第5話です。
三人称〇〇視点なども増えるかもしれません。
あの夕暮れの公園で、二人の少女が固い決意の拳を合わせた日から、数日が過ぎた。季節は梅雨入りを間近に控えた初夏。じめりとした空気が肌にまとわりつく、週明けの月曜日。田舎の小学校、4年2組の教室は、週末の出来事や、昨晩のアニメの話で盛り上がる子供たちの声で、朝から賑わっていた。
その喧騒の中心から少し離れた、窓際の席。久世しずかは、頬杖をつきながら、ぼんやりと校庭を眺めていた。長く艶やかな黒髪が、開け放たれた窓から吹き込む生暖かい風に、そっと揺れる。数週間前まで、彼女の周りには常にどんよりとした、誰も寄せ付けない空気が漂っていた。しかし今、その横顔には、どこか穏やかで、柔らかな光が宿っている。頬にあった痣はとうに消え、よれて汚れていた服は、優から贈られた清潔な白いブラウスに変わっている。彼女の世界は、確実に色を取り戻し始めていた。
「おっはよー、しずか。ぼーっとしてんじゃないわよ」
不意に、少し不機嫌そうな、けれど以前のような刺々しさはない声がかけられた。しずかがゆっくりと視線を向けると、そこには、カチューシャで金色の髪を留めた雲母坂まりなが、腕を組んで立っていた。彼女の周りには、もう以前のような取り巻きの姿はない。一人で教室に入ってきた彼女は、当たり前のようにしずかの席の前に立つと、その机に自分のランドセルをどさりと置いた。
「……おはよう、まりなちゃん」
しずかは、静かに挨拶を返す。以前なら、無視するか、怯えたように視線を逸らしていたはずの相手。しかし今、彼女はまりなをまっすぐに見つめ返すことができる。
「なによ、その顔。まだ眠いの?」
「……別に。校庭、見てただけ」
「ふーん。あっそ」
素っ気ない会話。けれど、その間には奇妙な信頼感と、お互いの存在を認め合う空気が流れている。周りのクラスメイトたちは、いじめの主犯格だったまりなと、その被害者だったしずかが、こうして普通に会話している光景を、遠巻きに、しかし興味深そうに眺めていた。誰もが、その変化に戸惑い、理由を探ろうとしている。
その答えを知る二人は、周囲の視線など気にも留めず、自分たちの世界に没頭していた。いや、正確には、まだ教室に現れない一人の少年を、それぞれのやり方で待っていた。
「……遅いわね、あいつ」
まりなが、教室の入り口をちらりと見ながら、苛立たしげに呟いた。
「……うん。どうしたのかな」
しずかも、心配そうに眉を寄せる。優は、いつも一番乗りとまではいかなくても、かなり早い時間に登校してくるのが常だった。チャイムが鳴る寸前になっても姿を見せないのは、珍しいことだった。
二人の間に、ほんのわずかな不安がよぎった、その時だった。
「おっはよーございまーすっ!!」
教室の引き戸が、ガラガラッ!と勢いよく開け放たれ、太陽のように明るい声が響き渡った。その声の主は、言うまでもなく一ノ瀬優だった。彼は、赤いランドセルを揺らしながら教室に飛び込んでくると、クラス全員に聞こえるような大きな声で挨拶をする。その小さな体躯からは想像もつかないほどのエネルギーに、教室中の視線が一斉に彼へと集まった。
「す、すみません! 遅くなっちゃいました! 駄菓子屋さんのおばあちゃんが、腰を痛めちゃったみたいで……!」
ぜえぜえと息を切らしながら、優はぺこりと頭を下げる。どうやら、毎朝の日課である駄菓子屋の手伝いで、何かトラブルがあったらしい。彼の献身的な性格を知る一部の生徒は「大変だったな」と声をかけ、教師も「事情は分かったけど、次からは気をつけてね」と、苦笑しながら注意するに留めた。
優は「はいっ!」と元気よく返事をすると、自分の席───しずかの隣であり、まりなの前の席へと向かう。そして、荷物を置くのももどかしそうに、二人の少女に向かって、満面の笑みを浮かべた。
「まりなさん、しずかさん、おはようございます! 遅くなってごめんなさい!」
「……おはよう、優くん。大丈夫?」
「おっそいのよ、バカ! 心配したじゃない……!」
*心配そうな顔のしずかと、素直になれないまりな。対照的な二人の出迎えに、優は「えへへ」と嬉しそうに笑う。その笑顔は、教室の空気を一瞬で和ませる不思議な力を持っていた。
──────────────────────
キーンコーンカーンコーン……。
一日の終わりを告げるチャイムが、どこか気だるげに校舎に響き渡る。それを合図に、教室は一瞬にして「さようなら」の挨拶と、ランドセルに荷物を詰め込む音、そして週末の予定を話し合う子供たちの解放感に満ちた喧騒に包まれた。先生の最後の言葉もそこそこに、生徒たちは我先にと廊下へ飛び出していく。
その中で、優、しずか、まりなの三人は、まるでそれが当たり前の習慣であるかのように、自然と互いの机の周りに集まっていた。数週間前には考えられなかった光景だが、今や4年2組の日常の一部となりつつある。
「優くん、これ……」
しずかが、自分のノートをそっと優の机の上に置く。今日習った算数のページが開かれており、いくつかの問題に小さなバツ印がついていた。
「わあ、しずかさん、すごいですね! ほとんど全部合ってますよ!」
優はノートを覗き込み、目を輝かせる。彼の純粋な賞賛に、しずかの頬がほんのりと赤く染まった。以前は勉強に全く興味を示さなかった彼女が、こうして自ら分からない問題を質問してくるようになったのは、優が根気強く、そして何より楽しそうに勉強を教えてくれるからだった。
「ここが、ちょっとだけ……」
「あ、本当ですね! ここの繰り上がりが、一個だけ抜けちゃったみたいです。でも、考え方は完璧ですよ! すごいです、しずかさん!」
優が指さした箇所を見て、しずかは「……うん」と小さく頷く。その横顔には、理解できたことへの確かな喜びが浮かんでいた。
「あんたたち、いちゃいちゃしてないでさっさと帰るわよ。置いてくわよ」
そんな二人を、腕を組んだまりなが、少しだけ拗ねたような口調で急かす。彼女の言葉はいつも少し乱暴だが、その声色には、二人を待っている優しさが滲んでいた。
「あ、まりなさん! すみません! 今行きます!」
優が慌ててランドセルを背負い、三人は連れ立って教室を出る。下駄箱で靴を履き替え、校門を抜ける頃には、空は少しずつ茜色に染まり始めていた。他愛もない話をしながら、三人で歩く帰り道。優が駄菓子屋のおばあちゃんから聞いた面白い話をし、まりながそれにツッコミを入れ、しずかが時折くすりと笑う。その穏やかな時間は、奇跡のように尊く、温かいものだった。
やがて、三人の通学路にある、いつもの公園が見えてきた。古びたジャングルジムと、色褪せたベンチ、そして、子供たちの秘密基地として使われていたであろう、大きな土管が鎮座している。
普段なら、そのまま通り過ぎるだけの場所。しかし、その日、優の足がぴたりと止まった。彼の視線は、真っ直ぐに土管の暗がりに注がれている。
「……あっ!」
次の瞬間、優の瞳が、まるで宝物を見つけた子供のようにキラキラと輝き出した。彼は「ちょっと待っててください!」と一声かけるなり、ランドセルを揺らしながら、一直線に土管へと駆け寄っていく。
「ちょ、ちょっと、優!?」
「優くん……?」
突然の行動に驚くまりなとしずかを背に、優は土管の前に屈み込むと、その暗い内部に向かって、優しく、そして嬉しそうに話しかけた。
「タコピーさん! あの時ぶりですね! こんにちは!」
その呼びかけに答えるように、土管の影から、ぷかぷかと水色の不思議な生き物が姿を現した。水色の丸っこい身体に、たこのような触手。ハッピー星からやってきたハッピー星人、タコピーだ。彼は、優の顔を見上げると、嬉しそうに触手を揺らしながら声を上げた。
「あっ! 優くん、こんにちはっピ!」
優の元気な挨拶に、タコピーは満面の笑み(のように見える表情)で応える。土管の暗がりからぷかぷかと浮かび上がってきたその姿は、何度見ても非日常的で、おとぎ話から抜け出してきたかのようだ。
「タコピーさん、お久しぶりです! こんなところで会えるなんて、嬉しいです!」
優が満面の笑みでそう言うと、彼の後ろからおそるおそる近づいてきたしずかが、小さく声をかけた。彼女は、この不思議な生き物の名付け親でもある。
「あ……、タコピー。こんにちは」
その声は静かだったが、以前のような感情の乏しさはなく、親しい友人に再会したかのような、穏やかな響きがあった。タコピーはしずかの姿を認めると、さらに嬉しそうに「しずかちゃんもこんにちはっピ!」と触手を振った。
一方、少し離れた場所で腕を組んでいたまりなは、怪訝そうな顔でタコピーを睨めつけていた。彼女にとって、この「タコもどき」は未だに得体の知れない存在であり、警戒を解くには至っていない。
「ちょっとあんた、まだこんな所にいたの? てっきり、自分の星にでも帰ったのかと思ってたけど」
まりなの少し棘のある問いかけに、タコピーはきょとんとした顔で首を傾げた(ように見えた)。そして、少し困ったように、しょんぼりと触手を垂らす。
「うーん……それが、まだ帰れないっピ……。まだ、友達が見つかってないっピ……」
その言葉は、あまりにも純粋で、あまりにも悲しげだった。家がない。その一言が、優の心の琴線に、強く、そして深く触れた。彼自身、本当の意味での「家」と呼べる場所を失った経験があるからこそ、その言葉の持つ重みと寂しさを、誰よりも理解できた。
次の瞬間、優の顔に、決意と、そして太陽のような明るい光が灯った。彼は、まるで世紀の大発見でもしたかのように、ぱっと顔を上げて高らかに宣言する。
「じゃあ!」
その声は、公園の夕暮れの空気に、希望の音色のように響き渡った。
「僕の家に来ませんか?! タコピーさん!」
迷いのない、まっすぐな瞳。それは、困っている人を見過ごせない、彼の優しさと献身性の純粋な発露だった。しかし、そのあまりにも突拍子のない提案に、隣にいたまりなは、思わず「げっ」と素っ頓狂な声を上げた
彼女は、信じられないものを見るような目で優を見つめると、慌てて彼の袖を引き、声を潜めて囁いた
「ちょ、ちょっとあんた、本気で言ってるの!? こいつを、あんたの家に住ませるって……正気……?」
まりなの囁きは、常識的な人間として当然の反応だった。公園で出会った正体不明の宇宙人を、何の躊躇もなく家に招き入れるなど、普通に考えれば狂気の沙汰だ。しかし、優にとって、それは考えるまでもない、ごく自然なことだった。
「はい! もちろんです!」
優は、まりなの心配を吹き飛ばすような満面の笑みで、きっぱりと頷いた。その笑顔には、一点の曇りもない。彼は、もう一度タコピーに向き直ると、その小さなピンク色の体を、壊れ物を扱うように、そっと、そして優しく両手で持ち上げた。
「わっぴ!?」
急に体が浮き上がり、タコピーは驚きの声を上げる。しかし、優の温かい手のひらと、彼から伝わってくる絶対的な安心感に、すぐに落ち着きを取り戻した。
「今日から、僕のおうちがタコピーさんのおうちです! これで、もう寂しくないですよ!」
優は、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、力強く宣言した。その姿は、小さな体でありながら、頼もしく、そして誰よりも大きく見えた。しずかは、そんな優の姿を、ただ黙って、愛おしそうに見つめている。
まりなは、まだ信じられないといった表情で頭を抱え、「もう知らない……」と呟くのが精一杯だった。
こうして、ハッピー星人タコピーは、地球で初めての「おうち」を手に入れることになった。それは、誰よりも優しく、誰よりも純粋な、小さな少年の家だった。
*(あったかいっピ……)*
ぼく、タコピーは、優くんの腕の中にいた。彼の両手は、ぼくの丸い体を優しく、でもしっかりと包み込んでくれている。まるで、壊れやすい宝物を運ぶみたいに。その手のひらから伝わってくる温もりは、なんだか太陽みたいで、公園の土管の中で感じていた心細さが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
「それじゃあ、しずかさん、まりなさん、また明日!」
「……うん。また明日、優くん。タコピーも」
「ん。……じゃあね」
優くんは、腕にぼくを抱えたまま、器用に二人に手を振った。しずかちゃんは、いつもの静かな表情だったけど、その瞳は優しくぼくたちを見つめていて、最後に小さく手を振り返してくれた。まりなちゃんは、相変わらずちょっと怖い顔をしてたけど、その言葉の端っこには、心配する気持ちが隠れているのが、ぼくには何となくわかったっピ。
二人がそれぞれの家の角を曲がって見えなくなると、優くんはくるりと向き直り、再び歩き出した。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、辺りは静かになる。聞こえるのは、優くんの小さな足音と、遠くで鳴くカラスの声だけ。空は、もうすっかり深い茜色に染まっていて、世界の輪郭が少しずつ夜に溶け始めている。
「タコピーさん、もうすぐですよ。僕のおうち」
優くんが、ぼくを見下ろして優しく微笑んだ。その横顔を、沈みゆく夕日が最後の光で照らし出す。彼の頬や、少し茶色がかった髪がきらきらと金色に輝いて、とても綺麗だった。ぼくは、その光景をぼんやりと見上げていた。
その、瞬間だった。
*(……?)*
*夕日に照らされた優くんの瞳の奥に、ほんの一瞬、信じられないものが見えた。それは、キラキラとした、星屑みたいな光の粒。あまりにも刹那的で、幻かと思うほどだったけれど、ぼくはその輝きを知っていた。
*(どうして……?)*
そう、それは、ぼくたちハッピー星人が持つ「ハッピー力」の輝きに、とてもよく似ていたんだ。人を幸せにしたいと願う、強い想いが形になった光。地球人である優くんが、どうしてそれを持っているんだろう。ぼくは混乱して、まばたきも忘れて彼の瞳をじっと見つめてしまった。
しかし、その不思議な輝きは、本当に一瞬で消えてしまった。まるで、水面に映った月が、風で揺れて散ってしまったみたいに。
「……? どうかしましたか、タコピーさん?」
ぼくが固まっているのに気づいたのか、優くんは不思議そうに小首を傾げて、ぼくの顔を覗き込んできた。その瞳は、もういつもの、どこまでも優しくて純粋な、ただの黒い瞳に戻っている。さっきの光は、やっぱり夕日の見せた幻だったのかもしれない。
「な、なんでもないっピ! 優くんのおてて、あったかいなーって思ってただけっピ!」
ぼくは慌てて、ぷかぷかと触手を揺らして誤魔化した。優くんは「そうですか?」と少し不思議そうな顔をしながらも、「えへへ」と嬉しそうに笑ってくれた。
やがて、僕たちは古びた木造アパートの前にたどり着いた。二階建てで、階段は錆びついていて、風情のある雰囲気の場所だった。優くんは、その二階の一番奥の部屋の前で立ち止まると、ポケットから鍵を取り出した。
「ここが、僕のおうちです。どうぞ!」
ガチャリ、と音を立ててドアが開かれる。中から、ふわっと、日向みたいな優しい匂いがした。部屋の中は、物が少なく、とても綺麗に片付いていた。小さなテーブルと、布団が一つ。窓際には、小さな植木鉢が置いてある。
優くんは、ぼくをそっと床に降ろしてくれた。そして、パタパタと部屋の電気をつけたり、窓を少し開けて空気を入れ替えたりしている。その小さな背中を見ながら、ぼくはさっき見た、あの不思議な光のことを考えていた。
*(やっぱり、見間違いじゃなかった気がするっピ……)*
もし、あれが本当にハッピー力だとしたら。優くんは、一体何者なんだろう。ただの優しい地球人の男の子、じゃないのかもしれない。ぼくは、この新しい「おうち」と、太陽みたいに明るいこの男の子のことが、もっともっと知りたくなった。前に聞いたお話だとパパとママは遠くに言っちゃったって言ってもいたけど。じゃあ、優くんは一人で住んでいるんだろうか。
「タコピーさん、お腹すいてませんか? 今日は、とっておきのご馳走を作りますからね!」
エプロンをつけた優くんが、小さなキッチンに立ちながら、満面の笑みで振り返った。その笑顔は、さっき見たどんな光よりも、ずっとずっと眩しかった。
そして。数十分後。
「さあさあ、タコピーさん! たんと召し上がってくださいね!」
小さなちゃぶ台の上には、小学生が一人で作ったとは思えないほど、豪勢な食事が並んでいた。ほかほかと湯気の立つ真っ白なご飯。豆腐とわかめがたっぷり入ったお味噌汁。そして、メインディッシュは、甘辛いタレの匂いが食欲をそそる、鶏の照り焼きだ。こんがりと焼き色のついた皮が、宝石のようにキラキラと輝いている。
「わーっ! すごいっピ! 全部美味しそうっピ!」
タコピーは、目の前の光景に目を輝かせ、短い触手をぱたぱたと忙しなく動かした。優は「えへへ」と照れくさそうに笑いながら、小さなエプロンをつけたまま、タコピーの向かいにちょこんと座る。
「いただきます!」
「いただくっピ!」
元気な声が二つ、部屋に響く。優は、それはもう幸せそうな顔で、大きく口を開けてご飯を頬張った。ぷっくりと膨らんだ頬は、まるで木の実を溜め込んだリスのようで、見ているだけでこちらの頬まで緩んでしまう。タコピーも、見よう見まねで照り焼きに短い触手を伸ばし、ぱくりと口に運んだ。
「!! おいしいっピ〜〜!!」
口の中に広がる、甘くて香ばしい味。柔らかいお肉と、ご飯の相性は抜群だ。タコピーは感動のあまり、その丸い体をぷるぷると震わせた。ハッピー星では食べたことのない、地球の素晴らしいご馳走だった。
「本当ですか!? よかったです! お醤油とお砂糖、それからお酒とみりんを1対1対1対1で混ぜるのがコツなんですよ!」
優は、もぐもぐと口を動かしながら、得意げに料理の豆知識を披露する。その姿は、まるで小さな料理人のようだ。その後も、二人の食事は和やかに続いた。優が学校での出来事を楽しそうに話し、タコピーがそれに相槌を打つ。しずかさんが算数を頑張っていること、まりなさんがなんだかんだ優しいこと。優の話す日常は、どれもキラキラと輝いて聞こえた。
すっかりお腹がいっぱいになり、二人(と一匹)は満足のため息をつく。優が手際よく食器を片付けている間、タコピーはずっとそわそわしていた。こんなに素敵なご馳走と、温かいおうちを提供してくれたお礼がしたい。
「あの、優くん!」
「はい、なんでしょうか、タコピーさん?」
洗い物を終えた優が振り返ると、タコピーはえっへんと胸を張り(身体の構造上、そう見えた)、おもむろにお腹のあたりをまさぐり始めた。
「今日のお礼っピ! 優くんに、ぼくのすごい道具を見せてあげるっピ!」
そう言って、タコピーは自分の体から、ぽこん、ぽこんと不思議な音を立てて、いくつかの道具を取り出した。それは、ハッピー星の科学力が詰まった「ハッピー道具」だった。空を自由に飛べる小さな羽、小さな水色のお花、水色をした少し変わったデザインのカメラ。
「わあ……! すごいですね! これがタコピーさんの道具なんですか?」
優は、床に並べられた不思議な道具たちに目を輝かせ、興味津々で屈み込む。一つ一つを、壊さないように、そっと指でつついたりしている。その純粋な好奇心に、タコピーは得意げになった。
「そうっピ! これがあれば、みんなをハッピーにできるっピ! 例えば、このお花を頭に刺すとみんなからハッピー花に見られるんだっピ!」
しかし、優の視線は、ある一点に釘付けになっていた。彼の指が、そっと一つの道具を指し示す。それは、ピンク色のカメラだった。彼は、そのカメラをじっと見つめたまま、不思議そうに小首を傾げている。その瞳には、懐かしむような、でもどこか確信が持てないような、複雑な色が浮かんでいた。
「優くん……? どうかしたっピか?」
タコピーが心配そうに尋ねると、優ははっと我に返り、ぶんぶんと首を横に振った。
「ううん! なんでもないですよ! ただ……その…カメラ? 見たことがあったような気がして……」
彼は、少し困ったように眉を寄せながら、言葉を続ける。
「でも、きっと見間違いです!」
優は、戸惑いを振り払うように、いつもの太陽のような屈託のない笑顔をタコピーに向ける。
「僕が見たことがあるのは、たぶんテレビか何かで……それに、色はピンク色でしたから! 水色じゃなかったです。だから、きっと違うものです!」
そうきっぱりと言い切る優の瞳には、もう先程のような揺らぎはなかった。ただ、純粋な好奇心だけがきらきらと輝いている。タコピーも、優の力強い言葉に「そっかっピ!」と単純に納得した。地球には色々な道具があるのだろう。
優くんが見たことがあるカメラと、ぼくのハッピー道具が似ていたとしても、それはただの偶然に違いない。タコピーの思考は、そのように単純な結論へと着地した。そもそも、地球人がハッピー道具を知っているはずがないのだから。
「それより、タコピーさん! じゃあこの小さな羽は何なんですか!? 空を飛べるんですか!?」
「そうっピ! これは『パタパタ翼』っピ! つけると、どこへでも飛んでいけるすごい道具なんだっピ!」
「わーーーっ! すごい! 夢みたいです!」
優の興味は、すっかり別の道具へと移っていた。彼は目を輝かせながら、タコピーからハッピー道具の使い方を一つ一つ教わっていく。子供部屋のような、けれどどこか寂しげだった優の部屋は、二人の無邪気な笑い声と、時折タコピーが披露する不思議な道具の出す奇妙な音で、かつてないほど賑やかになっていった。
こうして、小さなアパートの一室で、地球人の少年とハッピー星人の、奇妙で温かい共同生活が始まった。
翌朝。
ちゅんちゅん、と雀の鳴き声が窓の外から聞こえてくる。部屋に差し込む朝日で目を覚ましたタコピーは、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなった。見慣れない天井、知らない匂い。しかし、すぐに昨夜の出来事を思い出し、ここが優くんの「おうち」であることを理解する。
*(そうだった……ぼく、優くんのおうちに泊めてもらったんだったっピ……)*
隣を見ると、小さな布団の中で、優がすやすやと健やかな寝息を立てていた。そのあどけない寝顔は、まるで天使のようだ。タコピーは、その平和な光景に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その時、とんとんとん、と小気味の良い包丁の音が部屋に響き始めた。音のする方へ、ぷかぷかと飛んでいくと、小さなキッチンで、すでに目を覚ました優が、小さな体に似合わない大きなエプロンをつけて、朝食の準備をしていた。まだ眠たそうな目をこすりながらも、その手つきは驚くほど手慣れている。
「あ、タコピーさん! おはようございます! よく眠れましたか?」
タコピーの存在に気づいた優が、にこりと微笑む。
「おはようっピ、優くん! うん、とってもよく眠れたっピ! 優くん、朝ごはん作ってるの? すごいっピ!」
「はい! 今日の朝ごはんは、ふわふわの卵焼きですよ! お砂糖を少し多めに入れるのが、僕のこだわりなんです!」
得意げに言う優の手元では、黄金色の卵焼きが、まるで生きているかのようにフライパンの上で踊っている。甘くて香ばしい匂いが、タコピーの鼻腔をくすぐった。朝からこんなに幸せな気持ちになるなんて、とタコピーは感動する。
やがて完成した朝食は、昨日と同じように小さなちゃぶ台に並べられた。炊き立てのご飯、湯気の立つお味噌汁、そして主役のふわふわ卵焼き。二人は「いただきます!」と元気に手を合わせると、幸せそうに朝食を頬張り始めた。
「おいしいっピ〜〜!! ほっぺたが落ちちゃうっピ!」
「えへへ、よかったです! さあ、たくさん食べて、今日も一日頑張りましょうね!」
食事を終え、学校へ行く準備を始める優。タコピーは、その様子を部屋の隅から興味深そうに眺めていた。教科書をランドセルに詰め、ハンカチとティッシュをポケットに入れ、持ち物を確認する。その一つ一つの動作が、タコピーには新鮮で面白く映った。
「タコピーさん、僕、学校に行ってきますね。お留守番、お願いできますか? テレビを見てもいいですし、お昼ご飯は冷蔵庫にサンドイッチを作っておきましたから、自由に食べてくださいね」
「わかったっピ! 優くん、いってらっしゃいっピ!」
「いってきます!」と元気に家を飛び出していく優の小さな背中を、タコピーは窓から見送った。一人になった部屋は、急に静かになってしまった錯覚が起きてしまっていた。
週の半ば、水曜日。朝から降り続いた小雨がようやく上がり、雲の切れ間から薄い光が差し込み始めた昼休み。東小学校4年2組の教室は、外で遊べない子供たちの有り余るエネルギーで、まるで蒸し風呂のような熱気に包まれていた。ボードゲームに興じるグループ、漫画を回し読みする集団、そして、お喋りに夢中な女の子たち。その喧騒の中心で、一際明るい声が響き渡った。
「はいっ、東さん、どうぞ! これは僕のお母さんがよく作ってくれた、特製のキャラメルポップコーンです! 映画館のより、ずーっと美味しいんですよ!」
一ノ瀬優が、満面の笑みで差し出したのは、家庭科室で調理実習に使った残りの乾燥とうもろこしを使い、こっそり作ってきた手作りのポップコーンだった。ジップロックの袋の中で、甘く香ばしい匂いを放つ黄金色のポップコーンは、それだけで子供たちの視線を引き付けるには十分すぎるほどの魅力を持っていた。
声をかけられた東直樹は、真面目な顔で読んでいた分厚い本から顔を上げ、少し驚いたように目を瞬かせた。
「一ノ瀬くん……。これは……。調理実習の余りで作ったのかい? 規則違反にならないか?」
いかにも彼らしい、実直な指摘。しかし、優はそんなことなど全く気にしていない様子で、「えへへ、大丈夫です! 先生には、後でちゃんとお断りしますから!」と胸を張る。その純粋すぎる笑顔の前では、どんな堅物でも毒気を抜かれてしまう。東は小さくため息をつくと、「……ありがとう。一つだけいただくよ」と言って、遠慮がちに袋の中へ手を入れた。
「わ、優! あたしにもよこしなさいよ!」
その匂いを嗅ぎつけたのか、女子グループの中心にいたはずの雲母坂まりなが、ずかずかと大股でやってきて、優の手から半ば強引に袋を奪い取った。しかし、その表情は以前のような刺々しいものではなく、どこかじゃれついているような雰囲気だ。
「わわっ、まりなさん! どうぞどうぞ! たくさんありますから!」
「ふん、当たり前でしょ。……ん、うまっ。あんた、ほんとこういうのだけは得意よね」
口では悪態をつきながらも、その頬はリスのようにぷっくりと膨らんでいる。一つ、また一つと口に運び、その手が止まる気配はない。
そんな二人のやり取りを、少し離れた席で久世しずかが静かに見ていた。彼女の机の上には、優から借りた算数のドリルが開かれている。彼女は黙々と問題を解いていたが、まりなの大きな声に顔を上げ、優たちの周りにできた小さな人だかりを、穏やかな眼差しで見つめていた。その手元には、優が朝一番に「しずかさんの分です!」とこっそり渡してくれた、彼女専用の小さなポップコーンの袋が、大切そうに置かれている。
「優くん、これうめー!」
「作り方教えてくれよ!」
クラスの男子たちが、わらわらと優の周りに集まってくる。優は「もちろんです!」と嬉しそうに頷くと、まるでテレビの料理番組の先生のように、身振り手振りを交えながらポップコーンの作り方を熱心に説明し始めた。
「まず、お鍋に油を多めに引いてですね、とうもろこしが重ならないように入れるんです! そこに、お塩を少々!」
「火加減は中火がベストです! 弱すぎると弾けませんし、強すぎると焦げちゃいますからね!」
「ポンポンって音がしてきたら、お鍋を揺するのを忘れないでください! 焦げ付き防止です! 音がしなくなってきたら、火を止めて……」
彼の説明は、子供にも分かりやすく、そして何より楽しそうで、まるで魔法の呪文を聞いているかのようだ。子供たちは目を輝かせ、うんうんと頷きながら、彼の言葉に聞き入っている。いつしか、教室のあちこちにあった喧騒は一つにまとまり、優を中心とした温かい輪が生まれていた。
「キャラメルソースは、お砂糖とお水を火にかけて、茶色くなってきたらバターと生クリームを入れるんですけど……生クリームがない時は、牛乳でも代用できますよ! その時は、少し煮詰めると美味しくなります!」
得意げに料理のコツを披露する優の姿は、とても小学四年生とは思えないほど頼もしく、そして輝いて見えた。
まりなは、ポップコーンを頬張りながら、そんな優の姿を少し呆れたような、しかしどこか誇らしげな顔で見つめている。東は、いつの間にか本を閉じ、興味深そうに彼の説明に耳を傾けていた。そしてしずかは、自分の席で、そっとポップコーンを一つ口に運んだ。甘くて、温かい味が口の中に広がる。彼女は、誰にも見られないように、ほんの少しだけ口角を上げて、小さく微笑んだ。
キーンコーンカーンコーン……。
*昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。子供たちは「あーあ」と声を上げて、席へと大人しく戻っていた。
───────────────────────
キーンコーンカーンコーン……。
それは、一日の授業の終わりと、子供たちにとっての自由の始まりを告げる合図。それを聞いた途端、4年2組の教室は、解放感に満ちた喧騒に一気に包まれた。ランドセルに教科書を乱暴に詰め込む音、週末の遊びの約束を交わす弾んだ声、我先にと廊下へ駆け出していく足音。その熱気に満ちた混沌の中で、一ノ瀬優は、自分の席で黙々と帰り支度を整えていた。
「一ノ瀬さん、ちょっといいかい?」
不意に、落ち着いた声がかけられた。優が顔を上げると、そこにはクラス委員長である東直樹が、分厚い本を小脇に抱えて立っていた。彼は、いつも冷静で、クラスの喧騒から一歩引いた場所で物事を観察している少年だ。その真面目な瞳が、まっすぐに優を見つめている。
「東さん! はい、なんでしょうか!」
優は、ぱっと顔を輝かせ、椅子からぴょんと飛び降りるようにして立ち上がった。彼の周りだけ、空気がきらきらと輝いているように見える。
東は、優のその太陽のような純粋さを前にして、一瞬言葉に詰まった。何をどう言えばいいのか、頭の中で組み立てていた言葉が、うまくまとまらない。彼は小さく息を吸い込むと、選び抜いた言葉を、静かに、しかし確かな重みを持って口にした。
「君は……すごいね」
それは、賞賛だった。彼の知るどんな言葉よりも誠実で、心の底からの賞賛。しかし、優はその言葉の意味を正しく受け取れなかったらしい。きょとんとした顔で数回まばたきをすると、慌てて両手をぶんぶんと左右に振った。
「い、いえいえいえ! そんなことないです! すごいだなんて、とんでもないです!」
全力の否定。彼にとって、自分が行ってきたことは「すごいこと」などではなく、ただ当たり前のことだったからだ。困っている人がいれば手を差し伸べる。悲しんでいる人がいれば隣に寄り添う。彼にとっては、呼吸をするのと同じくらい自然な行動原理に過ぎない。
東は、そんな優の反応を見て、小さく苦笑した。やはり、この少年は普通ではない。彼は、自分が成し遂げたことの価値を、全く理解していないのだ。
東の脳裏に、数か月前の光景が蘇る。
クラス委員長として、彼は久世しずかが受けているいじめに気づいていた。それは、彼の正義感と責任感を苛む、苦い棘だった。
このクラスで起こっている問題を、見て見ぬふりはできない。彼は何度も行動しようとした。休み時間に、しずかに声をかけた。「何か困っていることはないか」「僕でよければ話を聞くよ」。しかし、彼女はいつも無表情に首を横に振るだけ。「別に」「大丈夫だから」。
その硬い拒絶の前で、東の善意は行き場を失った。先生に相談することも考えた。学級会で議題に上げるべきではないかとも悩んだ。だが、当の本人が助けを求めていない以上、下手に介入すれば事態を悪化させるだけかもしれない。
「どうせ変わらないよ」。そう言って去っていく彼女の背中が、東の無力さを突き付けていた。運が悪い、そう思うことでしか、自分の心を保てなかった。
なのに。
春にふらりと現れたこの小さな転校生は、たった一ヶ月足らずで、誰もが不可能だと思っていたその状況を、根底からひっくり返してみせた。
暴力でもなく、声高な正義でもなく、ただひたすらに、純粋な善意と行動だけで。しずかの凍てついた心に陽だまりを作り、いじめの主犯だったまりなの心の闇にさえ光を灯した。東には到底できなかったことを、彼はあまりにもあっさりと成し遂げたのだ。
「すごいよ、君は。僕には、何もできなかった」
東の口から、偽らざる本音がこぼれる。それは、敗北宣言にも似た、率直な告白だった。しかし、優はそんな彼の内面など露知らず、次の瞬間、まるで天啓を得たかのように、ぱっと顔を輝かせた。
「そうだ! 東さん!」
彼は、今思いついたとばかりに、期待に満ちた瞳で東を見つめ、ずいっと身を乗り出した。
「あの、僕、勉強が全然わからなくて……! もしよかったら、今度教えていただけませんか!?」
予想の斜め上を行く、あまりにも純粋なお願い。東は、一瞬何を言われたのか理解できず、呆然と優の顔を見つめてしまった。さっきまでの真剣な空気はどこへやら、目の前の少年は、ただただ勉強のことで頭がいっぱいらしい。
「東さんは、いつもテストで百点を取っていて、本当にすごいなって思ってたんです! どうしたら、あんなに難しい問題が解けるんですか? 僕、算数の図形の問題が、何度やってもちんぷんかんぷんで……」
矢継ぎ早に、自分の苦手な分野を訴える優。その瞳には、尊敬と、学びたいという純粋な意欲だけが満ち溢れている。
東は、そのあまり眩しさに思わず頷くことしかできなかった。
─────────────────────────
季節は、梅雨の湿気を夏の灼熱が少しずつ追いやり始めた七月。蝉の合唱が本格化する一歩手前、子供たちの心は、間近に迫った夏休みへの期待で浮き足立っていた。そんな浮かれた空気とは裏腹に、東小学校4年2組には、ぴんと張り詰めた緊張感が漂っていた。夏休み前、最後にして最大の関門──期末テストの結果が、今日、返却されるのだ。
東直樹は、背筋を伸ばし、固く口を結んで、教壇に立つ担任教師をまっすぐに見つめていた。
彼の心臓は、いつもより少しだけ早く脈打っている。不安ではない。むしろ、自信があった。
今回も、完璧なはずだ。兄と比べられ、常に「完璧」であることを求められてきた彼にとって、満点を取ることは呼吸をするのと同じくらい、当たり前の責務だった。完璧か、それ以外か。彼の中の世界は、その二つでしか構成されていない。
ここ数週間、彼の放課後には新しい習慣が加わっていた。一ノ瀬優に勉強を教えること。それは、優からの純粋な願いに応えた形だったが、東自身にとっても有意義な時間だった。「人に教えることは、自分の理解を深める最良の方法だ」。そう自分に言い聞かせ、彼は優の苦手な図形問題や、文章問題の読解のコツを、懇切丁寧に教え込んだ。
優の吸収力は、驚異的だった。
最初は「ちんぷんかんぷんです〜」と頭を抱えていた図形問題も、補助線の引き方を一度教えれば、次からは応用して自力で解いてみせた。彼の瞳は常にスポンジのように知識を吸い込み、学ぶ喜びできらきらと輝いていた。その姿を見るのは、東にとっても悪い気はしなかった。むしろ、自分の知識が誰かの役に立つという事実に、静かな満足感を覚えていたほどだ。
──だが、それはそれ、これはこれだ。勝負は、勝負。
「それじゃあ、答案を返すぞー。呼ばれた者から前に来い」
担任教師の気だるげな声と共に、テスト用紙が一人、また一人と手渡されていく。クラスのあちこちで、歓声やため息が漏れる。東は、ただ静かに自分の名前が呼ばれるのを待った。
「雲母坂」
「……よし、まあまあね」
呼ばれたまりなは、答案を受け取ると、ちらりと点数を見て小さくガッツポーズをした。彼女もまた、優の影響か、以前より真面目に授業を受けるようになっていた。
「久世」
「……はい」
しずかは、静かに席を立ち、答案を受け取った。その表情は相変わらず凪いでいたが、紙面に視線を落とした瞬間、その口元がほんのわずかに、本当にごくわずかに綻んだのを、東は見逃さなかった。
そして。
「一ノ瀬」
「はいっ!」
教室中に響き渡るような、元気の良い返事。優は、まるで賞状でも貰いに行くかのように、誇らしげに胸を張って教壇へと向かう。彼が答案を受け取り、くるりと振り返った。その手には、赤いインクで書かれた大きな花丸と、震えるような筆跡で記された数字が見えた。
───【100】
満点。完璧な数字。優は、東の方を見ると、太陽のような満面の笑みを浮かべて、ぶんぶんと答案を振って見せた。「東さんのおかげです!」。
その唇が、声には出さずとも、そう形作っていた。周りのクラスメイトから「すげえ!」「優、満点だってよ!」という驚きの声が上がる。
東は、その光景を、ただ無表情に見つめていた。心臓が、どくん、と一度、嫌な音を立てる。大丈夫だ。自分も、満点なのだから。優が満点を取れたのは、他ならぬ自分が教えたからだ。彼の成果は、自分の成果でもある。そう、自分に言い聞かせる。
「──東」
ついに、自分の名が呼ばれた。彼は、いつも通りの落ち着き払った動作で席を立ち、教壇へと向かう。差し出された答案用紙を、指先で受け取る。紙の乾いた感触。そして、そこに踊る、見慣れた赤いインクの数字に、彼の視線は釘付けになった。
【95】
時が、止まった。
世界から、音が消えた。クラスメイトの喧騒も、窓の外の蝉の声も、何もかもが遠くに聞こえる。彼の視界には、ただ、その残酷な数字だけが、嘲笑うかのように大きく映っていた。
九十五点。
たった一問。漢字の書き取り。練習では一度も間違えたことのない、簡単な漢字。その一つの横線が、ほんの少しだけ長すぎた。先生の赤いペンが、無慈悲にそこを囲み、マイナス5点の印をつけている。
なんで。
その二文字が、錆びついた鉄の味を伴って、東直樹の思考を埋め尽くした。
なんで、なんで、なんで、なんで、なんで───。
世界から色が消え、音が遠のいていく。彼の視界に映るのは、ただ、目の前の白い紙に刻まれた、無慈悲な赤い数字だけ。
【95】
それは、限りなく完璧に近い数字でありながら、完璧とは天と地ほども隔たった、欠陥品の烙印。クラスの他の生徒からすれば、それは羨望の対象でさえあるだろう。しかし、東直樹にとって、それは敗北以外の何物でもなかった。満点か、それ以外か。彼の世界には、その二つの価値しか存在しない。そして今、彼は「それ以外」の側に突き落とされたのだ。
教室の喧騒が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側のように、くぐもって聞こえる。満点の答案を手に、友人たちに囲まれて賞賛の声を浴びている一ノ瀬優の姿が、やけにゆっくりと、スローモーションのように見えた。太陽のような笑顔。純粋な喜び。その全てが、今の東にとっては、胸を抉る鋭いナイフのように感じられた。
(僕が、教えてやったのに)
喉の奥から、苦く、醜い感情がせり上がってくる。そうだ、僕が教えてやったんだ。あの、ちんぷんかんだと言っていた図形の問題も、文章問題の解き方も。僕がいなければ、あいつが満点を取れるはずがなかった。なのに、なぜ。なぜ、教えられた側が満点で、教えた側の僕が、こんな屈辱的な点数を取らなければならないんだ。
東は、自分の席に戻ると、音を立てないように、そっと椅子に腰掛けた。指先が、氷のように冷たい。彼は、誰にも気づかれないように、答案用紙を裏返し、ランドセルの奥深くに押し込んだ。まるで、忌まわしい何かを隠すように。
満点なんて、一度も取れたことがなかった。
いつも、あと一歩のところで届かない。それは、彼が「まじめでバカ」だからだと、母親は言った。兄の潤也は、いつも涼しい顔で満点を取ってきた。勉強も、スポーツも、何をやらせても完璧にこなす兄。母親の目は、常にその完璧な兄に向けられていた。東がどんなに頑張っても、どんなに良い点を取っても、その視線が自分に向けられることはなかった。「潤也はもっとできた」「お兄ちゃんなら、こんな間違いはしない」。その言葉は、見えない呪いとなって、彼の心に深く根を張っていた。
だから、勉強した。沢山、沢山、沢山、沢山。
友達が公園で遊んでいる時も、兄がテレビゲームに夢中になっている時も、彼は机にかじりついていた。遊び方なんて知らなかった。勉強以外の全てを捨てた。そうすれば、いつか母親が自分を見てくれるかもしれない。そう、信じていたから。
兄が高校に入学して、髪を染めた時。反対を押し切ってバイトを始めた時。東は、心の底から歓喜した。これで、完璧だった兄に「欠点」ができた。
これでもう比べられることはない。これでお母さんは、やっと僕を見てくれる。そう、思った。だが、現実は違った。兄は髪を染めてもバイトを始めても成績は落ちず、彼女を作り、友人に囲まれ、人生を謳歌していた。兄の「欠点」は、彼の魅力を損なうどころか、人間的な深みを与えるスパイスにしかならなかった。「あの子は要領がいいから」。母親は、そう言ってため息をつくだけだった。
そして、一ノ瀬優。
春に現れた、あの小さな転校生。
彼は、兄と同じ種類の人間だ。勉強を教えれば、あっという間に吸収し、自分を簡単に追い抜いていく。
勉強だけじゃない。誰も変えられなかった久世しずかを変え、あの雲母坂まりなさえも手懐けた。
僕が、クラス委員長として、どんなに心を砕いても変えられなかった現実を、彼はたった一ヶ月で塗り替えてしまった。勉強以外の全てを捨てた僕が、その唯一の砦である「勉強」ですら、彼に負けた。
(……全部、お前が奪った)
憎悪が、黒い炎となって、心の奥底で燃え盛る。久世さんを変えたのも、雲母坂さんとの関係も、そして、僕が必死に守ってきた「完璧」という名の居場所も。全部、全部、全部、あの太陽みたいな無邪気な笑顔の裏で、お前が奪い去ったんだ。
「東さん! 見てください!」
その声に、東はびくりと体を震わせた。顔を上げると、いつの間にか、優が自分の机の前に立っていた。その手には、誇らしげに満点の答案が掲げられている。
「満点です! 僕、満点を取れました! これも全部、東さんが丁寧に教えてくれたおかげです! 本当に、ありがとうございました!」
深々と頭を下げる優。その純粋な感謝の言葉が、今の東には、何よりも残酷な刃となって突き刺さる。ありがとう? おかげ? ふざけるな。お前は、………お前は─────
「……すごいね、一ノ瀬くん。満点、おめでとう」
東直樹は、完璧な微笑みを顔に貼り付けていた。口角を正しい角度に上げ、目は優しく細める。それは、クラス委員長として、模範的な生徒として、常に彼が身につけてきた「正しい」表情。憎悪。嫉妬。絶望。胸の中で渦巻く、黒く、醜い感情の奔流を、その完璧な仮面の下に、彼は音もなく閉じ込めた。
「はい! ありがとうございます! これも全部、東さんのおかげです!」
目の前で、一ノ瀬優が屈託なく笑う。太陽のように眩しく、一点の曇りもない笑顔。その純粋さが、東の心をひどく逆撫でする。おかげ? 違う。お前のせいだ。お前が、僕の全てを奪ったんだ。喉まで出かかったその言葉を、東は笑顔と一緒に飲み込んだ。
家に帰る。玄関のドアを開けると、リビングから兄の潤也が彼女と電話で楽しそうに話している声が聞こえた。キッチンでは、母親が鼻歌交じりに夕食の準備をしている。誰も、東の顔に貼り付いた仮面にも、その下に隠された絶望にも気づかない。彼は、誰にも何も言わず、音を立てずに自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
ランドセルから、くしゃくしゃになった答案用紙を取り出す。
【95】
その数字が、まるで生き物のように、彼を嘲笑っていた。彼は、それをぐしゃりと握り潰すと、ゴミ箱に叩きつけた。
それから数日。世界は、何事もなかったかのように回り続けた。東は完璧な優等生を演じ続け、優は太陽のように笑い続けた。そして、夏休みを告げる終業式の日がやってきた。
「みんな、事故や怪我には気をつけて、楽しい夏休みを過ごすように!」
担任の言葉を合図に、教室は解放感に満ちた歓声に包まれる。子供たちは、通信簿をランドセルにしまい、別れの挨拶もそこそこに、夏という名の楽園へと駆け出していく。
東は、その喧騒を背に、一人、ゆっくりと帰り支度をしていた。ふと視線を上げると、窓の外、校門の近くで、見慣れた三人の姿が目に映った。優、しずか、まりな。三人は、まるでそれが当たり前であるかのように、連れ立って歩き出そうとしている。その光景は、東の胸に、またしても鈍い痛みを走らせた。
(僕が、いたはずの場所なのに)
クラス委員長として、しずかの隣に立ち、彼女を助けるのは、僕であるべきだった。違う。そうじゃない。僕は、ただ、彼女の母親に似た、綺麗な黒髪と、憂いを帯びた瞳に、母親の姿を重ねて見ていただけだ。助けたいと思ったのは、彼女のためじゃない。母親に認められたい、僕のためだ。その欺瞞に、彼はもうとっくに気づいていた。
東は、彼らから少し遅れて、校門を抜けた。夏の始まりを告げる生ぬるい風が、じっとりと肌にまとわりつく。蝉の声が、頭蓋に直接響くかのように、うるさく鳴り響いていた。
彼は、三人の後を、一定の距離を保って歩いた。他愛もない話をしているのだろう。時折、優の明るい声と、まりなの楽しそうなツッコミ、そして、しずかの微かな笑い声が風に乗って聞こえてくる。その全てが、東の神経を苛んだ。
やがて、一行は大きな交差点の横断歩道の前で立ち止まった。けたたましい警告音と共に、目の前の信号が赤に変わる。ぎらぎらと照りつける西日が、アスファルトを歪ませていた。
「ねえ、優! 夏休み、どっか行くの?」
「はい! 駄菓子屋さんのおばあちゃんと、商店街の福引に行くんです! 一等は、ハワイ旅行なんですよ!」
「はっ、あんたがハワイって……。まあ、ティッシュでも貰ってきなさいよ」
「ふふ……優くん、くじ運なさそう」
「そんなことないですよ! 僕、結構持ってる方なんです! ね、しずかさん!」
信号待ちの時間も、彼らの周りには楽しげな空気が満ちている。東は、その光景を、背後から、ただ無感情に眺めていた。彼の足は、まるで意思を持たない人形のように、音もなく、一歩、また一歩と、彼らとの距離を詰めていく。
目の前に、優の小さな背中がある。赤いランドセル。少し茶色がかった髪。夏休みの計画を、身振り手振りを交えて楽しそうに話している。その無防備な背中が、東の目に焼き付いた。
(こいつがいなければ)
その思考は、雷鳴のように、唐突に、そして抗いようもなく、彼の頭を支配した。
こいつがいなければ、僕は満点だった。
こいつがいなければ、久世さんは僕を頼ってくれたかもしれない。
こいつがいなければ、僕の世界は、完璧なままだったのに
その思考は、もはや東直樹自身の意志ではなかった。それは、彼の内側で育ち続け、肥大化した「劣等感」という名の怪物が、ついに彼の理性の手綱を引きちぎって叫んだ、悍ましい産声だった。
完璧な兄。完璧を求める母親。その二つの巨大な影の下で、息を潜めるように生きてきた彼の人生。その唯一の光だと信じていた「勉強」という砦すら、この小さな転校生は、いとも容易く、無邪気に、そして残酷に奪い去っていった。
ぎらぎらと照りつける西日が、横断歩道の前で信号を待つ三人の影を、アスファルトの上に長く引き伸ばしている。楽しげな笑い声。蝉の絶叫。けたたましい信号機の警告音。それら全ての音が、東の頭の中で歪み、混ざり合い、不快なノイズとなって反響する。
目の前に、優の無防備な背中がある。赤いランドセルが、夕日を浴びて、まるで血の色のように不気味に輝いて見えた。
思考ではない。衝動だった。
東の足が、音もなく一歩、前へ出る。まるで幽鬼のように、彼は三人の背後に忍び寄っていた。まりなも、しずかも、そして優も、目前の信号と、目の前の友人との会話に夢中で、背後に迫る静かな殺意に気づく者は誰もいない。
東の腕が、ゆっくりと持ち上がる。指先が、優の背中に触れるか触れないかの距離まで近づく。その小さな背中を押せば、どうなるか。赤い信号を無視して、スピードを上げて交差点に進入してくる大型トラックが、彼の視界の端に映っていた。あの、大きな鉄の塊。あれにぶつかれば、どんな人間だって、ひとたまりもないだろう。
かつて、優が失ったもの。それを、今度は優自身が味わうことになる。
この世界から、一ノ瀬優という「イレギュラー」を消し去ってしまえばいい。そうすれば、僕の世界は、また静かで、完璧なものに戻るはずだ。
東の指先に、力がこもる。
そして───彼は、その小さな背中を、ありったけの憎悪を込めて
強く、押した。
世界が、一瞬だけスローモーションになった。
「危ないッ!」
最初に悲鳴を上げたのは、まりなだった。彼女は咄嗟に優の赤いランドセルを掴もうと腕を伸ばすが、その指先は虚しく空を切る。しずかは、目の前で起こった出来事が理解できず、ただ大きく見開かれた瞳で、よろめきながら車道へと飛び出していく親友の背中を見つめることしかできなかった。
───キィィィィィィッッ!!!
鼓膜を突き破るような、けたたましいブレーキ音。それは、大型トラックの運転手が、目の前に転がり込んできた小さな影を認め、反射的に急ブレーキを踏んだ音だった。巨大な鉄の塊が、黒いタイヤ痕をアスファルトに刻みつけながら、ほんの数センチの差で優の体を掠めて停止する。
ドン、という鈍い音。それは、優が衝撃で地面に叩きつけられた音だった。しかし、彼の体はトラックの下敷きになるという最悪の事態だけは、奇跡的に免れていた。
「優くんッ!」
「優!」
しずかとまりなの絶叫が、蝉の声とトラックのエンジン音にかき消されそうになりながら、交差点に響き渡る。二人は青ざめた顔で、うずくまる優のもとへ駆け寄った。トラックの運転手も慌てて運転席から飛び出してくる。周囲の人々が何事かと足を止め、ざわめきが広がっていく。
その喧騒の中心で、東直樹は、ただ一人、呆然と立ち尽くしていた。
彼の右手には、まだ、優の背中を押した感触が生々しく残っている。憎悪を込めて突き飛ばした、あの小さな体の感触。しかし、結果は彼の望んだものではなかった。優は、生きている。あの忌々しい太陽は、まだ、この世界から消えていなかった。
「……なんで」
彼の唇から、か細い声が漏れた。なんで、死ななかった。なんで、僕の完璧な計画は、またしても失敗したんだ。彼の足は、その場に縫い付けられたように動かない。駆け寄ることも、逃げ出すこともできず、ただ、遠巻きに人だかりの中心を、虚ろな目で見つめていた。
---
白い天井。消毒液の匂い。ピッ、ピッ、と単調な電子音が規則的に響く病室。
優は、ベッドの上で静かに横たわっていた。幸い、全身を強く打ち付けたことによる打撲と、掠り傷、そして軽い脳震盪で済んだ、というのが医師の見立てだった。命に別状はない。それは、不幸中の幸いと言える奇跡だった。
しかし、彼の心は、その奇跡を受け入れてはいなかった。
優は、虚ろな目で、何も映らない天井の一点を見つめていた。その瞳からは、輝きが完全に消え失せ、まるでガラス玉のように無機質だった。普段の彼からは想像もつかないほど、静かで、冷たい。
「……っ、……ひっく……」
静寂を破ったのは、彼自身の、嗚咽を漏らす声だった。両手で顔を覆い、その小さな体は、ベッドの上でか細く震えている。シーツをぎゅっと握りしめる指は、白くなるほどに力が入っていた。
「こわい……こわい……っ」
震える唇から、言葉が途切れ途切れに紡がれていた。
「こわい……こわい……っ、いたい……こわい……」
そのか細い声は、懇願のようでもあり、断末魔のようでもあった。白いシーツを握りしめる優の手は、血の気が失せ、小刻みに震えている。彼の瞼の裏には、今、地獄が映し出されていた。
───あの時と、同じだ。
突然、視界を奪う眩い光。ヘッドライト。思考が停止し、体が鉛のように動かなくなる、あの絶望的な感覚。
そして、全てを塗りつぶす衝撃と、熱いのに冷たい、奇妙な浮遊感。
肌は過敏になっているはずなのに、何も感じない。
世界から音が消え、ただ、自分の心臓の音だけが、やけに大きく、ゆっくりと響く。
死ぬ。
その一言が、脳を支配する。怖い。痛い。助けて。誰か。
その絶望の淵で、いつも、優しい声が聞こえてくる。
『大丈夫っピ、優。ぼくがそばにいるっピ』
そうだ。【ぼく】が、いつも慰めてくれる。大丈夫だよって、言ってくれる。この声を聞くと、不思議と恐怖が和らいでいく。だから、僕は大丈夫なんだ。
───?
優の思考に、小さな亀裂が入った。
【ぼく】……?
誰だ?
記憶の深い、深い海の底。そこには、固く閉ざされた宝箱のような、決して開けてはならない領域があった。今まで、その存在にすら気づかなかった領域。しかし、今回の事故という強烈な衝撃が、その宝箱の錆びついた錠前を、いとも容易くこじ開けてしまったのだ。
溢れ出てくる、断片的な映像の奔流。
古い、古民家の、陽の当たらない薄暗い部屋。埃っぽい畳の匂い。耳元で響く、罵声。
『役立たず』『お前さえいなければ』。それは、祖父と祖母の声だった。僕を蔑み、存在しないかのように扱う二人の、冷たい視線。
違う。僕には、優しいお母さんとお父さんがいたはずだ。一緒に笑って、ご飯を食べて、公園で遊んでくれた。そうだ、あの交差点で、僕の目の前で、車に……。
(……違う)
脳裏に、別の光景が鮮明に浮かび上がる。
それは、同じ交差点。でも、隣にいるのは、父でも母でもない。
ピンク色の、タコのような、奇妙で、それでいて、何よりも愛おしい姿。柔らかな体。大きな、黒曜石のような瞳。いつも僕の後ろを、楽しそうについてきた。
『んうえいぬkf!』
僕は、そう呼んでいた。いや、違う。その後に名前をつけたんだ。
『ピンキー!』
そうだ、ピンキーだ。僕の、たった一人の、初めての友達。
あの日も、僕たちは公園で泥だらけになるまで遊んだ帰り道だった。青信号。僕が先に横断歩道を渡り始めて、振り返ってピンキーに手を振った。その時だ。けたたましいエンジン音と共に、信号を無視した車が、僕めがけて突っ込んできた。
ライト。衝撃。痛み。そして、暗闇。
ああ、僕は見たことがあったんだ。死を。
病院のベッドの上で、僕は一度、死んだのだ。医師たちの諦めたような声が、遠くで聞こえた。心臓は、もう動いていなかった。
でも、僕は生き返った。
それは、ピンキーが、最後の力を振り絞って、僕を助けてくれたから。彼の体が光の粒子になって、僕の体の中に溶け込んでいく、あの不思議な感覚。彼の命と引き換えに、僕の命は繋ぎ止められた。彼は、僕の一部になった。
『優が生きて、優が幸せになるのが、ぼくの幸せっピ』
消えゆくピンキーの最後の言葉が、蘇る。
なんで。
なんで、なんで、なんで、忘れていたんだろう。
僕には、〝始めからお母さんとお父さんなんていなかった〟。
あの優しい両親の記憶は、ピンキーを失った哀しみと、生き残ってしまった罪悪感に耐えきれなくなった僕の心が、自分を守るために創り出した、都合のいい幻だったのだ。そして、その幻のせいで、ピンキーの存在を、僕は記憶の奥底に封じ込めてしまった。
爺さんと婆さんは、突然存在しないはずの両親の話をし始めた僕を気味悪がり、厄介払いするように、この町に追い出した。
それが、〝真実〟。
「…………あ……ぁ…………」
嗚咽が、静かな病室に響き渡る。一ノ瀬優の小さな体は、まるで嵐の中の小舟のように激しく震えていた。シーツを濡らす涙は、もはや恐怖の色を失い、深い、深い哀しみの色を帯びていた。
ピンキー。
その名前を思い出した瞬間、彼の心の世界は根底から覆された。優しかった父と母の記憶は、砂の城のように脆く崩れ去り、その下から現れたのは、たった一人、孤独に震えていた幼い自分と、その傍らに寄り添う、ピンク色のタコのような、かけがえのない親友の姿だった。
失っていたのではない。忘れていたのだ。いや、自ら封印したのだ。親友の命と引き換えに生き永らえたという、あまりにも重い真実から逃げるために。その罪悪感が、「両親の死」という都合のいい悲劇を創り出し、彼を偽りの記憶の中に閉じ込めていた。
「ごめん……ごめんね、ピンキー……っ」
声にならない謝罪が、彼の唇から何度も何度も繰り返される。忘れていてごめん。君がくれた命なのに、僕は、君のことさえも忘れて、のうのうと生きていて、ごめん。後悔と自責の念が、黒い奔流となって彼の心を飲み込もうとする。
───でも。
その黒い奔流の中で、ふと、ピンキーの最後の声が、記憶の底から響いてきた。
『優が生きて、優が幸せになるのが、ぼくの幸せっピ』
そうだ。ピンキーは、僕に生きてほしかったんだ。僕が幸せになることを、願ってくれたんだ。ここで僕が悲しみに暮れて、心を閉ざしてしまったら、それこそがピンキーの願いを裏切ることになる。
この命は、僕だけのものじゃない。ピンキーが、未来を託してくれた、二人分の命なんだ。
だからこそ。
僕は、前を見て歩かないといけない。
優は、ゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた頬を、パジャマの袖で乱暴に拭う。その瞳には、まだ哀しみの色は残っていたが、その奥には、確かな決意の光が、静かに、しかし力強く灯っていた。もう、逃げない。この真実も、この哀しみも、すべて抱きしめて、僕は生きていく。ピンキーがくれた、この世界で。
コンコン、と控えめなノックの音がして、病室のドアがゆっくりと開いた。
「……優くん、入るよ」
「優、大丈夫なの!?」
心配そうな顔を覗かせたのは、しずかとまりなだった。そして、しずかが持っていた鞄の中からタコピーがひょっこりと顔を出し、大きな瞳を不安そうに揺らしている。
その三人の顔を見た瞬間、優の顔に、ぱっと花が咲いたような笑顔が広がった。それは、いつもの、太陽のような、一点の曇りもない満面の笑みだった。
「しずかさん! まりなさん! タコピーさん! 来てくれたんですね! 心配かけてごめんなさい! でも、見てください、この通り! 僕はぜーんぜん、大丈夫です!」
彼はベッドの上で元気よく身を起こし、両腕を広げてみせた。そのあまりにも普段通りの姿に、しずかとまりなは一瞬、言葉を失う。ついさっきまで、あれほどの事故に遭った人間とは思えないほどの、明るさとエネルギー。
「だ、大丈夫って……あんた、トラックに轢かれかけたのよ!?」
まりなが、信じられないといった表情で声を上げる。しずかも、こくこくと頷きながら、優の顔色を窺っていた。彼女の目には、まだ安堵しきれない不安の色が浮かんでいる。
「はい! でも、運転手さんが急ブレーキを踏んでくれたので、ちょっと転んで擦りむいただけです! この通り、ぴんぴんしてます!」
優はそう言って、わざとらしく腕をぐるぐると回してみせる。その無邪気な仕草に、まりなは呆れてため息をついたが、その表情は明らかに和らいでいた。
「ほんと、あんたってお気楽なんだから……」
「……でも、よかった。本当に、よかった……」
しずかが、心の底から安堵したように、小さな声で呟いた。その声は微かに震えていて、どれほど心配していたかが伝わってくる。優は、そんな彼女を見て、ふわりと微笑んだ。
「はい。よかったです。だって、これは……ピンキーがくれた、大切な命ですから」
「……ぴんきー?」
聞き慣れない単語に、しずかとまりなが首を傾げる。優は、にこりと笑って、少しだけ遠い目をした。
「僕の、昔からの、大親友の名前です。今はもう、会えないんですけどね」
優はそう言って、少しだけ遠い目をして、ふわりと微笑んだ。その笑顔には、いつもの太陽のような明るさの中に、微かな哀しみと、そして深い愛情が滲んでいた。失われた記憶を取り戻したばかりの彼の心は、まだ複雑な感情の波に揺れている。しかし、その根底にあるのは、親友への揺るぎない想いだった。
その時だった。
「……やっぱり、そこにいたっピね」
ぽつり、と。まるで独り言のように、タコピーが誰にも聞こえない声で小さく呟いた。その声はいつもの明るい響きとは少し違い、どこか確信めいていた。
タコピーは、優の顔をじっと見つめていた。その大きな黒い瞳は、ただ優の顔を見ているのではない。もっと深い、彼の魂の奥底を、その奥に眠る光を、見つめているようだった。
(……ようやく、謎が解けたっピ)
タコピーは、今、猛烈な速度で情報を処理し、散らばっていたピースを一つの絵として完成させていた。
(どうして初めて出会った時、優くんはぼくの名前……この星の発音では本来ありえないはずの【ぇおえkw」:】という言葉を、自然に紡げたのか)
(何故、彼の瞳には、ぼくたちハッピー星人が持つ「ハッピー力」のような、暖かくて強い光が宿って見えたのか)
(そして、なぜ、ハッピー道具である「ハッピーカメラ」を見た時、懐かしむような事を言ったのか)
全て、解けた。
優くんの中にいるんだ。ぼくがずっと探していた、親友が。
何かあったのだろう。憶測では語れない何かが。
その事実に気づいた瞬間、タコピーの胸に、暖かくて、少しだけ切ない感情が込み上げてきた。友は、生きていた。姿形は変わっても、確かにここに、いる。
「タコピーさん? どうかしたんですか?」
優が、不思議そうに小首を傾げる。タコピーは、はっと我に返ると、ぶんぶんと首を横に振った。
「ううん! なんでもないっピ! 優くんが無事で、ぼく、とってもハッピーだっピ!」
そう言って、タコピーはいつものようににぱーっと笑った。その笑顔に、しずかとまりなも、つられてふわりと表情を和らげる。病室は、一気にいつもの和やかな空気に包まれた。
---
数日後、無事に退院した優は、早速、駄菓子屋のお手伝いに精を出していた。
「おばあちゃん! ほうき、かけ終わりました! 次は何をしますか?」
「おやまあ、優ちゃん、もう終わったのかい。じゃあ、この新しいお菓子を棚に並べておくれ」
「はい、お任せください!」
小さな体に似合わない大きな声で返事をすると、優は段ボール箱に詰められた色とりどりの駄菓子を、てきぱきと棚に並べ始めた。その様子を、店の隅でラムネを飲んでいたタコピーと、アイスを食べていたまりなが、ぼんやりと眺めている。しずかは、店の奥で店主のおばあちゃんと一緒に、古いアルバムを眺めていた。
「それにしても優のやつ、退院したばっかりだってのに、元気すぎんじゃないの?」
まりなが、アイスの棒を口にくわえながら、呆れたように言う。
「うん……でも、いつもの優くんだから、安心する」
しずかが、アルバムから顔を上げて、穏やかに微笑んだ。彼女の言う通り、あの事故がまるで嘘だったかのように、優は少しも変わっていなかった。いや、むしろ以前よりも、その笑顔は一段と輝きを増しているようにさえ見えた。
「よいしょ、っと! これで全部ですね!」
最後のうまい棒を棚に差し込み、満足げに仁王立ちする優。その額には、玉のような汗が光っている。
「お疲れ様、優ちゃん。ほら、これで好きなもんでも買いな」
おばあちゃんが、皺くちゃの手で、何時ものように御駄賃をくれていた。
そして。夏休みに入って、数日が過ぎた。茹だるような暑さが続く毎日だったが、一ノ瀬優の日常は何も変わらない。朝早くに起き、アパートの小さな部屋を隅々まで掃除し、タコピーと一緒に朝ご飯を食べる。そして、昼過ぎになると、決まって近所の駄菓子屋へと足を運んでいた。
「おばあちゃん、ありがとうございました! また明日来ます!」
「はいよ、優ちゃん。気をつけて帰るんだよ」
店主のおばあちゃんににこやかに手を振られ、優は店の古びた引き戸をガラガラと開けた。その手には、今日のお手伝いのお駄賃で買った、ソーダ味のアイスキャンディーが一本握られている。早速、袋を破って一口かじれば、しゃりりとした食感と、懐かしい甘さが口いっぱいに広がった。
「んー! おいしいです!」
一人、満足げに声を上げる。タコピーは今日、しずかとまりなと一緒に図書館へ行くと言って先に飛んでいってしまった。
だから、帰り道は一人だ。一人で食べるアイスも美味しいけれど、やっぱり誰かと一緒に食べた方が、もっと美味しいな。そんなことを考えながら、優は慣れた道を歩いていく。
蝉の声が、まるでシャワーのように頭上から降り注ぐ。アスファルトから立ち上る陽炎が、遠くの景色をゆらゆらと歪ませていた。やがて、見慣れた交差点に差し掛かる。あの日、事故に遭いかけた場所。しかし、優の心に、その時の恐怖はもう欠片も残っていなかった。あるのはただ、そこで思い出した、大切な親友への想いだけだ。
信号が赤に変わり、優は横断歩道の前にぴたりと足を止める。アイスをぺろぺろと舐めながら、青に変わるのを待っていた、その時だった。
ふと、隣に立った人影に気づく。見上げると、それは、見知った顔だった。
「……あ、東さん! こんにちは!」
クラス委員長の、東直樹。優は、いつものように満面の笑みで挨拶をした。しかし、返事はなかった。東は、まるで亡霊のように、力なくそこに立っていた。
その顔は青白く、目の下には隈がどす黒く浮かび上がっている。数日見ない間に、彼はまるで別人のようにやつれてしまっていた。その虚ろな瞳が、ゆらりと、優に向けられる。
「…………一ノ瀬くん」
掠れた、乾いた声。その声には、何の感情も乗っていなかった。
「……君は、いいよね。いつも笑ってて。何も考えなくて。……勉強だって、ちょっと教えられただけで、すぐに満点を取って……。久世さんも、雲母坂さんも、みんな君のことが好きだ。……すごいね。本当に、すごいよ」
それは、賞賛の言葉のはずなのに、聞いているだけで背筋が凍るような、冷たい響きを持っていた。東の唇の端が、ひくりと引きつり、乾いた笑みが浮かぶ。
「僕もね、君みたいになりたかったんだよ。でも、なれなかった。僕は、まじめで、バカだから。…………でも、僕は、結局、何一つ、完璧にできないんだ」
それは、恨み言のようであり、懺悔のようでもあり、そして、自らの未来を予言するかのような、絶望的な独白だった。
しかし、優の表情は、少しも変わらなかった。驚きも、怒りも、悲しみもない。ただ、いつものように、にこにこと、太陽のような笑顔を浮かべて、東の言葉を静かに聞いていた。そして、彼が話し終えるのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「東さん」
その声は、夏の暑さを忘れさせるほど、穏やかで、澄み渡っていた。
「僕、この前、東さんに『満点を取れた』って言いましたよね? でも、あの後、もう一度テストをよーく確認してみたんです。そしたら、先生の採点ミスがいくつかあって。本当は、70点くらいだったみたいなんです」
優は、アイスをぺろりと舐めながら、悪戯っぽく笑ってみせた。
「だから、高得点だったのはやっぱり東さんだけでしたよ。すごいです、東さん!」*
その言葉は、何のてらいもない、純粋な事実として、東の耳に届いた。
東の、虚ろだった瞳が、大きく、大きく見開かれる。
「…………え?」
東直樹の唇から、空気が抜けるような、か細い声が漏れた。彼の世界が、音を立てて崩れていく。目の前で、屈託なくソーダ味のアイスキャンディーを舐めている少年。その口から発せられた言葉が、彼の脳の中で意味を結ぶまで、永遠とも思えるほどの時間が必要だった。
満点じゃ、なかった?
本当は、70点?
じゃあ、あの日の、僕の絶望は? 僕の胸を焼き尽くした、あの醜い嫉妬と憎悪は? 僕が、この小さな少年を、大型トラックの前に突き飛ばすという、取り返しのつかない罪を犯すに至った、あの狂気じみた衝動は。
全部、全部、僕の、くだらない勘違いだったというのか?
優、心からの賞賛を、その太陽のような笑顔に乗せて東に贈る。その純粋さが、あまりにも眩しくて、東は目を逸らしたくなった。しかし、体は金縛りにあったように動かない。ただ、目の前の信じられない光景を、虚ろな瞳で見つめることしかできなかった。
その時、優が、不意に一歩、前に踏み出した。そして、その小さな、温かい手で、東の氷のように冷たい手を、そっと握った。びくり、と東の肩が震える。その温もりが、まるで烙印のように、彼の肌を焼いた。
「東さん」
見上げると、優の大きな瞳が、まっすぐに自分を見つめている。その瞳には、非難の色も、軽蔑の色も、何一つ浮かんでいなかった。
「僕……東さんがわざわざ教えてくれたところ…やっぱり、一回じゃわからなかったんです。僕、物覚えが悪くて……。だから、もしよかったら、また勉強、教えてくれませんか!?」
満面の笑み。何の裏もない、純粋な願い。
その言葉が、最後の引き金になった。東直樹の心を守っていた、最後の硬い殻が、音を立てて砕け散る。彼の瞳から、堪えきれなくなった涙が、ぽろぽろと、止めどなく溢れ出した。頬を伝い、顎から滴り落ちる熱い雫が、夏の乾いたアスファルトに、小さな染みを作っていく。
「…………なんで、だよっ……」
絞り出した声は、ひどく震えていた。
なんで、責めないんだ。僕は、お前を殺そうとしたんだぞ。この手で、お前を地獄に突き落とそうとしたんだ。あの時は人混みで、誰も僕がやったことには気づいていなかったかもしれない。でも、そんなのは時間の問題だ。警察が言えば、防犯カメラを調べれば、僕の罪はすぐに白日の下に晒される。僕は、犯罪者になるんだ。未来も、希望も、何もかも失うんだ。
なのに。
糾弾の言葉が、一つもない。憎しみの視線すら、向けられない。それどころか、この少年は、僕に「また勉強を教えてほしい」と、笑いかけてくる。
なんだよ、それ。
なんなんだよ、お前は。
理解ができない。彼の行動原理が、東のちっぽけな常識では、到底、測ることができなかった。涙は、もう止まらなかった。彼は、優に手を握られたまま、子供のように、ただ声を殺して泣きじゃくった。蝉の声が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。
優は、何も言わなかった。ただ、静かに、東の手を握り続けていた。その小さな手の温もりだけが、崩壊した東の世界で、唯一確かなものだった。彼は、泣きじゃくる東を、ただ黙って見守っている。急かすでもなく、慰めるでもなく、ただ、そこにいる。その存在そのものが、まるで「大丈夫だ」と語りかけているかのようだった。
しばらくして、しゃくりあげる声が少しだけ収まってきた頃。優が、ぽつり、と呟いた。
「僕、知ってます」
東が、涙で濡れた顔を上げる。
「雲母坂さんのお父さんもお母さんも、最初は、お互いのことを全然知りませんでした。お互いに、自分が正しいって思ってて、だから、まりなさんが悲しんでることに、気づけなかったんです。でも、ちゃんとおはなしをしたら、お互いのことが少しだけわかって、まりなさんのことも、ちゃんと見れるようになりました」
優は、東の目をまっすぐに見て、続ける。その口調は、まるで古い物語を語るように、穏やかで、優しい。
「しずかさんも、最初は僕のこと、嫌いだったと思います。僕が勝手に近づいて、迷惑だって思ってたと思います。でも、毎日おはなしをして、一緒に帰って、一緒にご飯を食べたら、僕のこと、少しだけ信じてくれるようになりました」
東は、ただ黙ってその言葉を聞いていた。彼の言っていることは、事実だ。あの雲母坂まりなの家庭環境を変え、氷のように心を閉ざしていた久世しずかを変えたのは。この小さな少年の、ただひたすらに純粋な「対話」への渇望だった。彼は、特別な力を使ったわけではない。ただ、隣に寄り添い、相手の目を見て、その心に触れようとし続けた。その愚直なまでの誠実さが、固く閉ざされた人々の心を、少しずつ溶かしていったのだ。
東直樹は、その事実を、誰よりも近くで見てきた。そして、心のどこかで、その太陽のような存在に、憧れさえ抱いていた。だからこそ、その太陽に照らされてできた、自分の醜い影が許せなかった。
「おはなしをして、理解し合えば…絶対に幸せになれると思うんです」
優の声が、泣きじゃくる東の耳に、優しく染み渡る。それは、彼が今まで何度も口にしてきた、彼の信念そのものだった。その言葉が、今、自分に向けられている。自分を殺そうとした、この自分に。
「僕は……」
東の喉から、嗚咽と共に、か細い声が漏れた。握られた優の手の温もりが、彼の罪悪感を容赦なく炙り出す。言わなければならない。この優しい少年に、自分が犯した罪を、全て告白しなければならない。それが、最低限の償いだ。
「僕は……僕は……き、みの…背中を……っ」
途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。あの日の光景が、フラッシュバックする。憎悪に燃える自分の心。トラックのヘッドライト。小さな背中を押した、右手の感触。その全てが、彼の心を苛み続ける。
しかし、優は、その告白を最後まで聞こうとはしなかった。ただ、こくり、と小さく頷くと、握っていた東の手に、きゅっと力を込めた。そして、まるで自分の非を認めるかのように、少し悲しそうな顔で言った。
「それは、僕が、東さんのことを、なんにも理解できていなかったからです」
「……ぇ……?」
東の思考が、再び停止する。何を、言っているんだ、この子は。悪いのは、僕だ。一方的に嫉妬して、一方的に憎んで、一方的に、お前を殺そうとした、僕なんだ。なのに、なぜ、お前が謝るんだ。
優は、困ったように眉を下げて、続ける。
「東さんが、いつも頑張っていることも、本当はすごく苦しんでいたことも、僕、全然気づけませんでした。ただ、東さんはすごい人だなって、そう思ってただけでした。東さんの気持ちを、ちゃんと考えようとしなかった。だから、東さんを、もっと苦しめてしまったんだと思います。ごめんなさい」
深々と、優が頭を下げる。その小さなつむじが、東の目の前にあった。
違う。
違う、違う、違う、違うッ!
東は、心の中で絶叫した。悪いのはお前じゃない。僕だ。僕の、醜い心のせいだ。お前は何も悪くない。お前は、いつも正しくて、いつも優しくて、いつも太陽みたいに笑っているだけじゃないか。僕が、その光に耐えられなかっただけなんだ。
「でも。だからこそ、です」
ゆっくりと顔を上げた優が、今度は、決意を秘めた力強い瞳で、東を見つめ返した。
「だからこそ、今度こそ、ちゃんとおはなしをしたいです。本音で、です。東さんが、本当は何に苦しんでいて、何に悩んでいるのか。僕、ちゃんと知りたいです。そして、もし僕にできることがあるなら、何でも手伝いたいです。友達、ですから」
───友達。
その言葉が、雷鳴のように、東の心を貫いた。今まで、彼にとって「友達」とは、成績のいい自分に寄ってくる、上辺だけの関係でしかなかった。本音をぶつけ合うことも、弱さを見せ合うこともない、希薄な繋がり。
でも、今、目の前の少年が差し出している「友達」は、全く違うものだった。自分の最も醜い部分を、罪を、全て受け止めた上で、それでもなお、寄り添おうとしてくれる。そんな存在。
東は、もう、言葉を発することができなかった。ただ、ぼろぼろと涙を流し続ける。それは、もう絶望や自己嫌悪の涙ではなかった。自分のような人間にさえ、手を差し伸べてくれる存在がいるという、信じられないような奇跡に対する、感謝と、安堵の涙だった。彼は、その場に崩れ落ちるように膝をつき、優に手を握られたまま、アスファルトの上で声を上げて泣いた。夏の蝉時雨が、彼の罪を洗い流すかのように、二人の上に降り注いでいた。
以上。