夕暮れ時の多古場海浜公園。不法投棄されたゴミの山が、沈みゆく太陽の光を受けて不気味な影を落としていた。
防波堤の上に立った鮫子は、まず修行の場を確保するために「整地」を始めた。
彼女の両手が目にも留まらぬ速さで動き、空気を切り裂くような音と共に『印』が結ばれていく。
「水遁・水鮫弾(すいこうだん)の術!」
鮫子の口から集められた水が、巨大な鮫の形へと凝縮される。放たれた水の猛獣は、行く手を阻む壊れた冷蔵庫やタイヤの山を紙細工のように吹き飛ばし、その下にある広大な砂場を露わにした。
「よし、これで場所は確保した。……出久、今日やることは極めて単純じゃ!」
砂場に飛び降りた鮫子は、呆然と立ち尽くす兄に不敵な笑みを向けた。
「チャクラで身体を強化した状態で、わしの水分身と『打撃無し・投げあり』の組手を行う!」
彼女が再び印を結ぶと、足元の水溜りから一人の少女が這い上がるようにして現れた。容姿も笑顔も本体の鮫子と瓜二つの『水分身』だ。
「水分身はわし本体よりも力も耐久度も劣るが、お主にとっては十分な脅威となるはずじゃ。まずは慣れること! チャクラによる身体強化の維持に! なにより、『戦う』という行為そのものにな!」
「身体強化を維持しながら、組手……」
出久はゴクリと唾を飲み込んだ。今朝、ようやく開通させたばかりの経絡系にチャクラを循環させ続けるだけでも至難の業だ。その上、対人戦闘など、今の彼には未知の領域すぎる。
「とりあえずこれに着替えろ。制服を破かれるとお母さんに怒られるからのぅ」
鮫子が放り投げたのは、ホームセンターで購入したという、厚手の生地で作られた丈夫な作業服だった。出久が砂の陰で素早く着替えを済ませると、対峙した水分身が兄を挑発するように、ニヤニヤと笑いながら自分の胸を両手で下からゆさゆさと揺すり始めた。
「ちょっ……! もう! 女の子が人前でそういうことしないの!」
顔を真っ赤にしてメッ、と叱る出久だったが、水分身は「シャシャシャ」と本体と同じ笑い声を上げるだけだ。
「余裕そうじゃな。……だが、チャクラを活性化させながらの組手、その余裕がいつまで持つかのう。始めるぞ、出久!」
鮫子の合図と共に、水分身と出久が組み合った。
「ほれほれ、どした? わしの身体はびくともせんぞ?」
挑発的な笑顔を向けられつつ、出久は驚愕の表情を浮かべる。
「くっ……! お、重い……っ!」
出久は必死に力を込めるが、水分身の身体はまるで大岩が砂に根を張っているかのように動かない。重心が高くふらふらな出久に対し、水分身はどっしりと腰を落とし、ほぼ腕の力を使わず、首と肩の連動だけで出久を左右に揺さぶる。
(重いんじゃない、力が……地面に逃げていかないんだ! 鮫子の体はまるで、砂浜そのものと一体化してるみたいだ……!)
「よそ見厳禁じゃ!」
水分身がわずかに重心をずらした瞬間、出久の身体は面白いように宙を舞った。背中から砂地に叩きつけられ、肺の空気が強制的に押し出される。
「ごふっ……! げほっ、げほっ!」
チャクラ強化をしながらの全身運動は、通常の運動の数倍の酸素と精神力を消費する。一度呼吸が乱れれば、練り上げたチャクラの循環もまた濁り、強化が解けそうになる。立ち上がろうとする出久の膝はすでに笑い、視界が酸素不足でチカチカと点滅し始めた。
「早うたてい、まだまだ始まったばかりぞ? それともヒーローをあきらめてわしとイチャラブ生活に移行するか? ん? 逃げ道ならいつでも用意してやるぞ」
水分身は這いつくばる出久の耳元で、甘く、しかし残酷な誘惑を囁く。その挑発は、出久の誇りと、心の奥底にある「変わりたい」という執念を鋭く突いた。
「……っ、ふざけないでよ……僕は、絶対、あきらめない……! ううぉおおお!」
出久は泥を噛み、再び立ち上がった。全身を巡るチャクラを無理やり活性化させ、震える四肢に力を宿す。その瞳には、敗北を拒絶する猛々しい光が宿っていた。
「そうじゃ! 出久! 叫ぼうが、泣こうが構わん! 醜く泥を啜りながらでも、今はただ全力を尽くせ! お前の限界は、わしが塗りつぶしてやるわい!」
本体の鮫子の容赦ない檄が、夕闇に溶け始めた海岸に響き渡る。
出久は砂を蹴り、再び水分身へと向かっていった。それが、これから十ヶ月続く、死よりも過酷で、血の味がする「放課後」の始まりだった。