夜_現代における街灯というものが存在しないこの時代では、現代の感覚とは比較にならない程、闇の中で視界は悪化し、それ故に人の動きも昼間と同じ場所とは思えぬ程に消失する。
それは先日、大将軍・何進率いる官軍と白波賊との戦闘が行われた、この洛陽周辺も例外ではない。
そんな闇の中では、司隷校尉と呼ばれる都を中心とした中央の官吏を取り締まる監察官が行き届かず、日中では街中に立ち入れない様なならず者が暗躍する可能性を排除出来なかった。
そしてそれは、官軍に敗れた白波の残党もまた同様に、である。
状況が違えば、あの月の美しさを楽しむ事も出来るだろうか_顔を上げた先に月が輝く夜の街道を駆けながら、とある女性がそんな栓のない思考をすぐさま脳内から削除する。
頭の上から全身を覆う外套に身を包んでいる事からも、彼女とその後ろを駆ける彼女の義父は人目を忍んでいる状況なのだ。
勿論本音を言えば、安全面を考慮し日中に移動したいのだが、それが出来ない事情を彼女の義父が抱えている故の、この夜道の移動である。
義父の名で借りている宿の部屋まで後少し_安全が確保されるまでは、逃避行に油断は禁物なのだ。
そんな二人の足取りは、月の明かりによって照らされた開けた丁字路で一度止まり、義父を先導する彼女はこの先の進路をどちらにすべきか思案する。
右に曲がれば宿への移動距離は短く、また街の中心部により近くなる事から、夜中である事を考慮しても、現在彼女達を狙っている者達が厭う『人の目』が期待出来るかもしれない。
一方の左に進路を取ると、城壁沿いに宿まで大回りで移動する事となる故に移動距離は長くなるが、建物の陰に身を隠せる事に加え、追手に捕捉されても四方を取り囲まれる危険性は軽減出来る。
加えて、今彼女達を追っている者達とは別の勢力と遭遇する可能性を少しでも減らす為、一瞬の逡巡の後、彼女が左へと進路を取ろうとした時だった。
「っ! お義父様...。」
左手で義父を庇う様に動きを制する。
今、自分達が進もうとした先に、矢が突き刺さった故だ。
追い付かれた_そんな彼女の思考とほぼ同時、六つの影が彼女達の前後を挟む様に月光の下へと躍り出る。
「よく逃げたもんだけどな、まあ、ここまでだ。」
「金目のもんは、残らずいただく。」
(しつこい...、或いはこの者達も...。)
前後からそれぞれ掛けられた言葉、この追手の執拗さに内心で毒づきつつ、自分達を囲む追手_白波の残党を手引きした存在と、彼らとは別に義父を狙う勢力が同一の存在であるとの予想を立てる女性。
確かに彼ら語った通り、義父の身なり、そしてもしかすれば聞き及んでいるその素性を考慮すれば、金品資産を保有していると考えるのは理解出来る。
しかしながら、それが夜とは言え街中_人目に付く可能性が高い状況で尚、固執する程の目的か、自分達が纏めて捕まり投獄される危険性と天秤に架け、釣り合っているのかと問われれば、首を傾げてしまうのが正直な所だ。
無論、彼女には賊徒の背景や思考回路など完全に理解する事は出来ない故に、彼らが自分達を執拗に狙うのも、刹那的な欲望に身を任せているだけなのかもしれない。
だが、その危険を冒すだけの見返りが見込めているとしたら。
義父の身柄の確保、ないしは殺害を為せば、義父の資産ですら及ばぬ程の褒美を提示されていると仮定すれば、日々の生活に不安があるだろう賊徒が食いつくのも容易に想像出来る。
「な、なあ...あんた。
何て綺麗なんだ...お、俺の嫁に来ないか?」
そんな思考に沈んだ彼女の意識を現実に引き戻したのは、外套に隠された彼女の素顔を覗き込み、感嘆と共に御免被る内容を吐いてきた男の言葉だった。
自画自賛となってしまう故に、それを自らの口で認める事は憚れるが、彼女自身、こうして外見を褒められるのは一度や二度ではない故に、自らの容姿が客観的に評価の高いものである事は自覚している。
故に男の様な下卑た表情や視線を浴びる事もまた数多く経験してきたが、『不快さ』というものに慣れなど来ないという事なのか、彼女の眉間には嫌悪感によって深い皺が刻まれていた。
「何色ぼけてやがる...、そういうのは後でやれ。
まずは...爺さんから...。」
そんな男を窘めたのは、最初に声を掛けてきた者であり、彼女達の行く手を遮った矢を放った者であった。
この六人の中では上に立っている故だろうか、窘められた男も逆らう事はなく、彼が地面に刺さった矢を引き抜き、弓へと番えるのを黙って見守っている。
老人の方を確実に殺し、女の方とはその後によろしくやればいい_六人の思考は一致し、そして彼以外の五人が、すぐさま訪れるだろうと思っていたその未来が訪れない事に違和感を感じたのも、ほぼ同時の事であった。
「...えっ?」
一番最初に声が出たのは、件の窘められた男だった。
自分の目の前にいたと思っていた女性は、まるで煙の様に外套のみをその場に残して消え去り、そして自身の左側から人が、弓を構えていた彼の体が、まるで糸の切れた人形の様に倒れ込んできたのだから。
人が倒れるという異常事態が発生すれば、その原因を確かめようとするのが人の性であり、それに従って男が左側へと視線を向けると、この状況の原因は驚く程簡単に見つかった。
美しい_そう評する他無かった。
外套を失い曝け出されたその美貌も、月の光を反射し輝く艷やかなな長髪も、男の命を奪ったのだろう彼女の右手の腕輪と繋がる様に装着された、蝶の装飾が施された暗器も、そしてそこから滴り落ちる男の血液さえも。
「あ...な、て、てめ_」
そんな光景をすぐ隣で見た故だろう。
件の男が仲間を殺された事実を認識し、先程抱いた欲望すらも忘れて女性へと斬り掛かるも、その言葉は彼の体ごと吹き飛ばされた。
振りかぶった腕を右足によっていなし、そのまま回し蹴りの要領で態勢を崩した男のこめかみへと左足をめり込ませ、着地と共に次なる標的を見定める_彼女のその美しく、そして強烈な動きを正しく脅威であると認識したのだろう。
逆方向にいた三人の男達が彼女へと待ったを掛ければ、成程、その驚異的な動きを封じるべく、彼女の義父を拘束していた。
「...くっ...。」
義父の身を優先し、彼女が腕を下ろせば、右手に装着されていた暗器も重力に従って地面を叩き、金属特有の甲高い音を響かせる。
その音に形勢が完全に逆転した事を確認した男達が、勝ち誇った様な笑みを浮かべるのも自然な事だろう。
時間帯、場所、周囲に人の気配は無く、あらゆる状況から見て彼女に助けは訪れない筈だからだ。
「そうだ、それでいい。
ったく...、余計な手間掛けさせやがっ...ぐはぁ!!!?」
一瞬の出来事であった。
義父を拘束していた男は黒装束の剣士に背中から斬り伏せられ、突然の出来事に呆けていた右側の男は剣士の足技によって沈黙。
残る一人は、剣士の仲間なのだろうか兜を被った者が持つ杖の様なもので抑え込まれ、彼女の左側にいた男はと言えば、いつの間に現れたのか派手な刺青の目立つ者の襲撃に遭い意識を手放してしまった。
「右後ろ、起きてきてるぜ。」
刺青の男性から掛けられた言葉に彼女もはっとした様に動きを取り戻すと、素早い動きで足元に落とした暗器を回収、剣撃を軽やかに躱し、今度こそ確実に意識を刈り取る強烈な蹴りを見舞った。
「...くそっ、このやろおぉぉぉぉ!」
六人の内の最後の一人_黒装束の剣士に蹴り飛ばされていた者が、最後の悪足掻きとばかりに剣を義父に向け振りかぶる。
その様子を察知していた彼女は、今しがた意識を奪った男の剣を拝借すると全速力で最後の一人の下へ。
丁度反対側からは黒装束の剣士が同じく走り出しており、やがて二人は交差する様に男を斬り伏せ、賊徒の全てを鎮圧してみせた。
「ひゅう。」
「見事だ。」
今の一撃、或いはこの一連の動きを見てだろうか、自身に対する言葉、口笛といったそれぞれの形で兜の男性と刺青の男性が贈った称賛を受けて尚、彼女は警戒感を緩める事はしなかった。
まだ残っている_武芸と共に磨かれてきた彼女の危機察知能力が、そう告げていた故であった。
場所は背後の建物の屋根、丁度こちらに振り向こうとしている剣士の死角に当たり、恐らく剣士は気付いていない様子。
ならば自分が対処するしかない_そんな覚悟と共に、振り向きざまの勢いを以て件の場所へと暗器を投擲する。
「...。」
そこには間違いなくヒトガタの存在がいた。
水色の体色に柔らかそうな体躯と、どう見ても人外の存在であるそれの眉間の辺りには、彼女が投擲した暗器が見事に命中しており、件のヒトガタが『何で...?』と言わんばかりの驚愕の表情を浮かべている。
『ところてん促進』なる謎の文字が書かれた紙を手にしており、何かをするつもりであったのは明らかだろう。
そのヒトガタも、そして自分達を救ってくれた三人も皆、文字通り空いた口が塞がらないのは、『何故居場所が分かったのか』という驚愕故だろうか。
この短い時間の中でも彼らが卓越した戦闘力を持っているのは理解出来る故に、彼女としては寧ろ何故彼ら程の者達が気付かなかったのかが疑問であり、そこにどうしようもなく可笑しさを感じてしまったのだ。
「ふふ。」
「いや、笑っている場合ではないが...。」
「いやはや、命を救われたというのにとんだ粗相を...。
今はこうして頭を下げる事しか出来ませぬ...。」
「いいって事よ。
この位の扱いは慣れたもんってな。」
「は、はぁ...。」
(自分でやってしまっておいてなんですが、何故平然としていらっしゃるのでしょう...。)
自身に代わって養女の不始末を詫びる義父と軟体の士との遣り取りに、頭を下げつつ、自分達を救った者達が改めて常識から外れた存在なのだと実感する女性。
軟体の士の眉間に突き刺さった自身の暗器は、あの後特に何事も無かったかの様に返却され、状況が落ち着いた故に互いの情報交換を行っている所だ。
軟体の士が、話の流れから何故自分達がこの様な場所にいたのかを問うてくる。
「ふむ、そう言えばまだ名乗っておらなんだな...、わしは王允という。
この者は
礼を言うぞ、『紫鸞』殿。」
「...こちらとしては当然の事をしたまでだが...、何故その名前を...?」
男性_王允が、養女の貂蟬を紹介しつつ、四人の内の一人_紫鸞へと礼を述べる。
対する彼の反応はと言えば、謙遜しつつ何故王允が自分の呼び名を知っているのかが疑問の様だ。
仲間の一人_甘寧の様に、同じ武芸者として情報を収集していたならばまだしも、目の前の父娘は戦場からは縁遠い様に見える故に。
「おお、やはりそうであったか。
わしはこれでも、豫州の刺史として黄巾討伐に参じた身でな。
まだ黄巾共が騒がしかった頃、誰ぞがその名を口にしておった。
黒装束に赤き帯...、それに軟体の士と兜を被った戦士。
姿や同行者の特徴も一致する故、或いはと思ったのよ。」
対して王允から語られた内容と言えば、彼らが甘寧に語られた事と同じ様な内容であった。
王允自身の経歴に加え、彼らの特徴的な外見、『紫鸞』や『ところ天の助』といった聴き慣れない名の響きも影響しているのだろう。
「先の乱でご活躍された方々でしたか。
あの見事なお手並みにも頷けるというもの。」
「そりゃこっちの台詞だぜ。
俺達が着くまでに、二人は鎮めてたんだからな。」
「ほんの手習いにございます。」
「手習い、か...。
だが、それを披露する機会は今回が初めてではない様に見受けられたが?」
「そうだな...。
わしらがこの場にいた理由に話を戻すと、先の様な者共のみならず、宦官が差し向けた刺客にも命を狙われておる故よ。」
貂蟬と甘寧との互いの武勇に対する称賛を受け、ぬー$の戦士が話題を最初の問いへと戻せば、王允も忌々しげに自分達を狙う下手人を口にした。
先程彼の口から出た豫州刺史に任じられていた当時、彼はあろうことか黄巾党の一部と繋がっていた宦官の
「刺史の座を追われた後は、宦官による世の腐敗を断つ術と心ある協力者を求め、各地を渡り歩いておるのだ。」
「...だが、今の話では実質的な権力は失われている筈...。
野盗は兎も角、何故宦官が未だに?」
「私が申し上げるのも憚りがございますが、義父は名儒として名高い太原の郭泰様より王佐の才を持つと称され、未だ朝廷に影響力を持っております。
断定は出来ませぬが、先の者達も恐らくは...。」
「成程、腐敗を断つ事とあなた方の身の安全、両方の為に宦官を討つ必要があるという訳か...。」
「左様。
宦官達は、今や皇帝の象徴たる伝国の玉璽まで手中に収めんという専横振り。
このまま手を拱いておれば、天下は再び乱れよう。
そこで、そなたらに一つ頼みがある。
未だ主を持たぬ身であるのなら、暫し、わしの食客になってはくれぬか。」
紫鸞の疑問に貂蟬が応える形で、王允が命を狙われ続ける現状、そしてそれに対する解決策には納得を見せた四人であったが、続けて出された王允からの依頼には即答出来なかった。
成程、宦官の専横振りが日に日に悪化していく現状、世の混迷を正す為には確かにそれらの粛清が必要である事は理解出来る。
身の安全を守る意味でも、四人の様に身軽かつ相応の実力を備えた存在は、懐刀として有事に備える為に喉から手が出る程に欲しいのだろう。
しかしそれは、ともすれば複数年に渡って都内の権力争いに巻き込まれる事を意味する。
天下の大事と言えば聞こえはいいが、自分達の命を預けられる程の信頼関係が王允と四人との間には成立していない現状で、二つ返事で了承出来る程の軽い話題ではない。
そんな悩める四人の中で、ある男がとある可能性に思い至った様だが。
(王允殿の食客...、いざ決起って時に都のお偉いさんにところてんが振る舞われたら...?)
朝廷内に強い影響力を持つ王允がところてんに魅了される・義憤に駆られた者達と共に、彼が決起を行うという時にところてんが振る舞われる・都に巣食う悪吏を討った功績を象徴する食べ物としてところてんが祀り上げられる_こんな謎の図式がバカの脳内で成立していたのだ。
「俺は乗るぜ。」
「...珍しいな。
お前がこういった事に乗り気だとは...。」
「根本を綺麗にしなきゃ、どうにもならねえのは事実だからな。
それに、宦官の掃除が終わった後の事を考えたら、王允殿と繋がりを持っておくのは悪くないだろ?」
「ふっ、ご本人の前でよくも堂々と言うものだ。」
「掃除が終わった後にどう転ぶか分からねえ以上、貰えるもん貰える人の所にいるのもあり...か。」
天の助の内心の謎の図式までは察せずとも、三人も彼の弁に一定の理がある事は認めた様だ。
宦官の粛清後、天下の大局とまでは言わずとも、相応の名声や資産を持つだろう王允の下に身を寄せれば、彼と同様に世を憂う勇士との出会いや、より物質的な報酬が期待出来よう。
「引き受けてくれる様だな、ありがたい。
相応の報酬は約束しようとも。
では、早速宿への護衛を頼むとしよう。
今後の事は、追って伝える故。」
かくして、王允への同行を決めた四人。
これまでの戦場とは一線を画す、都での暗く陰鬱な戦い。
その果てにあるのが平和か、或いは更なる争乱なのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、例え宦官の粛清が成功したとしても、バカの望む未来は来ない事のみである。
久し振りに戦闘を真面目に書いた気がします。