夢過ぎ去りし跡の世界で転生者が生き抜くクトゥルフ神話 作:カーキtrpg
「……くん、起きて佐伯田くん!」
……なんだ?うるさいな。
頭の奥をかき回されるような不快感に、思わず眉をしかめる。
けだるげな頭を締め付け、重たいまぶたをこじ開ける。
「
反射的に名前が口から出た。
そこにいたのは、担任である神尾先生だった。
栗毛の前髪がさらりと揺れ、琥珀色の瞳が真正面から俺を覗き込んでいる
「やっと起きましたね佐伯田くん、先生を氏名で呼び捨てるなんていい度胸です、放課後を楽しみにしていてくださいね?」
先生はにっこりと笑う、だがわずかに頬がむくれ、声色はどこか拗ねた子供のそれだ。
そして『私は怒ってますからね、簡単には許しませんよ』と言ってるかのような態度を全身で表現していた。
(なぜ先生が?俺はたしか虚華に負けて……)
そこでようやく、自分が机に突っ伏していたことに気づく。
体を起こして周りを見渡す。
教室だった。
「どうしたんですか、先生が話しかけているのによそ見をするなんて。そんなに放課後、私と生徒指導室で缶詰めになりたいんですか」
机に手をつき、先生がぐいと顔を近づける。
「すいません。寝起きで少し浮ついてました」
先生が詰めてくるがさっと流して俺は横の席にいるはずの虚華を見る。
(あんにゃろう、にやついてやがる)
虚華のやつは俺が先生に怒られているのを見て笑ってやがる、完全に愉悦の顔だ。
俺をのした後にわざわざ教室まで運び込む手間をかけてでも嫌がらせをしたかったのか、後で覚えてろよ。
「もう!またよそ見をしてますね佐伯田くん、会話をするときには目と目を合わせてするものなんですよ、本当に生徒指導室に行きたいんですか君は?」
先生は二度目の注意をするがまるで怖くない。
なぜか先生は俺に目をつけているようでよくとっ捕まって説教されることが多い。
だが皆は知らないが、その実態はただの雑談付きお小言だ、ちょっとおだてて褒めてやれば頬を赤らめて機嫌が直る。
そしてすぐ解放されるのだ、生徒指導といっても実質お茶会だ。
所要時間十数分、面倒ごとはゼロ。
そんなもんないも同然の物だ、それなら俺にかまう時間の10分の1でもモブ尾に向けられればあいつの妄言に付き合わなくても済むのに。
……いや、モブ尾の奴が陰から見てくる確率が八割だから面倒ごとはゼロじゃないな。
(この先生が、本当に神話生物に付け狙われるほどの素質を持っているのか?)
改めて観察する。
全体的な雰囲気は大人というより高校生と言ったほうがいい。
黒のスーツにペンシルスカートの組み合わせも本人の幼さの残る、美人ではなく可愛いというべき顔立ちによって服に着られているといった印象だけが先立つ。
肩までの栗毛、揃えられた前髪。
琥珀色の瞳は光をよく反射し、無駄にきらきらしている。
学生気分の抜けていないその言動も、未熟さというよりは、先生の性格によってむしろ魅力になっていた。
「聞いていますか?なにやら上の空に見えますが、……んん?」
いきなり先生の動きが、ぴたりと止まった。
「えっ、どうしたんですか先生」
さっきまでの勢いが嘘のように消えている。
顔には困惑の表情が浮かんでいた。
「いえ、……この匂いはどこかで、そうずっと昔に嗅いだような気が、この独特な潮の匂いは確かにどこかで……」
先生は考え込んでしまった。
しかしすぐに、悩みを振り払うように首を振った。
そして、俺のことをじっと見つめてくる。
その姿に思わず口から心配の言葉が出てしまう。
「大丈夫ですか先生?今日はいつにもまして、なんだか変ですよ」
次の瞬間。
先生はいきなり鼻と鼻が触れ合うほどの距離まで顔を近づけてきた。
そして、俺の肩を掴んでグイッと自分の胸に抱きこんでくる。
視界が黒いスーツで埋まる、首筋に顔がうずまり、深く息を吸われた。
「ちょっ、待って先生!近いです!いやほんとシャレになってないです!風呂に入ってから学校に来ているのでシャンプーの匂いしかしないですって!……勘弁してくれ本気で後がまずいんだって!」
思わず下手な敬語が崩れる。
しかし先生は、俺の言葉など聞こえていないかのように熱心に匂いを嗅ぎ続けている。
抱きしめる腕も、まったく緩まない。
これは不味い、どう考えても不味い。
思わず助けを求めて周りを見渡す、しかし周りのクラスメイトはキャーキャーと歓声を上げるばかりで動こうとしない。
その中で一人ハンカチを噛み締めて血涙を流しそうな表情でこちらを見ているモブ尾。
それに……。
(うわぁ……)
俺は口から出そうになった言葉を飲み込みそれから目を急いでそらした。
虚華だ。
さっきまでにやついていた顔が、完全に消えている。
能面のような無表情で、こちらをじっと見ていた。
その時、ポケットでスマホが震える。
抱きしめられて動きにくいなかで何とかスマホを取り出す。
『屋上』
たった二文字だけ虚華から送られたメール。
だが文字の向こうに、凍りつくような圧を感じる。
先生の腕の中にいながら俺は未来を悟った、神話生物より先に、幼馴染に殺される。
「まあ、教室で先生相手に暴れないだけよかったと思おう」
思わず口から出た、せめてもの良かった探しの裏には、これから先生の分まで虚華に詰められる未来を悟った男の、静かな諦めが滲んでいた。
(良識のある大人っていう評価は、撤回するからな先生)
そんなくだらないことを考えながら、どうこの場を収めるかに頭を悩ませるのに時間が費やさせられていった。
「まあ、ろくな目に合わないのが解っててわざわざ行くわけないぞ、と」
朝の騒動が終わり、1時限目が始まる前に速攻で学校から逃げ出した俺は内心でベロを出す。
今頃逃げ出したことに気づいた虚華が怒り狂っているだろう。
だが、素直に屋上について行ったところで俺の処遇がよくなるわけでもない、それなのに来ると思っていたのだろうかあいつは。
『佐伯田くん、どういうことですかこれは、詐病で早退なんて認めると思っているんですか?今すぐ私のもとに戻ってくれば不問にするので早く来なさい』
スマホからは先生の妄言が流れている。
いつものまともな状態なら多少は話を聞いてもよかったのだが、今のおかしな状態の先生には近づきたくない。
『聞いていますか佐伯田くん、黙ってばかりではわからないですよ。私は怒っていないから、ね?』
返事をしない俺に対する先生の言葉はだんだんと妖しさを帯び始めていた。
嫌な予感しかしない。
先生の素質を詳しく調べるには、対面である程度時間が必要だ。
だが今の先生とそんな長時間一緒にいるのは絶対に嫌だ。
「すいません先生、この話は後でお願いします。ちゃんと埋め合わせはしますので」
『佐伯田くん?待ちなさい、認めると思っているんですか――』
当然、待つわけない。
俺はそのまま無視して通話を打ち切る。
「貞久~、こんなのってないぜ、これだとNTRじゃないか」
「お前と先生は何でもないだろうが」
一緒に学校を抜け出してきたモブ尾が恨み言を言う、だがこんなのに真面目に付き合う気は無い。
そもそも、年上の女性なら誰でも好きと言いたげに一年に一度は真実の愛の対象が変わる男の言うことなど、取り合う価値もない。
まずは俺を責める前にその素行を改めるのが先だろうに。
「なんで先生がお前のスマホに電話するんだよ、俺なんて番号すら知らないのに」
「向こうから聞きたいって言ってきたんだ。その時に連絡先も押し付けられたんだよ、あの時の先生はかなり強引だったな」
俺から聞いた事実にモブ尾はうめき声をあげながら地面をのたうち回る。
「あ~~、脳がぁ!脳が壊れるッ!!」
(勝手に壊れてろ)
思わず心の中で毒づいてしまう、芋虫の様に地面でうごめいてるアホに対する俺の感想は辛辣なものにしかならない。
「そんなことより俺と一緒に学校をふけてきてよかったのかよ」
俺と違って親が家にいるこいつはこんな真似をしたら速攻で連絡が行くはずだ、俺の両親は家にいた頃も放任主義を標榜して割と好き勝手させてくれたが普通に考えて親の雷が落ちるはずだろうに。
「貞久の両親ほどじゃないが、俺の母ちゃん達も結構甘いんでね、これくらい、どうってことねえよ」
そう言ってヘラヘラと笑うモブ尾。
その脳天気さに毒気を抜かれつつ、俺は先生の不可解な変容をどう処理すべきか、魔術の構築よりも複雑な演算に頭を悩ませるのだった。
「潮の匂いは多分だが魚乃目の奴のせいだろうな」
まず間違いないだろう、先生は幼少の頃にあいつとあっているらしいからな。
それでなぜあんな反応になるかは知らんが。
「魚乃目?誰だそれ、学校にそんな奴いたっけか」
「……昨日話してた不審者のことだよ」
それだけ言って、俺は歩き出した。
話はここまで、という合図のつもりだったがこれではモブ尾は納得しない様だ。
「まてまて、不審者ってどういうことだよ。お前、まさか昨日の夜に先生の自宅に張ってたのか?俺は何も聞いてないぞ」
「言ってないからな」
言ったらお前がついて来ようとするのが目に見えてたからな。
「冷てえな! さてはお前、俺に内緒で先生を助けて好感度を稼ごうとしたんだろ。なあ、実際どうだったんだよ。その不審者は捕まえたのか?なんで名前を知ってるんだ?」
「うるさい、勝手に想像してろ」
適当にあしらって突き放す。
魚乃目が怪異対策課という組織の警官であり、ダゴン救世団から先生を守っていること。
そんな裏の事情を説明する義理もなければ、こいつが知る必要もないことだ。
「よし、俺も気合が入ってきたぜ!まずは先生の自宅付近の不審者情報をもっと洗って――」
モブ尾が一人で盛り上がっていると、不意に周囲の空気が音を立てて凍りついた。
陽炎のように日常の風景が揺らぎ、背後から突き刺さるような鋭い圧が迫ってくる。
「貞久……俺、急に用事思い出したわ。じゃあな!」
生存本能だけは一人前のモブ尾が、何かに追い立てられるように脱兎のごとく逃げ出した。
入れ替わるように、アスファルトを冷たく叩く靴音が一つ。
「ここにいたんですね、兄さん」
鈴を転がすような声。
だがその響きには、骨まで冷えるような芯の冷たさがあった。
振り返れば、そこには灯が立っていた。
「灯……。お前、授業はどうしたんだよ」
努めて冷静を装い、俺は振り返る。
そこには、ボルドーの瞳を細め、小首をかしげる妹がいた。
その仕草は普段なら愛らしさの象徴だ、だが今日は違う。
整いすぎた容姿は、時に人間離れした妖しげな魅力を放つ、しかし今はその部分が、怒りによって研ぎ澄まされていた。
「先生の香りに包まれて、意識を飛ばすほど気持ちよさそうでしたから……つい、心配になって追いかけてきちゃいました」
灯が一歩歩み寄る。
アスファルトに落ちる影が、心なしか異様に長く、蠢いているように見えるのは気のせいか。
「つまり小学校には行ってなかったのか」
毎度のことだがこの行動力にはまいってしまう、今回のような時には特にそう思う。
「ええ、そうですよ兄さん。虚華さんのご自宅に参られるというお話だと伺ったのですが、どうやら認識の食い違いがあったようなので。それで確認に参りました」
暗に約束をすっぽかしただろうと灯は言ってくる。
「そしたら、虚華さんに抱きかかえられて登校してきた姿を見て大変驚きました、いったい何をしていたのか、興味があるのですが教えていただけますでしょうか」
面倒な場面を見られたようだな、いや、虚華のことだわざと見せつけたんだな。
しかし、なるほど、灯は虚華の家から直接学校に向かって侵入したのか、それで俺たちの姿を目撃したと。
(さて、どうするか。虚華に加えて灯からも逃げたら流石に後が面倒ってレベルじゃすまないんだよな)
考え込んで黙ったままの俺を見て、灯の機嫌が明らかに悪くなる。
「どうしました、黙ってばかりで何か私に言えないことでもあるのでしょうか?これでも私は我慢しているのですが、そのような対応をされると辛抱が出来ません」
灯から感じる怒気が増していく、とりあえず会話で場をつなぐしかなさそうだ。
「どうした灯、いつものぶりっ子口調が崩れてきているぞ?」
灯の眉がぴくりと動く。
「まあ、俺はお前が虚華の同類なのは知っているからな。今更変に取り繕われても鳥肌が立つんだが」
言った瞬間、自分でも分かった。
(今のは最低のカードだったな)
だが俺の会話デッキは煽り以外は天気の話題ぐらいしかないんだ、なら突っ張るしかない。
その結果として灯の眉がひそめられ、視線が鋭くなる。
わかっている、怒らせた。
それも間違いなく特大な怒りだ。
「兄さん、今日はどうやらお互いのすれ違いが酷いようですね」
声音が整う、それが逆に怖い。
「続きは、また心安らぐ場所で。……参りましょう」
灯はゆっくりと歩み寄りながら俺に迫ってくる。
すっと手を差し出してくる、帰宅を促す仕草。
だがその背後に見える未来は、地獄絵図だ。
(やっべ、ミスった。本気で切れてやがる。こりゃほとぼりが冷めるまで逃げるしかない)
ここで灯に従って帰宅しても地獄を見る羽目になる、後が面倒になっても暫くは家に帰ることはできないな。
九智依羅教団に押し掛けるか、魚乃目の奴だってそこまでうるさいことは言わんだろ。
そう考えた、その瞬間だった。
「は?」
灯の動きが止まった、場の空気が急速に変わる。
「どうしたんだ灯?」
目の前まで来ていた灯がいきなりその怒気を露わにどす黒い声を出す、いきなり仮面がはがれたその姿に嫌な予感が膨れ上がる。
「どういうことですか、なぜ兄さんからそんな匂いがするんです?」
さきほどまでの怒気とは違う、深淵から這い出してきたような声が落ちる。
「一体どうした、何の話だ」
「常ではない潮の匂い、薄汚い匂いがします、昨日どこで何をしていたか今すぐ言ってください」
お前もか、ブルータス。
先生に続いて今日は厄日か、二人ともなんでそんな鼻がいいんだよ。
俺だって人より嗅覚は鋭いと思ってるが全然わからないぞ。
「ちょっと隣の町まで行ってたんだよ、その時についた匂いが落ち切らないんだろ。家に帰ったらすぐ風呂に入るからそんなに怒るなよ」
年頃の女子だ。
潮の匂いとか嫌なんだろう。
そう思っていたのだが、灯はそういったことで詰めてきたのではないらしい。
「私は誰に唆されているのかと聞いているのです。兄さん、貴方は私に首輪を着けてそのリードを持つ責任があるんですよ。誰に浮気をしたのですか」
「お前は何を言ってるんだ?落ち着けよ、支離滅裂な言動をしているぞ」
一体どうしたんだ、ここまでおかしなことを言いだすのは今までもなかったぞ。
潮の匂いそのものが嫌だというんじゃなければ何が気に障ったんだ。
「支離滅裂な言動?何を言って……そうですか」
灯はふと微笑む。
底知れぬ冷たさを含んだ微笑だ、目が光るように鋭く光り俺を貫く。
「私の主として振舞うのではなく妻として娶りたいと兄さんはおっしゃるのですね」
なぜそうなる、灯のいきなりのたわごとに思考回路が完全に追いつかない。
「私の結婚相手は虚華さんを妻として迎えるつもりだったのですが……、兄さんが私を欲しいと言われるのでしたら、日本では重婚が出来ませんので虚華さんは私の内縁の妻としましょうか」
待て待て待て。
「安心してください、虚華さんも兄さんが決めたことでしたら納得していただけることでしょう」
「怖い怖い怖い。いきなりフルスロットルで踏み込まないでくれ、ただでさえ頭が痛くなるような寝言を聞かされてるのに」
どうやら灯の正気はいきなり失われたようだ。
いくら何でもここまで酷いのはありえない。
俺は背を向けて全力で逃げ出した。
「兄さん、プロポーズに免じてここは見逃してあげます。でも次に会ったとき、誰かに唆されたままでいるようなら私にも考えがありますので」
灯の言葉を背に受けて背中に冷たいものが走る。
俺はそのまま更に足を速めた。
(決めた。一か月は戻らねえ!)
どうせ家に戻れば、虚華も灯も待ち構えているに決まっている。
そんな地獄に自分から突っ込むほど、俺は殊勝な人間じゃない。
少なくとも灯が正気を取り戻すまで、雲隠れを決め込むことにした俺は九智依羅教団に向かって急ぐ。
「魚乃目!!」
空に向かって怒鳴る。
「お前が嫌って言っても消臭剤ふりまけてやるからな!!」
今も九智依羅分室にいるだろう元凶に向かって叫んだ。
今日という日は間違いなく厄日だ、だがこの地獄の先には、まだ二人からの後日の制裁が待ち構えている。
それに目を背けながら、俺はひたすら九智依羅教団のビルに向かって駆け出すのだった。