裏路地の奥。
看板もなく、昼でも薄暗い一軒のバーがそこにある。
湿った空気と、アルコールの匂い。
外界から切り離されたような静けさの中、ソファに一人の男が崩れ落ちるように腰を下ろした。
「た、助かったぜ……」
全身を無数のパイプで覆った男――スチーム。
呼吸は荒く、体のあちこちが歪み、凹み、傷ついている。
自慢の外殻は見る影もなく、蒸気が不規則に漏れ出していた。
その様子を、黒い霧が静かに見下ろしている。
紳士的なベストとネクタイ。
霧で構成された身体は、まるで人の形を借りた影のようだった。
名を黒霧。
「いえ。礼には及びません」
落ち着いた声でそう返し、黒霧はカウンター脇に立つ。
「こちらも、あなた方の協力を得られましたから」
彼の個性『ワープホール』は、空間を繋ぐ力。
黒い霧へと変じ、離れた場所同士を瞬時に接続する。
極めて希少で、極めて危険な能力。
それを使い、彼は裏社会の底に沈む“悪意”を拾い集めていた。
目的は一つ。
平和の象徴、オールマイトを殺すこと。
巨悪の後継者が望む“最高の壊し”。
それを成し遂げるため、黒霧は静かに駒を揃えている。
スチームも、その一つだった。
木っ端ヴィランを束ねるまとめ役。
彼一人を引き込めば、三十人規模の戦力が手に入る。
だからこそ、交渉を持ちかけた。
だが、即答は得られず、時間を置くことになった。
今日、二度目の交渉を行うためにスチームと合う約束を取り付けていたのだ。
そして、見つけたスチームの様子は黒霧にとってなんとも好都合だった。
スチームは“死神”に追われていたのだから。
名の通ったヴィランだけを狙う、謎のヴィジランテ。
敗れた者は例外なく、半死半生で表通りに捨てられる。
命までは奪わない。
だが、ヴィランとしての活動は、ほぼ終わる。
故に死神。
二年前から噂され始めた存在。
顔は不明。体格も不明。
分かっているのは、男であることと、形を変える刀を使うということだけ。
神出鬼没で、そして――強い。
その死神に、スチームは目をつけられた。
逃走中、建物の上にいた黒霧の姿が視界に入った瞬間、救援を求められたのは当然の流れだった。
『あんたたちに力を貸してやる! 助けてくれ!』
スチームの言葉だ。
あれは、黒霧との交渉を受けるという言葉。
「死神の野郎……次に会ったら、絶対ぶっ潰す!」
スチームが歯噛みする。
その声には、恐怖よりも怒りが滲んでいた。
「ですが、まずは当日の件を優先していただきたい」
黒霧が話題を戻す。
スチームは背もたれに身を預け、荒い息を吐いた。
「借りは返す。部下も全員呼び出す」
蒸気が、強く噴き出す。
「精々こき使ってくれ」
「それは助かります」
黒霧は一礼する。
「お互い様だ」
スチームの声は低い。
「俺は受けた恩も、受けた仇も忘れねぇ」
その言葉に、黒霧は内心で頷いた。
だからこそ、使える。
「それにしても……死神とは、何者なのでしょうね」
黒霧は、ふと視線を伏せる。
脳裏に浮かぶのは、回収した改造人間――脳無の姿。
炎に焼かれ、歪み潰された肉体。
剥き出しの脳と、機能を失った四肢。
下位個体とはいえ、再生能力と火を吐く能力、高い身体能力を備えていた。
並のヒーローでは、まず太刀打ちできない。
それを、ヴィジランテが倒した。
炎を纏う、巨大な棘付きの棍棒。
振り下ろされた一撃で、完全に沈黙した瞬間。
危険を察知し、黒霧は即座に脳無を回収すると、その場を離脱した。
(ただのヴィジランテに……下位とはいえ、脳無が倒されるとは)
想定外。明確な誤算。
次なる脳無の素材確保として脳無を送った。
その脳無が、返り討ちに合うとは思わなかった。
「分かってるのは、男ってことと、あの刀くらいだな」
スチームが天井を見上げる。
「名のあるヴィランを狙う。それも確かだ」
蒸気が、静かに増えていく。
「部下どもも、一瞬だった。俺も、このざまだ」
声が低く沈む。
スチームが狙われた時、周囲には仲間がいた。
戦闘狂ばかりの腕自慢。愛すべきバカ共。
それが、刹那で倒された。
一人が命がけで時間を稼ぎ、スチームを逃がされなければ、彼もあの場で倒されていただろう。
「強いのもあるが、あれは戦いが上手い手合いだ」
一拍置き、続ける。
「形を変える刀を使うというが、それすら使わず、あいつらはやられた」
天井を仰ぐスチームの体から、濃い蒸気が立ち上る。
悔恨、怒り、そして復讐心。
「黒霧」
低く、呼ぶ。
「頼みがある」
「情報、ですね」
「話が早ぇ」
「こちらでも調べましょう」
黒霧は即答した。
「彼は、無視できない存在です」
「助かる」
スチームは拳を握る。
「俺も部下を使って探らせる」
捕まった仲間たちの顔が、脳裏をよぎる。
胸の奥が、焼けるように痛む。
「死神……あいつらの敵討ちだ」
蒸気が、噴き上がる。
声は静かだった。
「必ず、必ず……復讐してやる」
スチームは立ち上がり、バーを後にした。
その背中を、黒霧は無言で見送る。
盤上に、新たな因子が現れた。
それが敵か、災厄か。
あるいは――利用できる“歪み”か。
黒霧は、静かに思考を巡らせていた。