――まぶたの裏が重い。
喉がひりついて、息を吸うたびに埃の味がした。
目を開ける。
天井は低く、黒い。等間隔に並ぶ小さな丸い照明が、弱々しく光っている。視界の端に、赤い布張りの背もたれ。前後にずらりと並ぶ椅子。足を動かすと、床に散ったポップコーンの殻が乾いた音を立てた。
映画館だ。
鼻に残るのは古い布と湿気の匂い。スクリーンは白く沈黙しているのに、誰かに見られている気配が背中を撫でる。腕を起こそうとした瞬間、体が思ったより重くて、舌打ちを飲み込んだ。
「……目、覚めた?」
背後ではなく、すぐ横。
距離が近すぎる。
顔を向ける。
暗がりの中、細い影が椅子の列の間に立っていた。肩にかかる黒髪。大学生らしい軽い服装なのに、立ち方だけが妙に静かだ。笑っているようで、目は笑っていない。
「ここ……映画館か」
「うん。落ち着くでしょ。音、いっぱい吸ってくれるから」
甘い声。なのに言葉の温度が低い。
胸の奥がざわつく。思い出すのは、背後から絡みついた腕と、血の匂い。
視線が合う。
相手は少し首を傾けて、まるで自己紹介を思い出したみたいに笑った。
「烏間・ケージ・渚。……あなたの恋人、になりたい人」
「……本名、出すんだな」
「大事でしょ。恋人同士は、ちゃんと名前で呼ばなきゃ」
軽く息を吐く。
頭の奥で警鐘が鳴る。敵意は薄い。殺気もない。それなのに、逃げ道が見えない。悪意のない狂気――一番厄介な種類だと、嫌というほど知っている。
体を起こす。腕は自由だ。けれど、通路の奥に淡い霧が溜まっているのが見える。立てば絡め取られる距離感。試されているのか、観察されているのか。
「……で。誘拐の理由は?」
わざと軽く聞いた。声の震えを隠すために。
渚は嬉しそうに目を細める。
「守るため。あなた、すぐ危ないところに行くから」
「それは……否定できないけどな」
「ね? だから、確保したの」
言葉がさらりと落ちる。
悪気はない。罪悪感もない。ただ、当然だと言わんばかりの調子。背筋がぞくりとする。
「ワールドシール、みんな狙ってる。あなたも、あなたの周りも。だから先に、私が」
椅子の背を指でなぞりながら、渚は歩く。
足音がほとんどしない。視線だけがずっとこちらに絡みつく。
「三枝はどうした」
「……無事。興味ないもの」
少しだけ声が冷えた。
それだけで、空気が変わる。スクリーンの白が暗く沈む。自分以外はどうでもいい、という温度差。理解してしまった瞬間、胸の奥が重くなる。
「……俺を閉じ込めて、どうするつもりだ」
「安心して。ここ、安全だよ。日も入らないし、邪魔も来ない。あなたが落ち着くまで、一緒にいられる」
言いながら、一歩近づく。
距離が、また詰まる。逃げ場を計算している歩幅。無意識じゃない。全部、選んでやっている。
透は視線を逸らさずに言った。
「同意なしは、監禁って言うんだよ」
一瞬だけ、渚のまばたきが止まる。
それから、ふっと笑った。
「……うん。知ってる。でも、あなたが壊れるよりはいい」
その言葉に嘘はない。
だからこそ、怖い。
善意で縛る。優しさで閉じ込める。そういう相手は、普通の敵よりずっと手強い。殴っても折れないし、理屈でも止まらない。
透は静かに息を整えた。
まだ変身はできない。シジルドライバーの感触が腰にないことを思い出し、舌の裏が冷える。
「……俺は、守られる側じゃない」
「知ってるよ」
すぐに返ってくる。
優しい声で、まっすぐに。
「だから好きなんだもん」
椅子の背もたれがきしむ。
近づく足音。霧が足元に這う。
ここから先は、言葉の勝負になる。
線を引けなければ、ずっとこの檻の中だ。
透はわずかに肩を回し、相手の目を見据えた。
甘い声と冷たい視線。その奥にある、孤独の気配を感じ取りながら。