黄巾党との決戦、官軍によって討ち取られるかに見えた黄巾党首魁・張角がまるで霧の様に消え失せるという不可思議な最後から二日後。
決戦に参加した官軍、義勇軍の面々が駐留する陣地は、そこかしこから慌ただしい様子が見られていた。
出立の準備を進める兵達の姿と共に、陣内、そして周辺の地域にはある噂が流れていたのである。
黄巾党の残党が誂えた張角の墓を発見、掘り返した彼の遺体の首を刎ねた_と。
「なあ、どう思うよ『例の噂』...。
墓どころか、骸も見つかってないってのに、皇甫嵩の奴どういうつもりなんだ?」
自身の納得出来ない話について、相変わらず不満な様子を隠そうともしない義勇軍の将_張飛の言葉に、彼の仲間である面々が一様に難しい顔をする中、その一人であるところ天の助が、件の噂とその流布の指示を出したらしい皇甫嵩の意図を語る。
最早、彼らの中ではすっかり定番となっている光景であった。
「死体があろうが無かろうが、本物だろうが偽物だろうが構わないって事さ。
董卓殿が言ってただろ?
『奴の死は、汚辱に塗れたものでなければならぬ』ってな。」
「諸々の手配は皇甫嵩殿が行っているが、進言したのはその董卓殿だそうだ。」
天の助が語った内容、それを補足した張飛の義兄_関羽の言葉により、彼らの視線の先にいる張飛も事の次第を理解したのだろう。
胸糞悪いと吐き捨てている姿からも、変わらず納得はしていない様子だが。
彼が語った噂、その発端は先程天の助が引用した官軍の将_董卓の発言にある。
先の戦闘終了後、文字通りに姿を消した張角の捜索が行われたのだが、どれだけ探しても彼を、或いは彼の遺体を発見する事は出来なかったのだ。
兵の消耗、仮に見つからずとも戦闘によって負った傷の程度を考えれば遅かれ早かれ彼が死に至るであろう事を考慮し、一度は董卓と同じ官軍の将である朱儁や孫堅から捜索の取り止めの声が上がるものの、それに待ったを掛けたのが董卓であり、その時に出たのが先の言葉である。
『最期まで戦い、勇敢に死した黄巾の英雄。
そんな死に様を与えては、再起の象徴になりかねん。
奴の首を刎ね、晒さぬ限り、黄巾は再び立ち上がる。
それはならぬ。』
その意図は実に明快、黄巾党の再起、そして第二・第三の黄巾党の発生を抑制する事だろう。
董卓自身、例え神医であろうとも、張角を救う事は出来ないだろうと語っており、孫堅の言を認めてはいる。
だが、その死が彼の信徒にとっての、或いは漢王朝に不満を持つ者達にとっての英雄的であり神秘的な死となってしまっては、新たな火種となってしまうと危惧しているのだ。
なまじ死してしまうと、生きている人間よりも対処が難しい。
肉体が無くとも、彼の在りし日の姿と言葉は残党の中に残り続け、戦う為の支えとなってしまうのだ。
相手が偶像を支えとしてしまっては、その根本を除去する物質的な手段が無く、故にそうなる前に彼の首を見せしめとして晒し、信徒や同じく不満を持つ『予備軍』達の心を折らなければならない。
この辺りは、西涼という苛酷な環境で育ち、戦ってきた董卓だからこそ、自らの中に明確に信じるものを持った人間の強さを信じている故なのかもしれない。
実際、その説には皆大なり小なり一理あると考えたのだろう。
董卓の言を後押しした皇甫嵩の命によって、昨日一日を掛けての再捜索が実施され、それに対する反対意見も出なかったのである。
だが、昨日の捜索は勿論、張飛達が話している現時点でも、張角の遺体は発見されていない。
にも関わらず、先の噂を耳にし、諸将が『これで話は終い』とばかりに出立の準備を進めている事実から、先の張飛の不満が飛び出したのだ。
実物が無く、誰が首を刎ねたのかも分からないのに何故噂が先行するのか、その答えが天の助の言葉に集約されている。
情報の精度が良くも悪くも高くないこの時代において、重要なのは『張角が罰せられた』という情報を流す事であり、仮にこの冀州の地や都・洛陽で首を晒すとしても、それが本物である必要はないのだ。
現実として張角が未だに捕まっていないというのもあるが、ここは先の通り彼の先が長くないだろう事から無視出来る。
それならば、現在漢王朝の庇護化で生きる天下の民の殆どが見た事も無い張角の首に拘るより、未来への抑止力を広める事を優先したという事である。
関羽による補足情報も加味すると、或いは董卓にとってはここまでが筋書き通りだったのかもしれない。
「... 俺達は、張角から学ばなければならない。」
「それが大将なりの『答え』かい?」
彼らのやり取りを見ていた張飛達の義兄_劉備がポツリと零した言葉、それに対する天の助の問いは、彼もまた今後の行動指針を決めたのかという意味合いである。
彼らが共に戦った者達の中には、既に陣を離れている者もいた。
再三、秩序を重んじ、黄巾党の背景を理解した上であくまでも『罪人』と断じた曹操は、『逆徒である張角は正しく裁かれ、都の奸臣共は罪を免れるのは道理が通らない』と語り、奸臣蔓延る洛陽での新たな戦いへと赴いていった。
『江東の虎』として、今回の決戦でもその名に相応しい活躍を見せた孫堅は、ある意味民草にとって分かりやすい悲憤の矛先となっていた黄巾党が倒れた事に、まだ天下に争乱の火種が燻っている事を予感している。
そんな彼らと比較しても、先の董卓の言葉に理がある事は承知しつつも、上手く消化出来ていない様子だった劉備だが、天の助からの問いには未だ曖昧な表情を見せていた。
「『答え』なんて言える程はっきりとしたものじゃないさ...。
ただ、張角は『苦しむ人々を救おうと起った
だが、事を焦るが余り大事なものを見失った...。
俺達がそうならないと、誰が言える?」
「兄者...。」
満身創痍の張角の姿に自身を重ねた_そんな劉備に、皆咄嗟に言葉を返せない。
張角は間違いなく気高い志と、壮大な太平への夢を掲げ、そして実際に自らの手で人を救ってやれる程度には優秀な人物だったのだろう。
妖術の類は兎も角、関羽達が彼と出会った際も、彼は村人に薬を飲ませており、実践的な技術を会得し活用していた。
張角の下に援軍として駆け付けた黄巾党兵の言葉然り、ままならない現実の中で彼の物質的な救済に心をも救われ、崇拝する様になる者が続出したのは想像に難くない。
ただ一方で、張角個人の家柄や思想、その才覚の活かし方は良くも悪くも世俗に近いものであったのだとも思える。
「張角個人の思惑とは別に、周囲が彼を際限無く祀り上げてしまった...。
故に、一人では届く筈のない夢に手を伸ばし続けるしかなかったと?」
「ああ...。
例えば曹操殿や孫堅殿が、張角の様な考えを抱いたとしても、それで漢王朝に反旗を翻そうなどとはしない筈だ。
漢王朝に仕える官吏であるという立場もあるが、お二人にもまた自身の配下が、養わなければならない者達がいる。
そうなると、夢よりも現実を見なければならない場面というのが多く出てくるだろう。」
「...人間、ある程度何かに縛られてる位が丁度いいって事か。」
「少なくとも、全体の暴走を諌める様な声が出やすくはなるんじゃないかとは思う...。
それこそ天の助、俺達が潁川に行く事になった時に、お前が俺を諌めてくれただろう?」
ここまで黙していた仲間_紫鸞や天の助からの反応を受けて、話しながら自らの考えを整理出来ているのもあるだろうか。
劉備は黄巾党との戦いを通して出会った様々な立場の者達の言動を振り返っていく。
曹操達の様に『立場ある者』ならば、視点はより現実的になり、自然と自らの信念も現実に沿ったものとなっていく筈だ。
漠然と『世を正す』と野放図に夢を広げるばかりだった黄巾党と、今ある秩序を乱す者として黄巾党も奸臣も等しく罰し、同時に秩序の歪みそのものに目を向ける曹操との比較は実に分かりやすい。
翻って彼自身に目を向けてみると、思い出されるのが天の助からの諫言であった。
当時、初陣である広陽での戦の大成功による気持ちの昂りもあったのだろう。
戦いに対する現実的な報酬に言及した張飛に対し、彼は『自分達が大事を為そうとしている』という具体性の無い全能感を理由にその意見を退けようとし、そして関羽もそれに同調した。
しかし、そこで理想に盲進しようとする彼らを諌めたのが天の助の言であり、あれがあったからこそ義勇軍は強い結束の下に最終決戦まで戦い抜く事が出来たのだと思える。
同じ命懸けの戦いでも、納得しているか否かではその向き合い方に雲泥の差が出てしまうのは当然の事だ。
そして張角の、黄巾党の姿は正しく、『あの時諌められなかった自分達義勇軍』と言えよう。
どんどんと膨れ上がる周囲の理想を次々に取り込んでしまったのも、元は張角自身も数多の黄巾党員と同じ『持たざる者』であった故なのかもしれない。
自らの考えに同調してくれる仲間、そして増長を促してしまう様な成功体験、元はままならない現実をただ受け入れるしかなかった立場_羅列してみれば恐ろしい程に義勇軍と張角の状況は似通う。
「ふ...だから、俺はどっしり構える事にした!
焦らず、慌てず、どうしたら皆が幸せになれるか、考えてみようと思う。
戦いが終わった今、時は有り余っているし...俺達は、ここ冀州に官職を得られるらしいからな。」
「本当に、うちの兄者は気長なもんだ。
だが、焦っても良いこたねえってのは、俺も同意見だな。」
「うむ。
我ら義兄弟、兄者と共に迷い、共に歩まん。
して、おぬし達はどうするのだ?」
黄巾党と同じ轍を踏まない様に_その為の考えを劉備は口にする。
未だ曹操の様に、明確な判断基準は定まっていないのが実情だが、幸い世は一旦は平穏の時を迎えるだろう。
今回の戦いによって、彼も小さいながらに立場を得る事となり、それによって新しく見えてくるものもあるかもしれない。
そんな義兄の言葉に張飛と共に同調した関羽が、今度は紫鸞と天の助の今後について問う。
戦いが終わった以上、彼らを結んでいた義勇軍という組織も解散となる故に。
「紫鸞が行きたい場所があるみたいでな。
そこに行って後は...、また大将達に会う前に戻るだけさ。」
「行きたい場所...、記憶が戻ったのか!?」
「いや...、だが関係があるとは思う。
実は、過去を知っているらしい者と、何度か接触していてな...。」
記憶を失っている筈の紫鸞が行きたいと言う場所、そこから自然と彼の記憶が多少なりとも戻ったと連想したのだろう。
驚きと共に問い掛けてきた張飛に応えつつ、彼はこれまで幾度か自分に接触してきている謎の女性_朱和について明かした。
「お前の事を知ってる人がいたのかよ...。
けど、だったら何でこそこそしてんだ?
紫鸞の仲間だってんなら、俺達と一緒に戦ってくれても...。」
「或いは、その朱和という者も、そして記憶を失くす前のおぬしも、本来表立って戦う者ではないのやもしれぬな...。」
「彼女はその場所に行けと語った時、同時にそこはかつて自分達が暮らしていた故郷だと言っていた。
全てが戻るかは分からないが、手掛かりがあるのなら...。」
朱和が紫鸞の味方_件の『行きたい場所』然り、幾度かの助言を彼へと与えていたとの情報からそう判断した張飛が、何故そのまま彼と、そして自分達と共に戦わなかったのかを訝しむものの、その理由を関羽が推察する。
初めて共闘した時より、彼の戦闘技術は様々な地を巡ってきた関羽にとっても見覚えの無いものであった。
だがこれも、『今迄目撃者がいなかったから』と考えれば一応の辻褄は合う。
張飛の感じた尤もな疑問も、朱和が人目に付く事を許されない立場にある故と考えられる。
そんな彼女が指し示したという件の場所に行く事が、必ずしも幸せに繋がる道であるかは分からない。
関羽の予想が正しければ、寧ろ後ろ暗い情報に曝される可能性とて考えられる。
それでも、記憶を取り戻す為にと前に進む事を選んだ紫鸞に、劉備は笑みを浮かべる。
「そうか...ならこれからは、それぞれ己の在るべき戦場で戦おう。
とは言え、今生の別れって訳じゃない。
俺達は冀州で、やれる事をやるつもりだ。
いつでも顔を見せに来てくれよ。
お前達なら大歓迎だ。」
こうして、黄巾の乱を通じて巡り合った者達は、ここで一度それぞれの道へと別れる事となる。
果たして、朱和が示したその場所で二人を待つものは何か。
それが明らかとなるのは、もう少し先の話である。
さながら人目を憚る様な渓谷の狭間、今にして思えば記憶の無い状態でよく自分はこの道を抜ける事が出来たと紫鸞は思う。
恐らく当時は、本当に宛もなく道の続くまま彷徨っていただけだったのだろうが、もしかするとこの道を通る術は体に習慣として染み付いていたのかもしれない。
焼け残った建物の残骸の数々、一つ小高い場所に象徴の様に立つ巨木_まるで時間が止まっているかの様に、彼が目を覚ました時とその場所の光景は何一つ変わっていなかった。
人の、命の気配を感じないそんな場所の中で、巨木の下にもたれ掛かる様に『彼』はいた。
「...懐かしい場所だ...、何も変わっていないな。
ここだけ時が止まったかの様だ。
そう思わないか?紫鸞。」
自分以外にこの人里離れた秘密の場所を知るだろう者_紫鸞の接近を、彼と天の助の足音から察したのだろう。
木に寄り掛かる男性_張角は、二人を見る事なくそう声を掛けてくる。
「何故ここに...?」
紫鸞のその問いは、文字通りの意味、そして『何故彼がこの場所を知っているのか』を含んだものだ。
「...かくれんぼか?」
「...。」
「ふっ、確かに簡単には見つからんだろうな...。
...かつて、俺が薬草を求めてこの地に辿り着いた時だった。
白き霊鳥の如き仙人に出会ったのだ。」
この期に及んで、絶対に無いだろうと思える戯言をほざいた天の助へと、鋭い視線を向ける紫鸞。
そんな彼らに笑みを浮かべつつ、張角はかつてこの地で体験した出来事を語る。
白き霊鳥の如き仙人_その言葉に、紫鸞脳裏にはかつて自身の前にも現れた白髪の少年の姿が思い浮かぶ。
「...んじゃ、あの色んな術もその仙人から?」
「ああ...。
そして...、言われたのだ。
『この力を使い、困窮する人々を救え。だが、道を誤れば太平の要がお前を罰するだろう』と。
...結果はお前達の知っている通りだな。
紫鸞...、以前の焚き火での俺の態度はそういう事だ...。」
張角がこの地に辿り着いたのは、正しく偶然だったのかもしれない。
そしてそれ故に、その仙人からの言葉と授けられた術から、それを自らの天命と捉えてもおかしくないだろう。
そんな過去の自分と自身の現状を自嘲気味に語る彼の言葉に、そして彼に幾度となく言われた『太平の要』との呼称に反応したのだろうか。
紫鸞の脳裏には、失われた過去に自身がこの地で経験したのだろう会話が浮かび上がった。
『太平の要。私も嬉しい。』
自身に助言を繰り返す謎の女性_朱和がその言葉と共に自身へと手渡しているのは、現在自身の腰へと巻かれている赤い帯であった。
その言葉と行動から、この帯が『太平の要』として承認される証である事が推察出来、件の仙人から情報を受け取っていた張角もまた、この帯によって判断を下したという事だろう。
『おめでとう、紫鸞。
これであなたも太平の要の一人よ。
あなたが初めてこの里に来た時は、どうなる事かと思ったけど...。
立派に成長してくれて、私も嬉しい。』
「...ここは特別な場所だ。」
「...ああ、夢か現か分からなくなる程に...。
未練がましく、甘ったれた夢を見てしまう程にな...。」
「夢?」
紫鸞の沈痛な面持ちから出た言葉の意味を察する事は出来なかった故に、それに続いた張角の言葉に反応する天の助。
その表情は先程から続く自嘲と共に、ここに来て一気に彼の中に押し寄せているのだろう後悔とままならない現実への悲哀が見て取れる。
「同志の暴走を止められず、投げやりになっていた俺に、お前達がくれた助言...。
それによって俺は踏み止まり、皆を止める事が出来た...。
世を変えるには至らなかったが、何度、絶望から立ち上がっても、すぐにまた深い闇の底に落ちていく_そんな世でも、俺は戦い続け...、時代を動かした...、そんな夢だ...。
どの口が言うんだと罵ってくれ...。」
「...んな事するかよ。
お前さんがどれだけ頑張ろうが、人間一人が抱えられるもんなんてのはたかが知れてるだろう?」
「だがそれでも...、ただ生きるだけで苦しく、哀しい世...、それを変える為にと皆も起ち上がった筈なのだ...。
だが...、皆は次第に...、私欲に溺れて...。
それが人の性だと言うなら...、世を変える事など不可能なのか...?」
今の自罰的な彼には、天の助の言葉も、優しさすらも刃となってしまうのかもしれない。
こんな現実に、当初の志を忘れていった同志達の姿に打ちのめされる位なら、いっそ夢の中で果てる事が出来たら_悲壮感と共に彼の顔色が悪く、その目に光が失われていくのが二人にも感じられた。
「ゆっくり...休んでくれ...。」
「...ああ...、そう...だな。
ここは気持ちが良い...。
少し休んだら、今度は力に頼らずやり直すとしよう。
大賢良師として、人々に見せてきた夢を、せめて自分だけは見続けていたいのだ。
それが、天意に背く事だとしても...。
紫鸞...太平の要よ...、俺を罰するのがお前で_」
自身へと刃を向ける紫鸞の姿に、漸く彼の表情は幾分か和らいだ。
そう、彼の言う通り、今は休むべき時なのだろう。
人間一人に出来る事などたかが知れている_成程、確かに天の助の言う通りだ。
どれだけ大きく手を広げ、夢を抱こうとも、人間が伸ばせるのは両の手の長さ迄であり、その中で出来る事を精一杯やっていくしかないのだろう。
ここに『大賢良師・張角』として起った者の夢は完全に潰えるが、最期の時を自らの手を取ってくれた友に囲まれて迎えられるのだから重畳と言う他ない。
願わくば、この先の未来に太平の世があらん事を_その想いと共に瞼を閉じた彼に、断罪者の剣が振り下ろされた。
「...何故、邪魔をする...、天の助...。」
「『大賢良師・張角』は死んだ...、もう十分だろ...。」
剣と張角との間に異物が入り込んだ事に、そしてその下手人に厳しい視線を向ける紫鸞だが、対して大根ブレードを持つ天の助もまた一歩も引かないという表情だ。
黄巾党首魁である張角は既に死んだ、今更彼に更なる苦痛を与える必要は無い筈だ_と。
「...罰せられようとしていたのはお前も分かっているだろう。」
「だから斬っちまうってのか?
今のこいつの言葉を聞いてなかったのかよ?
『今度は力に頼らずやり直す』ってよ。」
「お前の方こそ現実逃避もいい加減にしろ...。
既に厳しい状態なのは覆せない。
ならばいっそひと思いに...。」
彼らはこんな風に言い争う事もあるのか_二人の言葉に、張角は場違いな程穏やかな感想を抱いていた。
少しでも早く楽にしてやろうという紫鸞、自分の言葉を真摯に受け止め庇おうとしてくれる天の助。
そのどちらもが、方向性こそ違えど自分の様な存在を慮ってくれている言動だ。
先程自分は『周りが変わっていった』と語ったが、果たして本当にそれだけだろうか。
勿論、本当に眼前の欲に目が眩んでしまった者もいるだろう。
だが一方で、自分と同じ様に変わっていく同志に戸惑いを覚える者達もいたのではないだろうか。
かつて自分自身がやっていた事_悩める者達の手を取り、話を聞く。
力に頼らない方法はすぐ近くにあったのかもしれない。
ここに来て更なる自嘲が止まらない彼だが、遠退いていく意識の中で大きな疑問をどうしても拭い去る事が出来なかった。
(当たってるんだよなぁ...、そして何故俺は生きてるんだろうな...。)
大根で剣撃が止まる筈がない_当然の事であり、事実として紫鸞の振るった刃は大根ブレードを切り裂き、そして張角の額へとめり込んでいるのだ。
何やらまだ言い争っているらしい二人を他所に、張角は遂にその意識を手放してしまった。
「うっ...、ここは...。」
張角が瞼を開いた刹那、彼が経験した事の無い光がその目に届き、続けて嗅いだ事の無い薬品らしき臭いが鼻腔を通り抜ける。
その刺激に慣れた所で、横になっていたらしい体の上半身を起こすと、意識を手放す前の記憶を考えれば不思議な程に体に痛みは無かった。
「目を覚ましたか...。」
自身が起きた事を察知したのだろう、聞き覚えの無い声がする方へと視線を送ると、そこで彼は更に困惑する事になる。
あの髯の偉丈夫に勝るとも劣らない体躯に、黄色くまるで球の様な形に整えられた不思議な髪型の男性。
その男性の協力者、或いは助手とでも言うべき立ち位置に控えこちらを見守る桃色の髪の少女。
少女の腰辺りの大きさで橙色の球形の体に複数本の角と手足が生えていると言う他ない謎の物体。
何処を切り取っても、彼にとっては違和感を感じる者達がその声の正体らしかった。
(ここが...、こんな安らぎを感じる場所が、地獄だと言うのか...?)
生前、少なくとも直前の記憶から今の自分が死した張角の魂の様な存在だと判断した彼が、自らの所業から『自分は間違いなく地獄に堕ちるだろう』と考えての独白だが、正直その推測が正しいとは彼には思えなかった。
無論、彼とて本当に地獄という場所を見た事が無い故に、この三人が『ここは地獄だ』と言えば信じる他ないのだが、体の痛みが不自然な程無い事も重なり、この場所に安心感を覚えている事実と、自身の地獄という場所への印象の剥離を感じてしまう。
すると、黄色い髪の男性が徐に彼へと近付いてくるが。
「落ち着いて聞けーー!!!!」
「ボハァ!!!?」
「殴っちゃったーー!!!!」
意識を失っていたにしては自分は落ち着いていたのでは、そもそも何故自分は殴られたのだろうか、そして彼らは一体何者なのか_様々な疑問が彼の脳内に渦巻く中、男性が声を掛けてくる。
「外で天の助に聞いたぞ。
...お前ら、負けたんだってな。」
「天の助を知って...、いやいい...。
ふっ...、同志達も弟達も失い、もう俺には何も残っていない...。
あなた達も惨めだと思うだろう...?
笑ってくれ...。」
「ダッハッハッハッハッブホァ!!!?
ちょっ、ビュティさん待って!?」
彼らが天の助を知っている事に驚くものの、何れにせよ仲間も、家族も、そして自らの命も失っただろう自分には関係のない事と、この空間に来る前と変わらぬ自嘲気味な態度を見せる張角。
そんな彼の言葉を受けて本当に大笑いし始めた橙色の物体が、桃色の髪の少女に引き摺られていってしまったが、あの物騒なやり取りは彼らの中では普通の事なのだろうか。
「必死にやってきたお前を笑えねぇよ。
天の助だって同じ筈だぜ。」
「ふっ、どうだろうな...。
それに、例えあなたや天の助が俺を許しても、天下の民草が俺を許すまい...。
さあもういいだろう。
何の為にここに俺を呼んだのかは知らぬが、ひと思いに...。」
「履歴書、届けによ。」
「えっ?」
履歴書なる紙を自身へと差し出す男性に目が点となる張角。
そんな彼に男性は続ける。
自分達の、そしてお前にとっての友がお前の還りを待っている_と。
「変わりゃいいじゃねぇか、今日からよ。」
「変わる...、俺が...?」
「ああ。
ずっと遠くにある天を目指す大賢良師じゃなく、お前がその手で手を握ってやれる相手を救える義士にな。
お前にその気があるなら、俺達の知る天の助は手を貸してくれる筈だぜ。
戦友だろ、お前ら。」
その言葉が契機となり、張角の視界が滲み始める。
早く止まれと、お前にそんな資格など無いと幾ら自分を責め立てても、涙が止まる事はない。
自分が抱え込んでいたものを、まるで何でもないものの様に自分達にとっての共通の友へと分けてみろと言われてしまっては、散々悩み、苦しんできた自分が馬鹿みたいではないか。
「か...変われるだろうか...。
変われるだろうか!?
俺がもう一度人々の手を取る事が、許されるのだろうか!!!?」
「ムリ。」
「厶。」 「リ。」
(ぶっ殺してぇ...。)
以上で、第一章完結とさせていただきます。
何となくで始めた拙作ですが、一つの区切りとして黄巾の乱集結迄を書き切れたのは、偏に読んで下さる皆様のおかげです。
時代は更に進み、第二章にて印象的な武将が更に登場していきますが、またお手に取って下さいましたら幸いです。