古びた雑居ビルの三階。
階段の踊り場に溜まった空気は、外より少しだけ冷えていた。蛍光灯が一つ、間隔を空けて瞬く。久遠寺は立ち止まらず、細い廊下を進んだ。靴底がリノリウムを擦る乾いた音だけが、やけに長く尾を引く。
「……ここ、本当に人いるのか?」
三枝が声を潜める。
返事は短い。
「いる。呼べば出てくる」
扉の前で久遠寺はノックをしない。指先で軽く押すと、鍵の掛かっていないドアがゆっくり開いた。中は思ったより暗い。窓際のブラインドが半分閉じたまま、午後の光を細く裂いている。紙の匂いと、古いコーヒーの残り香。壁一面に貼られた写真と地図が、薄い影を落としていた。
机の向こう、椅子に座る男がいた。
背筋はまっすぐで、手元のノートから視線を上げない。三枝は一瞬、普通の探偵事務所に来ただけだと思い込もうとした。
「……久遠寺。依頼か」
低い声。
名前を呼ばれて、久遠寺は小さく頷いた。
「旅坂透が攫われた。位置は不明。ノイズの残響だけが残っている」
男――阿慈布有流は、ペンを置いた。視線が静かに三枝へ移る。
値踏みするような目ではない。ただ、測る。距離や呼吸を計算しているみたいな、冷たい観測。
「……一般人か」
「三枝だ。透の友人。事情は説明済みだが、君のことはまだ知らない」
三枝は肩をすくめた。
「え、あの……俺、普通に探偵さんだと思ってたんだけど」
阿慈布は答えない。代わりに立ち上がる。床板がきしむ。机の横に置かれた金属ケースを指で軽く叩いた。その音が、やけに澄んで響く。
久遠寺が口を開く。
「協力してほしい。透は“確保”目的で連れ去られた可能性が高い。時間が経てば、状況は固定化する」
「……対象は?」
「吸血鬼型。霧を使う。執着性が強い」
阿慈布の目が細くなる。
ほんのわずか、興味が浮かんだ。
三枝は会話の意味を半分も理解できていない顔で、二人を見比べる。
「ちょ、待って。透が攫われたって……何に? ていうか、なんでそんな冷静なんだよ」
久遠寺は三枝を見ずに言った。
「彼はライダーだ。協力関係にある一人。説明は後だ」
「……ライダー?」
疑問が口から落ちた瞬間だった。
窓の外で、何かが弾けるような音がした。小さな黒い影がガラス越しに揺れる。次の瞬間、室内の空気が歪んだ。
机と椅子の位置が、ほんの少しずれる。
視界が引っ張られるように揺れた。
三枝は思わず一歩下がる。
「……今、何した?」
阿慈布は窓際に立っていた。手はポケットに入れたまま。
外を見下ろしながら、淡々と呟く。
「エコー・ミニオンが近い。騒ぎになる前に位置を変えた」
「位置を……変えた?」
意味が追いつかない。
床に落ちていた紙束が、さっきとは違う場所に滑っているのを見て、三枝の喉が鳴った。
久遠寺が静かに言う。
「空間歪曲。半径十メートル。衝撃をトリガーにして発動する。彼の戦闘様式だ」
阿慈布は振り向いた。
目だけが三枝を射抜く。
「……説明は必要か」
「いや、もう十分だって……!」
三枝は苦笑いを浮かべるしかない。
普通じゃない。透の話を半信半疑で聞いていた自分が、急に場違いに思える。
阿慈布は机の上の写真を一枚拾い上げた。久遠寺が持ってきた、映画館周辺の地図。指先で軽く弾く。
「……対象の行動原理は?」
「安全の確保。所有感が優先されるタイプだ」
「なら、密閉空間を選ぶ」
短い断定。
三枝が息を呑む。
「映画館……か?」
久遠寺は目を細めた。
「私も同意見だ。音を吸う空間、外光の遮断。日中弱体を補える」
阿慈布は頷かない。ただ、椅子の背を軽く蹴った。鈍い衝撃音が床を伝う。次の瞬間、事務所の空気がまたわずかに歪む。壁に貼られた地図の一部が、ぴたりと別の位置へ滑った。
「場所は絞れる。……だが」
言葉を切る。
「対象は“証拠”でもある。救出は慎重にやる」
三枝が顔を上げる。
「透は証拠じゃない。友達だろ」
阿慈布の視線が静かに落ちた。
怒ってはいない。ただ、温度が低い。
「感情は否定しない。だが判断は別だ」
久遠寺が間に入る。
「線引きは私がする。透は守る。だが状況の共有は必須だ。協力するなら、条件はそれだ」
短い沈黙。
ブラインドの隙間から差し込む光が、三人の足元で揺れる。
阿慈布は小さく息を吐いた。
「……了解。等価交換だな」
机の横に置かれたケースを持ち上げる。金属の擦れる音。
その動作が合図のようだった。
久遠寺は三枝へ視線を向ける。
「ここから先は、戦場になる。ついて来るなら覚悟を決めろ」
三枝は少しだけ迷って、それから頷いた。
「……透を、取り戻すんだろ」
阿慈布がドアを開ける。
廊下の冷たい空気が流れ込む。外では遠く、サイレンの音が鳴り始めていた。
三人は並んで歩き出す。
映画館へ向かうために。