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その男は、
だが、それは大した事ではない。本名であろうが無かろうが、その名で通っているのであれば、それこそが己の名であると受け入れる。その程度の認識にしか留まらない些事なのだ。
「ふぅ……一難去ってまた一難、か。何故こうも面倒な役ばかり回されるのやら。
其処は焼け焦げた屋敷だった。冬に至り、満点の星空の下で侘しさのままに残された、
三瀬本人が言った様に、彼は殺し屋だ。ショービジネスで切り盛りしている闇だらけの《運営》様に雇われる事の多い、20年も活動している殺し屋だ。
今回は、例のごとく《運営》からの依頼だった。どうやら会場の跡地を余所者が嗅ぎつけ、証拠集めをしているらしい。
それくらい自分達で対処しろよ、と三瀬は副流煙と共に愚痴を吐き出しながらも、いそいそと仕事に取り掛かっている。
依頼が無ければ金が貰えない。金が無ければ飯が食えない。結局のところ、三瀬にとって重要なのは其処であって、それ以外の事はさして重要ではないのだ。
「さて。情報通りならここら辺に……あぁ、良かった。分かりやすい奴で助かる」
燃え尽きた屋敷の跡地では、燃え滓の中から何かを見つけ出そうと必死になっている少女が居た。
腰まで伸びた翡翠の髪に、チャイナ服を着ている少女が廃墟となった場所を必死になっている様は、些かシュールで、言葉を選ばずに言うならばおかしなものだった。
「ふぅむ……あぁ、なるほど」
余所者とは酷い言い様だ。そんなの、アンタらからすればお客とプレイヤー以外の誰もがその余所者とやらに当てはまるだろうに。
かちゃ……と、何かを装填した音に反応して、その少女は三瀬を見た。
酷く怯えた顔をしている。或いは、焦燥に溢れていると言っても良いだろう。もしくは……絶望に支配されている、とも言うべきか。
「どうも、お嬢ちゃん。こんな夜更けに廃墟に来るとは、頂けないな。お嬢ちゃんみたいな女の子は、今は暖かい布団にくるまって眠ってなきゃ」
「あ―――あ、い、や」
「ふぅ……同情するよ。家族かね、それとも友人かね。或いは恋人かね。どちらにせよ、大事な人が死んじまったのが信じられないんだろ? けどもな―――お嬢ちゃん、こりゃあライン超えだよ」
握り締めた鉄塊は、酷く冷たいままに視線を少女へと送る。
ガチガチと、歯が震えている。
ガタガタと、体が怯えている。
少女はただ探したかったのだろう。家族か友人か、或いは恋人かの
「やだ、やだ、やめてっ――!!! わたし、なにも」
「いいや、アンタは来ちまったんだよ。だからそれは叶わない。部外者だって認定されて、仕事を任された以上……オレはお嬢ちゃんを撃たにゃならん」
「は、はっ、―――」
「恨んでくれていいぜ。その方がオレも楽ってもんさ」
かち、と、撃鉄に指を掛けた。
「ひ」
「じゃあな」
ぱん、と。
誰にだって再現できて、けれど誰に見られる訳もない闇が―――赤い花を散らした。
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悪運というのは、こういう事を言うのだろう。そう自分に言い聞かせなければ、今のこの状況に対するしんどさから自殺してしまいたくなる。
別に何らおかしな事なんてしてなかった筈なんだ。いつもみたいにパパっと
こういう業界に居ると、受けられる仕事なんて限られてくるもんだ。
単に、そうしなければ生きられないから。だから仕事をしている、それだけの事だ。ほら、金は稼げるんだよ。人を殺すからな。
親が死のうが、友が死のうが、恋人が死のうが、腹は減るだろ? つまりそういう事だよ。オレもそれに従ってるってだけで、けど、だからって気分が悪くならない訳じゃない。
誰が好きで人なんか殺したいと思うんだか。まぁ―――
「あら、見られちゃったか」
それも、今こうしている間にも迫ってくるアマにゃあ、関係ねぇんだろうが。
「ふっ」
「っと」
眼前に突き立てられる切っ先。その元となるナイフを握る右手の手首を流す様に振り払い、狙いを逸らす。
速い上に正確だ。コイツは随分と殺人の技量があるらしい。『綺麗』という言葉が似合う様な外見に、誰もの視線を奪う様な双丘持ってる癖して素早い奴だ。
ひゅ、と何かが空を切った。空いていた左手が手刀を象って突き付けられる。それに追従する様に、右足の膝がオレの股間へと釣り上げられていた。
「っぶねぇな。潰れたらどうしてくれんだよ」
手刀を空振らせ、左足を軸に身体を回転させればオレは自然と背後へ回る。それを予知していたかの様に、女もオレを真似て身体を回しながら、ナイフを喉の位置へと振るった。
手首を殴り、また逸らす。足を絡ませ、体勢を崩す。
ぐっ、と、まるで鉄塊にでも触れているのかと錯覚する様な重量が、足から全体へと伝わっていく。全身に鎧でも着込んでいるのか? だとしたら、純粋にフィジカルも凄まじいな。本当に女かよ。
「当たらないなぁ…! さっさと死んでくれない?」
「そりゃ無理だな。オレはまだまだ生きていたいんだ、テメェみたいなガキに殺されちゃ堪らない」
瞬間的に全力を注いだ足払いは、容易く女の体勢を崩して、その綺麗な顔面からコンクールの地面へと叩き付ける様にオレは女を押さえ込んだ。
ぱきり、と即座に両腕の関節を外す。握られたままのナイフを掴み取り、薄暗い路地の奥へと投げ捨てれば、不愉快という感情を全面に押し出した女の表情が僅かに見えた。
「ガキ…ふっ、あはっ! オジサンには言われたくないよ」
「大人には大人のカッコ良さってのがあるのさ。お前さんにゃ分からんよ。…で、お前さんは何者だよ? これでも20年くらいは
「っ、ぅ――」
「暴れるなって。幾らイカれてるとは言え、お前さん中々に良い
関節を外した筈なのに、随分と足掻く。それに、随分と驚いてもいる様だ。
この女の技量は、正直に言って異常だ。気色悪いくらいに洗練されていて、徹底的に無駄というものを省いている。この身体で、尚且つ女で、ここまで人殺しとしての技量が高い人間は見た事が無かった。
所謂、逸材ってやつか。いや、この場合は
現にこうして、オレに取り押さえられている訳だ。まぁ、真正面から殺りに来ればそりゃあ負けるってもんだが。
「顔から地面に叩き付けておいて、今更過ぎるでしょ」
「ん、それもそうだな。とは言え、無用な殺生を避けるのもまた事実だ。お互い何も見なかったし、何も知らない。そういう事にしておくとしよう」
「へぇ? 殺さないの? 私、あなたを殺そうとしたんのに」
「言ったろ、無用な殺生はしない。ここでお前さんを殺したとしても、何の利益にもなりゃしない。金が入ってくるなら話は別だがね、生憎とそうじゃない。なら、殺す必要なんざ欠片も無いのさ。これがプロってやつだよ、お嬢ちゃん」
関節は外したままに、女から大きく距離を取って踵を返す。殺人鬼みたいな女を相手に背を向けるのは、我ながら中々にクレイジーだが、まぁ、その時はその時だろう。
はぁ……思わず溜息が零れてしまう。気分転換で煙草を吸いに来たというに、またもや気分が最悪に落っこちた。この業界は、やっぱりロクな出会いというやつがないなと、つくづく思う。
路地を出れば、明るい日差しが目を焼いた。あぁ、まだこんなにも日が照る時間帯なのか。時間の感覚が逆転しつつあるのは、健康に良くないな。煙草を吸ってる身で何を、という話じゃあるが。
さて、いつ関節を戻してくるか分からん。さっさと人混みの中に紛れて去るとしよう。
「伽羅」
「ん?」
「私の名前、教えてあげる。だからオジサンの名前も教えて? 私、ちゃんと覚えてあげるから」
「それはそれは、どうもご丁寧に。オレは
女を殺すのは気が引ける。例えそれが、殺人鬼であってもだ。まったく、男ってのはどうしてこうも、女とやらに弱いのやら。
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「あ、三瀬のオジサン」
「どうも、伽羅の嬢ちゃん」
思ったよりも早い再会に、オレは平然としていた。なに、これでもかなり驚いちゃいるんだ。何なら怖がってすらいる。
女―――もとい、伽羅の嬢ちゃんと出会ってから数日か。今は夜で、公園にはオレと伽羅の嬢ちゃんしか居ない。こんな場所で襲われちゃあ、オレに出来ることなんざたかが知れてるってもんだ。
「そんなに怖がらなくても、殺さないよ。私、今は
そんなオレの内心を見通したのか、伽羅の嬢ちゃんは艶っぽく笑っていた。悪戯好きなのか? 良い性格をしてやがる。
しかし、そういう気分ときたか。
「そうか、なら良かった。安心して煙草が吸えるってもんだ。ところで伽羅の嬢ちゃん、
「うん、そうよ。すごいね、三瀬のオジサン。やっぱり殺し屋だから分かるの?」
「似た様な奴は見たことあるからな、ある程度の予測はつくさ。まぁなんだ、オレも分からんでもない。こう、ブワッと吹き出すもんがあるよな」
要はアレだ、伽羅の嬢ちゃんは究極の自己中心的精神の持ち主な訳だな。それもとびきり最悪な。
自分の気分次第で、頼れる大人にもなれば鏖殺を尽くす殺人鬼にもなる。おそらく、自分の思い通りにならない事へのストレスの発散が、そのまま殺人に直結してるんだ。なんとまぁ、飛躍した結論に辿り着く女だ。殺人鬼はこれだから恐ろしい。
しかし、決して理解可能な訳でもないのが、殺し屋の嫌な所だな。ストレス発散を殺しに直結させようとするのは、オレも少なからずある。殺し屋としちゃあ、それはアマチュアも良い所ではあるがね。
「そこまで分かるんだ。ちょっと気持ち悪い」
「流石に辛辣じゃあないかね、伽羅の嬢ちゃん。おじさん傷付いちまうよ。というか、今のはライン超えないのか」
「別に? だって、分かるんでしょ? それに三瀬のおじさん、ちょっと私と同じ所があるから」
「んー……そうかね? まぁ、伽羅の嬢ちゃんがそう言うってんなら、その通りか。っと、もう切れちまった」
話し込んでる時の煙草ってのは、切れるのが早くていけないな。こんなんじゃ吸った気にもなれやしないってのに。
「煙草、吸ったことないのよ、私」
懐に仕舞っていた箱からもう一本を取り出すと、伽羅の嬢ちゃんに横取りされた。はえーな、反応するのが遅れちまった。本当に恐しい女だこと。
「吸ってみたいのか?」
「興味はあるよ」
「美味しくないぞ。それで殺人鬼スイッチがオンにでもなられたら、オレはどう煙草を吸えばいいんだ」
「別に吸えなくていいんじゃない? だって、百害あって一利なしって言うじゃない」
「正論を叩き付けられるのは、大人になっても苦しいものだぜ、伽羅の嬢ちゃん」
ったく、仕方ない。ボヤく様に零しながら、ライターの火を伽羅の嬢ちゃんが横取りした煙草へと着けてやる。
「どうやって吸うの?」
「そうだなぁ……初めてならふかしってのが良いな。吸った煙を口の中に溜めて吐き出すやり方だ。ゆっくり吸って、ふぅーって。味が分かりやすいし、噎せにくい」
「へぇ」
フィルターを柔らかな唇で挟み、ゆっくりと煙草の煙を吸い込めば、伽羅の嬢ちゃんは平然としたままにそれを吐き出した。
不快ではなかったのかどうかが分からんのが、本当に恐ろしい。
「どうだ? 美味しいかね?」
「うーん…よく分からないや。でも美味しくはないね。口の中が気持ち悪い」
「だから三瀬のオジサン、殺すね」
「だと思ったよ、野蛮な嬢ちゃんめ」
三瀬(みつせ)
《運営》に雇われる事が多い殺し屋。性別は男性。年齢は不明。好きなものは煙草、嫌いなものは無益な殺生。
殺し屋としての歴は20年と長く、殺し屋に必要なスキルは十全に揃えた上で、完壁と言える領域まで仕上げているおじさん。