スクリーン裏の暗がり。
破れた幕の影に身を寄せ、透は息を潜めていた。胸の上下を最小限に抑え、視線だけを動かす。外へ続く非常口はすぐそこにあったが、踏み出せば霧に触れる。今は動かない。
脱出はできた。だが、逃げ切れてはいない。
床に落ちた古いフィルムの欠片を、指先で押しやる。わずかな音が、壁を伝って遠くへ消えた。耳を澄ます。座席側から、靄の揺れる音。歩く気配。距離は……近い。
「……隠れるの、上手だね」
甘い声が、幕の向こうから落ちた。
透は返事をしない。背中を冷たい壁に預け、映画館の構造を頭の中でなぞる。左右の通路、非常灯の位置、映写室への階段。さっき通ったルートはもう使えない。霧が残っているはずだ。
シジルドライバーを抱え直す。
装填口に残った赤い跡を、袖で静かに拭った。完全じゃない。それでも、起動音は戻りかけている。焦る必要はない。ここから先は、観察と間合いだ。
幕の端が揺れた。
白い靄が、ゆっくりと床を撫でる。触れれば位置が知られる。透は膝を折り、配線の影へ身体を滑らせた。光が当たらない場所を選ぶ。スクリーンの裏は、思ったより広い。
「逃げたのに、また戻ってきちゃった」
囁きが近づく。
椅子の軋む音が、遠くで途切れた。飛んでいる。足音が消えたことで、逆に位置が読みにくくなる。
透は息を整え、低く呟いた。
「……映画館は、音が消える場所だ。だから、足跡が残る」
返事はない。
代わりに、霧が少しだけ揺れた。視線が通路の先へ移ったのを確認し、透は反対側へ一歩だけ滑る。椅子の影から影へ。距離を詰めず、広げず。追われているように見せない動き。
やがて、幕の向こうに影が現れた。
黒髪の揺れ。吸血鬼を思わせる仮面の輪郭。距離は、三歩。手を伸ばせば届く位置。
「ねえ。どうして逃げるの?」
声が柔らかい。
透は振り向かない。視線だけを斜めにずらし、出口灯の光を確かめる。
「……脱出したいからだ」
「ふふ。正直」
影が一歩近づく。
霧が足元に絡む。透は後退せず、腰にドライバーを押し当てた。金属が触れ合う小さな音。
『……シール・……セット……』
途切れ途切れの電子音。
渚の動きがわずかに止まる。
「……まだ、使うつもり?」
「使えるならな」
言葉の間に、配線を踏み越える。非常口へ続く細い通路が見える。だが、そこにも霧が溜まっていた。先回りされている。
透は通路に入らず、スクリーンの柱を回り込んだ。
光が遮られ、影が深くなる。渚の視線が一瞬だけ外れた隙に、座席側へ滑り出る。背もたれの列が壁のように並ぶ。視界を分断する迷路。
「……逃げないでよ」
甘さが消える。
声の温度が下がった瞬間、霧が大きく膨らんだ。椅子の上を越え、背後へ回り込む気配。
透は走らない。
歩幅を一定に保ち、列の端で急に止まる。霧が先へ流れる。視線が空振る。呼吸を整え、逆側の通路へ抜ける。
出口灯の緑が、近い。
だが、背後から腕が伸びた。
触れる寸前で、透は座席の背を蹴り、身体を横へ滑らせる。指先が肩を掠めただけで、捕まらない。
「……ほんと、好き。そういうところ」
囁きが耳元で揺れた。
振り返らないまま、透は非常口の影に身を潜める。外へ出る前に、もう一度周囲を見る。霧の流れ、光の角度、足音の消え方。
――その時だった。
映画館の入口側で、重い衝撃音が響いた。
金属が擦れる音。誰かが外から扉を押している。複数の足音。迷いのない動き。
渚の視線が、ほんの一瞬だけそちらへ向いた。
「……来たの?」
透は答えない。
ただ、非常口の影に身体を沈めたまま、ドライバーを握り直す。
外部からの気配が、確かに近づいていた。
その音が廊下に満ちたところで、場面は静かに途切れる。