すぐ2話です。
連載にしないと十何万文字になってデバイスが重くなるので断続で手書きます。
あの日、優が半ば強引にしずかの手を握ってから、二人の間には奇妙な、そして一方的な関係が築かれていた。優は、次の日も、その次の日も、約束通りしずかを待ち、一緒に下校した。しずかがどれだけ無視をしようと、どれだけ冷たい態度を取ろうと、優の太陽のような笑顔と、尽きることのないおしゃべりは止まらなかった。
そして、優の行動は、もはや下校時だけにとどまらなくなっていた。彼は、まるで優秀な護衛騎士のように、しかしその意図を誰にも悟らせることなく、しずかをあらゆる災厄から守り始めていた。それは、彼自身が意識して行っているというよりも、彼の純粋さが自然とそうさせている、無意識の献身だった。
ある日の休み時間、まりなとその取り巻きたちが、しずかの机から宿題のノートを抜き取り、教室の隅にあるロッカーの裏へと隠した。提出時間になってもノートが見つからず、しずかが教師に叱責されるのを見て楽しむ、という陰湿ないじめだ。しずかは、ノートがなくなったことに気づいても、探すそぶりも見せず、ただじっと自分の席に座っている。どうせまた、いつものこと。諦めが、彼女の行動を縛っていた。
その様子を、優はじっと見ていた。彼は、まりなたちの行動に怒りを見せるでもなく、ただ静かに観察していた。そして、提出時間が迫り、教師が「まだ出していないのは久世だけか」と不機嫌そうに言ったその時、優はそっと席を立ち、何でもない顔でしずかの隣に立つ。
「久世さん、今日の宿題の漢字、この字であってましたっけ?」
優は、自分のノートをしずかの机の上に広げた。そこには、その日の宿題の答えが、丁寧な文字でびっしりと書かれている。しずかは一瞬、驚いたように優を見上げたが、優はただにこりと笑って、宿題の内容とは全く関係のない、とんちんかんな質問を続ける。その意図を察したしずかは、無言のまま優のノートに視線を落とし、その内容を記憶に焼き付けた。そして、教師から渡された新しい紙に、まるで最初から知っていたかのように、すらすらと答えを書き写していく。ノートを隠したまりなたちは、面白くなさそうに顔を歪めるが、優の行動が計算されたものであるとは気づかない。彼らには、ただの「お人好しで空気が読めない転校生」にしか見えなかった。
とある日の昼休みに、しずかが未だに残っている給食をもはや、食事ではない何かで必死に摂取している時にも優は教室に誰も居ないのを確認してからそれを代わりに食べていた。
またある時には、しずかの机が油性マジックで「死ね」「下水女」「寄生虫」といった汚い言葉で埋め尽くされていることもあった。それを見つけた優は、悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ「うわあ、大変だあ」と呟くと、どこからか掃除用のアルコールや、自分の筆箱にいつの間にか忍ばせていた除光液を取り出し、黙々とその落書きを消し始めた。小さな体で、ごしごしと懸命に机を磨く。
「僕、お掃除は得意なんです! ピカピカになると、気持ちがいいですよね!」
そう言って笑う優の横で、しずかはただ立ち尽くすことしかできない。手伝おうにも、どうしていいかわからない。ありがとうと言う言葉も、喉の奥でつかえて出てこない。やがて、落書きは跡形もなく消え去り、机は元の木目を取り戻した。優は、満足そうに「綺麗になりましたね!」と笑い、まるで何事もなかったかのように掃除の続きに戻っていく。
優の一連の行動は、全てがあまりにも自然で、善意の押し付けがましさが一切なかった。彼は、しずかを「可哀想ないじめられっ子」として助けているのではない。ただ、自分の隣にいる「久世しずか」という友達が困っているから、手を貸す。美味しいものを、一緒に美味しく食べたい。綺麗なものを、一緒に綺麗だと感じたい。友達が笑っていないのなら、笑えるように手伝うのは当たり前のことだ。
優にとって、それは呼吸をするのと同じくらい自然な、純粋な衝動だった。彼のその無垢な献身は、まるで汚泥の中に咲く一輪の蓮の花のように、この淀んだ教室の中で静かに、しかし確かな存在感を放ち始めていた。しずかを虐げる者たちにとって、彼は「空気が読めない厄介な転校生」であり、しずかを遠巻きに見ていた者たちにとっては「物好きな変人」だった。だが、誰がどう思おうと、優の行動は変わらなかった。
そんな日々が、桜の花が散り、葉桜が目に眩しい季節になるまで続いた、ある日の放課後。
夕暮れの光がアスファルトを黄金色に染め上げる帰り道。いつものように、優はしずかの手を握り、その隣をとてとてと歩いていた。そして、いつものように、彼の明るい声だけが二人の間の静寂を埋めていた。
「あのですね、久世さん! 僕、今日図書室ですごい本を見つけたんですよ! いろんなお魚が載ってる図鑑なんですけど、深海魚っていうのがいて、自分で光るんですって! ちょうちんみたいに! すごくないですか!? 今度、図書室に一緒に見に行きませんか?」
優が、キラキラと目を輝かせながら熱っぽく語る。その純粋な興奮が、握られた手を通してしずかにも伝わってくるかのようだ。しかし、その時だった。今までどんな言葉にも反応を示さなかったしずかが、ふと足を止めた。そして、優の言葉を遮るように、静かに、しかしはっきりとした声で口を開いた。
「……なんで」
その声は、乾いていて、ひどくか細かった。だが、その中には今までになかった、明確な「問い」が含まれている。優は、話の途中で足を止められ、きょとんとした顔でしずかを見上げた。
「なんで、こんなことするの」
しずかは、優の目を見ようとはしない。俯いたまま、アスファルトに落ちた自分の影を見つめながら、言葉を続けた。その声は、微かに震えている。
「宿題のこととか…給食のこととか…。机のことも…。毎日、一緒に帰るのも……。なんで……?」
それは、ずっと彼女の心の奥底に渦巻いていた、理解不能なものに対する問いだった。優しさには、必ず裏がある。同情には、見返りがある。この世界で、無償の善意などというものは存在しない。彼女が短い人生で学んだ、揺るぎない法則だった。だから、優の行動は不気味で、不可解で、そして何より恐ろしかった。この少年は、一体自分に何を求めているのか。いつか、何かとんでもない代償を請求されるのではないか。その得体の知れない不安が、ついに彼女の心のダムから溢れ出したのだ。
問いかけられた優は、しばらくの間、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。そして、まるで世界で一番不思議な質問をされたかのように、こてん、と小首を傾げる。その仕草には、何の計算も、含みもない。心から、彼女の質問の意味が分からない、という純粋な困惑だけが浮かんでいた。
やがて、彼はゆっくりと理解し、そして、当たり前のことを言うように、にっこりと笑った。
「だって」
その声は、春の陽だまりのように、温かくて柔らかい。
「だって、僕は久世さんの、お友達ですから」
その言葉は、あまりにも単純で、あまりにもまっすぐだった。しずかが予想していた、どんな答えとも違う。そこには「可哀想だから」という同情も、「いじめは良くないから」という正義感も、「そうすれば僕の気が済むから」という自己満足もなかった。ただ、「友達だから」。それだけが、絶対的な理由として、そこに存在していた。
しずかは、息を呑んだ。友達。その言葉が、まるで遠い異国の響きのように聞こえる。自分に、友達などいたことがあっただろうか。友達とは、一体何なのだろう。
優は、そんなしずかの混乱を知ってか知らずか、言葉を続ける。その笑顔は、さらに深く、慈しむような色を帯びていく。
「友達が困っていたら、助けるのは当たり前です。友達が悲しい顔をしていたら、笑ってほしくなるのも、当たり前です。宿題がなくて困っていたら、僕のを見せます。嫌いなものを無理して食べなくてもいいように、僕が食べます。机が汚されたら、僕がピカピカにします。だって、そうでしょう?」
どうだ、と言わんばかりに、優は胸を張る。それは彼にとって、1+1が2になるのと同じくらい、疑いようのない世界の真理だった。親を失い、たった一人でこの世界に放り出された少年が、それでもなお、握りしめて離さなかった、たった一つの、そして最も尊い宝物。それが「友達」という概念だった。
「僕は、久世さんが笑っているところが見たいんです。ただ、それだけですよ」
その最後の言葉は、夕暮れの光に溶けていくように、優の言葉はしずかの心の最も柔らかい場所に、静かに染み込んでいった。ただ、それだけ。その言葉には、しずかが今まで向けられてきたどんな感情とも違う、温かくて、混じり気のない響きがあった。友達だから。そのあまりにも単純な真理を前にして、しずかは固まったように動けなくなる。彼女が築き上げてきた、世界に対する不信と諦めの壁に、初めてはっきりと目に見える亀裂が入った瞬間だった。
「……とも、だち……」
掠れた声で、その言葉をオウム返しに呟く。信じられない、という響きと、ほんのわずかな、自分でも気づかないほどの期待が入り混じったような、複雑な音色だった。
優は、そんなしずかの揺らぎを見逃さなかった。彼は、ただ言葉を重ねるだけでは足りないことを、本能的に理解していた。この凍てついた心を溶かすには、もっと直接的な温もりが必要だと。
次の瞬間、優はしずかの手首を掴んでいた自分の手を、するりと彼女の指先に絡ませ、きゅっと優しく握り直した。そして、ほとんど無抵抗なしずかの体を、ぐいっと自分の方へと引き寄せる。
「わっ…!」
突然のことに、しずかは小さく声を上げた。バランスを崩した彼女の体は、そのまま優の小さな胸の中にすっぽりと収まってしまう。ふわりと、優から陽の光と石鹸の清潔な匂いがした。何が起きたのか理解できないまま硬直するしずかの背中に、小さな腕がためらいなく回される。
ぎゅーっ。
子供の力ではあったが、しかし明確な意志のこもった力で、優はしずかの体を抱きしめた。それは、あまりにも突然で、唐突な抱擁だった。しずかは、生まれてこの方、他人から、親からさえこんな風に温かく抱きしめられた記憶がほとんどない。驚きと混乱で、身動き一つ取れなかった。
優は、その小さな体全体でしずかの存在を受け止めるようにしながら、彼女の肩口にこてん、と自分の頭を乗せる。そして、まるで確かめるように、呟いた。
「……やっぱり、しずかさんの身体は冷たいですね……」
その声は、責めるでもなく、悲しむでもなく、ただ事実を述べているだけだった。けれど、その奥には深い慈しみが滲んでいる。しずかの体温の低さは、彼女がどれだけ心の内に冷たいものを抱え、孤独に震えてきたかの証明だった。優はそれを、この抱擁を通して直接感じ取っていた。
「僕、もっと温かくできますよ」
そう言うと、優はさらに強く、ぎゅーっとしずかを抱きしめた。まるで、自分の持っている熱の全てを、この冷え切った体に注ぎ込もうとするかのように。自分の心臓の鼓動が、温かい血液が、この腕を通して彼女に伝われ、と願うように。その抱擁は、不器用で、子供っぽくて、けれど何よりも誠実だった。
しずかの体は、緊張で石のように硬いままだ。しかし、優の胸に押し付けられた耳からは、とくん、とくん、という規則正しく、そして力強い心臓の音が聞こえてくる。それは、紛れもない「生きている」音だった。温かい音だった。背中に回された腕から、肩に乗せられた頭から、じんわりと熱が伝わってくる。それは、今まで感じたことのない種類の、優しくて、押し付けがましくない温もりだった。
どうして
どうしてこの子は、ここまで。
しずかの心の中で、また同じ問いが繰り返される。しかし、先ほどとは少しだけその意味合いが違っていた。不可解なものへの警戒心ではなく、理解を絶した優しさに対する、純粋な戸惑いへと。この温もりを、信じてもいいのだろうか。この熱に、身を委ねてしまってもいいのだろうか。
夕暮れの風が、二人の間を優しく吹き抜けていく。遠くでカラスが鳴く声が聞こえる。世界はいつもと同じようにそこにあるのに、優に抱きしめられたこの小さな空間だけが、まるで別の法則で動いているかのようだった。拒絶する言葉も、振り払う力も、今のしずかにはなかった。ただ、背中に回された小さな腕の温かさと、耳元で聞こえる力強い心臓の音に、なすすべもなく包まれていることしかできなかった。それは、彼女が何年も前に失ってしまった、「守られる」という感覚によく似ていた。
忘れていた感覚がゆっくりと蘇ってくる。それは、安心、という名の感覚だった。この温もりは、自分を傷つけない。この心音は、自分を裏切らない。理屈ではなく、魂がそう感じていた。*
しずかの唇が、かすかに震える。そして、まるで夢うつつに呟くかのように、消え入りそうな声が漏れた。
「…………あった……かい……」
それは、優の体温をただ述べただけの言葉だったのかもしれない。しかし、その響きには、長い冬の眠りから覚めたばかりの生き物のような、か細く、そして切実な響きが宿っていた。その言葉と同時に、しずかの腕が、おそるおそる、まるで壊れ物を扱うかのように、ゆっくりと優の背中に回された。ランドセルが邪魔をして、うまく抱きしめることはできない。それでも、彼女の指先が優の服の裾を弱々しく、しかし確かに掴んだ。それは、彼女がこの世界で発した、初めての能動的な「助けを求める」サインだったのかもしれない。
背中に触れた、か細い指先の感触。服を掴む、ほんのわずかな力。そして、耳元で聞こえた、吐息のような言葉。
その瞬間、優の大きな瞳が、驚きでさらに大きく見開かれた。彼は、自分の行動がもたらした、この奇跡のような小さな変化に、一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。今まで、どんなに話しかけても、どんなに手を尽くしても、決して開くことのなかった硬い蕾が、ほんの少しだけ、ほころび始めたのだ。
驚きは、すぐにじわりとした温かい感情へと変わっていく。優の口元が、ふにゃり、と力が抜けたように綻んだ。それは、いつもの太陽のような満面の笑みとは少し違う、もっと優しくて、慈愛に満ちた、柔らかな微笑みだった。
「……はい。僕、体温は高い方なんです」
彼は、まるで何でもないことのようにそう答えると、しずかの小さな体を、さらに優しく、しかし確信を込めて抱きしめ直した。壊れ物を包み込むように、大切な宝物を守るように。しずかの冷たい体温も、震える指先も、その全てを受け止めて、自分の熱で溶かしてしまおうとするかのように。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。二人にとっては、永遠のようにも感じられる時間だった。やがて、我に返ったかのように、しずかの腕からそっと力が抜ける。彼女は名残惜しそうに、ゆっくりと優から体を離した。
夕日に照らされたしずかの顔は、まだ無表情に近い。しかし、その瞳の奥には、先ほどまでとは明らかに違う、微かな光の揺らめきがあった。それは、潤んでいるようにも見える。彼女は、優の顔をまともに見ることができず、気まずそうに視線を地面に落とした。
「…………」
何かを言おうとして、しかし言葉にならない。ありがとう、でもない。ごめんなさい、でもない。感情が複雑に絡み合いすぎて、適切な言葉が見つからないのだ。
優は、そんなしずかを急かすことなく、ただにこにこと見守っていた。そして、彼女が何も言えないことを察すると、いつものように、あっけらかんとした声で言った。
「さあ、お家まであと少しです!早くいきましょう!」
彼は、先ほどの濃密な時間がまるで存在しなかったかのように、再びしずかの手を自然に取った。しかし、今度は、しずかはその手を振り払わなかった。冷たい指先が、優の温かい手に、弱々しく絡みつく。それは、ほんの小さな変化だったが、二人にとっては世界が変わるほど大きな一歩だった。
しずかの家の前まで、残りの道のりは無言だった。だが、その沈黙は、今までの拒絶に満ちたそれとは全く違う、どこか穏やかで、心地よいものに変わっていた。家の前に着くと、しずかは立ち止まり、おずおずと優の方を向く。
「……あの……」
「はい?」
「…………また、あした」
それは、蚊の鳴くような、か細い声だった。それでも、確かに「約束」の言葉だった。
その言葉を聞いた瞬間、優の顔がぱあっと、今日一番の輝きで満開になった。
「はいっ! また明日! 絶対、絶対ですよ!」
彼はぶんぶんと、繋いだ手を大きく振って喜びを表現する。その純粋な反応に、しずかの口元が、ほんの、ほんの僅かに緩んだように見えた。それはまだ、笑顔と呼べるものではなかったけれど。
しずかは、優から手を離すと、玄関の扉に手をかけ、中へと入っていく。その扉が閉まるまで……優は手を振り続けていた。
夕暮れのオレンジ色の光が、電信柱の冷たいコンクリートをまだらに染めていた。その影に息を潜め、雲母坂まりなは見ていた。見てしまった。あの、虫唾が走る光景を。
転校生の一ノ瀬優とかいう、脳みそがお花畑の馬鹿ガキが、久世しずかを抱きしめている。そして、信じられないことに、あの久世しずかが、その腕に自分から体を預けている。あまつさえ、その背中に手を回しているようにさえ見えた。最後には、何か言葉を交わし、明日も会う約束までしている。
「…………死ね」
まりなの唇から、音にならない呪詛が漏れ出た。握りしめた拳は、爪が食い込むほどに白くなっている。腹の底から、どろりとした黒いものがせり上がってくる感覚。吐き気がする。あの馬鹿っぽいガキが転校してきてから、何もかもうまくいかない。計画的に実行してきた「久世しずかへの制裁」が、ことごとく不発に終わっているのだ。
ノート隠しは、あのガキのせいで失敗。机の落書きだって、いつの間にか綺麗に消されていた。イジメ10連弾、尽く全失敗。ありえない。マジでなんなのアイツ。わたしの邪魔ばっかりして。久世しずかは、人に害しか成さない〝虫〟なのに。わたしが、どれだけ惨めな思いをしてるか、何も理解をしていない害虫なのに。
まりなは、憎悪に歪む顔を誰にも見られないように俯き、電信柱の影からそっと離れると、自宅へと続く道を早足で歩き始めた。なんでアイツは、あんな奴を庇うの。久世しずかなんて、男に媚び売って寄生して生きてる母親そっくりの、人間のクズなのに。どうせアイツも、あの汚い血を引いてるんだ。大きくなったら、きっと母親と同じになる。男を誑かして、家庭を壊して、平気な顔で笑うんだ。そんな奴が、誰かに優しくされて、温かい思いをしていいはずがない。許せない。絶対に、許せない。
調子のりやがって……!
心の中で悪態をつきながら、自宅の玄関ドアを開ける。そして、リビングへと続くドアノブに手をかけ、開いた、その瞬間。
まりなの動きが、ぴたりと止まった。顔から、血の気が引いていく。
リビングは、嵐が過ぎ去ったかのように、めちゃくちゃに荒らされていた。クッションは床に散乱し、雑誌や新聞紙が破り捨てられている。テーブルの上にあったはずの花瓶は、壁に叩きつけられたのか、粉々に割れてその残骸をあたりに撒き散らしていた。甘ったるい香水の匂いと、アルコールの匂いが混じり合った、不快な空気が鼻をつく。
そして、その惨状の中心。ダイニングテーブルの椅子に、一人の女性が背中を丸めて座っていた。太ってしまった体、手入れされていない髪。まりなの母親だ。彼女は、テーブルに突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。その背中は、絶望という重圧に押し潰されているように見えた。
まりなは、息を殺してその場に立ち尽くす。また、まただ。
やがて、母親が亡霊のようにゆっくりと顔を上げた。その目は虚ろで、焦点が合っていない。彼女は、娘の存在に気づくと、弱々しく、しかし責めるような響きを込めて言った。
「……パパは、お夕飯、あの人と食べるそうだから」
「まりちゃんも、もう少し、早く帰ってきてくれたらいいのに。ママ、また一人で怒られちゃった。『寄生虫』だって。まりちゃんは、ママの味方だよね…? まりちゃんは、ママのお話、ちゃんと聞いてくれるよね…?」
その言葉は、懇願であり、呪いだった。あなただけは、わたしを裏切らないで。あなただけは、わたしの味方でいて。その無言の圧力が、まりなの小さな肩に重くのしかかる。彼女は、無意識に自分の右腕を左手でぎゅっとさすった。長袖のブラウスの下、そこには母親のヒステリーが残した、青や紫の痣がいくつも隠されている。
顔を歪めながらも、まりなは、母親が望む答えを返すしかなかった。
「……うん」
その一言を絞り出すのが、精一杯だった。母親は、その返事に満足したのか、少しだけ安心したように表情を緩める。しかし、その瞳の奥の狂気は消えなどいなかった。
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夜の闇が完全に溶け去り、新しい朝の光が街を白く照らし始めた頃。昨日までとは明らかに違う空気が、二人の小学生の間に流れていた。いつものように、優はしずかの家の前で彼女が出てくるのを待っていた。やがて、ぎぃ、と古びた扉が開く音がして、しずかが姿を現す。その表情は相変わらず硬く、感情の色は薄い。だが、優の姿を視界に捉えた瞬間、彼女の瞳がほんのわずかに、揺らいだ。
「しずかさん! おはようございますっ!」
太陽そのもののような笑顔で、優がぶんぶんと手を振る。昨日、確かに交わした「また明日」という約束。その約束が果たされたことに、彼は心からの喜びを隠さない。しずかは、その眩しい笑顔を直視できず、少しだけ俯きながらこくりと頷いた。
「…………おはよう」
消え入りそうな声だったが、それは紛れもなく返事だった。今まで、朝の挨拶に返事が返ってきたことは一度もなかった。優の笑顔が、さらに輝きを増す。彼は、当然のようにしずかの隣に並ぶと、彼女の小さな手に自分の手を重ねた。昨日、あれほどの時間をかけて温めたはずの手は、また元の冷たさに戻ってしまっていた。けれど、昨日と違うのは、しずかがその手を振り払わず、むしろおずおずと、その温もりを受け入れたことだった。
「行きましょう! 今日も良い天気ですね!」
優が歩き出すと、しずかも無言でそれに続く。二つのランドセルが、朝日を浴びて仲良く揺れていた。道中、優はいつものように、見たもの全てを実況するみたいに喋り続けた。
「あ、見てください、しずかさん! あの電信柱のところに、昨日はいなかった猫さんがいますよ! 白くてふわふわです!」
「ここのお家の塀、なんだか甘い匂いがしますね。お花の匂いかな?」
「あーっ! 僕、朝ごはん食べたばっかりなのに、もうお腹が空いてきちゃいました!」
他愛もない、子供らしいおしゃべり。しずかは、それに相槌を打つことはない。けれど、以前のように完全に無視しているわけでもなかった。優が指さす方をちらりと見たり、彼の言葉に耳を傾けているのが、その僅かな仕草から伝わってくる。彼女を取り巻いていた、分厚く冷たい氷の壁が、少しずつ、しかし確実に溶け始めているのを感じられた。
だが、その穏やかな変化を快く思わない視線が、常に二人を追いかけていた。
学校の昇降口。靴を履き替える生徒たちでごった返す中、まりなとその取り巻きたちが、壁際に陣取って二人を待ち構えていた。まりなの顔には、作り物めいた甘い笑みが浮かんでいる。しかし、その瞳の奥には、昨日見た光景への憎悪と、家庭で受けたストレスのはけ口を求める、冷たくどす黒い光が渦巻いていた。
優としずかが昇降口に入ってきた瞬間、まりなの視線がナイフのように突き刺さる。
「あはー、見て。寄生虫が、新しい宿主を見つけたみたいよ」
ねっとりとした嘲笑が、周囲の喧騒の中でもはっきりと聞こえた。取り巻きの女子たちが、くすくすと下品な笑い声を上げる。その言葉に、しずかの肩がびくりと震え、彼女は反射的に優の手を離そうとした。再び、世界が冷たい色に戻っていく。いつもの日常。いつもの地獄。
しかし、彼女の手が離れるよりも早く、優がその手をぎゅっと強く握り返した。
「?」
優は、きょとんとした顔でまりなたちの方を見た。彼には、その言葉の悪意が全く理解できていないようだった。「寄生虫?」「宿主?」そんな難しい言葉よりも、ただ、しずかの体がまた冷たくなっていくのを感じ取っていた。
「まりなさん、おはようございます! 寄生虫、ですか? どこかに虫さんがいるんですか? 僕は虫さん、ちょっと苦手ですけど……しずかさんは大丈夫ですか?」
あまりにも純粋で、悪意のかけらもない問いかけ。それは、計算され尽くしたまりなの攻撃を、完全に無力化してしまった。まりなは、一瞬、面食らって言葉に詰まる。この馬鹿ガキ、本気で言ってるのか。その空気を読めない無邪気さに、彼女の苛立ちはさらに募っていく。
「……あんた、ほんっとうに馬鹿なのね。こーんな汚いアバズレの娘と一緒にいて、何が楽しいわけ?」
まりなは、もう隠そうともせず、剥き出しの敵意を優に向けた。その剣幕に、周囲の生徒たちが遠巻きに様子を伺い始める。しずかは、顔を真っ青にして俯き、ただ震えていた。自分のせいで、優が巻き込まれていく。
だが、優は少し首を傾げると、不思議そうな顔で、しかしはっきりと答えた。
「汚くなんかないです。しずかさんは、僕の大切な友達ですよ? 友達と一緒にいるのは、とっても楽しいです!」
優の放った、一点の曇りもない〝真実〟の言葉が、昇降口のざわめきを一瞬だけ切り裂いた。その場にいた誰もが、そのあまりにも場違いで、純粋すぎる響きに息を呑む。まりなは、まるで汚物でも見るかのような目で優を睨みつけ、舌打ちをした。真正面からの正論、それも悪意の通じない相手からのそれは、彼女にとって最も不快なものだった。
しずかは、自分のために真っ直ぐな言葉を紡ぐ優の横顔を、ただ見つめていた。握られた手が、じんわりと温かい。自分のせいで、この温かい男の子が傷つけられていく。その恐怖が胸を締め付ける一方で、今まで感じたことのない、誰かに守られるという感覚が、冷え切った心の奥底で小さな灯火のように揺らめいていた。
「……ふん、勝手に言ってれば。どうせあんたも、すぐに本性がわかるわよ」
まりなは、それ以上は無駄だと判断したのか、吐き捨てるようにそう言うと、取り巻きたちを引き連れて教室へと向かった。残された優は、何が起きたのかよく分かっていない様子で首を傾げたが、すぐに気を取り直したように、しずかの手を引いた。
「さ、僕たちも行きましょう、しずかさん」
優は、怯えて俯くしずかの顔を覗き込むようにして、安心させるようににっこりと微笑みかけた。その笑顔は、さっきまでの険悪な空気を全て浄化してしまうかのような、不思議な力を持っていた。しずかは、こくりと小さく頷くと、握られた手に僅かに力を込めて、彼と共に教室へと歩き出した。その小さな背中には、昨日よりもほんの少しだけ、凛とした強さが宿っているように見えた。
午前中の授業は、何事もなく過ぎていった。優は相変わらず元気いっぱいに手を挙げては、時々、的外れな答えを言って先生を困らせ、クラスの笑いを誘っていた。しずかは、その隣で静かに授業を受けていたが、時折、優の横顔を盗み見るその瞳には、以前のような完全な虚無とは違う、微かな好奇心の色が浮かんでいた。
そして、昼休み。
待ちに待った給食の時間を終え、生徒たちが運動場や図書室へと散っていく中、優は自分の席で次の授業の準備をしていた。すると、彼の机に、とん、と指先が置かれる。見上げると、そこにはまりなが、腕を組んで仁王立ちになっていた。その表情は能面のように無表情だが、瞳の奥は笑っていない。
「ちょっと、あんた。話があるから、校舎裏まで来なさい」
命令口調だった。周囲の生徒たちは、面白そうな見世物でも見つけたかのように、ひそひそと囁き合いながら二人を見ている。優は、きょとんとした顔でまりなを見返した。
「僕、ですか? まりなさん、僕とおはなししてくれるんですか! やったあ!」
まるで遊びに誘われたかのように、優は無邪気に喜んだ。その反応に、まりなの眉がぴくりと動く。この底抜けの能天気さが、彼女の神経を逆撫でするのだ。
「いいから、黙って来なさい。一人でよ」
まりなはそう言い残すと、踵を返して教室を出て行った。優は、隣の席のしずかの方を向いた。しずかは、心配そうに、不安げな眼差しで優を見つめている。その目は「行かないで」と訴えているようだった。
「大丈夫ですよ、しずかさん。まりなさんと、ちょっとおはなししてくるだけですから。すぐ戻りますね!」
優は、そう言ってしずかの頭を優しくぽんぽんと撫でると、いそいそと席を立ち、まりなの後を追って教室を出て行った。残されたしずかは、自分の無力さに唇を噛み締めながら、優が消えていったドアを、ただ見つめることしかできなかった。
校舎裏は、日中でも薄暗く、じめじめとした空気が漂っていた。古い体育用具が打ち捨てられ、どこか寂れた雰囲気が漂うその場所には、すでにまりなが壁に寄りかかって待っていた。彼女の周りには、いつもの取り巻きの女子たちが二人、腕を組んで立っている。明らかに、友好的な話し合いの場ではない。
「まりなさん、お待たせしました!」
優は、そんな不穏な空気も全く意に介さず、息を切らしながら駆け寄ってきた。その能天気な姿に、まりなの表情が冷たく凍りつく。
「あんたさあ……」
地を這うような低い声だった。
「いい加減、気づきなさいよ。あんた、邪魔なの」
「邪魔……ですか?」
優は、心底不思議そうに鸚鵡返しをしながら首を傾げる。
「わたし、あんたのそういうところが死ぬほど嫌いなの」
薄暗い校舎裏に、まりなの凍てつくような声が響いた。優の、あまりにも純粋で、状況を理解していないオウム返しのような問いかけ。それが、彼女の中でかろうじて保たれていた理性のタガを、ぷつりと断ち切った。苛立ちが、衝動的な暴力へと姿を変える。
振り上げられたまりなの右手が、乾いた音を立てて優の左頬を打った。
「―――っ!」
パァンッ、という、場に不似合いな軽い音が響き渡る。衝撃で視界がぐらりと揺れ、優の小さな体はなすすべもなくバランスを崩し、地面にぺたんと腰をついてしまった。じんじんと熱を持つ頬の痛み。何が起きたのか、すぐには理解できない。驚きに見開かれた瞳が、目の前に仁王立ちするまりなを捉える。
「な……」
だが、優が何かを口にするよりも早く、まりなは間髪入れずに言葉の刃を突き立てた。その顔は、憎悪と侮蔑で醜く歪んでいる。
「お前さぁ、ウザいんだよ。何がしたいわけ? 私の邪魔して、楽しい?」
言葉と同時に、まりなの足が振り上げられる。狙いは、地面に座り込んだままの優の顔。優は咄嗟に腕で庇おうとするが、間に合わない。運動靴の汚れたつま先が、彼の顎のあたりを鈍く蹴り上げた。ごつん、という衝撃で後頭部を地面に打ち付け、視界に星が散る。口の中に、じわりと鉄の味が広がった。
「ぐ……っ……」
わけがわからない。どうして。どうしてこんなことを。痛みと混乱の中で、優の思考はただ一点に集中する。この少女が、どうしてあんなにもしずかを傷つけるのか。その理由が知りたい。理解したい。
「な、んで……まりなさんは…。しずかさんに…酷いこと…するんですか…? き、きっと…話し合えばわか────」
分かり合えるはず。その言葉が最後まで紡がれることはなかった。優の、あまりにも現実離れした理想論は、まりなの神経をさらに逆撫でしただけだった。
「―――うるっさい!」
金切り声と共に、まりなの足が再び振り上げられる。今度は、無防備に晒された優の体の中心、鳩尾を狙って。ずぶり、と内臓をえぐられるような鈍い衝撃が走り、優の喉から「かっ…」という息の詰まる音が漏れた。肺から空気が強制的に絞り出され、呼吸ができない。視界が白く点滅し、酸っぱい胃液が喉の奥からせり上がってくる。苦しい。痛い。
ぜえ、ぜえ、と荒い呼吸を繰り返す優を、まりなは氷のように冷たい目で見下ろしていた。その瞳には、もはや憐憫の色など一片もない。あるのは、家庭で受けたストレスと、思い通りにならない現実への苛立ち、そして、その全てを最も弱い者へとぶつける、醜い優越感だけだった。
「男に寄生して生きてるアバズレの娘と、道徳語り合えって? ……笑わせんなよ」
彼女は、心の底から軽蔑するように、そう吐き捨てた。その言葉は、まるで父親が母親に投げつける言葉の生き写しだった。小学生の口から出るには、あまりにも歪で、どす黒い響きを持っている。取り巻きの二人は、その光景をただ面白そうに、あるいは少し怯えたように見ているだけで、止めようとはしない。校舎裏は、彼女たちだけの閉ざされた王国であり、ここではまりなの暴力が絶対の法だった。
「あんたが来たせいで、全部めちゃくちゃ。わかる? あの汚い寄生虫は、わたしがちゃんと『教育』してやってたのに。あんたみたいなのが甘やかすから、図に乗るんだよ」
まりなは、うずくまる優の髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。痛みで涙が滲む優の瞳に、自分の歪んだ顔が映り込む。
「もう二度と、久世しずかに関わるな。次にヘラヘラしながらあいつの隣にいたら……今度は、こんなもんじゃ済まないから」
それは、紛れもない脅迫だった。優は、呼吸もままならない苦しさの中で、ただ喘ぐことしかできない。どうして、と問う声も出なかった。ただ、目の前の少女の瞳の奥に、自分と同じくらいの年頃の子供が浮かべるべきではない、深い闇と孤独が渦巻いているのを、ぼんやりと感じていた。
しかし、鳩尾を抉られた衝撃で何も聞こえない。
ただ、ぜい、ぜい、と自分の喉から漏れるみっともない喘鳴だけが、やけに大きく頭の中に響いている。痛い。苦しい。まりなから叩きつけられた言葉の刃が、蹴られた体の痛み以上に、心の深いところをじくじくと蝕んでいく。髪を掴まれ、脅迫の言葉を浴びせられても、優はただ喘ぐことしかできなかった。
やがて、まりなは用は済んだとばかりに、汚いものでも払うかのように優の髪から手を離した。彼の体は、糸の切れた人形のように再び地面に崩れ落ちる。
「さ、行こ行こ♪」
まりなは、取り巻きたちにそう声をかけると、一度も振り返ることなく、その場を立ち去っていく。勝ち誇ったような笑い声と、遠ざかっていく足音。やがて、校舎裏には、うずくまる優と、じめついた空気だけが残された。
しばらくの間、優は動けなかった。体の痛みと呼吸の苦しさで、思考がまとまらない。けれど、ゆっくりと、しかし確実に、彼の心の中に一つの感情が燃え広がり始めた。それは、恐怖でも、悲しみでも、まりなに対する怒りでもなかった。
嫌だ。
何が嫌なのか。自分が殴られたこと? 蹴られたこと? そんなのは、どうでもいい。こんな痛み、いつかは消える。親を亡くしたあの日の絶望に比べれば、こんなものは擦り傷みたいなものだ。
でも、でも、でもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでも―――
嫌なんだ。
しずかさんが、あんな風に言われ続けることが。
まりなさんが、誰かを傷つけることでしか自分を保てないことが。
二人が、すぐ近くにいるのに、お互いを理解しようとせず、理解し合うことのできない現状が。
嫌で、嫌で、たまらない。
このままじゃダメだ。
だから。
こんな所で蹲っちゃ駄目だ。
口を開かなきゃ駄目だ。
立たなきゃ。
歩きゃなきゃ。
走らなきゃ。
〝あの子を一人にしちゃ駄目だ〟
優の心の中で、もう一人の「ぼく」が叫んでいた。
「……っ、う……!」
呻き声と共に、優は震える腕を地面についた。まだ息は整わない。腹の奥が、熱い鉄の棒でかき混ぜられたように痛む。それでも、彼は歯を食いしばり、ゆっくりと、ミリ単位で体を持ち上げ始めた。膝を立て、壁に手をつき、全身の筋肉を総動員して、ふらつきながらも、ついに立ち上がった。
視界がまだ揺れている。まっすぐ立つことさえ覚束ない。それでも、優は一歩、前に足を踏み出した。まりなたちが去っていった方向へ。
「……ま、りな……さんっ……!」
掠れた声で、その名前を呼ぶ。返事はない。もう校舎の角を曲がってしまったのだろうか。
待って。待ってください。
優は、痛む腹を押さえながら、よろよろと走り出した。まだ完全ではない呼吸が、走るたびに喉に突き刺さる。それでも足を止めない。
あの人を一人に、するな。
校舎の角を曲がると、まりなたちの背中が遠くに見えた。彼女たちは、昼休みの喧騒が戻り始めた渡り廊下を歩いている。
「まって……くださ……っ!」
叫びながら、優は必死に腕を伸ばす。その鬼気迫る様子に、周囲の生徒たちが何事かと振り返る。その視線の中に、まりなもいた。彼女は、まさか追いかけてくるとは思わなかったのだろう、驚きに目を見開いている。
「な……なによ、あんた……まだ何か……」
優は、ようやくまりなたちの前にたどり着くと、ぜえぜえと肩で息をしながら、その場に膝をついた。もう走る力は残っていなかった。しかし、顔だけは、必死にまりなを見上げていた。その瞳には、非難の色も、怒りの色もない。ただ、ひたむきな、何かを訴えかけるような光だけが宿っていた。
「まりなさん……一人で……行かないで……ください……」
渡り廊下に響いたのは、暴力を振るわれたことへの恨み言ではなかった。非難でも、怒りでもない。それは、自分を傷つけた相手に対して向けられた、あまりにも純粋で、ひたむきな懇願だった。優が放った、予想の斜め上を行く言葉に、その場にいた誰もが思考を停止させる。まりなも、その取り巻きたちも、そして遠巻きに見ていた他の生徒たちも、目の前で起きていることが理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「僕も……連れてって……ください……。まりなさんの……おはなし聞きたいです……。しずかさんのことだけじゃなくて……まりなさんのことも……僕、知りたいです……から……っ」
ぜえ、ぜえ、と苦しげな呼吸の合間に紡がれる言葉。その一つ一つが、まりなの築き上げた固い心の壁を、内側から叩いているようだった。なんだ、こいつは。どういうつもりだ。まりなの頭の中は混乱で真っ白になる。馬鹿にしているのか? からかっているのか? だが、膝をつき、自分を見上げてくる優の瞳には、そんな不純な色は一切見当たらない。そこにあるのは、ただ真っ直ぐな、一点の曇りもない真剣な光だけだった。
「……な、に……言ってんの……あんた……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどに震えていた。その瞬間、優の瞳から、ぽろり、と大粒の涙が零れ落ちた。それは、体の痛みから来るものだったのかもしれない。あるいは、もっと別の、心の深いところから湧き上がってきた、どうしようもない感情の奔流だったのかもしれない。
嫌だ、と彼の心が叫んでいた。自分が傷つくことなんかよりも、この優しいはずの女の子が、たった一人で闇の中にいることが。しずかさんとまりなさんが、お互いを理解できずに傷つけ合う未来が。それが、たまらなく嫌だった。
涙で視界が滲む中、優はふらりと、もう一度立ち上がった。まるで何かに引き寄せられるかのように、千鳥足で一歩、また一歩と、硬直するまりなへと近づいていく。その姿は、満身創痍で、今にも倒れてしまいそうに危うげだった。
「来ないで……!」
まりなは、得体の知れないものから逃れるように、反射的に後ずさる。しかし、優は止まらない。彼は、震える手をゆっくりと伸ばした。そして、まりなが振り払うよりも早く、その冷たい指先を、自分の手でそっと、しかし確かに、包み込むように握った。
「……!」
まりなの体が、びくりと大きく跳ねる。握られた手から、優の熱と、小刻みな震えが伝わってくる。汚い。気味が悪い。そう思って振り払おうとするのに、なぜか体が動かない。自分を殴り返すでもなく、罵るでもなく、ただ涙を流しながら、温かい手で自分の手を握るこの存在が、彼女には理解できなかった。
「まりなさんの手……冷たいです……」
優は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでもふにゃりと、弱々しく笑ってみせた。その笑顔は、あまりにも痛々しく、そして、どうしようもなく優しかった。
「僕の手……温かいですか……? もし……よかったら……この温かさ、まりなさんにも……あげますから……」
だから、一人で行かないで。一人で、苦しまないで。言葉にならない祈りが、握られた手を通して、奔流のようにまりなの心へと流れ込んでいく。それは、彼女が心の奥底でずっと求めていたけれど、決して手に入らなかったもの。無条件の、肯定と優しさ。
「……っ、離しなさいよ!!」
まりなは、絶叫するように叫び、ついにその手を乱暴に振り払った。その勢いで、立っているのがやっとだった優の体は、再びぐらりとバランスを崩し、今度こそ床に倒れ込んでしまう。
「さわん……な……!」
彼女は、握られていた自分の手を、もう片方の手で庇うように抱きしめた。そこには、まだ優の温もりが、生々しく残っている。その温もりが、まるで毒のように自分の心を侵食してくるようで、恐ろしくてたまらなかった。
「意味わかんない! あんた、マジで、気色悪い!!」
そう吐き捨てると、まりなは顔を覆うようにして、その場から逃げ出した。取り巻きたちも、慌ててその後を追っていく。
昼休みの喧騒の中、渡り廊下に一人、倒れたままの優が残された。遠巻きに見ていた生徒たちも、腫れ物から逃げるように散っていく。やがて、その中に、ずっと教室のドアから様子を伺っていた影が一つ、駆け寄ってきた。しずかだった。彼女は、倒れている優に近づく。
「……大丈夫…?」
そして、震える声で、しずかが問いかける。彼女は優のそばにしゃがみ込むと、おそるおそる、彼の腕に触れた。その指先は氷のように冷たく、不安に小刻みに震えている。自分のせいで。自分のせいで、この優しくて温かい男の子が、こんな酷い目に遭っている。罪悪感が、しずかの胸を鋭く抉った。
優は、体のあちこちに走る鈍い痛みに関心を向けないようにしながら、ぼんやりと彼女の顔を見つめた。そして、まるでそうすることが当たり前であるかのように、力の入らない唇を懸命に動かし、いつものように笑ってみせようとした。それはひどく歪で、痛々しい笑顔だったが、紛れもなく、目の前の少女を安心させるためのものだった。
「……だいじょうぶ、です……。ちょっと、転んじゃっただけ、ですから……」
嘘だ。誰が見ても、ただ転んだだけの怪我ではない。唇の端は切れ、頬は赤く腫れ上がっている。何より、その瞳から生気が失われかけていた。しずかは、何も言えずに唇を噛み締める。かける言葉が見つからない。自分が下手に何かを言えば、彼をさらに苦しめるだけかもしれない。そんな無力感が、彼女を苛んだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、無情に鳴り響く。しずかは、小さな体で懸命に優の体を支え、よろよろと保健室へと向かった。養護教諭は、優の怪我を見て驚き、何があったのかと問い詰めたが、彼はただ「階段で派手に転んじゃいました」と笑って繰り返すだけだった。その隣で、しずかは俯いたまま、ぎゅっと自分の服の裾を握りしめていた。
午後の授業は、優にとっても、しずかにとっても、ほとんど上の空だった。優は、体の痛みと戦いながらも、時折隣のしずかの様子を伺う。彼女はいつも以上に硬い表情で、黒板を睨みつけていた。その背中からは、後悔と自己嫌悪の棘が突き出しているように見えた。
そして、放課後。いつもより少し重い空気を纏いながら、二人は家路についていた。夕焼けが、二人の小さな影を長く長く、アスファルトの上に伸ばしている。
優は、口元に貼られた絆創膏と、腫れた頬のせいで、いつものようには喋れなかった。それでも、彼はしずかの手を握り、隣を歩くことをやめない。その沈黙は、しかし、決して気まずいものではなかった。ただ、共有された痛みが、言葉以上の繋がりを二人の間に生んでいた。
しずかの家の少し手前、いつも別れる曲がり角に差し掛かった時だった。今までずっと黙って俯いていたしずかが、ぽつりと、独り言のように呟いた。
「……あのね」
優が黙って彼女の方を向くと、しずかは視線を地面に落としたまま、言葉を続けた。それは、心の奥底から絞り出した、とてもか細く、けれど確かな響きを持つ声だった。
「最近は……」
彼女は一度、言葉を切り、ぎゅっと唇を結ぶ。何を言おうとしているのか、自分でも迷っているようだった。優は、急かすことなく、ただ静かに彼女の次の言葉を待つ。
「……あなたのおかげで……悪くないんだ」
その言葉は、夕暮れの空気の中に、儚く溶けていった。
悪くない。それは、楽しい、とか、嬉しい、とか、そういう積極的な感情ではない。けれど、今まで「最悪」で「地獄」だった彼女の世界が、ほんの少しだけ、耐えられるものに変わったという、最大限の心情の吐露だった。優が転校してきて、強引に手を引かれ、いじめから守られ、温かい言葉をかけられ……その一つ一つが、分厚い氷に覆われた彼女の心に、小さなひびを入れていたのだ。今日、彼が自分のために傷つく姿を見て、そのひびは、決定的な亀裂へと変わった。
優は、その言葉の意味を、ゆっくりと、しかし深く理解した。体の痛みの全てが遠くへと洗い流されていくような感覚があった。
頬の腫れも、唇の傷も、腹の奥の鈍痛も、この一言のためだったのなら、全て意味があったのだと思える。彼は、握ったしずかの手に、そっと力を込めた。言葉にはせず、ただその温もりで、彼女の勇気に応えたかった。
やがて、二人はしずかの家の前にたどり着く。古びた木造の一軒家は、夕日を浴びて物悲しい影を落としていた。いつものように、ここで別れの挨拶をする。優がそう思った、その時だった。
家の敷地の、雑草が生い茂る庭の奥から、何かがするりと飛び出してきた。それは、白くて黒い大きな犬だった。少し汚れてはいるが、毛並みはふわふわとしていて、賢そうな瞳をしている。その犬は、一直線にしずかの元へと駆け寄ると、彼女の体に前足をかけ、喜びを全身で表現するように、その顔をぺろぺろと舐め始めた。
「わっ、チャッピー、ただいま」
それまで無表情だったしずかの顔が、その瞬間、魔法が解けたようにふわりと綻んだ。それは、優が今まで一度も見たことのない、年相応の、心からの笑顔だった。彼女は、自分より大きな犬の首に腕を回し、そのふわふわの毛に顔をうずめる。その姿は、学校で見せる孤独な影をまとった少女とはまるで別人だった。
優は、その光景に完全に心を奪われていた。目の前で起きている、あまりにも尊くて、温かい交流。そして、その大きな犬の存在に、子供らしい好奇心がむくむくと湧き上がってくる。
「わぁ……!」
感嘆の声が、思わず口から漏れた。優の瞳は、これ以上ないほどにキラキラと輝いている。その視線は、しずかに抱きついている大きな体に注がれていた。なんて大きな犬なんだろう。なんてふわふわの毛並みなんだろう。
「しずかさん、この子……! この子は、しずかさんのお友達なんですか!?」
興奮を隠しきれない様子で、優が尋ねる。彼の純粋な驚きと喜びに満ちた声に、チャッピーと名付けられた犬は、しずかの腕の中から顔を上げ、くんくんと鼻を鳴らしながら優をじっと見つめた。警戒しているようでもあり、興味を示しているようでもあった。
しずかは、愛犬を撫でながら、少し照れたように、そして誇らしげに答えた。
「……うん。チャッピー。私の、家族」
家族、という言葉に、特別な響きがこもっていた。それは、彼女にとってこの犬がどれほど大切な存在であるかを物語っている。チャッピーは、しずかの言葉を理解したかのように、一度「わん!」と短く吠えると、彼女から離れ、今度は優の方へとおそるおそる近づいてきた。そして、地面に座り込むようにしておとなしくなり、大きな尻尾をぱたぱたと振って、優の匂いを嗅ぎ始めた。
「わ、わわ……! こんにちは、チャッピーさん! 僕、一ノ瀬優って言います! しずかさんの、お友達です!」
優は、少し腰をかがめて犬の目線に合わせると、自己紹介を始めた。その姿は、まるで新しいクラスメイトに挨拶するかのように、礼儀正しく、そして無邪気だった。チャッピーは、優の体から漂う、怪我の匂いと、彼自身の持つ優しい匂いを嗅ぎ分けるかのように、しばらくの間、彼の周りをくんくんと嗅ぎ回っていたが、やがて敵意がないと判断したのか、その大きな頭を優の膝にすり、と擦り付けてきた。
「うわあ……! 懐いてくれた……! しずかさん! チャッピーさん、僕のこと、好きになってくれたみたいです!」
嬉しそうに声を上げる優と、その様子を優しい笑顔で見守るしずか。そして、二人の間を行き来するように尻尾を振るチャッピー。
夕暮れの、古びた家の前。そこには、学校での冷たい現実とは切り離された、温かくて穏やかな時間が流れていた。それはまるで、一枚の絵画のように、完成された幸福の形をしていた。この瞬間、優は、自分が傷つきながらも追い求めてきたものが、確かにここにあるのだと、強く感じていた。
以上です。