第3話。
時々一ノ瀬優の名前の表示に不具合が発生することがあります。読む際はお気を付けください。
次いで、全てに共通しますがお話は三人称の神視点で届けているのでご注意ください。
翌朝、いつものようにしずかの家の前で待っていた優は、扉が開いて彼女が姿を現した瞬間、昨日とは違う感情が込み上げるのを感じていた。それは、彼女の隣にいた、大きな白い犬の存在だ。チャッピーは、優の姿を認めると、嬉しそうに「わん!」と一声吠え、大きな尻尾をぶんぶんと振った。
「チャッピーさん、おはようございます!」
優が駆け寄ってそのふわふわの頭を撫でると、チャッピーは気持ちよさそうに目を細める。その傍らで、しずかは「いってきます」と母親にではなく、チャッピーにだけ告げて家を出た。その横顔には、昨日見せたような、柔らかい光が宿っている。
学校までの道すがら、話題は自然とチャッピーのことになった。優が「チャッピーさんは何が好きなんですか?」「お散歩は毎日行くんですか?」とキラキラした瞳で質問すると、しずかはぽつり、ぽつりと、しかし嬉しそうにそれに答える。昨日までの重苦しい沈黙が嘘のように、二人の間には穏やかで温かい空気が流れていた。優の頬の腫れはまだ少し残っていたが、その痛みを感じさせないほど、彼の心は満たされていた。
教室に入ると、空気が一瞬だけ凍りつく。まりなとその取り巻きたちが、こちらを値踏みするような冷たい視線で一瞥したが、優がいつも通りの満面の笑顔で「まりなさん、皆さん、おはようございます!」と挨拶すると、気まずそうに顔を逸らし、ひそひそと何かを囁き始めた。昨日の出来事は、彼女たちの中でまだ消化しきれていないようだった。
始業前の、ざわついた時間。優は、鞄から教科書を取り出そうとして、不意に指先に鋭い痛みを感じた。見ると、ノートの金具でさっくりと切ってしまったらしく、ぷくりと血の玉が浮かび上がっている。
「あ……」
隣の席のしずかが、その小さな傷に気づき、心配そうに眉をひそめた。優は彼女を安心させるように「大丈夫です!」と笑顔を見せると、席を立ち、教室の後ろに設置されている水道へと向かった。冷たい水で傷口を洗い流していると、不意に背後から声がかかる。
「……君、一ノ瀬優くんだよね」
振り返ると、そこに立っていたのは、クラスの中でもひときわ真面目そうで、落ち着いた雰囲気の少年だった。
東直樹。彼は、いつもクラスのいじめを見て見ぬふりをしている他の生徒たちとは少し違い、時折、苦々しげな顔でその光景を見つめていることがあった。
「はい! 僕、一ノ瀬優です! えっと……東さん、ですよね?」
優が人懐っこい笑顔で応じると、東はこくりと頷いた。彼の視線は、優が水で流している指先と、まだ微かに腫れの残る頬に注がれている。その瞳には、単なる好奇心とは違う、何かを探るような、分析するような色が浮かんでいた。
「その怪我……昨日、雲母坂さんたちにやられたんだろう」
それは、質問ではなく、断定だった。東は、校舎裏での一件を、直接ではないにせよ、噂か何かで知っているらしかった。彼の真面目な顔つきが、さらに硬くなる。
「どうして、先生に言わないんだ? それに、あんな風に言われて……殴られて、腹が立たないのか?」*
東の問いかけは、純粋な疑問だった。彼にとって、暴力には力で、あるいは正論で対抗するのが「正しい」ことだった。
いじめは解決されるべき問題であり、そのためには「完璧な」対応が求められる。しかし、目の前の転校生の行動は、彼の理解の範疇を完全に超えていた。
優は、指先から流れる血を止めると、蛇口を閉め、不思議そうに首を傾げた。
「……? どうしてです? まりなさんも、きっと何か、苦しいことがあるんだと思います。僕がやり返したら、まりなさんはもっと苦しくなっちゃいます。それに……」
優は、東の目を真っ直ぐに見つめ、にこりと笑った。それは、全ての計算や損得を超越した、絶対的な優しさから来る笑顔だった。
「腹は立ちませんよ。だって、僕、まりなさんのことも、友達になりたいって思ってますから。友達に叩かれたら、どうして?って悲しくはなりますけど、怒ったりはしないです」
教室の後ろ、水道の蛇口から滴り落ちる水の音だけが、やけにクリアに響いていた。東直樹は、優から返ってきた、あまりにも予想外で、彼の持つ倫理観や常識の物差しでは到底測りきれない言葉に、完全に思考を停止させていた。
友達になりたい? 殴ってきた相手と? 怒らない? 悲しいだけ? 目の前の小さな転校生が、一体何を言っているのか、彼の優秀な頭脳をもってしても、全く処理することができなかった。まるで、未知の言語と異星人の価値観で話しかけられているかのような、途方もない断絶感。
黙り込んでしまった東の様子に、優は純粋な不思議を感じていた。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。彼はただ、自分の心の中にある本当の気持ちを、正直に口にしただけだった。こてん、と小首を傾げ、その反応をうかがう。しかし、東は石像のように固まったまま動かない。始業のチャイムが鳴り始めている。
「えっと……じゃあ、もう行きますね?」
優は、これ以上ここにいても話は進まないと判断し、軽く会釈をしてその場を去った。彼の背中を、東の信じられないものを見るような視線が突き刺している。
やり返さない。腹も立てない。ただ、悲しいだけ。そして、友達になりたいと願う。そんなことが、果たして人間として可能なのだろうか。東の心に、これまで抱いたことのない種類の、巨大な疑問符が刻み込まれた瞬間だった。
自分の席に戻ると、しずかが心配そうな瞳でこちらを見上げていた。優は、そんな彼女を安心させるように、にこりといつもの笑顔を向けた。まるで、「何でもなかったですよ」とでも言うかのように。その笑顔に、しずかは少しだけ表情を和らげるが、その瞳の奥の憂いは完全には晴れない。彼女は知っているのだ。優のその笑顔が、どれだけの痛みを隠すためのものであるかを。
授業が始まると、教室は再びいつもの日常を取り戻した。先生の声、チョークの音、ページをめくる音。しかし、その日常の裏側では、いくつかの心が静かに、しかし激しく揺れ動いていた。優の隣で、しずかは時折、彼の横顔を盗み見る。その頬に残る腫れを見るたびに、自分の無力さを呪った。教室の少し離れた席では、まりなが忌々しげに優を睨みつけ、昨日握られた手の温もりが蘇っては、苛立ちに唇を噛む。そして、東直樹は、黒板の文字を目で追いながらも、頭の中では先ほどの優の言葉を何度も反芻し、その行動原理を必死に理解しようと努めていた。
一人の純粋すぎる転校生の存在が、この澱んだ教室の人間関係に、確実に波紋を広げ始めていた。それはまだ、水面に落ちた小石が作る、ごく小さな波紋に過ぎない。しかし、その波は、やがてこの淀んだ水そのものを、根底から揺るがすことになるのかもしれなかった。
優は、そんな周囲の心の揺れには全く気づかず、ただ一生懸命に黒板の文字をノートに写していた。彼にとって重要なのは、今、この瞬間、隣にいるしずかが、少しでも「悪くない」と思える時間を過ごせていること、ただそれだけだった。
それは、初夏の日差しがアスファルトをじりじりと焦がし始めた、ある日の午後のことだった。
学校が終わり、優はいつものようにしずかと帰路を歩いていた。優が無邪気に話を振り、しずかが小さく返す。
いつもの、平和で温かい帰り道だった。
しずかと別れ、一人アパートへの道を歩いていた優は、ふと、道の隅にある古びた駄菓子屋の前で足を止めた。店の名前は、かすれた文字で「さかした商店」と書いてある。店先には、色とりどりの駄菓子や、懐かしいおもちゃが所狭しと並べられていたが、今日の店の前は様子が違った。
店の主である、腰の曲がった小柄な老婆が、店の前に散らばった大量のラムネ瓶を前に、途方に暮れたように立ち尽くしていたのだ。どうやら、新しく仕入れた商品を店内に運び込もうとして、誤って木箱をひっくり返してしまったらしい。ガラスの瓶がカシャン、カシャンと虚しい音を立てている。
「あわわ……どうしましょう……」
老婆は、か細い声でそう呟きながら、震える手で瓶を拾おうとするが、腰が痛むのか、うまく屈むことができないでいた。
その姿を見た瞬間、優は駆け出していた。
「おばあさん! 大丈夫ですか!?」
突然現れた小さな少年に、老婆は驚いたように目を見開く。
「ぼ、坊や……」
「僕がお手伝いします! 怪我はありませんか?」
優は、自分のことなどそっちのけで、まず老婆の身を案じた。そして、老婆が大丈夫だと首を縦に振るのを確認すると、すぐさま散らばったラムネ瓶を一つ一つ丁寧に拾い集め始めた。幸い、ほとんどの瓶は割れていないようだった。
「まあ、なんて良い子なんだろうねぇ……ありがとうよ、坊や」
「いえいえ! お困りの時はお互い様です!」
優は、にぱっと太陽のような笑顔を向けると、手際よく瓶を木箱に戻していく。その動きには一切の無駄がなく、まるで熟練の店員のようにスムーズだった。
あっという間に全ての瓶を拾い集めると、今度は「よいしょっ!」と小さな体に似合わない気合の掛け声と共に、その木箱を軽々と持ち上げた。
「これを、お店の中に運べばいいんですね?」
「え、あ、あぁ……でも、重いだろうに……」
「へっちゃらです! 僕、力持ちなので!」
そう言って、優はたった一人でラムネの箱を店内の所定の場所まで運んでしまった。老婆は、その健気で頼もしい姿を、ただただ感心したように見つめていることしかできなかった。
「ふぅー! これで全部ですね!」
「……本当に、ありがとうねぇ。お礼をしなくちゃならんね。好きな駄菓子を持ってお行き」
老婆が感謝を込めてそう言うと、優はぶんぶんと首を横に振った。
「そんな! いいんです! 助けたいから助けただけなので!」
そう言うと、彼は「それじゃあ!」と元気よく挨拶をして、風のように去っていった。老婆は、その小さな後ろ姿が見えなくなるまで、温かい眼差しで見送っていた。
その日を境に、優は放課後になると、たびたびその駄菓子屋に顔を出すようになった。
最初は、店の前の掃き掃除を手伝ったり、重い荷物を運んだりするだけだった。老婆はいつも「もう十分だよ」と恐縮するのだが、優は「僕がやりたいんです! おばあさんとおはなししするのも楽しいですし!」と笑って手伝いをやめなかった。献身的なその姿と、何より人懐っこい笑顔に、老婆も次第に心を許し、彼が店に来るのを楽しみに待つようになっていった。
優は、持ち前の家事能力を遺憾なく発揮した。商品の陳列を綺麗に整えたり、古くなった商品の日付をチェックしたり、床をピカピカに磨き上げたりと、老婆が一人ではなかなか手の回らなかった細かい作業を、言われる前に見つけては片付けていく。
「坊やは、本当に働き者だねぇ」
「えへへ、褒められちゃいました!」
そんな日々が数週間続いたある日のこと。
放課後、優はしずかの私服の袖が、ほつれてほとんどちぎれかけていることに気づいた。それは、いじめによるものか、あるいは単に古くなったせいかは分からない。しかし、そのみすぼらしい袖口を見るたびに、彼の胸は小さく痛んだ。
その後、どうにか出来ないかと悩みながらも帰宅中。アパートのゴミ捨て場にとある雑誌が捨てられているのを目撃した。ちらりと、表紙が自然と視線の隅に入る。
(……しずかさんに、あんな服をプレゼントしたら、喜んでくれるかな……)
優の心に、そんな思いが芽生えた。笑顔を想像するだけで、自分の胸まで温かくなる。しかし、そのためにはお金が必要だ。親族から送られてくる生活費は、優が質素に一人で暮らしていくには十分だったが、高価なプレゼントを買うほどの余裕はなかった。自分のためにお金を使うという発想が今までなかった優にとって、それは初めて直面する「お金の壁」だった。
どうしようか。
その日から、優の頭の中はそのことでいっぱいになった。どうすれば、しずかさんを、あんな服でびしっと可愛くしてあげられるだろう。その一心だった。
そんなことを考えながら、いつものように放課後に「さかした商店」を訪れた。カラカラと乾いた音を立てて引き戸を開けると、番台に座っていた老婆が、柔らかな皺の刻まれた顔をほころばせた。
「おや、坊や。今日も来てくれたのかい」
「こんにちは、おばあさん! 今日もお手伝いさせてください*
優は元気よく挨拶すると、慣れた手つきで店の隅に立てかけてあった小さな箒を手に取る。しかし、その日の彼はどこか上の空だった。いつもなら鼻歌でも歌いながら楽しそうに掃除をするのに、今日は時折「うーん……」と小さく唸りながら、何かを深く考え込んでいる様子だった。
その変化に、老婆はすぐに気づいた。
「坊や、どうしたんだい? 何か悩み事かい?」
優しい声で尋ねられ、優ははっと顔を上げた。そして、箒を持つ手を止め、少しだけ躊躇うように視線を足元に落とした。自分の身の上を話すことには慣れていない。けれど、この優しいおばあさんになら、少しだけ話してもいいかもしれない。そんな気持ちが芽生えていた。
「あの……えっとですね……」
優は、言葉を選びながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「僕、どうしても欲しいものがあるんです。僕のためじゃなくて……その、すごく大切なお友達のために」
彼は、しずかの名前こそ出さなかったが、その口調からは、その「お友達」をどれだけ大切に思っているかがひしひしと伝わってきた。
「プレゼントをしたいんです。すごく素敵なプレゼントを。その子たちが、もっともっと笑顔になってくれるような……。でも、僕、お金が足りなくて……」
そこまで言うと、優はきゅっと唇を結んだ。弱音を吐くことに慣れていない彼にとって、それはとても勇気のいる告白だった。老婆は、彼の言葉を黙って、じっと聞いていた。そして、全てを話し終えた彼に、ゆっくりと、しかし確信に満ちた声で言った。
「……そうかい。それなら、ちょうどよかった」
「え?」
「わしもね、ちょうど考えていたところなんだよ。こうして毎日、坊やに手伝ってもらって、本当に助かってる。掃除も、荷物運びも、商品の整理も、坊やが来てくれるようになってから、店が見違えるようにきれいになった。お客さんからも、最近店が明るくなったねって褒められるんだよ」
老婆は、慈しむような眼差しで優を見つめた。
「だからね、ただ手伝ってもらうだけじゃ、わしの気が済まない。これからは、ちゃんとお駄賃を払わせておくれ。アルバイト、だね」
「アルバイト……!?」
優は、驚いて目を丸くした。アルバイトという言葉は知っていたが、まさか自分がそれをすることになるとは思ってもみなかった。
「でも……いいんですか? 僕、好きでやっているだけなのに……」
「いいんだよ。これは、わしが坊やに働いてほしいから、お願いすることなんだ。ちゃんとした仕事として、ね。だから、ちゃんとお給料を受け取っておくれ。どうだい? やってくれるかい?」
老婆の提案は、優にとってまさに天からの助け舟だった。これなら、正々堂々と働いて、自分でお金を稼ぐことができる。そして、そのお金で、まりなとしずかへのプレゼントを買うことができるのだ。
優の顔が、ぱあっと太陽のように輝いた。さっきまでの悩みはどこかへ吹き飛んでしまい、瞳は希望の光できらきらと満ちている。
「はいっ!! やります! やらせてください! 僕、一生懸命働きます!」
彼は、その場で深々と、勢いよく頭を下げた。その真摯な姿に、老婆は満足そうに頷いた。
「よし、決まりだね。じゃあ、改めてよろしく頼むよ、優ちゃん」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします! 」
優は、元気いっぱいの声で返事をした。こうして、小学六年生の少年、一ノ瀬優の、人生で初めてのアルバイトが始まったのである。
そして、そして、そして。
あれから何日も経ったある日の休日。
彼は駄菓子屋での手伝いで貯めたわずかなお小遣いを握りしめ、週末に町の小さな洋品店へ向かった。
そして、自分の背丈よりも少しだけ大きい、けれどしずかならきっと似合うだろう、白いブラウスと、動きやすそうなスカートを選んだ。
「しずかさん、これ…! よかったら、着てください!」
月曜日の朝、いつものように家の前で、彼は少し照れながら紙袋を差し出した。しずかは驚いて目を見開いたが、袋の中の真新しい服を見ると、言葉を失ったように立ち尽くした。
誰も彼女に、何かを与えてくれる人はいなかった。ましてや、彼女のために何かを選んでくれる人など。彼女は震える手でそれを受け取ると、消え入りそうな声で「……ありがとう」とだけ呟いた。その声は、優の心に温かい光を灯した。
またある時には、まりなたちによって、しずかのランドセルに「死ね」「寄生虫」「クズ」「汚物女」といったおぞましい言葉が油性マジックでびっしりと書き殴られる事件が起きた。それを見つけた優は、深い悲しみに襲われた。彼はその日の放課後、しずかの手を引き、自分のアパートへと連れて行った。
*「見ててください、しずかさん! こういう油性の汚れは、除光液か、なければミカンの皮で擦ると薄くなるんですよ!」*
*彼は小さな体で懸命に、雑学を披露しながらランドセルを磨き始めた。しかし、深く染み込んだインクは、完全には消えてくれない。
その夜、優は眠れなかった。
そして、翌日、彼の顔色を察した店主が事情を聞くと、優は〝その事〟を話した。
すると、店主は「昔娘が使ってたお古なんだけどねぇ」と言って「優ちゃんがそんなに大事にする子ならいいさ」と。綺麗な赤色のランドセルを店奥から取り出していた。何度も頭を下げて感謝を述べて優はそれを受け取り。
翌日の朝、しずかにその真っ赤なランドセルを事情と共に渡していた。
しずかは、綺麗な赤いランドセルを前に瞳を揺らし、綻んでいた。
それは、生まれて初めて注がれる、見返りを求めない温かい愛情に触れて、凍りついていた心の氷が、少しだけ溶け出した音だった。
優は、しずかにとって、もはや単なる「友達」ではなかった。彼は兄であり、親であり、そして何よりも、彼女の世界で唯一、光をくれる存在だった。
彼は会話の端々で、「洗濯物は裏返して干すと色褪せしにくいんですよ」「お米を炊くとき、少しお酢を入れると古米も美味しくなります」といった、生活の知恵を無邪気に教えてくれた。
それは、本来なら親が子に教えるべき、ささやかな親愛の形。誰も彼女に教えてくれなかった、当たり前の世界の成り立ち。優の言葉の一つ一つが、常識の欠落していた彼女の世界に、彩りと秩序を与えていった。
しかし、その変化は、教室の他の人間にも影響を与えていた。東直樹は、優の「完璧」とは程遠いが、しかし確実に状況を好転させていく行動を、信じられない思いで観察し続けていた。彼の持つ正義の形が、根底から揺さぶられていた。
雲母坂まりなは、日に日に明るさを取り戻していくしずかと、その隣で笑う優の姿を、燃え盛るような憎悪の目で見つめていた。自分の居場所も、父親の愛情も、何もかもを奪っていく「アバズレの娘」が新しく小綺麗な衣服を身に纏い、幸せを享受する様に……しずかに、そして、一ノ瀬優に対する憎悪を歪めていくことになった。
緑が濃さを増し、蝉の声が遠くに聞こえ始める季節。
優がもたらした変化は、4年2組という小さな世界に、確かな根を下ろし始めていた。しずかの頬から痣が消え、くたびれていた服は優が贈った清潔なブラウスに変わり、その背中には油性ペンで汚された古いものではなく、真新しい赤いランドセルが揺れていた。彼女の口元にはまだ笑みは浮かばないが、その瞳にはかつての虚無の色ではなく、優とチャッピーに向ける時と同じ、穏やかな光が宿る瞬間が増えていた。
それは、本来この世界に存在するはずのなかった、ささやかで、しかし奇跡のような光景だった。
優という、家族の温もりを知り、そしてそれを理不尽に奪われた少年が、自らの孤独を埋めるかのように、ただひたすらに隣人の幸せを願い続けた結果だった。
しかし、光が生まれれば、必ず影もまた濃くなる。その光景を、教室の隅から燃え盛るような憎悪の瞳で見つめている者がいた。雲母坂まりな。彼女にとって、優の存在は許しがたいものだった。父親の愛を奪ったであろう「アバズレの女」の娘であるしずかが、男に庇護され、幸せそうにしている。
その事実が、彼女の心を嫉妬と屈辱で焼き尽くしていた。家に帰れば、ヒステリックに叫ぶ母親と、自分を顧みない父親。
腕に残る痣は、この世の理不尽の象徴だ。なぜ、自分ばかりがこんな目に遭い、あの寄生虫のような女が幸せを手に入れるのか。そして、あの転校生。訳の分からない理屈を並べ、気味の悪い笑顔を浮かべ、自分の「領域」を土足で踏み荒らす邪魔者。
その鬱屈した感情は、ついに沸点に達した。
その日の昼休み。給食を終え、しずかと次の授業の準備をしていた優の元に、まりなの取り巻きの一人がやってきた。
「ねえ、一ノ瀬くん。まりなが呼んでる。校舎裏に来てって」
その言葉には、嘲るような響きがあった。教室中の視線が、一斉に優に突き刺さる。面白がる者、見て見ぬふりをする者、そして、心配そうに眉をひそめる者。隣のしずかが、はっと息を飲み、優の服の袖を弱々しく掴んだ。その指は、恐怖に小刻みに震えている。行かないで、と声にならない声が聞こえるようだった。
優は、その小さな手を安心させるように、そっと上から握り返した。そして、いつもと変わらない、太陽のような笑顔を彼女に向ける。
「大丈夫ですよ、しずかさん。まりなさんと、ちょっとおはなししてくるだけですから。すぐに戻ります」
その言葉は、まるで何かのまじないのようだった。優は席を立つと、教室中の視線を背中に受けながら、まっすぐに廊下へと歩いていく。向かう先は、校舎裏。かつて、彼が一方的な暴力を受けた、あの場所だ。
古い校舎と体育館に挟まれた、日の当たらない薄暗い空間。コンクリートの壁には、ひび割れが走り、隅には枯れ葉が吹き溜まっている。そこに、まりなは腕を組み、仁王立ちで待っていた。その表情は、以前にも増して険しく、冷たい怒りに満ちている。
「来たんだ、偽善者」
優が姿を現すと、まりなは吐き捨てるように言った。その声は、小学生の少女が発するとは思えないほど、凍てついていた。
「こんにちは、まりなさん。おはなしって、何ですか?」
優は、変わらぬ態度で、にこやかに問いかける。彼のその無垢な態度が、まりなの神経をやはり逆撫でした。
「あんたさぁ、いい加減にしてくれない? 何様のつもり? あの寄生虫の肩持って、服だのランドセルだの買い与えちゃって。あんたみたいなのがいるから、アイツがつけあがるんだよ!」
金切り声に近い叫びが、校舎裏に響き渡る。その瞳は憎悪に爛々と輝き、握りしめられた拳は白くなっていた。
彼女の背後には、あの時と同じように、数人の取り巻きが面白そうにニヤニヤと笑いながら立っている。完全に、あの時と同じ構図だった。暴力の匂いが、じっとりと空気にまとわりつく。
「僕のせいで、まりなさんが嫌な気持ちになったのなら、ごめんなさい。でも、しずかさんは、つけあがるような人じゃありません。しずかさんは、とても優しい人です」
優の静かで、しかし揺るぎない言葉は、乾いた校舎裏で空しく響いた。その反論は、まりなの逆鱗に触れるには十分だった。彼女の顔が、怒りと侮蔑で歪む。優しい?あの寄生虫が?父親を誑かし、家庭を壊した女の娘が?ふざけるな。その考えが、彼女の血を沸騰させる。
「あんたは……アイツの何を知って────」
まりなが、いつものように相手を断罪する言葉を叫びかけた、その瞬間だった。今までただ受け入れるだけだった小さな少年が、初めてその言葉を鋭く遮った。
「じゃあ、まりなさんは〝久世しずか〟さんの何を知っているんですか」
その声は大きくはなかったが、芯の通った響きを持っていた。それは、まりなが予想だにしなかった反撃。彼女は一瞬、言葉に詰まり、虚を突かれた顔をする。しかし、すぐにいつもの嘲るような表情を取り戻し、吐き捨てるように言い返した。
「は…っ? あいつは、寄生虫で、いつも男に媚びへつらっ─────」
だが、その常套句もまた、最後まで続くことはなかった。
「なにも知らないじゃないですか!」
優の叫び声が、まりなの言葉をかき消した。それは、今まで誰にも見せたことのない、激情の発露だった。彼の小さな体はわなわなと震え、キラキラと輝いていたはずの瞳は、深い悲しみと、必死の訴えを宿して燃えている。
「貴方のそれは…ただ、理解した気になっているだけですよ! 貴方が僕にしずかさんの事が分かってないって言うなら……。あなたもおんなじです! なんにも! 貴方は分かってないんです! 一つも! しずかさんのことを!!」
それは、魂からの叫びだった。いじめられている彼女の隣で、毎日毎日寄り添い続けてきた彼だからこそ言える言葉。彼女の服のほつれに、彼女の消えない痣に、彼女の背負わされたランドセルの傷に、その一つ一つに心を痛めてきた彼だからこその、痛切な訴えだった。
まりなは、その気迫に完全に呑まれていた。いつもは自分が振りかざすはずの、絶対的な悪意と正義。それが今、目の前の少年から、全く別の形で叩きつけられている。取り巻きたちも、ただ唖然としてその光景を見ているだけだ。
激しい感情の奔流の後、優はふっと顔を俯かせた。その小さな肩が、わずかに震えている。長い沈黙が、重く校舎裏にのしかかる。やがて、彼は絞り出すような、しかし驚くほど静かな声で、まりなに向かって言った。
「……そして………僕も、あなたの事をなんにも知りません」
その告白は、まりなにとって再びの不意打ちだった。優はゆっくりと顔を上げる。その瞳には、もう怒りの炎はなかった。ただ、どこまでも深く、澄んだ悲しみの色が広がっている。
「……僕は、人の怒りの期限を、ある程度理解してるつもりです。でも、貴方は何か月経ってもしずかさんに意地悪をします。…………だから、僕にも教えて欲しいんです…………〝あなたの事を〟」
それは、懇願だった。非難でも、糾弾でもない。ただ純粋な、「知りたい」という願い。なぜ、これほどまでに彼女を憎むのか。なぜ、その瞳はいつも悲しみと怒りに満ちているのか。その黒い長袖の下に、一体何を隠しているのか。あなたのその痛みの根源は、一体何なのか。
教えてください。
優の瞳は、そう雄弁に語りかけていた。彼は、まりなの向こう側にいる、傷つき、助けを求めているであろう一人の少女を見つめていた。そのあまりにも真っ直ぐで、全てを見透かすような純粋な眼差しに、まりなはたじろいだ。自分の心の奥底、誰にも見せたことのない、ドロドロとした醜い感情と、癒えない傷が暴かれるような感覚。
彼女は、その視線から逃れるように、一歩、後ずさった。まるで、正体不明の、気味の悪いものに遭遇したかのように。取り巻きたちも、この異常な展開についていけず、ただ戸惑った表情で二人を交互に見るだけだ。
「あんた…本当に……なんなのよ…」
まりなの唇から、か細く、震える声が漏れた。いつものような、相手を威圧する力はどこにもない。それは、理解できない存在に対する、素直な恐怖と混乱だった。
「なんで……。あの女の味方なら、私を責めなさいよ! 私を非難しなさいよ! なのに…なんで…」
それが、彼女の知る世界の法則だったからだ。敵と味方。正しいと間違い。加害者と被害者。しずかの味方をするのなら、自分は「敵」であり、「加害者」であるはずだ。
ならば、憎まれるべきで、非難されるべきで、糾弾されるべきなのだ。なのに、この少年は、その法則をまるで無視して、自分の内側を覗き込もうとしてくる。その行動原理が、彼女には全く理解できなかった。
その悲痛な叫びを聞きながら、優はふっと視線を落とし、まるで独り言のように、静かに唇を開いた。彼の心の中にある、揺るぎない信念を、一つ一つ言葉にするように。
「……僕は、人を理解した気になんて、なりたくありません」
それは、東直樹に言われた「完璧」さへの、そしてまりなが振りかざす「断罪」への、静かなアンチテーゼだった。知ったかぶりで誰かを裁くことの傲慢さを、彼は本能で知っていた。
「……でも、誰かを傷付けて幸せになるよりも、僕は、僕は、誰かを幸せにして不幸になりたいんです」
それは、彼の生き方そのものだった。両親を失い、親族から厄介者扱いされ、孤独の淵に立たされた彼が、それでも見出した唯一の光。
他者の幸福の中に、自分の存在価値を見出すという、いびつで、しかし崇高な願い。
そして、優は再び顔を上げ、まりなの揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、子供とは思えないほどの、強い意志が宿っていた。
「………だから、しずかさんとまりなさんが、お互いに理解も何もしないまま生きていくだなんて……許容できないんです」
それは、彼の傲慢さの表れだったのかもしれない。他人の関係性に土足で踏み込む、独善的な願い。
しかし、その根底にあるのは、あまりにも純粋な祈りだった。傷つけ合うのではなく、寄り添い合ってほしい。憎しみ合うのではなく、いつか手を取り合ってほしい。自分の中の「僕」がそう叫んでいた。
まりなは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。だが、目の前の少年が、自分の想像を絶する場所から物事を見ていることだけは、嫌というほど伝わってきた。
彼女の世界には存在しない、「誰かを幸せにして不幸になりたい」という価値観。それは、彼女の生きる、奪い、奪われる荒んだ世界とは、あまりにもかけ離れていた。そのあまりの異質さに、彼女はもはや恐怖すら通り越し、一種のめまいのような感覚に襲われていた。この少年は、一体何なのだろう。人間なのだろうか。それとも──
その瞬間、まりなの後ろに控えていた取り巻きの一人が、この膠着した空気に耐えきれなくなったのか、苛立ったように叫んだ。
「まりな、何やってんのよ! そいつ、ワケわかんないこと言ってるだけじゃん! いつもみたいにやっちゃいなよ!」
その言葉が、引き金だった。我に返ったまりなの目に、再び憎悪の炎が宿る。そうだ、こいつは敵だ。私の平穏を乱す、邪魔者だ。訳の分からない理屈をこねて、私を惑わす、気味の悪い偽善者だ。その単純な結論に飛びつくことで、彼女は混乱した思考から逃れようとした。
「…っ、うるさいッ!」
まりなは叫ぶと、優に向かって走り寄り、その小さな胸を、力任せに突き飛ばした。
*「なによ! あんたに何がわかるっていうのよ! 偉そうな口きかないで!」*
突き飛ばされた衝撃で、優は背中からコンクリートの壁に強く打ち付けられた。ごつん、と鈍い音が響き、肺から空気が無理やり押し出される。彼はその場に崩れ落ち、背中と後頭部に走る痛みに「げほっ、ごほっ…!」と激しく咳き込んだ。視界がちかちかと点滅し、一瞬、何が起こったのか分からなくなる。取り巻きたちの嘲笑う声が、遠くで響いているように聞こえた。
しかし、その痛みよりも強く、彼の心を支配したのは別の感情だった。それは、目の前で肩をいからせ、憎悪に顔を歪める少女への、どうしようもないほどの憐憫と、彼女の心の叫びを聞き届けたいという切実な願いだった。彼は、ぜえぜえと荒い息を整えながら、ゆっくりと顔を上げる。その瞳は、涙で潤んでいたが、その奥にある光は少しも揺らいでいなかった。
「……だから、〝話して欲しいんです〟」
咳き込みながらも、優は言葉を紡ぐ。それは、突き飛ばされたことへの非難ではなかった。ただ、先ほどの懇願の続きだった。
「分からないから……理解できないから……。貴方のその憎悪と、悲しみと、侘びしさを」
優は、見ていた。彼女の瞳の奥に渦巻く、単なる悪意だけではない、深く暗い感情の澱を。家に帰っても安らぐ場所がなく、誰にも本当の自分を分かってもらえない孤独。その全てが凝り固まって「憎悪」という形をとり、一番弱い立場であるしずかに向かっているのだと、彼は直感していた。だからこそ、彼は尋ねる。その痛みの、本当の名前を。
〝悲しみと、侘びしさ〟。
その言葉は、鋭い刃のようにまりなの胸に突き刺さった。それは、彼女自身も気づかないふりをし、心の奥底に封じ込めていた感情そのものだったからだ。
父親に見てもらえず、母親からはストレスのはけ口にされる日々。家に自分の居場所はない。誰も本当の自分を見てくれない。その寂しさを、誰かに分かってほしいと心のどこかで叫びながらも、プライドがそれを許さなかった。その一番触れられたくない部分を、こともなげに言い当てられた衝撃。
「────っ!!」
まりなは、唇を強く、血が滲むほどに噛み締めた。顔がくしゃりと歪み、瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。それはもはや、怒りの涙ではなかった。堰を切ったように溢れ出す、抑えつけてきた悲しみと孤独の涙だった。
「うるさい! うるさい! うるさいッ!!」
彼女は耳を塞ぐようにして、甲高い声で叫んだ。それは、優の言葉を否定するための叫びであり、同時に、図星を突かれた自分自身から逃れるための、悲痛な絶叫だった。
「あんたなんかに、私の何がわかるっていうのよ! 知ったような口きかないで! 私は可哀想なんかじゃない! 私はッ…!」
私は、間違ってない。私は、正しい。悪いのは全部、あの寄生虫のせいだ。あいつが全部壊したんだ。そう言い聞かせていなければ、彼女は立っていることさえできなかった。しかし、目の前の少年は、その脆い鎧をいとも簡単に剥がそうとしてくる。その優しさが、その理解しようとする眼差しが、何よりも彼女を追い詰めていた。
優は、ただ黙って、泣き叫ぶ彼女の姿を見ていた。その痛みを、苦しみを、少しでも受け止めようとするかのように。そして、彼はゆっくりと、痛む体を叱咤して立ち上がると、震える足で一歩、彼女へと歩み寄った。それは、この世で最も無防備で、最も勇敢な一歩だった。
そして、彼は彼女の目の前で立ち止まると、その小さな体をかがめ、嗚咽で震える彼女の視線に、自分の視線を合わせようとした。
「……痛いなら、痛いって言って良いんです」
その声は、驚くほど穏やかで、優しかった。まるで、怪我をした小鳥に語りかけるように。
「悲しいなら、悲しいって言って良いんです。寂しいなら、寂しいって言って良いんです」
優の言葉は、魔法のようにまりなの心の壁をすり抜けていく。痛い。悲しい。寂しい。それは、彼女がずっと誰にも言えず、たった一人で抱え込んできた感情そのものだった。母親に殴られた腕の痣が痛い。父親が自分を見てくれないのが悲しい。この広い世界で、本当に自分の味方なんて誰もいないことが、どうしようもなく寂しい。
「………誰にも言えないなら、僕がなんだって聞きます。貴方が心の底から笑顔になれるように、努力します」
その言葉は、彼の本心からの誓いだった。彼は、彼女の痛みを自分の痛みとして感じ、彼女の悲しみを自分の悲しみとして受け止めようとしていた。そして、彼はふわりと、この世の全ての痛みを包み込むような、太陽のような笑顔を浮かべた。その頬にはまだ、以前彼女につけられた暴力の痕がうっすらと残っているというのに。
「……だから、教えて欲しいんです。だって………僕は、貴方と友達になりたいんですから」
そう言って、優はそっと手を伸ばした。そして、泣き叫ぶことで行き場を失っていたまりなの、冷たく震える手を、両手で優しく、しかし力強く、ぎゅっと握りしめた。
その瞬間、まりなの全身を、経験したことのない衝撃が駆け巡った。それは、暴力でも、憎しみでもない。ただ、ひたすらに温かい、人肌の温もり。自分を傷つけた相手であるはずの優の手から伝わってくる、信じられないほどの優しさと受容。
「─────っ!?」
まりなは、まるで灼熱の鉄に触れたかのように、その手を振り払おうとした。しかし、優の手は、見た目にそぐわない力で、決して離れようとはしなかった。嫌だ、離して、気安く触らないで。
そう叫びたいのに、喉がひきつって声にならない。優の温もりが、彼女が必死に築き上げてきた心の壁を、じわじわと溶かしていく。彼女が「雲母坂まりな」であるために必要だった、憎しみとプライドという名の氷の鎧が、その温かさの前で、音を立ててひび割れていく。
「や……やめ……」
かろうじて絞り出した拒絶の言葉は、嗚咽に混じって消えた。優の瞳が、あまりにも真っ直ぐに自分を見つめている。そこには、非難も、同情も、憐憫もない。ただ、一人の人間として、自分を理解したいという、純粋で、強烈な願いだけがあった。
その絶対的な肯定の前に、まりなはもう、どうすることもできなかった。彼女を支えていた全てのものが、足元から崩れ落ちていく。もはや、泣き叫ぶことさえできず、握られた手の温もりに全ての抵抗を奪われたまま、彼女はただ、子供のように声を上げて、その場に泣き崩れるしかなかった。
優は、その手を離さず、ただ静かに彼女の隣にしゃがみこんだ。背中と後頭部の痛みは、もはや遠い世界の出来事のようだった。目の前の少女が、やっと本当の涙を流してくれた。その事実が、彼自身の痛みさえも忘れさせていた。これで、きっと何かが変わる。変われるはずだ。彼はそう、強く信じていた。
しかし、その時だった。
極度の緊張と、背中を強打した衝撃、そして何より、まりなに向けて放った魂の叫び。その全てが、彼の小さな体の限界を、静かに超えていた。彼の視界が、ぐにゃりと歪み始める。まりなの泣き声が、遠くに聞こえる。握りしめているはずの彼女の手の感触が、次第に曖昧になっていく。
「………ぁ」
何かを言おうとしたが、声にならなかった。全身から力が抜け、まるで糸が切れた人形のように、彼の体はずるりと横に傾いでいく。最後に彼の目に映ったのは、泣きじゃくるまりなの驚いたような顔、そして、薄暗い校舎裏に差し込む、一筋の昼下がりの光だった。
そこで、優の意識は、ぷつりと途切れた。
……て…。
…お……て。
…おきて……。
…起きなきゃ…駄目だよ……。
…まだ…なにも、終わってないんだから……………。
─────────────────────────
次に彼が意識を取り戻した時、最初に感じたのは、清潔なシーツの匂いと、頭の下にある柔らかな枕の感触だった。ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れない白い天井だった。消毒液の匂いが、微かに鼻をつく。どうやらここは、保健室のようだ。
「………ん……」
体を起こそうとすると、後頭部と背中にずきりとした痛みが走り、思わず顔をしかめる。その小さな呻き声に、すぐ傍らから気配が動いた。
「………優くん?」
*聞き慣れた、静かな声。はっとして横を向くと、ベッドの脇に置かれた丸椅子に、しずかが座っていた。彼女は心配そうに、じっとこちらの顔を覗き込んでいる。窓の外は、すでにオレンジ色の光に染まっていた。
「しずか、さん……? どうして……」
「…………もう、放課後だよ」
優の問いに、しずかは静かに答えた。その言葉で、優は昼休みに校舎裏で倒れたのだと理解する。どれくらい、眠っていたのだろう。
「先生が、優くんをここまで運んできてくれた。……まりなさんたちが、先生を呼びに行ったって、聞いた」
しずかは、ぽつり、ぽつりと状況を説明する。まりなたちが。その事実に、優は少し驚いた。彼女は、泣き崩れていたはずだ。
「そうですか……。まりなさんたちは……」
「……わからない。私が見た時は、もう教室にいなかった。……先生には、貧血で倒れたって、まりなちゃんが説明したらしい」
貧血。彼女なりの、配慮だったのかもしれない。優は、背中の痛みを堪えながら、ゆっくりと上体を起こした。まだ少し頭がくらっとする。
「ごめんなさい、しずかさん。心配、かけちゃいましたね」
力なく笑う優に、しずかは静かに首を横に振った。そして、何かを決心したように、まっすぐに優の瞳を見つめた。その瞳には、今まで見たことのないほどの、強い光が宿っていた。
「……優くん。どうして、あんなことしたの。どうして、まりなちゃんのために、自分が傷つくようなことをするの」
それは、彼女がずっと抱いていた疑問だった。自分を守るためならまだしも、自分をいじめる張本人のために、なぜ彼はここまで身を捧げられるのか。その行動原理が、彼女にはどうしても理解できなかった。
保健室の静寂の中、しずかの問いかけが、まっすぐに優の心に届いた。その瞳は、ただの心配だけではない、彼の行動の根源を理解しようとする真摯な光を宿している。なぜ、自分をいじめる相手のために、身を挺することができるのか。彼女の常識では、到底考えられないことだった。
その切実な問いに、優は一瞬きょとんとした顔をした後、まるで「どうして空は青いの?」と聞かれた子供のように、こてんと小首を傾げた。彼の思考回路に、「敵のために自分を犠牲にする」という発想そのものが存在しないのだ。彼にとっては、まりなもまた、助けを必要としている一人の人間に過ぎない。
「えっと……どうして、ですか?」
彼は心から不思議そうに問い返すと、やがて自分の中にある、ごく当たり前の答えにたどり着いた。そして、後頭部の痛みも忘れたかのように、にぱっと効果音がつきそうなほどの満面の笑みを浮かべた。
「だって、身の回りに何か悲しんでる人がいたら、助けたいですし…! ……それに、友達は一人でも多くいたほうが良いですから!」
その答えは、あまりにも純粋で、一点の曇りもなかった。悲しんでいる人がいる、だから助ける。友達は多いほうが良い、だから友達になりたい。そこには、複雑な計算も、打算も、自己犠牲という悲壮感すらもない。ただ、太陽が東から昇るのと同じくらい、彼にとっては自明の理だった。
しずかは、その太陽のような笑顔と、あまりに単純明快な答えに、言葉を失った。この少年は、本当にそう信じているのだ。憎しみや悪意といった、この世の負の感情が、まるで存在しないかのように。その圧倒的な光の前では、彼女が抱えてきた絶望や無気力さえも、些細なことのように思えてくる。彼女は何も言えず、ただ、その笑顔から目を逸らすことしかできなかった。
やがて、養護教諭から軽い脳震盪と打撲だろうと診断された優は、帰宅を許可された。夕暮れの道は、二人の影を長く、長く伸ばしていた。いつも通りの下校風景。しかし、その空気は、昼間の出来事を経て、どこかぎこちなく、静かだった。
しずかの家の前に着くと、チャッピーが嬉しそうに駆け寄ってくる。優はいつものようにその頭を撫でたが、今日の彼の心は、別の場所にあった。しずかに「また明日」と告げ、彼女が家の扉の向こうに消えるのを見届けると、彼はくるりと踵を返した。
しかし、彼が向かったのは自分のアパートがある方向ではなかった。彼は、記憶の糸をたぐり寄せ、以前まりなの取り巻きたちが話していたのを朧げに聞いた、彼女の家の方向へと足を向けた。少し高級な住宅が立ち並ぶ一角。その中で、ひときわ大きく、しかしどこか冷たい空気をまとった一軒家の前で、彼は立ち止まった。表札には『雲母坂』と書かれている。
彼は一度、ごくりと喉を鳴らした。昼間の彼女の泣き顔が、脳裏に焼き付いて離れない。痛いなら、痛いと言っていい。悲しいなら、悲しいと言っていい。その言葉は、嘘じゃない。僕がなんだって聞きます、と約束したのだ。
意を決した優は、その小さな指で、インターホンのボタンを強く押した。ピンポーン、と場違いに明るい電子音が、夕暮れの閑静な住宅街に響き渡った。誰が出てくるだろうか。まりなの母親か、それとも父親か。もしかしたら、まりな本人かもしれない。
どんな顔で会えばいいのか、彼にも分からなかった。ただ、約束を果たさなければならない。その一心だけが、彼を突き動かしていた。
数秒後、ガチャリ、と重たい金属音がして、ゆっくりと扉が開いた。そこに立っていたのは、優の知らない、背の高い男性だった。スーツをやや着崩し、疲れたような、それでいてどこか苛立ったような表情を浮かべている。
きっと、この人がまりなさんのお父さんなのだろう。優は、背中と後頭部に走る痛みを笑顔の裏に隠し、精一杯の礼儀正しさで、深々と頭を下げた。
「こんばんは! 夜分遅くに申し訳ありません! 僕、雲母坂まりなさんと同じクラスの、一ノ瀬優と申します!」
ハキハキとした子供の声に、男性──まりなの父親は、怪訝そうに眉をひそめた。その視線は、優の顔を値踏みするように一瞥し、すぐに興味を失ったように逸らされる。その瞳には、娘のクラスメイトに対する親としての温かさなど、欠片も感じられなかった。
「それで、まりなさんは、いらっしゃいますでしょうか? 少しだけ、おはなしがしたくて……」
優が尋ねると、男性はあからさまに面倒くさそうな、小さなため息を漏らした。その反応だけで、彼が家庭のことや娘の交友関係にどれだけ無関心であるかが透けて見えるようだった。彼は何も言わず、無言のまま乱暴に扉を閉めた。バンッ、という音と共に、優は再び冷たいドアの前に一人取り残される。
帰れ、ということだろうか。優が不安に思っていると、数秒の沈黙の後、再びガチャリと扉が開く音がした。
そこに立っていたのは、〝その人〟だった。
雲母坂まりな。
しかし、その表情は、優が今まで見たどんな顔よりも険しく、歪んでいた。それは、怒りとも、羞恥とも、絶望ともつかない、複雑な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った色をしていた。昼間、校舎裏で泣き崩れた少女の面影はない。彼女の瞳は、優を射抜くように睨みつけている。その視線が雄弁に語っていた。
───なんで来たのよ。
───余計なことをしないで。
彼女は、家という、誰にも見られたくない聖域を、土足で踏み荒らされたかのような屈辱に震えていた。昼間の出来事は、彼女にとって、生涯隠し通したかった弱さを暴かれた悪夢。それを思い起こさせる張本人が、今、自分の家の前に立っている。その事実が、彼女のプライドをズタズタに引き裂いていた。
「……何の用?」
絞り出すように発せられた声は、低く、冷たく、そして震えていた。優は、その拒絶のオーラを全身に浴びながらも、一歩も引かなかった。彼は、今日、このためにここに来たのだから。
「まりなさん。昼間は、ごめんなさい。僕、まりなさんが泣いてるのに、倒れちゃって……。約束、守れなくて」
優は、心からの謝罪を口にした。彼にとって、彼女の話を聞くという約束を果たせなかったことは、何よりも大きな心残りだったのだ。
「……約束?」
まりなが、嘲るように鼻を鳴らす。
*「あんたが勝手に言っただけでしょ。私、そんなの知らない。もう帰って。あんたみたいなクズの顔なんか見たくない」
そう言って、彼女は再び扉を閉めようとする。しかし、その扉が完全に閉まる寸前、優はその隙間に、自分の小さな手を差し入れた。
「───っ!」
ガツン、と鈍い音がして、扉が優の指を挟む。激しい痛みが走ったが、彼は声を上げず、ただ必死に扉を押さえた。その予期せぬ行動に、まりなは驚いて手を止める。
「痛いです。痛いけど、でも、まりなさんの心の痛みに比べたら、こんなの、何でもありません」
優は、扉の隙間からまりなの顔を覗き込み、必死に訴えかけた。その瞳は、昼間と同じ、あまりにも真っ直ぐな光を宿している。
「僕は、聞きたいんです。まりなさんのこと。今日、話してくれるまで、ここから一歩も動きません」
それは、子供の駄々にも似た、しかし、揺るぎない覚悟を伴った宣言が、夕暮れの玄関に響いた、次の瞬間だった。
──ガッシャァァァァン!! バリンッ! ドンッ!!
静寂を切り裂くように、玄関の奥、おそらくはリビングへと続く扉の向こうから、凄まじい破壊音が鳴り響いた。ガラスが大量に砕け散り、何かが床に叩きつけられる、耳を塞ぎたくなるような暴力的な音。その音は、この家の日常に潜む亀裂が、ついに限界を超えて崩壊したことを告げていた。
「っ……!」
*まりなの肩が、びくりと大きく跳ねる。彼女の顔からさっと血の気が引き、その表情は拒絶から絶望へと一変した。それは、一番見られたくない、一番知られたくない地獄の蓋が、目の前で開いてしまった人間の顔だった。
「………早く、帰って……」
先程までの刺々しさが嘘のように、その声はか細く、弱々しく、懇願するように震えていた。彼女は、この家の惨状を、この醜い現実を、優という異物にだけは知られたくなかった。だが、その願いは、優の純粋な善意によって無慈悲にも打ち砕かれる。
「嫌です」
優は、きっぱりと告げた。そして、挟まれていた指の痛みも無視して、残った力で扉をぐいっと押し開けた。まりなはなすすべもなくよろめき、優はその小さな体で、強引に玄関の土間へと踏み込んだ。
「やめて……っ! お願いだから……! 変なことしないで……っ!」
まりなが悲鳴のような声を上げ、優の服の袖を必死に掴んだ。その手は恐怖と羞恥でわなわなと震えている。やめて、見ないで、私の世界を壊さないで。その瞳は涙で潤み、そう必死に訴えかけていた。だが、優は止まらない。彼は、その破壊音の先にこそ、まりなの本当の悲しみがあると確信していた。
掴みかかってくるまりなの手を振り払うでもなく、引きずるようにして、優は音のする奥の扉へとまっすぐに進む。そして、ついにその重たいリビングのドアノブに手をかけると、一切の躊躇なく、それを開け放った。
そこに広がっていたのは、地獄だった。
高級そうな調度品で飾られていたであろうリビングは、見るも無残に荒れ果てていた。床には割れた皿やグラスの破片が散乱し、テーブルはひっくり返され、その上にあったであろうものが全て床に叩きつけられている。その惨状の中心に、まりなの父親が、怒りの形相で立っていた。彼は悪魔のように顔を歪め、手当たり次第に棚の上の装飾品を掴んでは、床へと叩きつけている。
そして、その傍らで。
まりなの母親が、ソファの陰にうずくまっていた。彼女は、夫の暴挙を止めるでもなく、ただ首元を血が滲むほどに掻きむしりながら、嗚咽ともつかない声で涙を流していた。その瞳は虚ろで、まるで魂が抜け落ちてしまったかのようだ。父親の怒声と、母親のすすり泣き、そして物が壊れる音だけが、部屋を満たしている。
優は、その光景をただ、呆然と見つめていた。大人が、泣いている。大人が、怒鳴っている。大人が、物を壊している。
彼の短い人生の中で、両親を失って以来、初めて直面する、剥き出しの負の感情の奔流だった。
父親が、扉の前に立つ小さな闖入者に気づき、その怒りの矛先を向けた。
「なんだテメェは!! 人の家で何してやがる!!」
獣のような咆哮。しかし、その声が優に届くよりも早く、彼の背後から、まりなの絶叫が響き渡った。
「いやぁああああああっ!! 見ないでええええええっ!!!」
それは、彼女の魂からの叫びだった。
その時、怒り狂っていた父親がふと、優の顔を見て動きを止めた。その瞳に、驚きと、ほんのわずかな動揺がよぎったように見えた。それは、この地獄絵図を前にしてもなお、恐怖に歪むことなく静かに自分を見つめ返す、その子供離れした眼差しに何かを感じたのかもしれない。
しかし、そのわずかな逡巡は、すぐに新たな怒りの炎によってかき消された。彼は、この醜態を、この家庭の恥部を、赤の他人、それも娘の同級生という最も見られたくない相手に見られたという事実に、新たな屈辱を覚えたのだ。
「……っ、おい! まりな! なんだコイツは! さっさと追い出せ!!」
父親は、優ではなく、背後で泣き崩れる娘に向かって怒鳴りつけた。その声に、まりなの体はびくりと震え、更に小さく縮こまる。そんな彼女の姿を、優は静かに見つめていた。そして、彼はゆっくりと父親の方に向き直ると、その小さな口を開いた。彼の声は、この狂乱の中にあって、奇妙なほど穏やかで、静かだった。
「……こんばんは。僕は、まりなさんのクラスメイトの、一ノ瀬優です」
その物怖じしない態度が、父親の神経を逆撫でした。自らの権威が、威圧が、この小さな子供に一切通用しない。その事実が、彼のプライドを酷く傷つけた。
「ああ!? テメェに名乗れなんて言ってねぇんだよ! 見てわかんねぇのか! 今は取り込み中だ! ガキはガキらしく、とっとと家に帰りやがれ!!」
父親は吐き捨てるように叫んだ。その言葉には、明確な侮蔑が込められていた。
「でも───」
「うるせぇ!……子供に、大人の気持ちがわかってたまるかよ!」
優が何かを言う前に父親は口を開く。しかし、その一言は、彼がこの状況から逃避するための、都合の良い免罪符だった。お前のような子供に、俺の苦しみも、この家庭の複雑さも、何も理解できない。だから口を出すな、と。
その言葉を聞いた優は、一瞬だけ、すっと目を伏せた。彼の脳裏に、かつて自分に向けられた、親戚たちの同じような言葉が蘇っていたのかもしれない。そして、再び目を開けた時、その瞳には先程までの静けさとは違う、確固たる意志の光が宿っていた。
彼は、父親の目をまっすぐに見据え返すと、静かに、しかしはっきりと、言い返した。
「確かに、僕には大人の人たちの気持ちなんて、分かりません」
その言葉は、意外にも相手の主張を認めるものだった。父親は一瞬、虚を突かれたような顔をする。
「僕は、頭も良くないし、難しいことはよく分かりません。…………だから、今こうやって貴方達が、まりなさんの意思なんて全部無視して喧嘩をしているのも、真っ向から否定なんて、絶対にできませんし、しません」
優は、淡々と、しかし一言一言に重みを込めて続ける。彼はジャッジを下すためにここにいるのではない。ただ、目の前にある事実を、ありのままに受け止めているだけだ。
「─────でも」
そこで、彼の声のトーンが、わずかに鋭さを帯びた。
「じゃあ、大人はどうなんですか?………子供の気持ちが分かるはずです。だって、子供とは違って、大人には〝子供だった経験〟があるんですから」
その言葉は、静かな刃のように、父親の胸に突き刺さった。忘れていたはずの、あるいは、見て見ぬふりをしていたはずの、当然の真実。
「それを踏まえた上で、貴方達は、まりなさんのような家庭環境にでもいたんですか? 仮にそうだとしたら、それが駄目な道だと分かるはずです。わざわざ自分の子供に、こんな茨の道を歩ませたりはしません。………だから、聞きたいんです」
優は、一歩、リビングに足を踏み入れた。割れたガラスの破片が、彼の靴底でジャリ、と音を立てる。彼は、怒りに固まる父親と、絶望にうずくまる母親、そして、その間で息を殺すまりなの姿を、その小さな瞳に焼き付けながら、最後の問いを投げかけた。
「貴方は逆に、まりなさんの何を、知っているんですか?」
その問いは、静かでありながら、嵐が吹き荒れるリビングの中心に、一本の杭を打ち込むかのように深く、重く突き刺さった。割れたガラスの破片が散らばる床を踏みしめ、優は父親の目をまっすぐに見据えている。その小さな体から放たれる、子供のものとは思えない純粋で揺るぎない圧力に、父親は完全に言葉を失っていた。
子供に大人の気持ちが分かるものか。そう吐き捨てたのは自分だ。だが、目の前の少年はそれを認めた上で、刃のように鋭い問いを返してきた。大人は子供の気持ちが分かるはずだ、と。なぜなら、誰しもが子供だった経験があるのだから。そのあまりにも単純で、しかし誰もが目を背けてきた真理を前に、父親はぐうの音も出なかった。
まりなさんの何を、知っているのか。
その問いが、彼の頭の中で何度も反響する。娘の、まりなの何を知っている? クラスは? 友達は? 好きなものは? 嫌いなものは? 今、何に悩み、何に苦しんでいるのか。答えは、何も出てこなかった。彼にとって娘は、ただ家にいる存在でしかなかった。いつからか、妻との終わらない争いの中で、その存在は背景に溶け込み、見えているはずなのに、何も見えていなかったのだ。
父親の顔から、怒りの仮面が剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、ただ戸惑い、狼狽する、一人の弱い男の顔だった。彼は、優の視線から逃れるように目を逸らし、何も言い返せずに、ただわなわなと唇を震わせる。
その時だった。
「………っ、うるさいっ!!」
それまでソファの陰で虚ろに嗚咽を漏らしていた母親が、金切り声を上げた。彼女は血が滲むほど首を掻きむしった手で床につき、憎悪に満ちた目で優を睨みつけていた。
「あんたみたいな子供に! この家の何が分かるって言うのよ! 私たちが……! 私がどれだけ苦しんできたか! あんたなんかに……!」
夫の不倫、裏切り、暴言。積み重なったストレスで壊れてしまった心は、もはや正常な思考を許さない。彼女にとって、優の正論は、自分たちの苦しみを否定し、断罪する異物でしかなかった。彼女は、近くに転がっていた雑誌の束を掴むと、それを優に向かって力任せに投げつけた。
「出ていけ! ここから出ていけぇっ!」
雑誌は優の肩に当たり、バサリと音を立てて床に散らばった。しかし、優はその場から一歩も動かなかった。彼は、母親のヒステリックな叫びを、ただ静かに受け止めていた。そして、ゆっくりと彼女の方に向き直る。
「分かりません。貴方の苦しみは、僕には分かりません。でも……」
優は、床に散らばった破片を避けながら、ゆっくりと母親に近づいていく。その予期せぬ行動に、母親は怯えたように後ずさった。
「まりなさんは、いつも長袖を着ています。夏でも。暑いのに。どうしてか、知っていますか?」
優は続ける。その純粋な問いかけは、母親の心の最も柔らかな部分を、鋭利なメスで抉るかのようだった。母親は、はっと息を呑み、自分の両手を見た。ヒステリーを起こした自分が、娘の腕を掴み、痣を作ってしまった日の記憶が、鮮明に蘇る。娘が長袖を着続ける理由。それは、母親である自分を庇い、その罪を隠すためだった。
「まりなさんが、しずかさんに酷いことを言うのも、きっと、理由があるんだと思います。まりなさんが、誰かを傷つけたいなんて、本当は思ってないはずです。だって、あんなに悲しそうに、泣ける人なんですから」
優は、母親のすぐ目の前で膝をつくと、床に散らばったガラスの破片を、一つ、また一つと拾い始めた。まるで、この壊れてしまった空間を、元通りにしようとするかのように。
「だから、教えてください。貴方たちが、どうしてこんなに悲しい顔をしているのか。僕には難しいことは分かりません。でも、話を聞くことなら、できます。まりなさんのためにも、貴方達の隣で、ずっと話を聞いていますから」
その姿は、あまりにも場違いで、非現実的だった。地獄のような惨状の中で、たった一人、小さな子供が、膝をついてガラスの破片を拾っている。
そのあまりにも場違いで、非現実的な光景に、雲母坂夫妻は完全に思考を停止させていた。怒りも、悲しみも、ヒステリーさえも、優という存在が放つ静謐な光の前では形を失い、ただ、呆然と彼を見つめることしかできない。
「お互いに、おはなしをして、理解をし合うことが、一番しあわせに繋がる道だと、僕は思います」
それは、あまりにも単純で、理想論に聞こえるかもしれない言葉だった。しかし、彼の口から発せられると、不思議な説得力を持って響く。
「ただ力任せに何かを壊すのでもなく、何かに当たるのでもなく……自分たちが、どうしたいのかを話し合う。きっと、難しいことでは無いはずです」
そう言うと、優は立ち上がり、父親と母親、そして背後で息を殺すまりなを順番に見渡した。その瞳は、彼らを裁くでもなく、憐れむでもなく、ただ、一人の人間として対等に見つめている。そして、彼は、まるで曇りのない青空のような、にこりとした笑顔を二人に見せた。それは、この家の誰もが、もう何年も忘れてしまっていた類の、純粋な微笑みだった。
「まりなさんのお父さん」
優は、まず父親に静かに話しかけた。
「貴方は、どうしたいですか? どうして、こんなに怒っているんですか? 誰かに、何かを分かってほしいんじゃないですか?」
その問いは、父親の心の奥底に眠っていた、彼自身も気づかずにいた本音を、優しく揺り動かす。彼は、なぜ怒っていたのか。仕事のストレスか、家庭の不和か、それとも、思い通りにならない人生そのものにか。しかし、その根源にあるのは、誰にも理解されない孤独感ではなかったか。優の純粋な瞳は、その核の部分を正確に射抜いていた。
父親は、何も答えられない。ただ、固く握りしめていた拳から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かった。
次に、優は母親の方を向いた。彼女はまだ、床に座り込んだまま、怯えと疑念の混じった目で優を見上げている。
「まりなさんのお母さん」
優の声は、壊れ物を扱うように、より一層優しさを増していた。
「貴方は、どうしたいですか? どうして、そんなに悲しい顔をしているんですか? 貴方が本当に望んでいることは、なんですか?」
その言葉は、母親の心を守っていた分厚い壁を、そっと撫でるように通り抜けていく。私が望んでいること? 夫の愛を取り戻すこと? 昔のような穏やかな家庭に戻ること? それとも、ただ、この息苦しい毎日から解放されること? 彼女の心の中で、ぐちゃぐちゃになっていた感情の糸が、少しずつ解きほぐされていくような感覚があった。
「……っ、……わた、しは……」
母親の唇から、意味をなさない声が漏れる。涙が、再び彼女の頬を伝った。しかしそれは、先程までのヒステリックな涙ではなく、凍てついていた心が溶け始めた、温かい涙だった。
優は、そんな二人の様子を静かに見守ると、最後に、背後で固唾を飲んで成り行きを見守っていたまりなの方へ、ゆっくりと振り返った。
「まりなさん」
その声に、まりなの肩がびくりと震える。彼女は、この状況を作り出した優を、一体どんな顔で見ればいいのか分からなかった。恥ずかしい。惨めだ。早く消えてほしい。でも、どこかで、この状況を変えてくれるかもしれないという、淡い期待も抱いていた。
優は、そんな彼女の葛藤を見透かすように、ただ優しく微笑みかけた。
「まりなさんは、どうしたいですか? 僕に、教えてくれませんか?」
その問いかけは、今まで誰も彼女にしてくれなかった、一番聞きたかった言葉だったのかもしれない。誰もが自分の都合を押し付け、彼女の意見など求めなかった。父親も、母親も、そして、彼女自身でさえも。
優は、ゆっくりとまりなに近づくと、昼間、校舎裏でしたのと同じように、そっと彼女の手を取った。その手は、まだ小さく震えていたが、以前のような拒絶はなかった。
「僕は、まりなさんの味方です。だから、一人で泣かないでください」
その温かい手の感触と、あまりにも真っ直ぐな言葉に、まりなが必死に堪えていた何かが、ついに決壊した。彼女の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。それは、昼間の校舎裏で見せた怒りと悔し涙とは全く違う、ようやく流すことが許された、子供の純粋な涙だった。
「う……っ、うわあああああん……!」
もはや、見栄もプライドもなかった。彼女はその場に泣き崩れ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。優に袖を掴まれたまま、その小さな温もりにすがるように、ただひたすらに涙を流し続けた。それは、学校で見せる女王のような姿からは想像もつかない、傷つき、疲れ果てた、一人の少女の慟哭だった。
それは。……ただ、向かい合わせるのではない。〝同じ道に向かって、同じ方向を見させる〟ための、最初の産声だった。
娘の、今まで聞いたことのないような泣き声。その痛切な叫びは、呆然と立ち尽くす父親と、床に座り込む母親の心を、鋭く、そして深く貫いた。彼らは、自分たちの争いが、自分たちのエゴが、愛する娘をここまで追い詰めていたのだという紛れもない事実を、目の前に突きつけられたのだ
父親は、ゆっくりと、震える足で娘のもとへ歩み寄った。そして、その大きな体で、泣きじゃくるまりなと、その隣で彼女の手を握り続ける優を、まとめて抱きしめた。それは、不器用で、ぎこちなく、どうすればいいのか分からない、父親の精一杯の愛情表現だった。
「まりな……ごめん……。父さん、が……悪かった……」
絞り出すような声は、涙で震えていた。彼は、優の頭越しに、呆然とこちらを見る妻に向かって、懇願するように言葉を続けた。
「……もう、やめよう。こんなことは……。俺が悪かった。全部、俺が……」
その言葉を聞いた母親もまた、堰を切ったように泣き出した。彼女は、床の破片も構わずに膝で進み、夫と、娘と、そして見ず知らずの少年の作る輪の中に、その身を寄せた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
誰にともなく繰り返される謝罪の言葉。リビングには、父親、母親、そして娘、三人の泣き声だけが響き渡った。それは、この家が失って久しかった、家族という名の、不格好で、しかし温かい絆が、再び結ばれようとする瞬間の音だった。
優は、その温かい輪の中心で、ただ静かに、三人が流す涙を受け止めていた。彼の小さな手は、最後までまりなの手を優しく握りしめていた。
彼は、難しいことをしたわけではない。ただ、凍てついた心に火を灯し、バラバラになった家族が、もう一度向き合うための、ほんの少しのきっかけを作っただけだ
やがて、長い長い慟哭の時間が過ぎ、リビングには、気まずいながらも、どこか穏やかな静寂が戻ってきた。父親は、目を真っ赤に腫らしながら、優に向かって深々と頭を下げた。
「……君は……一体、何者なんだ。……ありがとう。本当に、ありがとう」
母親も、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何度も頷いている。まりなは、まだしゃくりあげながらも、優の手をぎゅっと握り返していた。その力は、もう震えてはいなかった。
優は、そんな大人たちの様子に、少し照れたように、はにかんだ。
「僕は、ただのクラスメイトですよ。……それより、このお部屋、片付けないと危ないです。僕、お手伝いしますね!」
そう言うと、彼は早速、近くに落ちていた箒とちりとりを手に取った。そのあまりにも自然な行動に、雲母坂夫妻は顔を見合わせ、そして、ふっと、本当に久しぶりに、小さな笑みを漏らした。
その夜、優は、綺麗に片付いたリビングで、雲母坂一家とテーブルを囲んでいた。ぎこちない空気の中、母親が淹れてくれた温かいお茶を飲みながら、父親がぽつりぽつりと、自分の苦悩を語り始めた。それを、母親が静かに聞き、時には自分の想いを口にした。まりなは、その隣で、ただ黙って両親の話を聞いていた。
優は、何も言わなかった。ただ、時々相槌を打ちながら、彼らの言葉に静かに耳を傾ける。彼がしたことは、ただそれだけ。しかし、その存在が、この家族に「対話」という、最も大切で、最も欠けていたものを取り戻させたのだった。
第3話はこれにて以上です。6話、もしくは7話で終わると思います。