに、街がある。
建物があり、人が歩き、車が走っている。
けれど――音は届かない。
そこにあるはずの喧騒は、ガラス越しの映像みたいに静かだった。
私は息を呑んだ。
これが何なのかは分からない。
こういうものが、現れたことは今までなかった
しかし私は気付いた、これは現世を見せてくれるものだと
水面は揺れ、映像が鮮明になる。
そこに映っていたのは――砂漠だった。
黄土色の大地。
乾いた風。
遠くの瓦礫。
そして、六人の影。
私は瞬きをする。
そのうちの一人に、視線が吸い寄せられた。
帽子を被った少女。
薄い金髪。
眠たげな目。
だるそうに肩を落としている。
――ホシノちゃん。
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
ホシノちゃんが、生きている。
それだけで胸が詰まる。
息ができなくなる。
でも、彼女の周りには知らない人たちがいた。
狼の耳を持つ少女。
猫の耳を持つ少女。
明るいベージュ色の髪を持つ少女。
メガネをかけた少女。
そして、ひとりの大人。
先生、と呼ばれている存在。
彼らは砂漠の中を歩いていた。
全員、スコップを持っている。
銃は背負ったり、ホルダーに収めたりしている。
まるで遠足みたいに見えるのに、装備だけが物騒だった。
先生は紙を広げていた。
プリントされた地図だろう。
自信満々に指で位置を示し、先頭を歩いている。
だが――少しだけ様子がおかしい。
先生は時々立ち止まり、首を傾げていた。
地図を見て、周囲を見て、また地図を見る。
迷っている。
私はそう思った。
猫の耳の少女が、スコップを肩に担ぎながら跳ねるように歩いている。
口を大きく開けて笑っているように見えた。
唇の形から推理する。
きっと「お宝!」とか言ってる。
楽しそうだ。
狼の耳の少女は、前を見ている。
地面の形、瓦礫の配置、遠くの建物。
その目は真剣だった。
メガネをかけた少女は、周囲を見回している。
銃を手に取っているようにも見えた。
警戒している。
明るいベージュ色の髪の少女は、何かを言っている。
唇の動きがゆっくりで、丁寧だ。
きっと「十分に注意して進みましょ~」
そんなことを言っているのだろう。
ホシノちゃんは。
ホシノちゃんは、最後尾でゆるく歩いていた。
眠そうな目で、けれど周囲を見ている。
その顔は、どこか懐かしそうだった。
私は気づく。
先生が持っている地図とは別に、ホシノちゃんが小さな紙を持っている。
古びた紙だ。
折り目がつき、端が少し破れている。
宝の地図。
――ユメが死ぬ前に用意したもの。
私は胸が締めつけられる。
思い出す。
あの日。
私は、鉄の入れ物を用意した。
中には二つのバッチを入れた。
梔子の花のバッチと、鯨のバッチ。
そして砂の中に埋めた。
宝探しなんて子供っぽい。
でも、だからこそ意味があった。
ホシノちゃんに、笑ってほしかった。
それだけだった。
猫の耳の少女が急に立ち止まった。
スコップを高く掲げ、先生の方へ身を乗り出す。
唇が大きく動く。
「お宝!?本当に!?」
私はそう読んだ。
先生は胸を張っている。
自信満々に頷いている。
……だが次の瞬間、先生の顔が少し曇った。
地図と周囲を見比べている。
狼の耳の少女が前に出る。
先生の横に並び、指で遠くを示した。
唇が短く動く。
「ここらへんなら任せて」
そう言っているように見えた。
先生は助かったように頷く。
メガネの少女が、周囲を見回しながら何か言う。
唇の動きが速い。
「周囲を警戒します」
そんな感じだろう。
明るい髪の少女も頷いた。
「十分に注意して進みましょ~」
そう言っている。
猫の耳の少女は、まだ興奮している。
スコップを振り回し、先生の背中を叩きそうな勢いだ。
ホシノちゃんは、少し笑っている。
その笑顔が、妙に眩しかった。
私は、ふと思う。
ホシノちゃんは変わった。
私が知っているホシノちゃんは、もっと尖っていた。
もっと口が悪くて、もっと真面目で、もっと必死だった。
なのに今のホシノちゃんは、肩の力が抜けている。
ゆるくて、軽くて、ふざけている。
それはきっと、私が知らない時間が彼女を変えたのだろう。
私はそれを知らない。
ただ、知らないだけだ。
胸が痛む。
ホシノちゃんの人生に、私はもういない。
それでも。
私は目を離せなかった。
先生がまた地図を広げる。
紙を指でなぞり、首を傾げる。
狼の耳の少女が、少し呆れたように肩を落とした。
唇が動く。
「先生、これ何年前の地図?」
そう言っているように見えた。
先生は一瞬固まる。
慌てて地図を見返す。
そして額を押さえた。
ああ、やっぱり古いんだ。
猫の耳の少女が笑っている。
大きく口を開けて、腹を抱えるような仕草。
先生は苦笑いしている。
ホシノちゃんは、先生の肩をぽんぽんと叩く。
唇がゆっくり動く。
「ん~?おじさんの心配してるの?だいじょうぶだよぉ。
でもおじさんも歳かなぁ……ちょっと涙が出てきちゃったよ」
私は、唇の形からそう読み取った。
ホシノちゃんの冗談。
それは軽いのに、妙に優しい。
先生が何か返す。
たぶん「泣いてないでしょ?」と突っ込んでいる。
ホシノちゃんは笑う。
猫の耳の少女は、さらにテンションが上がっている。
スコップを握りしめ、走り出しそうだ。
狼の耳の少女は前を見ている。
地形を把握しているのだろう。
メガネの少女は、遠くを睨んでいる。
警戒を緩めない。
明るい髪の少女は、落ち着いた様子で皆の後ろを歩いている。
この子たちは――きっと仲間だ。
ホシノちゃんは、ひとりじゃない。
その事実に私は救われる。
でも同時に、胸が苦しくなる。
私はもうそこにいない。
その現実だけが、どれだけ眩しい光景を見ても消えなかった。
彼らは進む。
先生が地図を見て、狼の耳の少女が先導して、皆がついていく。
時々、猫の耳の少女が走り出しそうになるのを、メガネの少女が止めている。
明るい髪の少女が笑ってなだめている。
ホシノちゃんはその様子を眺めながら、少しだけ目を細める。
懐かしそうに。
私は思う。
もしかして、ホシノちゃんはこの宝探しを知っている。
宝の地図。
鉄の箱。
梔子のバッチと鯨のバッチ。
私が残した、くだらなくて大切なもの。
先生が先頭で止まった。
狼の耳の少女が地面を見ている。
指で場所を示す。
猫の耳の少女が跳ねる。
「ここ!?」
そう叫んでいるように見えた。
先生が頷く。
そしてスコップを持っていないことに気づいて、少し困った顔をした。
猫の耳の少女がスコップを押し付ける。
狼の耳の少女も手伝う。
メガネの少女は周囲を見回しながら、銃を構える。
明るい髪の少女は、掘る位置を整えるように砂を払う。
ホシノちゃんは、少しだけ離れたところで立っている。
その表情は、静かだった。
私は息を呑む。
掘り始める。
砂が舞い上がる。
だが音は聞こえない。
スコップが砂を切り裂く音も、誰かの息遣いも。
すべてが無音だ。
けれど、唇の動きと仕草だけで、彼らが騒いでいるのは分かる。
猫の耳の少女が大げさに叫び、狼の耳の少女が淡々と掘り、先生が汗を拭き、明るい髪の少女が笑っている。
メガネの少女が何か言う。
「周囲に異常なし」
そんな報告だろう。
そして。
狼の耳の少女のスコップが、何か硬いものに当たった。
彼女の目が少しだけ見開かれる。
猫の耳の少女が身を乗り出す。
先生が慌てて近づく。
明るい髪の少女が、慎重に砂を払う。
鉄の箱。
私は息を止めた。
それは確かに、私が埋めたものだった。
箱が掘り出される。
先生が蓋を開ける。
猫の耳の少女が顔を近づける。
狼の耳の少女も覗き込む。
メガネの少女は警戒しながらも、目を向ける。
明るい髪の少女が嬉しそうに微笑む。
そしてホシノちゃんは。
ホシノちゃんは、少しだけ俯いた。
唇が動く。
何かを言っている。
私はそれを読もうとする。
でも遠くて、分からない。
ただ、彼女の目が少し潤んだように見えた。
先生が中身を取り出す。
小さなバッチ。
梔子の花のバッチ。
鯨のバッチ。
猫の耳の少女が叫ぶ。
「なにこれ、かわいい!」
そう言っている。
狼の耳の少女は静かに見ている。
明るい髪の少女が嬉しそうに頷く。
メガネの少女が、何かを言う。
「記念品……ですか?」
先生は笑っている。
ホシノちゃんは、そのバッチを見つめている。
そしてゆっくりと、先生に近づく。
先生がバッチを差し出す。
ホシノちゃんが受け取る。
その瞬間、私は胸が裂けそうになった。
私の宝物が、今、ホシノちゃんの手の中にある。
ホシノちゃんはバッチを握りしめる。
唇が震える。
私は読む。
「……ユメ先輩」
そう言ったように見えた。
でも、次の瞬間にホシノちゃんの唇は別の形を作る。
「先生」
きっと、そう言ったのだ。
私が勝手に見間違えただけだ。
私が、そこに自分の名前を見たかっただけだ。
胸が苦しい。
涙が出そうになる。
でも私は泣いていない。
泣いていないでしょ?
誰かがそう言ったような気がした。
けれどここには音がない。
ただ、私の心だけが騒がしい。
先生が何か言う。
きっと「これはホシノの大切な人が残したものなんだろう」とか、そんなことだ。
猫の耳の少女が、急に静かになる。
狼の耳の少女も目を伏せる。
明るい髪の少女がそっと手を合わせる。
メガネの少女が、何かを言う。
「……大事にしましょう」
そう言っているように見えた。
ホシノちゃんは笑う。
でもそれは、いつもの眠たげな笑いじゃなかった。
どこか泣きそうな顔だった。
私は思う。
私は死んだ。
ホシノちゃんを置いて死んだ。
その事実は変わらない。
けれど、ホシノちゃんは生きている。
仲間がいて、先生がいて、笑っている。
それだけで、私は救われる。
この水溜まりは、私に現世を見せる。
私の心を彩ってくれる窓のようなもの。
色彩の窓。
私は、そう名付けた。
この光景を忘れない。
忘れたくない。
ホシノちゃんが生きている限り、私はそれを見ていたい。
でも。
水面が揺れる。
映像が歪む。
砂漠の景色が薄れていく。
彼らの姿が遠ざかる。
私は慌てて手を伸ばす。
触れない。
届かない。
ただ映像が消えていく。
ホシノちゃんの顔が、最後に小さく笑ったように見えた。
そして。
色彩の窓は消えた。
水溜まりは、ただの白い砂に吸い込まれるように消えていく。
そこにはもう何もない。
私は立ち上がる。
白い砂浜がまた広がっている。
上も下も、遠くも近くも、白い世界。
音も匂いもない世界。
けれど私は知った。
現世は続いている。
ホシノちゃんは生きている。
先生と、仲間たちと。
宝探しをして、笑っている。
それだけで、私は歩ける。
ここに私の居場所はない。
ただ、私が知らないだけだ。
私はまだ、ここにいる。
そして今日も歩く。
いつかまた、スコールが降るだろう。
いつかまた、水溜まりが生まれるだろう。
いつか生まれた窓が、私の心を彩ってくれる限り。
私は、歩き続ける。
白い砂浜を。
ただひとりで。