夕方の講義棟は、昼の喧騒が嘘みたいに静かだった。
廊下の奥で蛍光灯が一つ、じり、と鳴る。白い光が壁ににじみ、床に落ちた影だけがやけに長い。
三枝は息を切らしながら、階段を駆け上がった。足が止まりそうになるたびに、頭の中で透の名前が響く。叫んだ声の余韻がまだ喉に残っていた。
「……久遠寺、いるか!」
研究室のドアを叩く。返事はない。
焦りが先に立つ。もう一度、強めに叩こうとしたその瞬間、背後から静かな声が落ちた。
「三枝。騒がしいな」
振り向く。
白衣の袖を軽く整えながら、久遠寺朔也が廊下の端から歩いてきた。表情はいつも通り落ち着いているのに、視線だけが鋭い。
「……透が、攫われた」
息を整える暇もなく言葉が出る。
久遠寺は足を止めた。ほんの一拍、間。次の瞬間には歩幅が変わる。研究者の顔から、観測者の顔へ。
「場所は」
「わかんねぇ。でも……なんか、仮面のやつで。吸血鬼みたいな、笑い方してて……!」
三枝の言葉は途切れがちだった。
頭の中の映像がうまく繋がらない。血の匂い、背後からの声、空気が凍る感覚。それをどう説明すればいいのか分からない。
久遠寺は黙って聞く。
途中で遮らない。ただ、指先がわずかに動き、ポケットの中で端末を操作していた。
「……霧は出ていたか」
「え? あ、ああ……なんか、足元に変なもやが」
「なるほど」
短い返事。
その声音に、三枝は少しだけ落ち着きを取り戻す。
「透は……助かるんだよな?」
問いかけた声は、思ったより小さかった。
久遠寺は視線を逸らさず答える。
「助ける。そのために動く」
断定だった。慰めでも励ましでもない、ただの事実の宣言。
研究室のドアを開け、机の上の資料をまとめる。写真、地図、薄い金属片のようなもの。鞄に入れる動作が無駄なく早い。
「……一人、協力者がいる。君も来い」
「え、俺も?」
「目撃者だ。状況を直接話してもらう」
言いながら、久遠寺は歩き出す。
三枝は慌てて後を追った。廊下の窓の外、空が赤く沈みかけている。ガラスに映る自分の顔が、少し青ざめて見えた。
校門を出る。
風が冷たい。さっきまで人で溢れていたはずの通りが、妙に静かだった。遠くで車のクラクションが鳴るたび、心臓が跳ねる。
「……透、なんであんなのに目ぇつけられたんだよ」
「理由は単純だ。適合率が高い」
歩きながら久遠寺は答える。視線は前だけを見ている。
「適合率?」
「ワールドシールの話だ。透は多世界経験がある。狙われる理由としては十分だろう」
三枝は黙る。
分かったような、分からないような説明。それでも、“理由がある”と聞いただけで少し現実味が増した。
やがて、二人は古びた雑居ビルの前で立ち止まる。
看板の文字が半分剥がれ、入口のガラスには小さなヒビが入っている。
「……ここ?」
「そうだ。探偵事務所」
三枝は眉をひそめた。
「警察じゃなくて?」
「警察は現象を理解できない。彼は違う」
久遠寺はそれ以上説明しない。
階段を上る音だけが、薄暗い空間に響く。三階に着くころには、外の喧騒が完全に遠ざかっていた。
踊り場の窓から差し込む光が、二人の影を細く引き延ばす。
三枝はふと足を止める。
「……なあ。久遠寺」
「なんだ」
「透……大丈夫なんだよな。本当に」
久遠寺は少しだけ振り返った。
言葉を選ぶような間があり、それから短く答える。
「大丈夫にする」
それだけだった。
けれど、その声に迷いはなかった。
廊下の奥の扉の前で、久遠寺が足を止める。
取っ手に手をかける前に、一度だけ目を閉じた。
「……ここから先は、普通の世界ではない。覚悟しろ」
三枝は息を飲む。
頷くしかなかった。
静かに扉が開く。
中から漂う、紙と古いコーヒーの匂い。薄暗い部屋の奥に、人影が一つ。
――その先は、探偵事務所での出会いへと続く。