第6話です
カンカンカン、と風鈴が涼やかな音を立てる。網戸を通り抜けてくる生ぬるい風が、部屋に籠った熱気をわずかに掻き混ぜていった。蝉の大合唱が、まるで世界そのもののBGMであるかのように、途切れることなく鳴り響いている。
夏休みが始まって、一週間。子供たちにとっては楽園であるはずのその期間に、東直樹の部屋には、どこか気の抜けた空気が漂っていた。
「はぁ……。なんで夏休み始まったばっかなのに、こんなことしなきゃいけないのよ……」
机に突っ伏した雲母坂まりなが、溶けたアイスのようにだらしない声を上げた。彼女の目の前には、まだ真っ白なページが目立つ算数のドリルが、無慈悲にその存在を主張している。
その隣では、久世しずかが、黙々と漢字の書き取りを進めていた。長く艶のある黒髪が、さらりと肩から滑り落ちる。その表情は相変わらず涼やかだが、どこか集中しているのが見て取れた。
そして、その向かい側。
「まりなさん、頑張りましょう! 早く終わらせれば、その分たくさん遊べますよ!」
佐藤鷹禾が、消しゴムのカスを丁寧に集めながら、満面の笑みでまりなを励ます。彼のドリルは、すでに半分以上が綺麗な文字で埋まっていた。部屋の主である東直樹は、そんな三人の様子を、少し離れた場所から、どこか居心地悪そうに、しかし穏やかな目で見守っている。目の下にあった深い隈は薄れ、顔色も随分と良くなっていた。
なぜ、こんな奇妙な組み合わせの四人が、男子生徒の部屋で夏休みの宿題をしているのか。その理由は至極単純である。
あの交差点での一件の後、優が「みんなで一緒に宿題をすれば、きっと楽しいし、早く終わります!」と提案し、しずかとまりなを巻き込み、そしておずおずと東家に押しかけたからだ。東自身、最初は戸惑いを隠せなかったが、「東さんに教えてもらわないと、僕、また70点取っちゃいます!」と太陽のように笑う優を前にして、断るという選択肢は彼にはなかった。
「だって、優はともかく、あんたは一人でできるでしょ、委員長」
「う、うん……でも、みんなでやった方が、効率的、かなって……」
まりなの鋭いツッコミに、東はしどろもどろになりながら答える。彼自身、なぜ自分がこの状況を受け入れているのか、まだ完全には整理がついていなかった。ただ、一人で完璧を目指していた時よりも、ずっと息がしやすいことだけは確かだった。
「あ! この問題、分かりません! 東さん、教えてください!」
優が、ぴんと手を挙げる。その声に、東はびくりとしながらも、どこか嬉しそうに立ち上がった。
「えっと、どれかな? ああ、この鶴亀算は…、まず……」
二人が頭を寄せ合ってドリルを覗き込んでいると、それまで静かだったしずかが、ふと顔を上げた。
「……まりなちゃん、ここ、なんて読むの?」
彼女が指さしたのは、国語のプリントに書かれた「滅入る」という漢字だった。しずかは勉強が苦手なわけではないが、時折、こうして難しい漢字で立ち止まってしまうことがある。
「んー? ああ、それは『めいる』よ。気分が落ち込むこと。今のわたしみたいにね」
まりなは、頬杖をついたまま、面倒くさそうに答える。しかし、その口調には以前のような刺々しさはなく、むしろ親しい友人に対するそれに近い。
「めいる………」
しずかが、小さく呟きながら、丁寧にその二文字をノートに書き写す。その様子を見ていた優は「また一つ、しずかさんの世界が広がりましたね!」と、自分のことのように嬉しそうに笑った。
その純粋な喜びに、教えた側のまりなは少し照れくさそうに「べ、別に、これくらい常識でしょ」とそっぽを向く。そんなやり取りが、この奇妙な勉強会では、もはや日常の光景となっていた。
「あーもう! 全然やる気出ない! ねぇ、委員長、ちょっと休憩しない?」
ドリルに数問取り組んだだけで、まりなは早々にギブアップを宣言し、東に話を振った。彼女は、まだ東のことを「東くん」とは呼ばず、少しからかうような響きで「委員長」と呼んでいる。それは彼女なりの、まだぎこちない距離感の表れだった。
「え、あ、う、うん。そうだね、少し休もうか……」
突然話を振られた東は、ドギマギしながらも同意する。優から鶴亀算の解き方を教えていた彼は、その役目から解放されたことに少し安堵していた。
人に教えるという行為は、彼にとって常に「完璧」でなければならないプレッシャーとの戦いだったが、優を相手にしていると、不思議とそれが苦ではなかった。
「分かりません!」と屈託なく言われるたびに、むしろ「どう説明すれば伝わるだろう」と考えるのが、少し楽しくさえあった。
そして、「休憩だー!」というまりなの声に部屋の空気が少し緩む。
優はにこにこしながら「じゃあ、麦茶を淹れてきますね!」と立ち上がろうとしたが、それを東が慌てて制した。
「い、いや、僕がやるよ! ここは僕の家なんだから……。お客さんにそんなことさせられない」
「えー、でもでも!」
「い、いいから! 座ってて」
東はどこか必死な様子で優を座らせると、そそくさと部屋を出てキッチンへと向かった。
その背中を見送りながら、まりなは「委員長って、意外と世話焼きよね」と面白そうに呟く。
しずかも、こくりと静かに頷いた。しばらくして、東が四人分の麦茶を乗せたお盆を持って戻ってきた。グラスの表面には水滴が浮かび、見た目にも涼やかだ。
「わー! ありがとうございます、東さん!」
「……ありがとう」
「どーも」
三者三様にお礼を述べ、冷たい麦茶に口をつける。乾いた喉を潤す心地よさに、思わずほう、と息が漏れた。そんな和やかな雰囲気の中、優が「あ」と小さく声を上げた。
「東さん、すみません、お手洗いを借りてもいいですか?」
「あ、うん。いいよ。部屋を出て、廊下の突き当りだから」
「ありがとうございます!」
優はぺこりと頭を下げると、ぱたぱたと軽い足音を立てて部屋を出ていった。扉が静かに閉まり、部屋には再び蝉の声と、風鈴の涼やかな音だけが響き渡る。
残されたのは、東、まりな、そしてしずかの三人。先ほどまでの賑やかさが嘘のように、どこか気まずい沈黙が流れた。麦茶のグラスを持つ手が、やけに重く感じられる。
その沈黙を破ったのは、意外にも、それまで最も口数の少なかったしずかだった。彼女は、じっと自分の膝元を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げると、まっすぐに東の目を見つめて、その薄い唇を開いた。
「……どうして」
か細く、しかし芯のある声だった。東は、その突然の問いかけに、心臓がどきりと跳ねるのを感じた。何が、と聞き返すこともできず、ただ彼女の澄んだ瞳に見入ってしまう。しずかの視線は、一切の揺らぎなく、東の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。
しずかが紡いだ言葉の続きを、今度はまりなが、より直接的な言葉で引き継いだ。彼女は、先ほどまでの怠そうな態度はどこへやら、真剣な、そして少し怒気を含んだ表情で東を睨み据えていた。
「どうして、あんたは優を殺そうとしたの?」
その言葉は、鋭いナイフとなって東の胸に突き刺さった。分かっていた。いつか、必ずこの問いが投げかけられることは。優本人は、あの日のことをまるでなかったかのように振る舞い、決して自分を責めようとはしない。だが、彼の友人であるこの二人が、それを許すはずがない。東は、息が詰まるのを感じた。額から、冷たい汗が流れ落ちる。
「……それは……」
喉がからからに乾いて、声が出ない。何を言えばいい? どう説明すれば、この二人は納得する? 嫉妬していた、と正直に言えばいいのか? 優の存在が眩しすぎて、自分の醜い影に耐えられなかった、と。そんな独りよがりな理由で、彼女たちが最も大切にしている友人を殺そうとしたなどと、どうして言えるだろうか。
まりなは、黙り込んだ東を、さらに追い詰めるように言葉を重ねた。
「あいつ、あんたに背中押されて、トラックに轢かれかけたのよ。分かってる? 一歩間違えば、死んでたかもしれないのよ! なのに、あいつ……優は、あんたをちっとも責めない。それどころか、『友達だから』なんて言って、あんたの家にまで押しかけて……。バカなのよ、あいつは。優しすぎる、ただのバカ」
まりなの声が、わずかに震えている。それは怒りだけでなく、優に対するどうしようもない心配と、そして彼を危険な目に遭わせた自分自身への、ほんの少しの後悔が混じっているように聞こえた。
彼女は、優がまりな自身の家庭に介入した時のことを思い出していたのかもしれない。あの時も、彼は危険を顧みず、ただひたすらに「対話」を求めてきた。その結果、まりなの家族は救われた。だが、それは結果論でしかない。
しずかも、静かに口を開く。
「優くんは、いつもそう。自分が傷つくことなんて、全然考えてないみたい……。まりなちゃんに殴られた時も、私が突き放した時も……いつも、笑ってた。大丈夫だって、笑ってた……。でも、本当は、すごく痛かったはずだし、悲しかったはず……」
彼女の声には、深い悲しみが滲んでいた。それは、優の痛みを理解できなかった自分への後悔であり、彼を傷つける世界への静かな怒りでもあった。彼女は、優の純粋さが、いかに脆く、守られるべきものであるかを知っていた。だからこそ、その純粋さを踏みにじろうとした東の行為が、許せなかった。
「だから、教えて。あんたが、優を殺そうとした理由。ちゃんとした理由があるんでしょ。じゃなきゃ、あいつが……優があんたを許すはずない」
まりなの言葉は、糾弾でありながら、同時にわずかな期待を含んでいた。そう、優が許したのだ。あの底抜けにお人好しで、誰よりも優しい優が、この少年を「友達」と呼ぶことを選んだ。そこには、自分たちにはまだ分からない、何か特別な理由があるはずだ。そうでなければ、納得がいかない。
二人の真剣な眼差しが、東に突き刺さる。彼は、唇をかみしめ、俯いた。何と言えばいいのか。嫉妬、劣等感、自己嫌悪……そんな醜く、独りよがりな感情を、どう説明すればいい? 兄と比べられ続けた苦しみ? 母親の期待に応えられない絶望? そんなものは、優を殺そうとした理由になどならない。ただの、卑劣な言い訳だ。
重い沈黙が、部屋を支配する。蝉の声だけが、やけに大きく響いていた。東が何も言えずにいると、まりなは、ふぅ、と一つ大きなため息をついた。そして、先ほどまでの刺々しい雰囲気を少しだけ和らげ、どこか達観したような、それでいて優しい声で言った。
「……だからこそ、よ」
「え……?」
東が驚いて顔を上げると、まりなは困ったように、でもどこか柔らかく微笑んでいた。その表情は、かつてしずかを嘲笑っていた彼女とは、まるで別人のようだった。
「あいつが、優があんたを許した。わたしたちには分からない、何かがあったんでしょ。優が『友達』だって言うくらい、何かがあった。……事情は、深くは聞かない。あんたが言いたくないなら、言わなくていい。でもね」
まりなは、そこで一旦言葉を切り、しずかと顔を見合わせた。しずかも、静かに、しかし強く頷き返す。二人の間には、もはや言葉はいらない。優という太陽を通じて結ばれた、確かな絆があった。
「でも、優が許したっていう事実がある。それだけで、今は十分。だって、あいつ言ってたのよ。わたしの家に来た時に」
まりなの視線が、再び東を捉える。その瞳には、もう怒りの色はなかった。
「『お互いに、おはなしをして、理解をし合うことが、一番しあわせに繋がる道』だって。あいつは、わたしの家の、あのめちゃくちゃな状況の中で、そう言ったのよ」
まりなの言葉が、静かに部屋に響いた。それは、ただの伝聞ではなかった。彼女自身が体験し、その心で受け止めた、確かな重みを持つ言葉だった。東は、まりなの真剣な瞳から目を逸らすことができない。彼女の言葉の一つ一つが、彼の罪悪感に満ちた心を、ゆっくりと、しかし確実に解きほぐしていくようだった。
「優はね、わたしたちの話を聞いてくれた。わたしが、どれだけお母さんのことで苦しんでいたか。しずかが、どれだけ一人で寂しかったか。あいつは、ただ黙って隣にいて、聞いてくれた。……だから」
まりなは、そこで一旦言葉を切り、深く息を吸った。そして、まるで自分に言い聞かせるように、はっきりと告げた。
「あんたが、〝はなしてくれるのなら〟……わたしたちも、聞く。優がそうしてくれたみたいに。あんたが、何に苦しんで、どうしてあんなことをしちゃったのか。……言いたくないなら、無理には聞かない。でも、もし話したいって思うなら、わたしたちが聞く。……優の大事な『友達』なんでしょ、あんたも」
その言葉は、東にとってあまりにも予想外のものだった。糾弾されることは覚悟していた。軽蔑されることも、罵られることも、受け入れるつもりだった。しかし、目の前の少女たちが差し出してきたのは、罰ではなく、「対話」の機会だった。優がいつも口にする、あの温かくて、少し気恥ずかしい、けれど何よりも大切なもの。
隣で黙って聞いていたしずかも、静かに口を開いた。彼女は、まっすぐに東を見つめ、こくりと一つ、強く頷いた。言葉はなかったが、その行動は、まりなの言葉を全身で肯定していることを示していた。彼女の澄んだ瞳には、非難の色はなく、ただ静かな受容の光が宿っている。
───ああ、そうか。
東の心の中に、すとん、と何かが落ちてきた。
この子たちも、優に救われたんだ。僕と、同じように。
固く閉ざされていた心の扉が、ゆっくりと軋みを立てて開いていくのを感じた。涙腺が緩み、視界が滲む。兄と比べられ続けた日々。母親の期待という名の呪縛。「完璧」でなければ価値がないと信じ込んできた、孤独な世界。その全てが、今、目の前の少女たちの優しさの前に、雪のように溶け出していく。
「……僕は……」
東の喉から、か細い声が漏れた。それは、長い間、誰にも言えずに心の奥底にしまい込んでいた、彼の本当の声だった。
「僕は、ずっと、兄さんと比べられてきた……。母さんは、いつも優秀な兄さんのことばかり褒めて、僕のことは見てくれなかった。何をしても、『潤也はもっとできた』って……。だから、僕は、完璧じゃなきゃいけないんだって、ずっと思ってた。一番じゃなきゃ、母さんに認めてもらえないんだって……」
言葉が、堰を切ったように溢れ出す。それは、誰かに聞かせるためではなく、自分自身の心を整理するための、痛みを伴う告白だった。まりなとしずかは、何も言わず、ただじっと彼の言葉に耳を傾けている。その静かな眼差しが、何よりも雄弁に「話していいんだよ」と語りかけていた。
「彼は、僕と全然違う……。勉強ができるわけじゃないのに、いつも楽しそうで、誰にでも優しくて、みんな、いつの間にか彼の周りに集まってくる……。君たちも、そうだった。氷みたいだった久世さんが笑うようになって、いつも怒ってた雲母坂さんが、優しくなった。……僕には、何もないのに。あんなに頑張ってきたのに、僕は誰一人、救うことなんてできなかったのに……!」
感情が昂り、声が震える。悔しさと、惨めさと、そしてどうしようもない嫉妬。その黒い感情が、彼の心を支配していたあの日のことが、鮮明に蘇る。
「眩しかったんだ……。彼の存在そのものが、僕の惨めさを照らし出すみたいで、苦しくて、耐えられなかった。……だから、僕は……あんな、取り返しのつかないことを……」
そこまで言うと、東はもう言葉を続けることができなかった。顔を両手で覆い、嗚咽を漏らす。肩が、小さく震えている。それは、罪を告白する者の、痛々しい姿だった。
しばらくの沈黙の後、まりなが、ぽつりと言った。
「……そっか。……あんたも、苦しんでたんだね」
その声には、同情でも憐れみでもない、ただ純粋な理解があった。彼女自身、母親からの期待とプレッシャーに苦しんでいたからこそ、東の痛みを、自分のことのように感じることができたのだ。
しずかも、静かに立ち上がると、泣きじゃくる東の隣にそっと寄り添った。そして、ためらいがちに、でも確かに、その震える背中にそっと手を伸ばし、優しく撫でた。
その小さな手のひらから伝わる不器用な温もりが、東の孤独な心にじんわりと染み込んでいく。それは、かつて優が自分たちにしてくれたことの、ささやかな模倣だった。特別な言葉はない。けれど、その行動だけで、「あなたは一人じゃない」というメッセージが、痛いほどに伝わってきた。
東は、もう声を上げて泣くこともできず、ただひっく、ひっくとしゃくり上げるばかりだった。完璧でなければ価値がないと信じてきた世界。一番でなければ愛されないと思い込んできた世界。その世界が、今、目の前の少女たちの、そしてこの場にはいない一人の少年の優しさによって、音を立てて崩れ、そして再構築されていく。
まりなは、そんな二人を、少し離れた場所から腕を組んで見ていたが、やがてふっと、まるで自嘲するように笑った。
「……なんなのかしらね、あいつ」
その呟きは、誰に言うでもなく、部屋の空気に溶けていった。
「優の言うことなんて、冷静に考えれば、ただの綺麗事じゃない。理想論っていうか……『おはなしをすれば分かり合える』なんて、そんな簡単なわけないのに」
まりなの脳裏に、憎しみに満ちていた頃の自分が蘇る。父親を奪った(と信じていた)女の娘であるしずか。そのしずかに寄り添い、自分の居場所を脅かすように見えた優。あの時の自分に、果たして話し合いが通じただろうか。否、絶対に無理だった。憎悪は、人の耳を塞ぎ、理解を拒み、目を曇らせる。
「……でも」
彼女は続ける。その声には、戸惑いと、ほんの少しの敬意が混じっていた。
「実際に、あいつのあの真っ直ぐな目で、あの声で、目を合わせて言われると……なんか、調子狂うのよね。自分の心の中にあるドロドロした黒いものが、全部どうでもよくなるっていうか……少しだけ、晴れてしまうような錯覚に陥るのよ」
それは、まりな自身が何度も経験した感覚だった。憎悪も、嫉妬も、焦りも、優という存在の前に立つと、その輪郭がぼやけてしまう。まるで、泥で濁りきった水が入ったコップに、どこからか清らかな水が絶え間なく注ぎ込まれてくるような感覚。決して、泥水そのものが消えてなくなるわけではない。心の底には、まだ澱のように醜い感情が沈んでいる。でも、確かに、その水は少しずつ透明に近づいていく。軽く、澄んでいく。そんな、不可思議で、言葉では到底うまく例えられない感覚があった。
「……わかる」
東の背中を撫でながら、しずかが小さく呟いた。
「私も、そうだった。もう、どうでもいいって思ってた。笑うことも、泣くことも、誰かに期待することも。全部、無駄だって。でも、優くんは、ずっと隣にいてくれた。私が何を言っても、何もしなくても、ただ、そこにいてくれた。『大丈夫ですよ』って、笑ってくれた。……そしたら、いつの間にか……チャッピー以外にも、笑ってるところ、見られてもいいかなって、思えるようになってた」
彼女の言葉は、淡々としていたが、そこには確かな温度があった。優がもたらした、温かくて、柔らかな変化。それは、魔法でも奇跡でもない。ただひたすらに、一人の人間が、もう一人の人間に寄り添い続けた結果だった。
三人の間に、再び沈黙が流れた。しかし、それはもう気まずいものではなかった。それぞれが、優という共通の太陽によって照らされた過去を思い返し、その光を分かち合う、穏やかで優しい沈黙だった。蝉の声と風鈴の音色が、まるで祝福の音楽のように、その空間を優しく包み込んでいた。
やがて、しゃくり上げていた東の背中の震えが、少しずつ収まってきた。彼は、ゆっくりと顔を上げる。その目は泣き腫らして真っ赤だったが、そこにはもう、以前のような絶望や自己嫌悪の色はなかった。代わりに、何かを決意したような、静かで強い光が宿っていた。
「……ありがとう。雲母坂さん、久世さん。聞いてくれて、本当にありがとう」
絞り出すような声だったが、それは紛れもなく、彼の心からの感謝の言葉だった。
まりなは、少し照れくさそうに「べ、別に……。あんたのためじゃなくて、優のためだから」と顔を背ける。しずかは、何も言わずに、ただ小さく微笑んで、そっと東の背中から手を離した。
パタン、と軽い音を立ててトイレの扉を閉める。優は手を洗いながら、ふぅ、と小さく息をついた。先ほどの鶴亀算はなかなか手強く、東に教えてもらってようやく理解できた。やはり、東さんはすごいな、と改めて感心する。自分一人ではきっと、あと一時間は悩んでいたことだろう。みんなで勉強するのは、やっぱり楽しい。分からないことを教え合ったり、ちょっとしたことで笑い合ったり。そんな当たり前のことが、優にとっては宝物のように輝いて見えた。
「早く戻って、続きを頑張らないとですね!」
優は自分に言い聞かせるように呟き、備え付けの小さなタオルで手を拭くと、元気よく廊下に出た。東家の廊下は静かで、しんとしている。窓の外から聞こえてくる蝉時雨だけが、この世界に音が存在することを主張しているかのようだった。直樹の部屋からは、今は話し声は聞こえない。きっと、休憩が終わってまた集中して勉強しているのだろう。自分も遅れをとってはいられない。
そんなことを考えながら、部屋に戻ろうと角を曲がった、その時だった。
「おっと」
曲がった先から現れた人影と、危うくぶつかりそうになる。優は「わっ!」と小さく声を上げ、たたらを踏んだ。見上げると、そこには自分よりもずっと背の高い、一人の青年が立っていた。染められた明るい髪色、少し着崩したラフなシャツ。学校の先輩だろうか、いや、もっと年上に見える。高校生か、大学生くらいだろうか。その青年は、驚いたように少し目を見開いていたが、すぐに柔和な表情になった。
「あー……。ごめんな、大丈夫か?」
「は、はい! 大丈夫です! 僕こそ、前を見ていなくてすみませんでした!」
優は、慌ててぶんぶんと首を横に振り、ぺこりと深々頭を下げた。青年は、そんな優の様子を少し面白そうに眺め、そして部屋の方にちらりと視線をやった。かすかに聞こえる、少女たちの声。それで状況を察したのか、彼は納得したように小さく頷いた。
「……直樹の、友達か」
ぼやくように、しかしどこか温かい響きを伴って、青年は言った。その声色から、彼がこの家の住人であり、そして直樹の兄であることを優は直感的に理解した。東が話していた、「潤也お兄さん」だ。
「はい! 佐藤鷹禾です! 夏休みの宿題を、みんなで一緒にやらせてもらってるんです!」
「そっか。……いつも、直樹と仲良くしてくれて、ありがとな」
青年──潤也は、そう言って優しく微笑んだ。その笑顔は、どこか弟の直樹に似ているけれど、もっと余裕があって、カラッとしていて、まるで夏の太陽そのものみたいだった。彼は、優の頭をくしゃり、と軽く撫でる。その大きな手のひらは、とても温かかった。
潤也は、弟の部屋の扉を、感慨深そうに見つめていた。彼の心中には、この数ヶ月の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた。
正直、もう駄目だと思っていた。この家は、直樹にとって毒が多すぎる。母親の、あの歪んだ期待は、弟である直樹にはもう向けられていない。だがその分、母親の執着はすべて、兄であるの自分へと向かった。あの人は、もう変わらない。あれが上限なのだ。母親に期待するのは、もう辞めた。
だから、せめて直樹だけは守りたかった。自分のようになってほしくなかった。もっと自由に、自分のやりたいことを見つけてほしかった。そのための資金を貯めるために、バイトも増やした。いつか、この家から二人で出ていくことも考えていた。
なのに。
小学生たちの夏休みが始まる少し前、潤也は愕然とした。弟の顔に、今まで見た中で最も深い隈が刻まれていたのだ。食事も喉を通らないようで、日に日に痩せていく。その姿は、まるで生気を吸い取られた抜け殻のようだった。それに全く気づかない母親にも腹が立ったが、今更あの人に何を言っても無駄だ。結局、自分は弟のすぐそばにいながら、何もしてやれていなかった。その無力感が、潤也の心を重く苛んでいた。
だが、今はどうだ。
扉の向こうからは、楽しそうな声が聞こえる。弟が、友達を家に連れてきて、一緒に勉強をしている。たったそれだけのことが、この家では奇跡のように思えた。隈はまだ残っているが、顔色は随分と良くなった。何より、その声に、かつての張り詰めた響きはない。
潤也は、目の前の小さな少年、佐藤鷹禾を見つめた。この子が、きっかけなのだろう。不思議な太陽のような子。
もっと早く、自分が直樹と向き合って、話をしてやれていたら。母親のこと、学校のこと、将来のこと。一人で抱え込ませずに、兄として、もっと寄り添ってやれていたら、直樹がここまで追い詰められることもなかったのではないか。その悔しさが、彼の胸を締め付けた。
しかし、彼の視線は、目の前の小さな少年に戻る。この子がいる。この子が、自分がしてやれなかったことを、いとも容易く、しかし誰にも真似できないやり方で成し遂げたのだ。その事実は、兄としての無力感を突きつけると同時に、弟が救われたことへの計り知れない安堵をもたらしていた。
潤也は、自嘲と感謝が入り混じったような、複雑な笑みを浮かべた。そして、改めて優の頭を優しく、しかし先ほどよりも少しだけ力を込めて撫でた。
「……これからも、直樹をよろしくな」
その言葉は、兄としての切実な願いだった。自分にはできなかった、弟の心を照らす太陽でいてほしい。そんな祈りにも似た響きが、その声には込められていた。
優は、潤也の心の機微など知る由もない。ただ、その優しい声と温かい手のひらに、満面の笑みを返した。
「はいっ! もちろんです! 僕たち、友達ですから!」
その一点の曇りもない笑顔は、潤也の心に残っていた最後の澱みさえも、洗い流していくようだった。潤也は「そっか」と短く呟くと、名残惜しそうに手を離し、「じゃあな」と軽く手を振って、自分の部屋へと向かっていった。優は、その大きな背中が見えなくなるまで、ぶんぶんと手を振り続けていた。
「潤也お兄さん、優しそうな人だったな……」
一人ごちて、優は再び部屋へと向かう。扉に手をかけ、そっと開けた。先ほどまでの静寂が嘘のように、部屋の中にはくすくすという、弾むような笑い声が満ちていた。
「……だから、あの時のあんた、変な顔だったのよ」
「……しょうがない。あんなこと、初めてだったから」
「はは……二人とも、ありがとう」
見ると、まりなとしずか、そして東の三人が、先ほどまでの張り詰めた空気とは打って変わって、どこか照れくさそうに、しかし確かに微笑み合っていた。まるで、長く続いた雨が上がり、雲間から柔らかな日差しが差し込んできたかのような、穏やかで優しい光景。ちょうど、何か大切な話が終わった直後のような、そんな不思議な一体感が、部屋全体を包んでいた。
「あ! 皆さん、なんだか楽しそうですね!」
優が、ぱっと顔を輝かせて部屋に入っていく。その声に、三人ははっとしたように一斉に優の方を向いた。その表情には、ほんのわずかな気まずさと、それを上回る温かい感情が浮かんでいた。
「お、おかえり、優くん。遅かったね」
「はい!廊下で、東さんのお兄さんとお会いしたんです! とっても優しい人でした!」
「じ───兄さんと……? そっか……」
東は、兄が自分の友人たちを受け入れてくれたことに、安堵と少しの気恥ずかしさを感じながら、はにかんだように笑った。
まりなは、そんな東の様子を一瞥すると、わざとらしく大きなため息をついて見せた。
「もー! 休憩は終わり! 早く宿題終わらせないと、夏休みが終わっちゃうわよ!」
「ええー! まりなさん、さっきまであんなにやる気なかったのに……」
「う、うるさいわね! やる気になったのよ! ほら、委員長! 次の数学の問題、教えなさい!」
ツン、と澄ました顔で言うまりなに、しずかがくすりと小さく笑う。その笑い声につられて、東も、そして優も笑い出した。部屋は、再び子供たちの明るい声で満たされる。それぞれの心に、様々な痛みや過去を抱えながらも、彼らは今、確かに同じ時間と空間を共有し、笑い合っていた。
夏の日差しが、窓から差し込み、楽しそうにドリルを広げる四人の姿を、優しく照らし出していた。それは、どこにでもある、ありふれた夏休みのワンシーン。しかし、彼らにとっては、何よりも尊く、かけがえのない時間だった。
優は、消しゴムのカスを指で丸めながら、心の中で思う
ああ、やっぱり。おはなしをすれば、みんな、笑顔になれるんだ。
その純粋な信念が、この奇跡のような空間を作り出したことを、彼自身はまだ知らない。ただ、目の前の友人たちの笑顔が、彼にとっての世界で一番の宝物だった。夏は、まだ始まったばかりだ。
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西に傾いた太陽が、世界をオレンジ色に染め上げる。鳴り響いていた蝉の声も、心なしか勢いを弱め、代わりにどこか涼しげな虫の声が微かに聞こえ始めていた。楽しい時間はあっという間に過ぎ去るもので、東家の壁に掛けられた時計の針が午後五時を指した時、一番に声を上げたのはまりなだった。
「あ、もうこんな時間! ヤバい、今日はパパが早く帰ってくる日だったんだ!」
彼女は慌てたように椅子から立ち上がると、てきぱきと自分の荷物をまとめ始めた。その表情は焦っているようでいて、どこか嬉しそうだ。「パパが早く帰ってくる」、その一言に、彼女の家庭が確かに良い方向へ向かっていることが滲み出ていた。その言葉に、しずかと優も顔を見合わせ、自分たちもそろそろお暇する時間だと察する。
「本当ですね! あっという間でした!」
「……うん。楽しかった」
三人は名残惜しさを感じながらも、それぞれのドリルや筆箱をランドセルに仕舞っていく。皆で楽しみながら進めた結果、分厚かった夏休みの宿題ドリルは、3分の2ほど、半分以上が綺麗な文字で埋まっていた。一人でやっていたら、きっとこんなに進むことはなかっただろう。
「今日は本当にありがとうございました、東さん! とっても分かりやすかったです!」
「う、うん。僕の方こそ、ありがとう。楽しかったよ」
玄関まで見送りに来てくれた東は、はにかみながら、少し照れくさそうに言った。一日でこんなにたくさんの人と、こんなに長く話したのは、彼にとって初めての経験だったかもしれない。その表情は、朝よりもずっと柔らかく、穏やかだった。彼は、三人が靴を履き終えるのを、静かに待っている。
その後ろでは、いつの間にか部屋から出てきていた兄の潤也が、壁に寄りかかりながら、ニヤニヤとその光景を眺めていた。
「じゃあね、委員長! また明日、駄菓子屋で!」
「……またね」
「はい! また明日です!」
三人が口々に別れの挨拶を告げ、東も小さく手を振り返す。その時、彼の背後にいた潤也が、ひらりと大きく手を振った。その視線は、三人に向けられているようでいて、特に優を真っ直ぐに見つめているのが分かった。その眼差しは「よろしくな」と、無言で語りかけているようだった。優も、それに気づいて、にぱっと満面の笑みを浮かべ、力強く手を振り返した。
東家の門をくぐり、三人は並んで帰路につく。夕焼けに照らされた三つの小さな影が、アスファルトの上で長く伸びていた。心地よい疲労感と、宿題が大きく進んだ達成感が、三人の足取りを軽くしていた。
「ふぅー、疲れたけど、なんかスッキリしたわね!」
まりなが、ぐっと背伸びをしながら言う。その声は、朝の怠そうな響きとは打って変わって、爽快感に満ちていた。
「はい! みんなでやると、やっぱり早くて楽しいですね!」
「……うん。東くん、教えるの上手だった」
しずかが、ぽつりと感想を漏らす。彼女が東のことを「東くん」と呼んだことに、まりなと優は顔を見合わせて、少しだけ驚いたように、そして嬉しそうに微笑んだ。それは、彼らの間に新しい関係が芽生えた、ささやかな証だった。
「ま、委員長だからね。あれくらい当然でしょ。でも……」
まりなは、少しだけ言い淀んだ後、小さな声で続けた。
「……ちょっと、見直しちゃったかも。あいつのこと」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、夕暮れの空気の中に溶けていった。嫉妬や劣等感に苦しんでいた少年の、不器用な優しさと誠実さに、彼女もまた触れたのだ。優は、そのまりなの変化が嬉しくて、隣でうんうんと何度も頷いている。
そんな和やかな会話をしながら歩いていると、道の先に見慣れた駄菓子屋が見えてきた。店の前では、店主のおばあさんが、のんびりと打ち水をしている。
「あ! おばあちゃん!」
「おや、優ちゃんたち。おかえり」
おばあさんは、優たちの姿を認めると、優しい皺を顔中に浮かべて微笑んだ。まりなは「じゃ、わたしこっちだから!」と、駄菓子屋の角を曲がり、自分の家の方へと手を振りながら駆けていく。その背中は、以前よりもずっと軽やかに見えた。
「まりなさん、さようならー!」
「……バイバイ」
優としずかは、見えなくなるまでその背中に手を振った。残された二人は、自然と歩くペースを落とす。しずかの家は、ここからもう少し先だ。夕暮れの道には、もう二人の姿しかなく、まりなという賑やかな存在が一人いなくなっただけで、世界は急に静かになったように感じる。聞こえるのは、自分たちの足音と、遠くで鳴く虫の声、そして時折通り過ぎる車の音だけだ。
気まずいわけではない。けれど、どこか手持ち無沙汰な沈黙が、二人の間に流れる。優は何か話そうかと口を開きかけては、何を話せばいいか分からず、また閉じることを繰り返していた。そんな優の様子に気づいたのか、先に口を開いたのはしずかの方だった。
「……優くん」
ぽつり、と。夕暮れの空気に溶けてしまいそうな、小さな声だった。
「はい! なんでしょうか、しずかさん!」
優は、待ってましたとばかりに、ぱっと顔を輝かせて彼女の方を向いた。しずかは、優のその太陽のような笑顔に一瞬目を細め、そして、少しだけ視線を逸らしながら、言葉を続けた。
「……なんで、あんなに頑張れるの?」
それは、彼女がずっと心のどこかで抱いていた、純粋な疑問だった。自分のこと、まりなのこと、そして今日目の当たりにした、東のこと。優は、まるでそれが当たり前であるかのように、傷つき、心を閉ざした人々の懐に飛び込んでいく。自分が傷つくことなど一切考えずに、ただひたすらに、相手のために尽くそうとする。その原動力は、一体どこから来るのだろう。
「頑張る……ですか?」
優は、きょとんと首を傾げた。彼にとって、それは「頑張っている」という意識すらない、ごく自然な行動だったからだ。
「うーん……なんででしょう……。でも、しずかさんや、まりなさんや、東さんが、笑ってくれると、僕も、すごく嬉しくなるんです。胸のあたりが、ぽかぽかして、あったかくなるんです。だから……頑張ってるとかじゃなくて、僕が、そうしたいからしてるだけ、なんだと思います」
彼は、自分の胸にそっと手を当て、へにゃり、と少し照れくさそうに笑った。そこには計算も、下心も、自己犠牲の悲壮感もない。ただ、好きな人が笑ってくれるのが嬉しいから。その、子供のように純粋で、あまりにもシンプルな答え。
しずかは、その答えを聞いて、何も言えなくなった。ただ、優のその笑顔をじっと見つめる。そして、ゆっくりと、自分の胸にも手を当ててみた。優と一緒にいる時の、この感覚。安心できて、少しだけくすぐったくて、確かに温かいこの感覚。彼が言っている「ぽかぽか」は、きっとこれと同じものなのだろう。
「……そっか」
しずかは、ふっと、花が咲くように微笑んだ。それは、チャッピーの前で見せる無邪気な笑顔とはまた違う、慈愛に満ちた、とても穏やかな微笑みだった。その笑顔に、今度は優の胸が、ぎゅっと締め付けられるように温かくなった。
話しているうちに、見慣れた木造の一軒家が見えてきた。しずかの家だ。庭先で、鎖に繋がれたチャッピーが、二人の姿を認めて嬉しそうに尻尾を振っている。
「ワン! ワンワンッ!」
「あ! チャッピー! ただいま!」
優が駆け寄ると、チャッピーはさらに興奮して、彼の顔をぺろぺろと舐め始める。優は「わふっ、くすぐったいですよー!」と笑い声を上げながら、その毛むくじゃらの体を思い切り抱きしめた。しずかも、その隣にしゃがみこみ、「ただいま、チャッピー。いい子にしてた?」と、その頭を優しく撫でる。夕日に照らされた一人と二匹の光景は、まるで一枚の絵画のように、どこまでも平和で、温かかった。
しばらくチャッピーと戯れた後、優は名残惜しそうに立ち上がった。
「じゃあ、僕はこれで! しずかさん、また明日です!」
「……うん。また明日。気をつけてね」
しずかに見送られ、優は自分の家へと向かう。彼女の家から、ほんの少し先にある、小さなアパート。階段をトントンと駆け上がり、ポケットから鍵を取り出して扉を開ける。
「おかえりーっピ!」
部屋の奥から、元気な声が飛んできた。ソファの上で、水色の奇妙な生き物がぴょこんと飛び跳ねている。
「ただいまです! タコピーさん!」
優が満面の笑みで応えると、タコピーは嬉しそうに彼の足元に駆け寄ってきた。
「おかえりなさいだっピ! 優! 今日はみんなでお勉強だったんだっピよね? どうだったっピか?」
「はい! すっごく楽しかったです! 宿題もいっぱい終わりました!」
優は、まるで今日の出来事を報告する子供のように、目をきらきらさせながらタコピーに一日の成果を語った。ソファにちょこんと座ったタコピーは、その話をうんうんと頷きながら、満足そうに聞いていた。
部屋には、まだ夕方のオレンジ色の光が差し込んでいる。優が買ってきた観葉植物の葉が、その光を浴びて穏やかに輝いていた。平和、という言葉がそのまま形になったような、温かい空間。タコピーは、その平和な光景を、そして目の前で幸せそうに笑う優の顔を、じっと見つめていた。そのタコのようなくちびるが、ふっと、どこか寂しげに、しかし慈愛に満ちた形に緩んだ。
「……そっか。優が楽しそうで、ぼくも嬉しいっピ」
タコピーはそう言うと、ソファからぴょんと飛び降り、優の前に立った。そして、いつもの天真爛漫な様子とは少し違う、真剣な眼差しで優を見上げた。
「優。ぼく、優に話しておきたいことがあるんだっピ」
その改まった口調に、優は「はい、なんでしょうか?」と不思議そうに首を傾げ、タコピーの目線に合わせてその場にしゃがみこんだ。
「ぼくがどうして地球に来たか、覚えてるっピか?」
「はい! もちろんです! ハッピー星から、大切なお友達を探しに来たんですよね!」
優は、以前タコピーから聞いた話を、正確に繰り返した。タコピーは、その答えにこくりと頷く。
「そうなんだっピ。ぼくは、その友達に、もう一度会って『ありがとう』って伝えたかった。その友達は、ハッピー星のみんなから仲間外れにされてたぼくを、たった一人だけ『友達だ』って言ってくれたんだっピ。その友達のおかげで、ぼくは『ハッピー』を知ることができた。だから、ぼくもその友達をハッピーにしたかったんだっピ」
タコピーは、遠い故郷の星と、たった一人の友人に思いを馳せるように、少しだけ遠い目をした。その記憶は、彼にとって何よりも大切な宝物なのだ。
「それでね、優」
タコピーは、再び優の瞳をまっすぐに見て、言葉を続けた。
「ぼく、わかったんだっピ。ぼくの友達が、今、どこで、どうしているのか」
その言葉に、優は「えっ!?」と驚きの声を上げた。
「本当ですか!? 見つかったんですか!? それは……それは、とっても素敵なことです!」
「うん……」
タコピーは、優の純粋な喜びに、少しだけ切なそうに微笑んだ。そして、核心を伏せたまま、慎重に言葉を選ぶ。
「ぼくの友達はね、この地球で、幸せに、楽しく生きてる。……少なくとも、不幸じゃないってことが、ぼくにはわかったんだっピ。たくさんの素敵な人たちに囲まれて、毎日、笑ってる。ぼくが、してあげたかったこと……その子は、もう、ちゃんと自分の力で手に入れてたんだっピ」
タコピーの脳裏には、誰の顔も浮かんでいない。特定の人物ではない。しかし、彼のハッピー星人としての感覚が、確かな「感触」を捉えていた。それは、目の前にいる優という存在を通して感じる、温かくて、力強くて、そしてどこまでも優しい「ハッピー」の波動。かつて自分が探し求めていた友人が放っていた、あの懐かしい光の気配。その友人が、今この地球で、優という存在と深く共鳴し、幸せに生きている。その事実が、理屈ではなく、魂で理解できたのだ。
だからこそ、タコピーは故郷に帰らなければならない。ハッピー星のみんなに、伝えなければならないのだ。
「だからね、優。ぼく、一度ハッピー星に帰ろうと思うんだっピ」
「……え?」
優の笑顔が、ぴたりと止まった。予想だにしない言葉に、彼の大きな瞳が、不安そうに揺れる。お別れ、という言葉が、彼の小さな頭の中を駆け巡った。
「ど、どうして……ですか? お友達が見つかったのなら、ここにいれば、また会えるかもしれないじゃないですか……!」
「違うんだっピ、優」
タコピーは、慌てる優をなだめるように、その短い手で優の膝をぽんぽんと叩いた。
「ぼくの友達が幸せだってことがわかったからこそ、帰らないといけないんだっピ。ハッピー星のみんなは、ぼくの友達が、不幸なままいなくなっちゃったって、ずっと思ってる。だから、ぼくが帰って、ちゃんと伝えないといけないんだっピ。『心配しなくていいよ、あの子は今も、ちゃんとハッピーに生きてるよ』って。そうすれば、ハッピー星のみんなも、本当の意味でハッピーになれるんだっピ」
それは、タコピーなりの、友人への最大の誠意であり、そして故郷への責任感から来るものだった。それは、かつて自分を救ってくれたたった一人の友人が、今、幸せであるという事実を、彼の不在を悲しむ全ての人々に伝えるための、彼にしかできない使命だった。*
「……帰っちゃう、んですか……?」
優の声は、か細く震えていた。楽しい一日が終わったばかりの、この温かい部屋で、突然告げられた別れの言葉。頭では理解しようとしても、心が追い付かない。一緒に暮らした時間は、まだほんの僅か。それでも、この水色の不思議な生き物は、優にとってかけがえのない家族になっていた。
「うん……でも、ずっとのお別れじゃないっピ」
タコピーは、優の不安を拭い去るように、一生懸命に言葉を紡いだ。
「今回は、ぼく一人で帰らないといけないんだっピ。ぼくが乗ってきたシャトルは、とっても小さいから、一人しか乗れない。でもね、ハッピー星に帰って、みんなにちゃんと話をして、もっと大きなシャトルで、また必ず地球に戻ってくるっピ!」*
タコピーは、その短い手でぐっとガッツポーズを作ってみせる。その瞳は、未来の約束をきらきらと映していた。
「その時は、優も、しずかも、まりなも、東も! みんなをハッピー星に招待するんだっピ! ぼくの故郷を、みんなに見せてあげたい! 約束だっピ!」
「ハッピー星に……僕たちを……?」
優の大きな瞳が、驚きと、ほんの少しの希望の色に見開かれる。タコピーの言葉は、悲しい「さよなら」ではなく、もっと大きな未来へと繋がる「いってきます」なのだと、優は少しずつ理解し始めた。寂しい気持ちは消えないけれど、胸の奥に、新しいわくわくするような感情が芽生えるのを感じた。
「はい……! 約束、です!」
優は、ごしごしと目元を拭うと、精一杯の笑顔を作って頷いた。その顔を見て、タコピーも安心したように、にぱっとタコのようなくちびるで笑う。
「じゃあ、ぼく、そろそろ行くっピ」
そう言うと、タコピーは「んーっ!」と少しだけ力を込めるような素振りを見せた。すると、彼の体の横の何もない空間から、ぽこん、という可愛らしい音と共に、鮮やかな虹色に輝く、おもちゃのような小さな宇宙船が出現した。それは、一人がようやく乗り込めるくらいの大きさで、つるりとした細長い円筒状の胴体に円錐形の先端を持つフォルムをしている。優がハッピー道具に感じた、あの不思議なテクノロジーの産物だった。
「わあっ……!」
優が目を丸くして見つめる中、シャトルの側面がすぅっと静かにスライドして開き、タコピーはひょいと軽やかにその中に乗り込んだ。コクピットにちょこんと収まった彼は、優に向かってにこりと笑う。
「優、今まで本当にありがとうだっピ! 優のおかげで、ぼくは地球でたくさんのハッピーを見つけられたっピ! 優は、本当にすごいっピ!」
「そ、そんなことないです! 僕の方こそ、タコピーさんがいてくれて、毎日とっても楽しかったです! ありがとうございました!」
優は、こみ上げてくる涙を堪えながら、ぶんぶんと首を横に振った。シャトルの扉が、静かに閉まり始める。ガラス越しに、タコピーが一生懸命に何かを伝えようと口を動かしているのが見えた。
『優も、ハッピーでいるんだっピよ』
声は聞こえない。けれど、確かにそう言っているのが分かった。優は、力強く、何度も何度も頷いた。
シャトルは、ふわりと静かに床から浮かび上がった。そして、開け放たれた窓から、するりと夜空へと滑り出す。優は慌てて窓辺に駆け寄った。
シャトルは、ぐんぐんと高度を上げていく。みるみるうちに小さくなっていく虹色の光に向かって、優は力の限り手を振った。さようなら、と、ありがとう、と、いってらっしゃい、という全ての気持ちを込めて。シャトルの窓からも、小さな触手のようなものが、ぴこぴこと振られているのが見えた。
やがて、虹色の光は、夜空に煌めく無数の星々の一つと見分けがつかなくなり、そして、完全にその姿を消した。
「…………」
優は、ただ一人、がらんとした部屋で立ち尽くす。さっきまでタコピーがいたソファ、一緒にテレビを見た床、部屋の隅々から、彼の気配が消えてしまったように感じた。急に訪れた静寂が、優の心をぎゅっと締め付ける。涙が、ぽろり、ぽろりと頬を伝って、床に小さな染みを作った。
「……うっ……ぐすっ……」
寂しい。悲しい。でも、それだけじゃない。タコピーは、使命を果たしに帰ったのだ。そして、また必ず戻ってくると、もっと大きな未来の約束を残してくれた。優は、濡れた頬をTシャツの袖でぐいっと拭うと、夜空に向かって、もう一度だけ小さく手を振った。
「いってらっしゃい、タコピー……!」
その声は、もう震えていなかった。タコピーが信じてくれたように、自分も「ハッピー」でいなければならない。しずかさんや、まりなさんや、東さん、そしてタコピー。大切な友達みんなとの約束を守るために。
がらんとした部屋に戻り、一人分の夕食の準備を始める。いつもなら「今日は何だっピ?」と隣でぴょこぴょこ跳ねていたタコピーがいない食卓は、やはり少しだけ広く、静かに感じられた。それでも、優はきちんと背筋を伸ばして「いただきます」と手を合わせる。タコピーとの思い出を胸に、一口一口、しっかりと味わって食べた。明日から、また頑張るために。
以上。