第一話:愛妻弁当編1
多古場海浜公園から帰宅した二人が玄関を潜ったのは、街が完全に活動を始める少し前のことだった。
泥と砂にまみれ、精根尽き果てて鮫子の尻尾に揺られる出久の姿を見て、早起きしていた母・引子は手にしていたお玉を落とさんばかりに驚き、慌てふためいた。
「あら? こんな朝早くから二人でどこへ……って、出久! あんたボロボロじゃない! 一体どうしたの、その泥だらけの怪我!」
「シャシャシャ! 安心せい母上、わしが出久を一皮剥いてやったところじゃ! 実にめでたいことよ、今すぐ赤飯を炊き、祝杯の準備をせよ!」
「鮫子! 頼むからその言い方はやめてよ、お母さんが本気で勘違いするだろ! 違うんだ母さん、これはその、特訓の結果というか、事故というか……」
「一皮!? 赤飯!? 鮫子、あんたお兄ちゃんに何を……何を教え込んだの! 学校に行けなくなるようなことじゃないでしょうね!」
「いいから出久、お主はさっさと汗を流してこい。身体の芯から溢れる男のフェロモンが、潮風と混じって襲いたくなる」
鮫子は顔を真っ赤にして抗議する出久をなかば強引にバスルームへ放り込むと、リビングの真ん中で高速に『印』を組み上げた。
パシャリ、という水が弾ける心地よい音と共に三体の『水分身』が生成される。本体の鮫子が雄英受験までの緻密なトレーニング・ロードマップを脳内で描き、栄養素の計算を始める傍らで、分身たちは一糸乱れぬ動きで台所へ向かい、朝食の準備に取り掛かった。一人が野菜を刻み、一人が火を操り、もう一人が味を整えるその光景は、家庭料理の枠を超えた一種の工場のようでもあった。
しばらくして、食卓には豊かな湯気と共に、到底三人家族の朝食とは思えない豪勢な料理が所狭しと並んだ。
しっかりとした焼き目がつき、特製照り焼きソースが黄金色に輝く、食べ応え抜群の豆腐ステーキ。まるで山脈のように高く盛られたほかほかの炊き立て白米に、出久の好物である出汁を限界まで吸わせた巨大な厚焼き卵。
風呂上がりでさっぱりとした出久が席に着くと、緑谷家の少し騒がしく、しかし熱気を孕んだ朝の食事が始まった。
「出久、今日からとりあえず今の倍の飯を食え。米はエネルギーの源、肉は血肉、豆腐は精。喰わねば身体は作れん」
「倍……この量を、毎食? 昼休みだけで食べきれるかな……」
「そうじゃ。家でも学校でも、胃袋に少しでも空きができたら即座に栄養を詰め込め。そのための『愛妻弁当』も、カバンに入りきらんほどの三段重ねで用意してある! 毎朝これだけ尽くしておれば、もはや実質的にわしは妻じゃろ。戸籍の書き換えすら視野に入れてよいのだぞ?」
「鮫子、後半の度を越した妄言にツッコミを入れる元気も残ってないよ……」
出久は苦笑しながら、心配と不安が入り混じった複雑な視線を向ける母に向き直った。その瞳には、今朝までの彼を支配していた「諦め」を焼き尽くすような、静かな、しかし確かな「熱」が宿っている。
「……母さん。僕、やっぱり雄英を目指すよ。そして、最高のヒーローになるんだ」
「出久……」
「鮫子が協力してくれて、可能性が見えたんだ。ううん、鮫子が僕の中に、僕自身も知らなかった可能性を無理やり作ってくれたんだ。だから全力で挑戦したい。もう、テレビの前で泣きながら憧れるだけの自分は、今日で終わりにするよ」
引子の脳裏に、幼い頃の出久の姿が、万華鏡のように鮮明に過ぎる。
お気に入りのオールマイトの動画を繰り返し再生し、「お母さん、僕もなれるかな」と、小さな背中を丸めて泣きじゃくっていた息子。あの日、自分は親として彼に絶望を突きつけてしまった。ただ抱きしめて「ごめんね」と言ってしまった。その後悔が、胸の奥をチリチリと焼く。
だが、今目の前にいる息子はどうだ。いつの間にか、その顔つきには以前の弱々しさは消え、鋭い意志を感じさせる『男の顔』が混じっていた。
ふと隣の娘に目を向けると、彼女はあられもない仕草で卵焼きを頬張り、出久に「行儀が悪いぞ」と軽く頭をはたかれていた。
無個性の兄と、あまりに優秀で、時に異形とも呼べる力を振るう妹。その埋めがたい格差に、親として、外から投げかけられる心無い言葉に胸を痛めた夜も一度や二度ではない。
引子は静かに両眼を閉じ、喉まで出かかった「危ないから」「やめなさい」という心配の言葉を、母としての決意でぐっと飲み込んだ。
「……お母さん、全力で応援するわ。やってみなさい、出久。あんたの選んだ道なんだから」
「母さん……! ありがとう、僕、頑張るよ!」
「……とはいえ、狭き門なのは相変わらずじゃな。競い合うライバルは各中学から集まった個性豊かなエリートたち……。想像するだけでくぅ〜、滾るのぅ! 勃起するなぁ、なあ出久よ!」
「……心からの決意が台無しだよ、そういう時に『勃起』とか言わないで」
「……む。言葉が足りんかったか。……不能」
「意味が真逆だよ! むしろ状況が悪化してるよ!」
二人の、緊張感があるのかないのか分からない気の抜けたやり取りに深い溜息をつきつつも、引子は子供たちの行く末に、せめて少しばかりの幸運と、健やかな明日があるよう祈らずにはいられなかった。
緑谷出久、受験までの残り期間——十ヶ月。