朝の改札を抜けると、乾いた空気が少しだけ頬を撫でた。人の流れに押されるまま歩きながら、透はイヤホンを片耳だけ外す。電車の余韻がまだ鼓膜の奥で鳴っているのに、足音だけが妙に遅れて聞こえた。
一歩。
もう一歩。
踏み出したはずの影が、ほんのわずか後ろで揺れる。気のせいだと笑ってみても、視界の端で黒い輪郭が追いつこうとしているようで落ち着かない。通学路の並木道、コンビニ前のコーヒーの匂い、朝の湿ったアスファルト。どれも昨日と同じなのに、靴底だけが別の時間を踏んでいる気がした。
「おーい、透。歩くの速くね?」
後ろから三枝の声。軽い調子は変わらない。肩を並べると、わざとらしく大きく伸びをしてみせた。
「いや、普通だろ。お前が寝坊しただけじゃねぇの」
笑いながら返す。けれど言葉のあと、ほんの半拍遅れて息が落ちる。三枝がちらっと横目で見てきた。
「……なんかさ、今日の透、歩幅ズレてね?」
「気のせいだって。昨日のレポートで脚やられただけ」
そう言いながら、無意識に腰元へ手が伸びる。ベルトはない。日常の服装。なのに、そこに何かを確かめる癖だけが残っている。
校門の前で、風が吹いた。校旗がぱさりと鳴る。
その音に混ざって、別の響きが喉の奥に引っかかった。
――旗の下で、もう一度。
誰かの声。
顔は思い出せない。けれど、言葉だけが乾いた刃のように残っている。
足が止まりかける。三枝が肩を小突いた。
「ほら、授業遅れるって。行こうぜ」
「あぁ、分かってる」
返事をして歩き出す。視線の先で、影がやっと足元に追いついた。
それでも、完全に重なった気はしない。
自販機の缶が鳴る音、遠くのサイレン、笑い声。日常は何事もなかったように動いている。透はポケットに手を突っ込み、わざと軽く口笛を吹いた。
乾いた朝だった。
校舎の裏手を抜けたとき、風が少しだけ向きを変えた。
干されていたビニールシートが鳴る。軽い音のはずなのに、胸の奥で別の響きが重なった。乾いた布が、空を切るような音。
歩幅が乱れる。
視線を上げると、グラウンドの端で旗が揺れていた。大学のものとは違う色合いに見えたのは、一瞬だけだった。
「……っ」
喉がひりつく。声に出す前に、息が浅くなる。
風がまた鳴る。ぱさり、と。
景色の奥で、誰かが立っていた。
長い袖。裾が地面に触れそうな着物。色ははっきりしない。ただ、光の当たり方だけが現実より鮮明だった。顔は見えない。こちらを向いているのかどうかさえ分からないのに、視線だけが合っている気がする。
足元の砂が鳴る。
誰かが一歩、踏み出したような音。
透は反射的に肩を引いた。周囲では学生が笑っている。自販機の釣り銭が落ちる音。日常の雑音が押し寄せてくるのに、その中央だけが静まり返っていた。
着物の袖が、ゆっくりと揺れる。
風ではない。腕の動きに合わせた、規則的な揺れ。
指先が、旗の紐を結び直すように動いた。
言葉は聞こえない。
けれど、胸の奥で同じ音が反復する。
――もう一度。
意味より先に、身体が覚えている感覚。
足の裏が土を踏みしめる重さ。刃の重み。誰かの背中を守る距離。
瞬きをした。
そこにはもう、誰もいなかった。
代わりに、校舎の窓ガラスに映る自分の影だけが揺れている。
ほんの一拍遅れて、足元に戻ってきた。
「……なんだよ、今の」
呟いた声が、妙に軽く聞こえた。
笑って誤魔化そうと口角を上げる。ポケットの中で、指先が無意識に何かを探る。何もないのに、結び目を確かめるような仕草だけが残る。
遠くでチャイムが鳴った。
学生の波が動き出す。日常は、少しも変わらない顔で流れていく。
透は深く息を吐き、歩き出した。
背後で、もう一度だけ布が鳴った気がした。
昼休みの商店街は、いつもより人が多かった。
焼きそばの匂いが風に流れ、店先の呼び込みが重なる。透は紙コップのコーヒーを片手に、三枝の隣を歩いていた。
「なぁ透。さっきからさ、歩幅ズレてねぇ?」
軽い声。冗談めいているのに、目だけはじっと足元を見ている。
「……気のせいだろ。人多いから避けてるだけだ」
そう返しながら、無意識に歩調を合わせる。だが、横断歩道の白線が妙に長く見えた。
一本、また一本。まるで線ではなく、並べられた槍の列のように。
三枝が笑う。
「いやさ、さっきから空見て止まるじゃん。なんか考え事?」
答えようとして、言葉が喉で止まった。
商店街の看板が風で揺れる。布が擦れる音。
その瞬間、景色がわずかに歪んだ。
人の流れが、列を作る。
店の前に並んでいたはずの客が、互いに距離を測るように立ち位置を変える。
視界の端で、旗のような影が揺れた。
「……三枝」
呼びかけた声は低かった。
三枝が「ん?」と振り向く。
その背後、交差点の中央で、足音が揃った。
――ドン。
乾いた音。
誰も踏み鳴らしていないはずなのに、地面だけが一拍震える。
空気が重くなる。
周囲の人間が、理由も分からず一歩ずつ後退した。まるで見えない境界線を押し返されるように。
次の瞬間、空間が裂ける。
甲冑の影。
布と革の匂い。
統率された足並み。
エコー・ミニオンが現れた。
「あれは、見た目からして、戦国時代のかよ」
無言のまま隊列を組み、通行人を囲い込む。槍を思わせる長柄の武器が斜めに揃い、逃げ道を切り分けていく。
「……まっまたかよ!?」
三枝の声がかすれる。
透は答えなかった。
代わりに、肩を押す。
「三枝、後ろ下がれ。店の中、奥まで行け」
説明はしない。
近くにいた子どもを抱えた母親を横へ誘導し、倒れかけた看板を足で押し戻す。視線は常に隊列の中心へ。
足音がさらに揃う。
ミニオンが半円を描き、陣形を閉じていく。
透は息を整えた。
ポケットの奥で指先が固まる。