第4話。
あの日、雲母坂家のリビングで起きた出来事は、まるで小さな石が水面に投じられたかのようだった。その波紋は、静かに、しかし確実に広がり、淀んでいた関係性をゆっくりと変えていった。壊れたガラスは片付けられ、荒れ果てた部屋は元の姿を取り戻した。だが、本当に修復されたのは、物理的な空間ではなく、そこに住む家族の心だった。
それから、数週間後。
小学校の教室は、6月の柔らかな日差しに満ちていた。窓の外では緑が深まり、時折吹き込む風が、子供たちの髪を優しく揺らす。一見すれば、何も変わらない、ありふれた日常の風景。しかし、その日常を構成する人間関係の力学は、明らかに変化していた。
「───それで、ここの角度は、分度器の中心を頂点に合わせて……こうだよ
放課後の、まだ数人の生徒が残る教室。優は、自分の席の隣で、しずかのノートを覗き込みながら、算数の図形問題を教えていた。その声は、いつも通り明るく、楽しそうだ。
「…………ん」
しずかは、こくりと小さく頷くと、優に教えられた通り、慣れない手つきで分度器を動かす。
その横顔は、以前のような感情の抜け落ちた能面のようではなく、柔らかな光を宿していた。長い黒髪がさらりと頬にかかり、かつてそこにあったはずの痣の痕跡は、もうどこにも見当たらない。優から贈られた、少し大きめの真新しいブラウスが、彼女の華奢な体を優しく包んでいる。
二人の間に流れる空気は、もはや「一方的に関わる少年」と「それに困惑する少女」のものではなかった。それは、言葉数は少なくとも、互いの存在を当たり前のものとして受け入れている、紛れもない〝友達〟の空気だった。
その時、教室の入り口に、一つの影が立った。
「…………」
雲母坂まりなだった。彼女は、取り巻きの少女たちを連れず、たった一人でそこに立っていた。カチューシャで留められた髪は今日も艶やかで、夏に向かう季節にもかかわらず、その腕は黒い長袖で覆われている。彼女は、楽しそうに話す優と、それに静かに耳を傾けるしずかの姿を、複雑な表情でじっと見つめていた。
その視線に気づいた優が、ぱっと顔を上げた。
「あ! まりなさん! こんにちは!」
太陽のような笑顔で手を振る優。その無邪気な挨拶に、まりなは一瞬、気まずそうに目を逸らした。しかし、彼女は逃げ出さなかった。彼女は、何かを決心したように、ゆっくりと二人の席へと歩み寄ってくる。その一歩一歩が、彼女にとってどれほどの勇気を必要としたことか、優以外の誰も知らない。
まりなとしずか。二人の視線が、静かに交錯する。
そこには、以前のような剥き出しの憎悪も、怯えもなかった。明確な謝罪の言葉が交わされたわけではない。まりなが、しずかに行った数々の仕打ちが消えてなくなるわけでもない。
だからこそ、彼女たちは〝対等〟になれたのかもしれない。
加害者と被害者という歪んだ関係ではなく、ただ、同じ教室にいる、それぞれに事情を抱えた一人の小学生として。それを可能にしたのは、言うまでもなく、その中心で変わらず笑顔を浮かべる、一人の小さな男の子のおかげだった。
「……これ」
まりなは、ぼそりと呟くと、持っていたプリントの束をしずかの机の上に、少し乱暴に置いた。
「今日の、家庭科のプリント。あんた、休んでたから」
それは、今日の授業で配られたものだった。しずかは寝不足気味でその授業を休んでいたのだ。ぶっきらぼうな口調は相変わらずだが、その行為自体が、以前の彼女からは到底考えられないものだった。かつての彼女なら、プリントを隠すか、目の前で破り捨てていたに違いない。
「…………ありがとう」
しずかは、小さく、しかしはっきりと礼を言った。その声に、まりなは「別に」と短く返し、ぷいと顔を背ける。その耳が、ほんの少しだけ赤く染まっていることに、優だけが気づいていた。
それは、和解と呼ぶにはあまりにもぎこちなく、友情と呼ぶにはあまりにも遠い、ささやかな変化。だが、雪解けは、確かに始まっていた。
それは、奇跡のような、しかし、あまりにも脆い均衡の上に成り立った平和だった。
そんな、ある日のこと。
いつものように、放課後の帰りの会が終わり、生徒たちが「さようなら」の挨拶と共に、ランドセルを背負って騒がしく教室を後にしていく。優も、しずかと一緒に帰る約束をしていたため、急いで机の中を片付けていた。
「一ノ瀬」
不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには学年主任の若い男性教師が、少し疲れたような、それでいてどこか探るような目をして立っていた。
「はい、先生。なんでしょうか?」
優は、いつものように元気よく返事をする。その無垢な笑顔に、教師は一瞬、言葉を詰まらせた。
彼は、この小さな転校生が来てからというもの、4年2組の空気が明らかに変わったことを肌で感じていた。あの地獄のようだった久世しずかへのいじめが、ぴたりと止んだのだ。主犯格だった雲母坂まりなも、まるで別人のように大人しくなった。
それは教師として喜ぶべきことのはずだった。しかし、彼の心には、安堵よりもむしろ、得体のしれない不気味さと、そして、自分の無力さを突きつけられるような居心地の悪さが渦巻いていた。
大人の自分が、保護者が、いくら介入しようとしてもびくともしなかったあの状況を、この小さな少年が、一体どうやって変えたというのか。
「……少し、話がある。職員室まで来てくれるか」
教師の声は、どこか硬かった。そのただならぬ雰囲気に、教室にわずかに残っていた生徒たちが、遠巻きにこちらを窺っている。隣の席で待っていたしずかも、心配そうに優の顔を見上げた。優は、彼女に「大丈夫ですよ」と安心させるように小さく微笑むと、教師の後に続いて教室を出た。
がらんとした廊下を、二人の足音だけが響く。夕方の職員室は、他の教師たちの雑談やキーボードを叩く音で満ちていたが、優が担任のデスクの前に立つと、その一角だけがシンと静まり返ったようだった。
教師は、自分の椅子に深く腰掛けると、優をまっすぐに見上げた。その視線は、生徒に向けるものではなく、まるで理解不能な現象を分析しようとする研究者のような、冷たさを帯びていた。
「一ノ瀬。単刀直入に聞く」
彼は、一度言葉を切り、机の上で指を組んだ。
「君は、雲母坂の家に行ったそうだな」
その言葉は、静かだが、明確な追及の色を帯びていた。どうやら、雲母坂家の両親から、学校へ何らかの連絡があったらしい。それは感謝の報告だったのかもしれないが、教師にとっては、生徒が独断で他の生徒の家庭問題に深入りしたという、「問題行動」として処理せざるを得ない案件だった。
「はい。まりなさんと、お話がしたくて」
優は、何のてらいもなく、事実を認めた。そのあまりにもあっけらかんとした態度に、教師は眉間の皺を深くする。
「家庭の事情に、君のような子供が首を突っ込むべきじゃない。それは分かるか? 一歩間違えれば、もっと大きな問題になっていたかもしれないんだぞ」
それは、正論だった。大人の、社会の、常識的な正しさ。しかし、その正しさは、あの日、地獄の中で泣いていた少女を、救うことはできなかった。
「どうして、あんなことをしたんだ? 君は、久世のことも……雲母坂のことも……一体、どうするつもりなんだ?」
教師の問いは、優の行動の真意を探るようで、その実、自分自身の無力さへの苛立ちと、この少年に対する底知れない恐怖から発せられていた。彼の常識では測れない力で、クラスの秩序を根底から覆してしまったこの小さな転校生が、彼は恐ろしかったのだ。その言葉は、生徒を心配する教師のものではなく、自らの聖域を脅かす異物を排除しようとする、保身のための響きを帯びていた。
その言葉を聞いた瞬間、優の顔から、常の明るさが、すっと消えた。
そして、彼の表情に浮かび上がったのは、これまで誰にも見せたことのない、明確な、そして深い───〝呆れ〟の色だった。まるで、理解不能な愚行を目の当たりにしたかのような、冷たい失望。その変化はあまりにも劇的で、教師は思わず息を呑んだ。いつも太陽のように笑っていた少年の瞳が、今は絶対零度の光を放ち、自分を射抜いている。
「…………はぁ」
優の口から、重いため息が漏れた。それは、彼の短い人生の中で、数少ない他者に対して放った、純粋な軽蔑の音だった。彼は、目の前の椅子に座る「大人」を、まるで路傍の石でも見るかのような、感情の伴わない目で見つめ返すと、静かに、しかし刃のように鋭い言葉を放った。
「……しずかさんへのイジメも、生徒の家庭問題の解決も、何もしてこなかった貴方が、今更何を言ってるんですか?」
その一言は、教師が最も聞きたくなかった、そして最も目を背けてきた真実そのものだった。いじめを見て見ぬふりをし、「助けを求めないから」という言い訳で自らの無作為を正当化してきた。家庭の問題に気づきながら、「デリケートだから」と介入を避けてきた。その全ての怠慢を、この小さな子供は完全に見抜いていた。
教師が何かを言い返そうと口を開きかけたが、優はそれを許さなかった。
「────確かに、僕のこの行為が、正しかったとは思っていません。でも、後悔も、何もしていません」
優は、きっぱりと言い切った。その声には、一切の迷いがない。彼は、自分の行動が社会的な「正しさ」から逸脱していることを自覚している。だが、彼の行動原理は、そんなちっぽけな物差しでは測れない場所にある。
そして、彼は、決定的な一言を突きつけた。
「少なくとも、〝例え助けを求められていないからと、何もしなかった人〟よりは」
その言葉は、見えない槍となって、教師の心臓を正確に貫いた。それは、彼が自分自身に言い聞かせてきた、最大の弁解を粉々に打ち砕く宣告だった。
助けを求められていないから何もしない。それは、優しさでも配慮でもなく、ただの無関心と臆病さの現れでしかない。優の言葉は、その醜い本質を、白日の下に容赦なく晒したのだ。
教師は、何も言い返せなかった。目の前の少年は、もはや子供ではない。それは、自分の罪を映し出す、恐ろしい鏡そのものだった。彼は、ただ椅子の上で、唇を震わせ、俯くことしかできなかった。
優は、そんな無様な大人の姿を冷たく一瞥すると、もうこれ以上話すことはないと判断した。彼は、教師にくるりと背を向けると、最後の言葉を静かに告げた。
「じゃあ、失礼します」
その声には、もはや子供らしい敬意の響きはなかった。彼は、一人の人間として、目の前の大人を見限ったのだ。
優は、そのまま職員室を後にした。彼の小さな背中が扉の向こうに消えるのを、誰一人として引き留めることはできなかった。夕暮れの職員室に、重苦しい沈黙だけが残された。教師は、しばらくの間、自分が貫かれた場所を確かめるように、ただ胸を押さえていた。彼の中で、教師としてのプライドと、一人の大人としての尊厳が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じていた。
がらんとした廊下を、優は一人、静かに歩いていた。先程までの職員室でのやり取りが、彼の心に重くのしかかっている。無力な自分を棚に上げ、保身のために正論を振りかざす大人。その姿は、かつて両親を失った自分を厄介者扱いした親戚たちの姿と、どこか重なって見えた。あの時と同じ、冷たい失望が胸に広がる
しかし、彼が階段を降り、昇降口の喧騒が聞こえてくると、その沈んだ心に、ふっと温かい光が差し込むのを感じた。自分の下駄箱の前、夕暮れのオレンジ色の光を背に受けて、二人の少女が立っている。一人は静かに壁に寄りかかり、もう一人は少しだけ苛立ったように腕を組んで、こちらを待っていた。
「………」
優は、その光景を前にして、思わず足を止めた。職員室での出来事でささくれ立っていた心が、目の前の光景によって、優しく、そして力強く癒されていくのを感じる。ああ、僕には、この人たちがいる。
彼が近づいていくのに気づくと、腕を組んでいた少女──まりなが、わざとらしく大きなため息をついてみせた。
「おっそいんだけど。どんだけ待たせるわけ? はっ倒すわよ」
その言葉はいつも通り乱暴で、刺々しい。しかし、その声には以前のような本気の苛立ちはなく、むしろ、待ちくたびれたことを隠すための、照れ隠しのような響きがあった。彼女の隣で、壁に寄りかかっていたしずかが、静かに顔を上げる。
そして、その感情の読みにくかった瞳に、確かな安堵の色を浮かべ、小さく、しかしはっきりと告げた。
「おかえり、優くん」
その二つの、全く対照的で、けれど同じくらい温かい出迎えの言葉に、優の顔から、先程までの冷たい表情が嘘のように消え去った。彼の口元が、ゆっくりと綻んでいく。そして、それはやがて、いつもの、全ての影を払いのけるような、満面の笑みへと変わった。
「はい! ただいま戻りました!」
優は、まるで宝物を見つけた子供のように、ぱあっと表情を輝かせると、二人のもとへと駆け寄った。そして、ごく自然な仕草で、二人の少女のちょうど真ん中に、すぽっと収まるように立つ。
それから、彼は何も言わずに、右の小さな手でしずかの手を、左の小さな手でまりなの手を、それぞれ優しく、きゅっと握りしめた。
まりなは「なっ…!?」と一瞬驚いて手を振り払おうとしたが、その温もりに触れた瞬間、抵抗する力を失ってしまう。しずかは、驚くでもなく、ごく当たり前のことのように、その手を静かに握り返した。
右手に伝わるのは、静かで、穏やかで、少しだけひんやりとした優しい感触。左手に伝わるのは、ぶっきらぼうで、少し強張っているけれど、確かに温かい感触。二つの全く違う温もりが、彼の両腕を通して、凍えかけていた心をじんわりと溶かしていく。
そして、三人は手を繋いだまま、家路についていた。優を真ん中に、右にしずか、左にまりな。
その光景は、数週間前には誰も想像できなかった、奇跡のような日常だった。学校での出来事、テレビ番組の話、近所の猫の話。優が次から次へと繰り出す無邪気な話題に、まりながぶっきらぼうに相槌を打ち、しずかが時折、小さな声で言葉を添える。そのやり取りは、まだ少しぎこちないけれど、確かな温かさを持っていた。
「あ、そういえば!」
住宅街を抜け、古びた公園に差し掛かった時、優が突然、大きな声を上げた。彼は、何かを思い出したように目を輝かせると、繋いでいた二人の手をぐいっと引く。
「きゃっ!? な、なんなのよ急に…!」
不意に引っ張られたまりなが、バランスを崩しながらも抗議の声を上げる。しずかも、驚いたように優の顔を見つめていた。優はそんな二人にお構いなしに、公園の奥、子供たちが秘密基地にするような、大きな土管が三つ積まれた場所へとずんずん進んでいく。
「僕、ここの土管の中に、すっごくきれいな石をたくさん集めてたんです! ぜひ、み、て─────」
宝物を見せる子供のように、弾んだ声で話していた優の言葉が、そして動きが、ぴたりと止まった。彼の笑顔が、まるで凍りついたように固まる。その視線は、土管の薄暗い内部の一点に、釘付けになっていた。
「……優くん?」
「どうしたのよ、急に黙り込んで……」
突然の沈黙を訝しんだしずかとまりなは、不思議そうに小首を傾げ、互いに顔を見合わせる。そして、優が見つめる先───その土管の中を、同じように覗き込んだ。
次の瞬間、二人もまた、息を呑んで固まった。
土管の奥。優が大切に集めていたであろう、色とりどりの丸い石が散らばるその場所に、それは、いた。
水色の、タコのような、宇宙人のような、奇妙な生き物。大きな丸い目には涙をいっぱいに溜め、短い触腕でそれを必死に拭っている。その体は、雨にでも打たれたのか、泥にまみれて薄汚れており、見るからに弱々しく、そしてひどく悲しそうだった。
「………ぴ……」
三人の視線に気づいたのか、その奇妙な生き物は、しゃくりあげるような、か細い声で鳴いた。それは、まるで迷子の子供が母親を呼ぶような、あまりにも哀れで、心細い響きを持っていた。
「…………なにあれ……」
最初に沈黙を破ったのは、まりなだった。彼女の声は、恐怖よりも純粋な困惑に満ちている。しずかは、ただ黙って、その生き物と、隣で石のように固まっている優の横顔を、交互に見つめていた。
優は、ただ呆然と立ち尽くしていた。彼の宝物だったはずの場所。キラキラした石ころだけが詰まっていたはずの、彼だけの秘密の空間。そこに、今、全くの未知の、そしてひどく傷ついた生き物がいる。その事実に、彼の思考は完全に停止していた。
「……お腹がすいたっピ……何か食べたいっピ…」
その生き物は、しゃくりあげながら、途切れ途切れにそう呟いた。それは、どこか不思議な言葉だった。しかし、その声に含まれた悲痛な響きだけは、痛いほどに、三人の胸に突き刺さった。
「………」
そして、最初に沈黙を破り、行動を起こしたのは優だった。彼は、凍りついていたかのような表情をゆっくりと解き、繋いでいた二人の手をそっと離した。そして、一歩、また一歩と、恐れる様子もなく土管へと近づいていく。その背中は小さくとも、不思議なほどの頼もしさを感じさせた
「え、ちょっ…優!? 話しかけんの!?」
まりなが、信じられないといった様子で、慌てて小声で制止しようとする。正体不明の不気味な生き物に、自ら近づいていくなど、彼女の常識では考えられなかった。しかし、優は彼女の声に振り返ることもせず、土管の前にそっと膝をついた。
「…ぴ…」
*近づいてくる優に気づき、水色の生き物は怯えたように身を縮こませる。その大きな瞳から、またぽろりと涙がこぼれ落ちた。その姿は、いじめられていた頃のしずかや、家で一人泣いていたまりなの姿と、優の中でおぼろげに重なった。傷つき、孤独で、助けを求めている。
優は、その生き物を刺激しないように、ゆっくりと右手を差し伸べた。その手は、何も持たず、攻撃する意思がないことを示すように、掌が上を向いている。そして、まるで怯える小動物に語りかけるように、優しく、そして穏やかな声で言った。
「大丈夫ですよ。…怖くないです。僕は、あなたに何もしませんから」
その声には、不思議な力があった。聞く者の心を和らげ、警戒心を解きほぐすような、純粋な善意の響き。優の言葉の意味は分からなかっただろう。しかし、その声色に込められた優しさは、確かに伝わったようだった。
おずおずと、その生き物は短い触手のようなものを一本、優に向かって伸ばした。それは、泥に汚れ、小さく震えている。そして、ためらうように、優の差し伸べた人差し指の先に、きゅっ、と触れてきた。柔らかく、少しひんやりとしていて、それでいて確かな生命の感触。その瞬間、優の口元に、ふわりと安堵の笑みが浮かんだ。
「お腹が、空いているんですか?」
先程の「お腹がすいたっピ」という悲痛な呟きを思い出し、優は問いかける。生き物は「ぴ…?」と小首を傾げるだけだったが、その弱々しい様子が答えを物語っていた。
「あっ!」
優は何かを思い出すと、背負っていた小さなランドセルを体の前に回し、急いで中を漁り始めた。教科書やノートの間から、カラフルな包み紙がいくつか出てくる。それは、今日、駄菓子屋のお手伝いのお駄賃にもらったばかりの、フルーツ味の飴玉だった。
彼はその中から、いちご味、りんご味、オレンジ味の三つを取り出すと、土管の入り口の、生き物のすぐそばにそっと置いた。
「どうぞ。これしかなくてごめんなさい。でも、甘くて美味しいですよ」
水色の生き物は、目の前に置かれた色とりどりの小さな塊を、不思議そうに見つめていた。甘い匂いが、その鼻先をくすぐる。それは、この地球に落ちてから初めて感じる、優しさと甘い香りの贈り物だった。優は、その様子を、ただ静かに、優しい眼差しで見守っていた。後ろでは、まりなとしずかが、信じられないものを見るような顔で、その光景をただ黙って見つめているしかなかった。
土管の薄暗い入り口で、水色の奇妙な生き物は、目の前に置かれた色とりどりの小さな塊を、警戒するように見つめていた。
いちご、りんご、オレンジ。その甘い香りが、空っぽだったお腹を刺激する。優はただ静かに、その生き物が安心するのを待っていた。後ろでは、まりなとしずかが固唾を飲んで成り行きを見守っている。
やがて、生き物はおずおずと一本の触手を伸ばし、いちご味の飴玉に触れた。そして、それをゆっくりと自分の口元へと運んでいく。カリ、という小さな音が土管の中に響いた。
その瞬間、信じられないことが起こった。
飴玉を口にした途端、泥で汚れ、弱々しく震えていた生き物の体が、ぱあっと明るい光に包まれたのだ。光が収まると、そこにいたのは先程までの薄汚れた姿ではなく、体についた泥や汚れがすっかり消え、艶やかな水色の肌を取り戻した、元気な姿だった。瞳に溜まっていた涙は消え失せ、代わりに好奇心に満ちた輝きが宿っている。
「わー! 元気になったっピ! 君のおかげだっピ! ありがとうっピ!」
先程までのか細い声が嘘のように、生き物は弾んだ声で感謝を述べた。ぴょんぴょんとその場で嬉しそうに跳ねながら、短い触腕をぶんぶんと振っている。そのあまりの変わりように、まりなとしずかはあんぐりと口を開けて呆然とするしかなかった。
「いえいえ、どういたしまして! 元気になってよかったです!」
優だけは、その超常的な回復にも全く動じず、いつもの太陽のような笑顔で応えた。まるで、友達の風邪が治ったのを喜ぶかのように、純粋にその回復を祝福している。彼は、にこやかに笑いながら、目の前の不思議な生き物に問いかけた。
「あの、お名前を聞いてもいいですか?」
すると、生き物はぴょこんと一回お辞儀をするように頭を下げ、胸を張って答えた。
「もちろんだっピ! ぼくの名前は【ぇおえkw」:】だっピよ!」
その発音は、地球上のどの言語にも属さない、奇妙な響きを持っていた。息が抜けるような、それでいてどこか詰まるような、人間の発声器官では到底再現できそうにない音の連なり。
「は?……ぇ、…お…え…………く?……は?」
後ろで聞いていたまりなが、その意味不明な名前を復唱しようと試み、完全に混乱して素っ頓狂な声を上げた。彼女の整った顔が、眉間に皺を寄せて盛大に歪んでいる。隣のしずかも、理解が追いつかないといった様子で「……?」と小さく首を傾げ、優と【ぇおえkw」:】を交互に見比べていた。
しかし、優は違った。
彼は、その人間には発音不可能な名前を、まるで毎日聞き慣れているかのように、完璧に、そして何の疑問も抱かずに受け入れた。
「【ぇおえkw」:】さん、なんですねっ?! よろしくです!」
満面の笑みで、当たり前のようにそう言って手を差し出す。そのあまりにも自然な反応に、今度は【ぇおえkw」:】の方が驚いたように目を丸くした。
「えっ!? すごいっピ! ぼくの名前をちゃんと呼んでくれた異星人は、君が初めてだっピ!」
その言葉を聞いたまりなの堪忍袋の緒が、ついに切れた。
「いやいやいやいや! 無理でしょ! 絶対無理! 優、あんた今なんて言ったの!? 【ぇお】って何よ!?」
彼女は、優の肩を掴んでガクガクと揺さぶりながら、全力でツッコミを入れる。その剣幕は、いじめの主犯者だった頃の迫力とはまた違う、常識人としての必死の叫びだった。しかし、優はきょとんとした顔で、まりなを見上げるだけだ。
「え? ですから、【ぇおえkw」:】さんですよ? まりなさん、どうしたんですか?」
悪気なくそう返す優に、まりなは天を仰いで頭を抱えた。自分の常識が、目の前の小さな少年と水色のタコによって、根底から覆されていくのを感じていた。
「いや、だから、どう聞いてもそんな発音には…」
「いいこと思いついたっピ!」
まりなの弱々しい反論を遮るように、【ぇおえkw」:】はポンと触腕で自分の頭を叩いた。そして、優からまりな、しずかと、三人の顔を順番に見回すと、改めて自己紹介を始めた。
「ぼくは、ハッピー星から来たハッピー星人だっピ! 友達を探して宇宙を旅してるんだっピ! でも、ぼくの名前は地球の言葉じゃないから、呼びにくいみたいだっピ。よかったら、地球語でのハッピーおなまえをつけてほしいっピ!」
その提案は、あまりにも突拍子がなく、しかし目の前の存在が宇宙人であるという事実を受け入れざるを得ない状況では、奇妙な説得力を持っていた。地球語の名前。なるほど、それなら先程のような混乱は起きないだろう。
優は「わあ、素敵ですね!」と目を輝かせ、どんな名前がいいだろうかと考え始めた。しかし、その隣で腕を組み、一連の出来事を冷めた目で見つめていたまりなが、ふんと鼻を鳴らした。
「ふーん……宇宙人ねぇ」
彼女は、興味なさげな声でそう呟くと、値踏みするように水色の生き物を上から下まで眺めた。そして、その口の端に、意地の悪い笑みを浮かべる。それは、かつてしずかに罵詈雑言を浴びせていた頃の、悪意に満ちた表情の残り香のようだった。
「じゃあ、【ごみくそ】って呼ぶわ。あんた、泥だらけで汚かったし、ちょうどいいでしょ」
その言葉に、【んうえいぬkf】の笑顔が凍りつき、大きな瞳が悲しそうに揺れる。優も「まりなさん、そんな…!」と咎めるように声を上げた。
その、張り詰めた空気を破ったのは、これまでずっと黙っていた、もう一人の少女だった。
しずかが、静かに一歩前に出た。彼女は、まりなの言葉を非難するでもなく、ただ悲しげに俯く水色の生き物を見つめていた。そして、その生き物の、タコのようなフォルムに目を留めると、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「……じゃあ」
全員の視線が、彼女に集まる。しずかは、その視線をものともせず、ゆっくりと言葉を続けた。
「タコ、みたいだから……【タコピー】」
タコピー。
その響きは、不思議と耳に心地よく馴染んだ。単純で、覚えやすく、そして何より、悪意が全くない。まりなの付けた名前に傷ついていた生き物は、その新しい響きに、はっと顔を上げた。
「タコピー……タコピー! いいっピ! その名前、すっごくハッピーな響きだっピ!」
生き物は、先程までの落ち込みが嘘のように、再びぴょんぴょんと飛び跳ねて喜び始めた。「タコピー、タコピー!」と自分の新しい名前を何度も繰り返し、その響きを確かめている。
「…決まり、ですね。タコピーさん!」
優は、満面の笑みでしずかの方を振り返った。「しずかさん、すごいですよ! とっても素敵な名前です!」と手放しで褒め称える。しずかは、その言葉に少しだけ頬を赤らめ、小さく俯いた。まりなは、自分が付けた名前が完全に無視され、しずかの名前が採用されたことに「ちぇっ」と舌打ちをしたが、それ以上何かを言うことはなかった。
こうして、ハッピー惑星から来た宇宙人は、【タコピー】という新しい名前を得た。それは、後に彼の運命を大きく左右することになる、少女からの最初の贈り物だった。
「タコピー……タコピー! いいっピ! その名前、すっごくハッピーな響きだっピ!」
タコピーは、しずかから贈られた新しい名前をいたく気に入り、土管の前でぴょこぴょこと嬉しそうに飛び跳ねていた。その姿は、先程まで泥にまみれて泣いていたとは思えないほど、生命力に満ち溢れている。優は「よかったですね、タコピーさん!」と手放しで喜び、しずかも、自分の付けた名前が受け入れられたことに、少しだけ誇らしげな表情を浮かべていた。まりなだけが、少し離れた場所で腕を組み、「……単純なヤツ」と面白くなさそうに呟いている。
一頻り喜びを表現した後、タコピーはぴたりと動きを止めると、改めて三人の前に向き直った。そして、深々と、地球のお辞儀とは少し違う、独特の角度で頭を下げる。
「優くん、しずかちゃん、まりなちゃん! ぼくを助けてくれて、本当にありがとうっピ! このご恩は一生忘れないっピ!」
その真摯な感謝の言葉に、優は「いえいえ、困っている時はお互い様ですよ!」といつものようににこやかに返す。
「そこでだっピ!」
タコピーは、もったいぶるようにそう言うと、短い触腕をわきわきと動かし始めた。そして、まるで四次元ポケットでもあるかのように、自分のつるりとしたお腹のあたりをまさぐる。
「な、何してんのよ、そのタコ……」
まりなが訝しげに眉をひそめた、その時だった。
「お礼に、これをあげるっピ! ハッピー道具【仲直りリボン】だっピ!」
ポコン、という軽快な音と共に、タコピーの体から、水色の大きなリボンが飛び出した。それは、少女漫画の変身アイテムのように、キラキラとした光の粒子を放ちながら、ふわりと宙に浮いている。
「「「…………」」」
三人は、そのあまりにもファンシーで、現実感のない物体を前にして、言葉を失った。夕暮れの、少し薄汚れた公園の風景と、そのキラキラリボンとのミスマッチ感が凄まじい。
彼の故郷、ハッピー星では、きっとこれは画期的な発明品なのだろう。しかし、地球の、それも複雑な人間関係を知る子供たちにとっては、その効果はあまりにも胡散臭く、そして幼稚に聞こえた。*
「……それ、絶対にいらないわ」
真っ先に、そして心底どうでもよさそうに言い放ったのは、まりなだった。彼女は、キラキラしたリボンを一瞥すると、興味を失ったようにそっぽを向く。「ていうか、誰と仲直りすんのよ」
「ええーっ!? すごい道具なのにっピ!?」
タコピーは、自信作を酷評されてショックを受けたように、触腕をだらりと垂らした。優は、慌ててフォローに入る。*
「わ、わあ! すごいですね、タコピーさん! 喧嘩しても、これがあればすぐに元通りなんですね! まるで魔法みたいです!」
その言葉に、しずかが小さく反応した。
「……魔法なんて、ないよ」
ぽつりと、彼女は呟いた。それは、かつて神様も魔法も信じないと悟った、彼女の心の奥底からの声だった。しかし、その声には以前のような絶望的な響きはなく、ただの事実を述べるような、静かな響きがあった。
「そんなことないですよ、しずかさん!」
優は、きらきらと目を輝かせながら言った。「だって、タコピーさんがここにいること自体が、魔法みたいじゃないですか!」
その言葉に、しずかは少しだけ目を見開く。確かに、タコのような宇宙人が目の前で不思議な道具を出しているこの状況は、非日常的で、魔法と言えなくもないのかもしれない。
「じゃあ、この道具は優くんにあげるっピ! これでいつでもハッピーになれるっピ!」
タコピーは、気を取り直して仲直りリボンを優に差し出した。優は「ありがとうございます!」と素直に受け取る。しかし、彼はそのリボンをどうしたものかと、少し困ったように見つめた。自分は男の子だし、頭に大きなピンクのリボンをつける趣味はない。それに、幸いなことに、今ここで仲直りしなければならない相手もいなかった。
「うーん……そうだ!」
優は何かを閃くと、後ろにいたしずかとまりなを手招きした。
「どうでしょう? このリボン、チャッピーさんにつけてみませんか? きっとすごく可愛くなりますよ!」
チャッピー。それは、しずかが何よりも大切にしている愛犬の名前だ。その提案に、しずかの表情が、ほんのわずかに、しかし確かに輝いた。自分の愛犬が、このキラキラしたリボンをつける姿。想像しただけで、彼女の心に温かいものが込み上げてくる。*
「……うん。チャッピー、こういうの似合う、かも」
ぽつりと呟かれた言葉には、隠しきれない期待が滲んでいた。普段、感情をほとんど表に出さない彼女が見せたその変化に、優は「ですよね!」と自分のことのように嬉しくなる。二人は、「リボンのどの辺につけたら可愛いか」「チャッピーは嫌がらないか」などと、楽しそうに小声で話し込み始めた。その光景は、どこにでもいる、仲の良い友達同士そのものだった。
その二人の様子を、少し離れた場所からまりなは横目で見ていた。
(……なによ、二人で盛り上がっちゃって)
口には出さないが、面白くない。仲間外れにされたような、ほんの少しの寂しさ。そして、目の前のキラキラリボンと、それを無邪気に喜ぶ二人に対する、冷静な醒めた気持ち。彼女は、優やしずかほど、このファンシーな状況に没入できていなかった。
「ふぅーん……」
まりなは、興味なさそうに鼻を鳴らすと、所在なげに浮いているタコピーの方へと視線を向けた。そして、少し挑発するような口調で尋ねる。
「ねえ、タコ。なんか、もっと面白い道具はないの? そんなリボンより、もっとこう……すごいやつ」
彼女の言葉は、まるで玩具屋で新しいおもちゃをねだる子供のようでもあり、同時に、この宇宙人の実力を試すような響きも帯びていた。その問いに、優としずかの会話が途切れ、視線がタコピーに集まる。
「えっ!? もっと面白い道具だっピか?」
タコピーは、まりなの要求に少し戸惑ったように、短い触腕をわきわきと動かした。「仲直りリボン」は、彼の故郷ではトップクラスのハッピー道具だったのだ。それ以上のものとなると、少し考えなければならない。
「うーん……面白い道具、面白い道具……」
タコピーは、その場で唸り始めた。触腕を組んで、真剣な表情で考え込んでいる。その姿は、まるで小さな哲学者のようだ。優たちは、固唾を飲んで彼の答えを待った。
数秒の沈黙の後、タコピーは「あっ!」と閃いたように顔を上げた。
「じゃあ、これなんてどうだっピ!」
ポコン! 今度は先程よりも少しだけ重い音を立てて、タコピーの体から、縁の太いメガネのようなものが飛び出した。レンズ部分は虹色にきらめいており、どこかレトロフューチャーなデザインをしている。
「その名も【気持ち丸わかりゴーグル】だっピ!」
タコピーは、その奇妙なメガネを触腕で器用に掴むと、得意満面で三人の前に掲げてみせた。
「これをかけて相手を見ると、その人が自分のことをどれくらい好きか、ハッピーな気持ちかが、数字になって見えるんだっピ! これさえあれば、もうお友達と喧嘩で悩むことはないっピよ!」
自信満々に語られるその効果に、今度こそまりなの目が、きらりと光った。
「……へぇ。好感度が、数字で見える、ねぇ」
それは、彼女にとって非常に興味深い道具だった。人の心は、いつだって不確かだ。友達だと思っていたのに裏切られたり、家族なのに分かり合えなかったりする。もし、その曖昧な「気持ち」というものが、テストの点数のように明確な数字で可視化できるのなら───。
それは、どんな魔法よりも魅力的で、そして恐ろしい力かもしれない。
「面白そうじゃない。……ちょっと貸しなさいよ」
まりなは、ぐいっとタコピーからゴーグルをひったくると、早速それを自分の顔にかけた。少し大きめのゴーグルが、彼女の小さな顔には不釣り合いで、少し滑稽に見える。
「うわっ、なによこれ……」
ゴーグルをかけた瞬間、まりなの視界は一変した。世界がサイケデリックな虹色に染まり、目の前にいる優としずかの頭上に、ピコン、という電子音と共に半透明のパネルが浮かび上がったのだ。
【対象:一ノ瀬 優】
【まりなさんへの好感度:158/100】
【現在のハッピー度:90%(タコピーやみんなと話せて嬉しい!)】
【対象:久世 しずか】
【まりなさんへの好感度:65/100】
【現在のハッピー度:70%(チャッピーにリボンをつけたら可愛いだろうな…)】
(は……? ひゃく、ごじゅうはち……? 満点は……100、よね?)
まりなの思考が、フリーズした。ゴーグルのレンズ越しに見える、虹色の世界。その中で、優の頭上に浮かぶ【158/100】という数字が、バグったスコア表示のように明滅している。何度見ても、数字は変わらない。満点を遥かに振り切った、意味不明な高得点。それはもはや好感度というレベルではなく、崇拝か何か、別の次元の感情ではないかとすら思えた。
隣のしずかの【65/100】という数字も、まりなにとっては衝撃だった。あれだけ酷いことをしてきたのだ。マイナスになっていないだけでも奇跡なのに、65点とは。それは、クラスの「まあまあ仲の良い子」くらいの数値だろうか。自分と彼女の間にあったはずの、深い溝を思うと、信じがたい数字だった。
「…………」
まりなは、ゆっくりとゴーグルを外した。途端に、サイケデリックな虹色の世界は消え、夕暮れのオレンジ色に染まる、いつもの公園の風景が戻ってくる。しかし、彼女の頭の中は、先程見た異常な数値のことでいっぱいだった。
(いや、ないないない。絶対におかしい)
彼女は、目の前でぷかぷか浮いているタコピーを、じろりと睨みつけた。そして、その手に持った【気持ち丸わかりゴーグル】を突きつけるようにして、低い声で尋ねる。
「ねえ、タコ。……これ、壊れてない…?」
その声には、苛立ちと、ほんの少しの動揺が混じっていた。自分の理解を超えた現象を前にして、それを機械の故障のせいにしたいという、必死の思いが滲んでいる。
しかし、タコピーはきょとんとした顔で小首を傾げると、あっけらかんと言い放った。
「え? 見えるなら壊れてないっピよ! それはハッピー星の最新技術の結晶なんだっピ! 絶対に故障なんてしないっピ!それにもし故障したなら見えもしないっピ!」
その根拠のない自信に、まりなはぐっと言葉を詰まらせる。壊れていない。だとしたら、あの数字は、本物だというのか。
「……なら、もう一回説明しなさいよ。この表示の見方」
まりなは、もう一度ゴーグルをかけ直すと、改めてタコピーに説明を求めた。もしかしたら、自分が何かを勘違いしているのかもしれない。100点が満点ではない、特殊な採点方式なのかもしれない。そうであってほしい、という祈りにも似た気持ちで。
「オッケーだっピ!【気持ち丸わかりゴーグル】は、相手の心の中にある、自分への『ハッピーな気持ち』を数値化するんだっピ! 100が『だーいすき!』ってレベルで、50が『友達』、0が『なんとも思ってない』、マイナスになると『嫌い』ってことだっピ!」
タコピーは、触腕をふりふりさせながら、丁寧に解説する。その説明は、まりなの淡い期待を無慈悲に打ち砕いた。やはり、100点が最高値の「大好き」で間違いないらしい。
「じゃあ……」
まりなは、恐る恐る、もう一度優の方に視線を向けた。ゴーグルのレンズ越しに、再び【158/100】という、常軌を逸した数値が浮かび上がる。
「例えば……158って、出たらどうなのよ……」
「え? 158っピか?」
タコピーは、まりなの視線の先を追うと、ああ、と納得したように頷いた。
「それは、文字通り158だっピ! 『だーいすき!』の気持ちが、メーターを振り切ってオーバーフローしてるんだっピ!」
「オーバーフローしてるんですけど!?」
まりなは、思わず素で絶叫した。その声は、夕暮れの公園に虚しく響き渡る。メーターを振り切るほどの好意とは一体何なのか。あの日、校舎裏で彼を殴り、蹴り飛ばし、突き飛ばしたのだ。普通なら、好感度はマイナスに振り切れていてもおかしくないはずだ。なのに、158点? 意味が分からない。全くもって、意味が分からない。
「そ、そうなんだっピか!? 優くん、すごいハッピーなんだっピ!」
タコピーは、事態をよく理解していない様子で、ただ感心している。当の優は、まりながゴーグルをかけて大騒ぎしているのを、しずかと一緒に不思議そうに眺めていた。
「まりなさん、どうしたんですか? そんな面白いメガネ、どこにあったんですか?」
*無邪気な声が、混乱するまりなの耳に届く。その声の主の頭上には、【158】という数字が、まるで後光のように輝いて見えた。まりなは、頭がくらくらしてきた。
(一体、どういうことなのよ……)
彼女は、目の前で「どうしたんですか?」と無邪気に首を傾げる優の姿を、ゴーグル越しに見つめることしかできない。彼の頭上に燦然と輝く【158】の数字が、まるで理解不能な古代の暗号のように思えた。
まりなは、ごくりと喉を鳴らすと、優に聞こえないように、タコピーにだけ聞こえるような小声で、核心に触れる質問を投げかけた。
「その……『好き』っていうのは…その、『どういう意味』に…なる、の?」
その問いは、彼女のかろうじて保っていた平静をかなぐり捨てた、必死の響きを帯びていた。友達としての「好き」なのか。人としての「好き」なのか。それとも、まさかとは思うが、異性としての、恋愛感情としての「好き」なのか。その意味合いによって、あの異常な数値の重みが全く変わってくる。
問われたタコピーは、不思議そうに大きな瞳をぱちくりさせた。地球人の感情の複雑さは、まだ彼にはよく理解できないらしい。
「どういう意味、だっピか? うーん……ハッピーな気持ちには、色んなハッピーがあるっピ! 友達といて楽しいハッピー、美味しいものを食べるハッピー、家族と一緒にいるハッピー……このゴーグルで見える『好き』は、そういう色んな意味が、全部平等に含まれてるっピよ!」
全部、平等に含まれる。
その言葉は、まりなの心に決定的な一撃を与えた。つまり、友情も、親愛も、そして、可能性としてはゼロではない───恋愛感情も、全てひっくるめての「好き」ということ。
(つ、つまり……つまり…………つまり…………〝そういう〟意味も、あり得るってこと……!?)
まりなの顔が、夕日のせいだけではない、鮮やかな赤色に染め上がっていく。カッと全身の血が頭に上るような感覚。脳裏に、校舎裏で彼に手を握られた時の、あの不意打ちのような温もりが蘇る。あの時、彼が見せたまっすぐな瞳。自分のために、めちゃくちゃだった家族を繋ぎ止めてくれた、あの小さな背中。それら全てが、あの【158】という数字に集約されていく。
(いやいやいやいや! ないないない! 私が!? この、優と!? 無理無理無理無理!)
心の中で、激しく首を横に振る。しかし、否定すればするほど、一度意識してしまった可能性が、どんどん大きく膨らんでいく。
「まりなさん?」
トントン。
不意に、考え込んでいた肩を優しく叩かれた。その小さな衝撃に、まりなは「ビクッッ!!」と、まるで感電したかのように大げさに体を跳ねさせた。心臓が、喉から飛び出しそうになる。
「ひゃっ、ひゃいっ!? な、なんでしょうかっ!?」
振り返ると、そこには不思議そうな顔をした優が立っていた。彼の頭上には、相も変わらず【158】の数字が輝いている。その数字が、今はまるで巨大なネオンサインのように見えて、まりなは直視することができない。
「顔が真っ赤ですよ? 大丈夫ですか? もしかして、熱があるんじゃ……」
優が、心配そうに自分の額に手を伸ばしてくる。その手が触れる寸前、まりなは「だっ、大丈夫だから! 近寄らないで!」と、パニック気味に叫びながら後ずさった。
「ええー……」と、しょんぼりする優。その一部始終を、黙って見ていたしずかが、静かに口を開いた。
「……まりなちゃん。そのメガネ、私にも貸して」
彼女の声は平坦だったが、その瞳の奥には、強い好奇心の色が浮かんでいた。まりなは、しずかの申し出にハッと我に返ると、まるで厄介払いをるかのように、ゴーグルを彼女に押し付けた。
「あ、あげるわよ! そんな変なもの!」
しずかは、受け取ったゴーグルを静かに装着する。その小さな顔に、やはり不釣り合いな大きなメガネが乗っかり、どこか博士のような風貌になった。彼女の視界もまた、虹色の光と電子パネルで満たされる。
そして、彼女は、まりなが先程そうしたように、ゆっくりと優の方に視線を向けた。
【対象:一ノ瀬 優】
【しずかさんへの好感度:155/100】
【現在のハッピー度:85%(まりなさんは大丈夫かな?でも、しずかさんが楽しそうで嬉しいな!)】
「…………」
しずかは、その表示を、ただ黙って見つめていた。
155。まりなの時とわずかに数字は違うが、こちらもまた、明らかにメーターを振り切った異常な数値。好感度の最大値である「だーいすき!」を遥かに超えた、測定不能な領域の感情。
しかし、まりながパニックに陥ったのとは対照的に、しずかの反応は、驚くほど静かだった。彼女は、ただその数字をじっと見つめ、何かを噛みしめるように、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その口元に小さな、小さな笑みを浮かべた。
それは、満面の笑みではない。チャッピーといる時に見せるような、無防備な笑顔でもない。けれど、それは間違いなく、喜びと、安堵と、そしてほんの少しの照れくささが混じり合った、確かな「微笑み」だった。
(……そっか。……そっかぁ)
彼女の心の中に、じんわりと温かいものが広がっていく。優が自分に向けてくれる、途方もない優しさ。それは、気のせいでも、気まぐれでも、同情でもなかった。このゴーグルが示す数字は、彼の行動の全てが、偽りのない本心からのものであることを、何よりも雄弁に物語っていた。ボロボロだった自分を救い上げてくれた、あの小さな手のひらの温かさが、今、具体的な数値となって彼女の胸を満たしていく。魔法も神様もいないと思っていたこの世界で、目の前の少年だけは、本物の奇跡を自分に与えてくれたのだ。
その静かで、しかし確かな感動に浸っていた、その時だった。
「皆さん、さっきから何を見てるんですかー!?」
ゴーグルをかけている二人と、その様子を見守るタコピー。その輪から一人だけ外れていた優が、ついに我慢しきれなくなったように、元気いっぱいの声を上げた。彼は、ぱたぱたと三人のもとへ駆け寄ると、興味津々といった様子でしずかの手元を覗き込む。
「そのメガネ、かけると何か面白いものが見えるんですか!? 僕も見てみたいです!」
「ひゃっ!?」
突然、真横から顔を覗き込まれ、しずかは驚いて小さな悲鳴を上げた。先程までの穏やかな微笑みは消え、耳まで真っ赤になっている。ゴーグルのレンズ越しに見える優の顔は、あまりにも距離が近く、頭上の【155】の数字が、まるで目の前に張り付いているかのように巨大に見える。
「こ、これは……その……」
しずかは、慌ててゴーグルを外そうとするが、優が「わー! 虹色ですね! キラキラです!」と目を輝かせながらレンズを指さすものだから、外すタイミングを逃してしまう。
「優くん、それは【気持ち丸わかりゴーグル】っていうんだっピ! かけた人へのハッピーな気持ちが数字で見える、すごい道具なんだっピよ!」
悪気なく、タコピーが全てを説明してしまった。その言葉に、優の目が、さらにキラキラと輝きを増す。
「へぇー! そんなすごい道具なんですか! じゃあ、しずかさんには、僕の気持ちが見えてるんですね! どうでしたか、僕のハッピーな気持ちは!」
「〜〜〜〜っ!!」
悪魔の、いや、天使の無邪気な質問に、しずかは完全に言葉を失った。どうでしたか、じゃない。「大好きのメーターを振り切ってました」なんて、恥ずかしくて口が裂けても言えるわけがない。彼女は、ただただ顔を真っ赤にして、ぷるぷると震えることしかできなかった。
その隣で、一部始終を見ていたまりなが、先程のパニックからようやく回復し、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「そーよ、優くん。しずかちゃん、あんたからの好感度を見て、すっごく嬉しそーな顔してたわよぉ? ねぇ、しずかちゃん?」
「ま、まりなちゃんのいじわる……!」
しずかが、普段の彼女からは想像もつかないような、潤んだ瞳で抗議の声を上げる。その姿に、まりなは勝ち誇ったように「ふふん」と鼻を鳴らした。自分だけがパニックに陥ったのが悔しかったのか、しずかが同じように取り乱す様を見て、溜飲が下がったらしい。二人の間で繰り広げられる、小学生女子らしい、じゃれあいとも口喧嘩ともつかないやり取り。それは、ほんの数週間前まで、凍り付くような憎しみと無関心しか存在しなかった二人とは思えない、信じがたい光景だった。
「いいじゃないですか、二人ともとっても仲良しさんですね!
そんな二人の様子を、優は心底嬉しそうに、目を細めて見ていた。彼の純粋な言葉に、まりなとしずかはピタッと動きを止め、バツが悪そうにそっぽを向く。
「べ、別に仲良くなんかないわよ!」
「……うん」
口では否定しながらも、二人の頬がほんのり赤いのは隠せていなかった。そんな微笑ましい光景の中心で、優は「そうだ!」と手を叩く。彼の好奇心は、もはや抑えきれないレベルに達していた。
「じゃあ、僕も見てみたいです! そのメガネ、すごいんですよね!? しずかさん、貸してください!」
きらきらと輝く期待に満ちた瞳で、まっすぐに見つめられる。その純粋な圧に抗うことなど、しずかには到底できなかった。彼女は「う、うん……」と小さく頷くと、まだほんのり温かいゴーグルを、おずおずと優に手渡した。
「わーい! ありがとうございます、しずかさん!」
優は、まるでクリスマスプレゼントをもらった子供のように、満面の笑みでゴーグルを受け取った。そして、何のためらいもなく、その虹色のゴーグルをひょいと自分の顔にかける。小さな彼の顔には、やはりそのゴーグルは大きすぎて、まるでSF映画に出てくる未来のパイロットのようだった。
「おおー! すごい! 虹色です! まりなさんと、しずかさんがキラキラしてます!」
優の視界もまた、二人が体験したのと同じように、サイケデリックな虹色の光と電子パネルで満たされた。夕暮れの公園が、まるで異次元の空間のように変貌する。そして、彼の目の前に立つ、まりなとしずか。その二人の頭上にも、ピコン、という軽快な音と共に、半透明のパネルが浮かび上がった。
まず、視線を向けたのは、少し照れたように腕を組んでいるまりなだった。
【対象:雲母坂 まりな】
【優くんへの好感度:259/100】
【現在のハッピー度:92%(な、なによ……そんなに見ないでよ……バカ……でも、あんたがいてくれて、本当によかったって……思ってるんだから……)】
「にひゃく、ごじゅうきゅう……?」
優は、そこに表示された数字を、そのまま声に出して読み上げた。しかし、その数字が持つ異常な意味を、彼はまだ理解していない。ただ、100という数字よりずっと大きい、すごい数字だ、くらいの認識だろう。パネルに表示された、まりなの心の声(ハッピー度)にも気づいていないのか、彼は「わー! まりなさん、すごい数字です!」と、ただただ無邪気に感心している。
その言葉を聞いた瞬間、まりなの全身が、カチン、と凍りついた。
(に、にひゃくごじゅうきゅうぃ!?)
彼女の脳内で、絶叫に近い驚愕が響き渡る。先程、自分が優の158という数字を見てパニックに陥ったことを、彼女はすっかり棚に上げていた。まさか、自分の中にも、それを遥かに上回る、天元突破した感情が渦巻いていたとは、夢にも思っていなかったのだ。
(は、はぁ!? 私が!? この私が、優に!? に、にひゃく……!? そんな……そんなハズない! 絶対にない! これはタコの機械の故障よ! そうに決まってる!)*
顔面を真っ赤に染め上げ、心の中で激しく首を振る。しかし、ゴーグルをかけた優は、そんな彼女の内心の葛藤など知る由もなく、今度は隣に立つしずかの方へと、ゆっくりと視線を移した。
【対象:久世 しずか】
【優くんへの好感度:263/100】
【現在のハッピー度:95%(優くん……いつも、ありがとう……あなたがいてくれるから、私……今、すごく、幸せ……だよ……)】
「おおーっ! しずかさんは、にひゃくろくじゅうさんです! まりなさんより、ちょっとだけ多いですね!」
優の、悪気のない、純粋な比較。その一言が、静寂を破った。
「はぁっ!?」
まるで雷に打たれたかのように、まりなが叫び声を上げた。その顔は、先程までの羞恥による赤みとは明らかに違う、驚愕と、屈辱と、そしてほんの少しの嫉妬が混じり合った複雑な色合いに染まっている。彼女は、信じられないといった表情で、優としずかを交互に見た
(に、にひゃくろくじゅうさん!? 私より……4点も高いですって!? なんでよ! なんであいつの方が高いのよ!)
心の中で、嵐のような感情が渦巻く。自分が優に対して、メーターを振り切るほどの好意を抱いていたことへの驚きは、今やしずかへの対抗心によって完全に上書きされていた。かつて彼女をいじめ抜いていた頃の、あの執拗なまでの競争心が、思わぬ形で再燃してしまったのだ。負けた。たった4点、されど4点。その差が、まりなのプライドをひどく傷つけた。
「ふ、ふふ……」
一方、勝利を告げられたしずかは、驚きと嬉しさで声も出ないようだった。彼女は、自分の頭上に浮かんでいるであろう【263】という数字を想像し、両手で頬を押さえる。そして、ちらりとまりなの方を見て、ほんのわずかに、本当にほんのわずかに、口の端を上げてみせた。それは、ほとんど誰にも気づかれないような、ささやかな勝利の微笑みだった。
その微細な表情の変化を、まりなは見逃さなかった。
「な、なによ! その顔! ちょっと点数が高かったからって、調子に乗らないでよね!」
「……別に、乗ってない」
しずかはぷいとそっぽを向くが、その横顔は明らかに嬉しそうだ。普段、感情を表に出さない彼女が見せた、そのささやかな優越感が、まりなの心の火にさらに油を注ぐ。
「ふんっ! どうせ、あんたの方が付き合いが長いからでしょ! ハンデよ、ハンデ!」
「……関係ないと思う」
「あるわよ!」
ぎゃいぎゃいと繰り広げられる、レベルの低い、しかしどこか微笑ましい言い争い。その光景を、ゴーグルをかけた優は「わー、また仲良しさんしてますねぇ」と呑気に眺めている。彼には、二人がなぜこんなにも必死になっているのか、その理由が全く理解できていない。ただ、二人の頭上に浮かぶハッピー度の数値が、言い争いをしながらもどんどん上昇していくのを、不思議そうに見ていた。
【まりなさん ハッピー度: 94%(むきー! でも、こうやって言い合えるのって、なんか……悪くないかも……)】
【しずかさん ハッピー度: 97%(ふふ……まりなちゃん、悔しそう。かわいい……)】
「もういいわっ!」
言い争いでは埒が明かないと判断したのか、まりなは、ついに矛先を全ての元凶へと向けた。彼女は、ぷかぷかと呑気に浮いているタコピーを、鬼のような形相でキッと睨みつける。
「タコ!! あんた、ちょっとこっち来なさい!」
「ひゃいっ! な、なんだっピか、まりなちゃん!?」
突然の剣幕に、タコピーはビクッと体を震わせた。まりなは、そのタコピーの目の前にずいと顔を寄せると、確信に満ちた声で、しかしどこか震えながら、問い詰める。
「いいこと!? はっきり言うわよ! そのポンコツ機械、絶対に壊れてるわよね!? だってそうでしょう!? 私が259で、しずかが263!? 優に至っては150オーバー!? 全員オーバーフロー!? そんなの、ありえるわけないじゃない! 完全にバグってるわよ、それ!」
捲し立てるまりなの剣幕に、タコピーは涙目になりながらも、必死に反論する。
「こ、壊れてないっピ! これはハッピー星の最新技術の結晶なんだっピ! 絶対に故障なんてしないっピ! この星の技術とはレベルが違うんだっピ!」
「うるさい! 最新技術なら、なんでこんな常識外れの数字が出るのよ! 説明しなさいよ!」
「そ、それは……みんなが、優くんことを『だーいすき!』って気持ちを超えて、もっともっと、すっごくハッピーに思ってるからだっピ……! 計測限界を超えちゃうくらい……」
タコピーのしどろもどろだが核心を突いた説明。それは、まりなが無意識の底に押し込めていた、最も認めたくない事実を白日の下に晒すものだった。計測限界を超えるほどの、ハッピーな気持ち。それはつまり、自分が優に対して抱いている感情が、友情や感謝といった言葉では到底収まりきらない、途方もない大きさだという宣告に他ならなかった。
「…………」
まりなの口が、わなわなと震え始めた。夕日に照らされた頬は、もはや真っ赤を通り越して、沸騰しているのではないかと思えるほど熱を持っている。心臓が、肋骨を内側から叩きつけるように激しく鼓動していた。信じられない。信じたくない。けれど、この宇宙タコが言うには、このポンコツに見えるゴーグルは絶対に壊れていないのだと。だとしたら、この異常な数値は、自分の心のありのままの姿だというのか。
(私が……私が、あいつに……?)
脳裏を、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。絶望的な家庭環境の中、ただ耐えることしかできなかった自分。憎しみの捌け口として、しずかをいじめることでしか、かろうじて精神の均衡を保てなかった自分。そんな歪んだ日常に、彗星のように現れた小さな転校生。彼の存在は、当初、ただただ気に食わなかった。しずかに馴れ馴れしくするのも、何を考えているか分からないその笑顔も、全てが癇に障った。だから、校舎裏で暴力を振るった。脅した。突き飛ばした。
なのに、彼は。
彼は、そんな自分から逃げなかった。傷つけられても、痛めつけられても、まっすぐに自分を見て、「まりなさんのことが知りたいです」と言った。自分の心の奥底に隠していた悲しみを、誰にも見せたことのなかった涙を、彼は見抜いてくれた。そして、あの地獄のような家に来て、めちゃくちゃだった家族の間に「対話」という光をもたらしてくれた。
感謝している。それは間違いない。恩も感じている。彼がいなければ、今の自分は、家族は、そして、しずかとのこの奇妙で穏やかな関係も、絶対にありえなかった。
でも、それは、それだけのはずだ。なのに、259? 計測限界突破? そんな、まるで……。
「じ、じゃあ、なに……!?」
絞り出すような声が、震える唇から漏れた。まりなは、涙目でにじむ視界でタコピーを睨みつけ、もはや叫びに近い声で問い詰める。
「わたしが……! わたしが……その……っ、上限を超えるぐらい、あいつを……す、すき……っ…て…ことが……言いたいわけ……!?」
言ってしまった。自分の口で、認めたくなかったその可能性を、言葉にしてしまった。羞恥と混乱で、頭の中がぐちゃぐちゃになる。違う、そうじゃない、と心の中で叫びながらも、言葉はもう取り消せない。
まりなの悲痛な叫びに、タコピーは、大きな瞳をわずかに潤ませながらも、しかし、真実を告げることを躊躇わなかった。彼は、小さな体で、こくり、と力強く頷いた。
その、無言の肯定。
それが、まりなにとっての決定打だった。ああ、そうなのか。自分は、この小さな転校生のことが、そんなにも……。まりなの思考が、完全に停止する。全身の力が抜け、その場にへなへなと崩れ落ちそうになった、その瞬間。
「僕も好きですよ!」
背後から、明るく、澄み切った声が響いた。まるで、公園にいる全員に聞かせるかのような、元気いっぱいの声。
まりなが、ぎぎぎ、と油の切れたブリキ人形のように振り返る。そこには、虹色のゴーグルをかけたまま、満面の笑みを浮かべた優が立っていた。
「まりなさんのこと、大好きですよ! しずかさんのことも、タコピーのことも、みーんな大好きです!」
彼は、何のてらいもなく、そう言い放った。それは、恋だの愛だのといった複雑な感情が一切含まれていない、どこまでも純粋で、どこまでも無垢な「大好き」の爆弾だった。彼の世界では、「好き」という感情に優劣も、種類もない。友達も、家族も、道端の花も、公園の猫も、全てが等しく「大好き」なのだ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
しかし、そんな優の純粋さを、もはやまりなは正しく受け止めることができなかった。先程、タコピーに「色んな意味が平等に含まれる」と説明されたばかりなのだ。彼女の頭の中では、優の「大好きですよ!」という言葉が、「(恋愛的な意味も含めて)大好きですよ!」という、とんでもない告白に変換されてしまっていた。
「ばっ、ばばば、ばかじゃないのあんたはーーーーーーっ!!!」
まりなの絶叫が、夕暮れの公園に木霊した。彼女は、羞恥と混乱のあまり、頭から湯気が出そうな勢いで優に詰め寄ると、その小さな体から虹色のゴーグルをひったくる。そして、まるで汚物でも扱うかのように、それを地面に叩きつけようとして───寸でのところで、その動きを止めた。
(……だめよ、私。こんなの……八つ当たりじゃない……)
ハッと我に返り、ギリギリのところで理性を保つ。優は何も悪くない。彼は、ただ思ったことを純粋に口にしただけだ。悪いのは、勝手に勘違いして、勝手に舞い上がって、勝手に混乱している自分の方だ。まりなは、行き場のない感情をどうすることもできず、ゴーグルを握りしめたまま、ただ「うぅぅ……」と唸ることしかできなかった。
そんな修羅場めいた(と、まりなだけが思っている)空気の中、それまで静観していたしずかが、すっと動いた。
彼女は、まだ状況が飲み込めていない優の隣にそっと歩み寄ると、その小さな手を、両手で優しく包み込むように握った。優の、自分よりも少しだけ小さい、温かい手。その感触を確かめるように、ぎゅっと力を込める。
「優くん……」
しずかは、潤んだ大きな瞳で、優の顔をじっと見上げた。その表情は、先程までの戸惑いや羞恥とは違う、何かを決意したかのような、真剣な光を宿している。公園の喧騒も、タコピーの存在も、そして、憤怒と羞恥で震えるまりなの姿すらも、もう彼女の目には入っていないようだった。
「私のこと……本当に、好き?」
静かな、しかし、芯の通った声だった。それは、ゴーグルの数値などという機械的なものではなく、彼の口から、彼の言葉で、もう一度確かめたいという、切実な願いが込められた問いかけだった。その問いは、まりなが先程叫んだ「す、すき……ってこと!?」というパニック気味の言葉とは対照的に、どこまでも穏やかで、真摯な響きを持っていた。
問われた優は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに、太陽のような満面の笑みを浮かべた。その笑顔には、迷いも、照れも、打算も、何一つない。ただ、純粋な好意だけがそこにあった。
「はいっ! もちろんです!」
彼は、少しも躊躇うことなく、力強く、そしてはっきりと答えた。
「しずかさんのこと、大好きですよ!」
その言葉を聞いた瞬間、しずかの瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではない。絶望の涙でもない。ずっと欲しかった言葉を、世界で一番信頼している人から貰えたことへの、どうしようもないほどの安堵と、喜びの涙だった。彼女は、優の手を握りしめたまま、その場に崩れるようにしゃがみ込み、「……うん。……そっか。……ありがとう」と、途切れ途切れに呟いた。
この、あまりにも感動的で、あまりにも絵になる光景。まるで恋愛ドラマのクライマックスのような二人のやり取りを、すぐそばで見ていたまりなの表情が、ピク、と引きつった。
(な……なんなのよ、あいつ……
まりなの脳裏に、先程のしずかの「勝利の微笑み」がフラッシュバックする。今のこの状況、優の「大好き」という言葉を、自分ではなくしずか一人に向けさせたこの状況は、明らかに彼女の計算ではないのか。自分がパニックになっている隙を突き、まんまと美味しいところを独り占めしているのではないか。そう思うと、腹の底から、ふつふつと黒い感情が湧き上がってくる。
「な〜にぃ〜? なんだか、すごーく、わざとらしいんですけどぉ〜?」
まりなは、腰に手を当て、意地の悪い笑みを浮かべながら、しゃがみ込んでいるしずかを見下ろした。その声は、ねっとりとした嫉妬と皮肉に満ちている。
「優に告白させて、ヒロイン気取り? いいご身分じゃない、し・ず・か・ちゃん?」
その言葉に、しずかはゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた瞳は、しかし、もう怯えてはいなかった。彼女は、まりなをまっすぐに見つめ返すと、静かに、しかしはっきりと反論する。
「……別に。私は、ただ、確かめたかっただけ」
「へえ? 確かめる必要なんてあったのかしら? あんたへの好感度が263点もあるんだから、答えなんて分かりきってるじゃない」
「……まりなちゃんだって、259点もあったくせに」
「なっ……! そ、それは、機械の故障だって言ってるでしょ!」
「……ふふっ」
しずかが、小さく笑った。その笑みは、もはや涙に濡れてはいたものの、先程までの儚げなものとは違い、確かな強さと、そしてほんの少しの小悪魔的な響きを帯びていた。まりなの痛いところを正確に突き、反撃に転じた狼煙のような笑みだった。
「私の結果は故障じゃなくて、自分のは故障っていうの?」
その言葉は、静かだが鋭い刃のようにまりなの胸に突き刺さった。ぐっ、とまりなは言葉に詰まる。まさにその通りだった。自分の心の異常な数値を認めたくないあまりに、機械の故障だと決めつけていたが、しずかの高い数値を持ち出されて反論できなくなっていた。なんという自己中心的な言い分だったかと、今更ながら気づかされる。
しずかの追撃は、まだ終わらない。彼女は、優の手を握ったままゆっくりと立ち上がると、少しだけ唇を尖らせて、拗ねたような、しかしどこか得意げな表情で言った。
「それに……まりなちゃんだって、優くんから一番に好きって言われてるし……お互い様でしょ?」
「なっ……!?」
まりなの思考が、またしてもフリーズする。一番に、好きって言われてる。それは、確かに事実だった。自分がパニックのあまり「す、すきってこと!?」と叫んでしまった直後、優は「僕も好きですよ!」と返してきた。あれは、文脈上、明らかに自分に向けられた言葉だった。そして今、しずかは優に改めて問いかけ、自分だけの「大好き」を引き出した。
(……お互い様)
その言葉が、まりなの頭の中でぐるぐると回る。そうだ。優は、自分にも、しずかにも、「大好き」だと言った。その事実に、優劣はない。なのに、自分は勝手にしずかに点数で負けたと嫉妬し、彼女が優と親密そうにしているのを見て、わざとらしいと詰った。
(私……なんて、みっともないの……)
羞恥で、顔から火が出そうだった。さっきまでの嫉妬や対抗心が、潮が引くようにすーっと消えていき、後には自己嫌悪だけが残る。結局、自分は何も変わっていないのではないか。優がせっかく繋いでくれたこの関係を、また自分の醜い感情で壊そうとしていたのではないか。
「…………ごめん」
まりなの口から、消え入りそうな声で、謝罪の言葉が漏れた。
「え……?」
その予想外の言葉に、今度はしずかが目を丸くする番だった。
「その……別に、わざとらしいとか……そういうんじゃ、なくて……。ただ、ちょっと……その……むかついた、っていうか……」
まりなは、視線を地面に落としたまま、しどろもどろに言葉を続ける。弁解しようとすればするほど、自分の器の小ささを露呈しているようで、どんどん声が小さくなっていく。
「……ごめん」
結局、彼女が言えたのは、その一言だけだった。
公園に、気まずい沈黙が流れる。夕暮れの風が、三人の間を吹き抜けていった。その沈黙を破ったのは、全ての元凶でありながら、全く空気が読めていない、純真無垢な少年だった。
「喧嘩、やめたんですか? よかったです! やっぱり、二人とも仲良しが一番ですよ!」
優は、まりなとしずかの顔を交互に見比べると、にぱーっと花が咲くような笑顔を見せた。そして、空いている方の手で、俯いているまりなの袖を、きゅっと掴む。
「まりなさんも、ごめんなさいが言えて偉いです! しずかさんも、許してあげてください!」
まるで幼稚園の先生のような口ぶりに、まりなは「なっ……子供扱いしないでよ!」と顔を赤くして反論するが、その声にはもう怒りの棘はなかった。
しずかは、優に促されるように、まりなの方をじっと見つめた。そして、ふっと息を吐くと、小さく首を横に振る。
「……別に、怒ってない。それに、私も、ごめん。ちょっと、意地悪だったかも」
彼女もまた、素直に謝罪の言葉を口にした。優の言葉が、二人の間にあった小さなわだかまりを、綺麗に溶かしてくれたのだ。
「二人とも、偉いです!」
優は、心底嬉しそうにそう言うと、まりなの袖を掴んでいた手を、今度は彼女の手へと滑らせ、しっかりと握った。そして、しずかの手も、もう一度強く握りしめる。
右手にしずか、左手にまりな。小さな少年が、二人の少女の手を繋いで、公園の真ん中に立っている。
「わー! これで、二人とも仲直りですね!」
その光景を、少し離れた場所から見ていたタコピーが、ぱちぱちと短い触腕を叩いて喜んだ。
「よかったっピ! これでみんなハッピーだっピ!」
ぱちぱちと短い触腕を叩いて喜ぶタコピーの声が、夕暮れの公園に明るく響く。その声に導かれるように、優、しずか、まりなの三人は顔を見合わせ、そして、くすりと小さく笑った。さっきまでの、あのぎこちなく、どこかピリピリとした空気はもうどこにもない。優を真ん中にして繋がれた三人の手は、夕日のせいだけではない、確かな温かさを持っていた。
「あ! そうだっピ!」
一件落着、といった雰囲気の中、タコピーが何かを思い出したように声を上げた。彼は、ぶんぶんと触腕を振りながら優に近づくと、その袖をくいっと引っ張る。
「優くん! ぼく、あの『仲直りリボン』の事で優くんに教えなくちゃいけない事があるっピ! ちょっとこっちに来てほしいっピ!」
「え? 僕にですか?」
優はきょとんとした顔でタコピーを見返す。タコピーは力強く頷くと、なぜか声を潜め、「二人には内緒だっピよ」と付け加えた。その、いかにも秘密の相談といった様子に、優の好奇心はすぐに刺激されたらしい。
「わあ! なんですか、なんですか!? 秘密のお話ですか!?」
「そうっピ! だから、こっちに来るっピ!」
タコピーは、優の手を引いて、公園の隅にある土管の方へと向かっていく。その姿は、まるで秘密基地に仲間を案内する子供のようだった。優は「まりなさん、しずかさん、ちょっと行ってきますね!」と元気に言い残し、タコピーに連れられて土管の裏へと消えていった。
公園のベンチに、二人の少女だけが取り残された。さっきまでの喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っている。夕暮れのオレンジ色の光が、二人の影を長く、長く地面に伸ばしていた。どちらからともなく、隣同士に腰を下ろす。しばらく、気まずい沈黙が流れた。何を話せばいいのか、お互いに分からなかったのだ。
先に口を開いたのは、しずかだった。
「…………」
彼女は、優たちが消えていった土管の方を、ぼんやりと見つめていた。その横顔は、穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。
「……もし、優くんが、転校してこなかったら……どうなってたと思う?」
ぽつり、と呟かれた言葉。それは、問いかけというよりは、独り言に近い響きを持っていた。もしも、の仮定の話。ありえなかった未来の話。
まりなは、その言葉にハッとして、しずかの横顔を見た。彼女もまた、同じことを考えていたからだ。この奇妙で、信じられないほど穏やかな放課後。こんな時間が訪れることなど、優が来る前は想像すらできなかった。
「…………」
まりなは、すぐには答えなかった。代わりに、自分の右腕を、左手でそっとさする。長袖のブラウスの下には、もう痣はない。けれど、あのヒステリックな母親の叫び声と、殴られた時の鈍い痛みは、まだ記憶にこびりついている。
父親の中身まで見ない視線。
息の詰まるような家。
あの頃の自分は、ただひたすらに、しずかが憎かった。あの女の母親が自分の父親の関心を引いていることが許せなかった。だから、傷つけた。言葉で、態度で、暴力で。そうすることで、自分の家族が昔のように戻れると信じてやまなかったのだ。
もし、優が来なかったら。
きっと、今も自分はしずかをいじめ続け、家に帰れば母親のヒステリーに怯え、父親の無関心に絶望していたのだろう。そしていつか、心が、壊れていたかもしれない。
「……さあ、どうでしょうね」
ようやく、まりなは声を絞り出した。いつものような、棘のある声ではない。ただ、事実を淡々と述べるような、乾いた声だった。
「あんたは、今頃どうなってたか知らないけど……。私は……」
言葉が、続かない。
しずかは、そんなまりなの方を、静かに見つめていた。彼女の瞳には、責めるような色はなかった。ただ、深い共感と、同じ痛みを分かち合う者だけが持つ、静かな理解があった。
「……私も、同じだよ」
しずかは、そう言った。*
「きっと、今も、ずっと同じ。学校でいじめられて、家に帰っても、誰もいなくて……。チャッピーだけが、私の友達で家族。毎日、早く明日が終わればいいって、それだけを考えてたと思う」
その声は、感情を抑えた平坦なものだったが、そこには、想像を絶するほどの孤独と絶望が滲んでいた。
もし、優が来なかったら。その仮定の世界を想像し、二人の少女は揃って、自分たちが歩んでいたであろう暗く、出口のない道を思っていた。
きっと、こんなふうにベンチに並んで座り、穏やかに言葉を交わすことなど、永遠になかっただろう。
憎しみと無関心、絶望と諦め。それだけが、二人の間を支配し続けていたはずだ。
まりなの家族は、今も終わらない喧嘩を繰り返し、その怒りの矛先はまりなへと向けられ続けていたかもしれない。
しずかは、誰にも助けを求められず、心を閉ざしたまま、チャッピーだけを拠り所に日々をやり過ごしていたのだろう。
互いに、その悍ましい「もしも」を想像し、言葉を失う。繋がれたはずのこの日常が、どれほど奇跡的で、どれほど脆いものだったのかを、改めて痛感していた。その奇跡をもたらした、一人の小さな少年の存在。彼の不在を想像することは、二人にとって、世界の色彩が失われることに等しかった。
長い、長い沈黙の後。先にそれを破ったのは、やはりしずかだった。彼女は、優たちが消えていった土管の方を、愛おしいものを見るような、切ない瞳で見つめながら、ぽつりと、しかし、はっきりとした意志を持って呟いた。
「わたし………優くんが、好きだよ」
その告白は、あまりにも唐突で、あまりにもまっすぐだった。まりなは、息を呑んでしずかの横顔を見る。さっきまでの、優を前にした時の照れや喜びとは違う。もっと深く、もっと切実な、心の底からの叫び。彼女は、言葉を続ける。それは、隣にいるまりなに聞かせているというよりも、自分自身の心を確かめるように、一つ一つの言葉を紡ぎ出しているようだった。
「もう……ほかの男の子のことなんて、目に映らないぐらい……優くんが……好き……だよ…」
その声は、だんだんと震え、最後には小さな嗚咽に変わった。堰を切ったように、彼女の瞳から涙が溢れ出す。
それは、先程の嬉し涙とは違う、もっと複雑な感情の奔流だった。感謝、安堵、尊敬、そして、生まれて初めて知った、胸が張り裂けそうになるほどの、焦がれるような想い。暗闇の中にいた自分を救い出してくれた、たった一人の王子様。彼の笑顔も、声も、温かい手のひらも、その全てが、今やしずかの世界の中心になっていた。他の誰かなんて、考えられない。考えたくもない。その強すぎる想いが、彼女の心を締め付け、涙となって溢れ出していた。
まりなは、そんなしずかの姿を、ただ黙って見ていた。彼女の肩が、小さく震えている。その嗚咽には、これまでの彼女が耐えてきた孤独と絶望の重さと、それを溶かしてくれた優への途方もない愛情が、凝縮されているようだった。
(……ばかみたい)
まりなは、心の中でそう毒づいた。けれど、その言葉は、しずかに向けられたものではない。自分自身に向けられたものだった。さっきまで、好感度の点数ごときで張り合っていた自分が、ひどくちっぽけで、愚かに思えた。しずかのこの、魂からの叫びのような告白の前では、どんな競争心も、嫉妬も、意味をなさなかった。
まりなは、ふっと自嘲するように息を吐くと、しずかから視線を外し、夕焼けで真っ赤に染まった空を見上げた。そして、自分でも驚くほど、素直な言葉が口からこぼれ落ちた。
「……私も、よ」
「え……?」
嗚咽の合間に、しずかが驚いたように顔を上げる。まりなは、空を見上げたまま、続ける。その声は、もう震えてはいなかった。どこか吹っ切れたような、凛とした響きを持っていた。
「私も……優くんが、好きよ。あんたに負けないぐらい、……ううん、それ以上に、好き」
それは、ライバル宣言だった。しかし、もうそこには、以前のような醜い嫉妬や競争心はない。同じ人を、同じように大切に想う者同士として、決して譲れない想いを口にした、正々堂々とした宣戦布告。
「あいつがいなかったら、私の家は、とっくの昔に壊れてた。私も、ママも、パパも……みんな、バラバラになってた。あいつは……優くんは、私の家族を救ってくれたの。……私の、ヒーローよ」
初めて、誰かに自分の本心を打ち明けた。優への感謝と、尊敬と、そして、抗いがたいほどに惹かれている、この気持ち。それを言葉にすると、胸の奥にあったつかえが、すっと取れていくような気がした。
しずかは、まりなの力強い言葉に、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。しかし、すぐにその表情は和らぎ、ふっと、まるで花が咲くように、くすりと微笑んだ。もう、その瞳に涙はない。あるのは、好敵手を得たことへの喜びと、これから始まるであろう恋の戦いへの、静かな闘志だけだった。
「…………」
しずかは、すっ、と静かに立ち上がると、まりなの目の前に、固く握りしめた右の拳を差し出した。その小さな拳には、彼女の確固たる決意が込められている。
「わたし、負けないから。……例え、まりなちゃんが相手でも」
その声は、もう震えていなかった。平坦だが、決して折れることのない、鋼のような意志を感じさせる声。暗闇の中で一人、全てを諦めていた少女はもういない。彼女は今、自分の幸せを、自分の手で掴み取ろうとしていた。優という光を守り、彼の隣に立つために。
そのまっすぐな瞳と、差し出された拳。それを受け止めたまりなは、一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐに、ふっと口の端を吊り上げて、不敵な笑みを浮かべた。それは、彼女が本来持っていた、負けん気の強さと、女王様のような自信に満ちた、実にまりならしい表情だった。
「ばーか。私も、負ける気なんてないわよ」
まりなは、そう吐き捨てるように言うと、自らも握った拳を、しずかの拳に、こつん、と軽く合わせた。乾いた、小さな音が二人の間に響く。それは、言葉よりも雄弁な、誓いの音だった。友情と、そしてライバルとしての関係の始まりを告げる、契約の音。
拳を合わせたまま、二人は、しばし無言で見つめ合った。その瞳には、お互いへの敬意と、決して譲れない想いが、炎のように燃え盛っている。
(上等じゃない………)
(望むところだよ……)
言葉にはしない、心の声が、確かに交錯した。
その、少女たちの間で交わされた神聖な儀式をぶち壊すように、土管の裏から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「お待たせしましたー!」
元気いっぱいの声と共に、優がひょっこりと姿を現す。彼の後ろからは、同じくタコピーがぷかぷかと浮きながらついてきていた。
優は、無邪気な笑顔で、二人のもとへ駆け寄ってくる。彼は、二人の間に生まれた、先程までとは全く違う、どこか張り詰めたような空気に全く気づいていない。
「わー! 二人とも、どうしたんですか? なんだか、すごくカッコいい顔をしてますね!」
優の、あまりにも呑気な一言。その言葉に、まりなとしずかは、ピシッ、と固まった。さっきまでの、火花散るライバルとしての緊張感が、一気に霧散していく。二人は、顔を見合わせると、バツが悪そうに、同時にぷいっとそっぽを向いた。
「べ、別に、なんでもないわよ!」
「……うん。なんでもない」
口では否定しながらも、二人の耳は、夕日に照らされて真っ赤に染まっている。自分たちの、人生を懸けた(と言っても過言ではない)決意の瞬間を、「カッコいい顔」の一言で片付けられてしまったのだ。羞恥と、少しの脱力感で、全身の力が抜けていくようだった。
「そうなんですか? でも、すごくキラキラしてましたよ! 僕、もっと見ていたかったです!」
純粋な賛辞が、さらに二人を追い詰める。もう、何も言い返せない。まりなとしずかは、ただただ俯いて、この無邪気な嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
こうして、二人の少女による、一人の少年を巡る静かで熾烈な恋の戦いは、当の本人に全く気づかれないまま、その幕を開けたのであった。
以上です。