夜明け前の静寂。波の音だけが響く海岸で、鮫子はいつになく真剣な表情で『印』を組んでいた。
対峙する出久の心の内には、様々な感情が濁流となって渦巻いている。
期待、不安、喜び、そして底知れない恐怖。
チャクラを練り終え、独特の冷たい熱気を纏った鮫子が、一歩、出久に近づいた。
「では、始めるとするか」
「う、うん……! 僕は、どうしたらいい?」
「わしのまたぐらに手を突っ込むか、両手でわしの胸を揉むか、わしと手をつなぐかじゃ。選べ」
「『死』って、社会的に死ぬって意味だったの!? なにその選択肢! 手をつなぐよ、当たり前でしょ!」
「ちっ、欲のない男よのぅ……」
鮫子は露骨に残念そうな顔をしながら、出久に指示を出す。
「よいか、左手を上に、右手を下にしろ。今からわしのチャクラを直接流し込む。お前に経絡系がなければ何も起こらん。その時はわしは【ぱんつ】を失い、お主の筋トレに雄英試験まで付き合うだけじゃ」
「だから、そのパンツはいらないって言ってるだろ!」
「やはりオールマイトか……」という侮蔑すら含んだ憐れみの目を向ける鮫子に抗議しつつも、出久は指示通りに手を構える。だが、続く鮫子の言葉に血の気が引いた。
「経絡系があった場合に考えられる症状として、激痛、めまい、吐き気、脱糞、射精……など、様々な不具合が考えられる」
(後半おかしくない? いや、もういい……おかしくないんだ、これが鮫子なんだ……)
出久は半ば諦めの境地に達しつつあったが、最後に告げられた言葉だけは聞き流せなかった。
「そして最悪のケース……。こじ開けた経絡系を閉じられなくなり、全生命エネルギーを吐き出しての『枯死』じゃ」
一瞬の「溜め」の後に告げられた、本物の【死】。
何も成せず、ヒーローに挑戦すらできずに、ただ無意味に、無価値に、妹を巻き込んで死ぬ。
鮫子は本当に腹を切るだろう。自他の生死に頓着せず、倫理観が崩壊しているこの妹は、後を追うことに一分の躊躇もしないはずだ。
そうなれば、母さんは訳も分からず、一度に二人の子供を失うことになる。
(無個性に生まれてしまった罪。お母さんに謝らせてしまった罪。……ここで死ぬわけにはいかないんだ!)
「……来い、鮫子!」
「シャシャシャ! よい気合じゃ!」
鮫子はゆっくりと出久の手を重ねた。
はじめは、じんわりと温かいだけだった。
それが手首、腕と上がってくるにつれて「熱」に変わり、エネルギーが心臓に達した瞬間――。
「……ぐ、あああああああああああああああ!?」
出久の口から、自分でも信じられないような絶叫が飛び出した。
目の奥に走った閃光。それは光ではなく、脳があまりの激痛に耐えかねて送信した誤情報。全身の血管に沸騰した鉛を流し込まれたような、細胞が一つ一つ爆辞(はぜ)るような苦痛。
「出久! 集中しろ! 今、お前は使ってなかった経絡系にチャクラを流され、体がパニックを起こしておる! 心臓にある『弁』を、ダムの放水を徐々に閉めるようなイメージで制御しろ!」
「あ、が……は、あ……っ!」
「意識を手放すな! 閉じるのではない、流れを『整える』のじゃ! お前の正義は、ここで潰える程度のものかッ!」
鮫子の叱咤が、朦朧とする意識を繋ぎ止める。
出久は歯を食いしばり、血の涙を流さんばかりの形相で、己の内側で暴れ狂う「奔流」を見つめた。
それは、無個性という絶望を焼き尽くし、新たな命を宿すための、産みの苦しみだった。