講義室の蛍光灯が、妙にまぶしい。
俺は窓際の席に座り、ノートを開いているふりをしていた。黒板にはマクロ経済学のグラフが書かれているはずだが、視界の端で揺らめいている。集中が保てない。肺の奥に、まるで薄い膜を張ったような違和感がある。息が、浅い。意識しないと、浅い呼吸のまま固定されてしまう。
——昨日の、あの熱気がまだ、身体に残っている。
「おい、透」
隣の席で三枝が肘をついて、小声で話しかけてきた。教授はまだ黒板に向かって何かを解説している。周りの学生たちは、ぼんやりとした目でスマホを弄っているか、真面目にメモを取っているか——どちらにせよ、昨日のことなど知らない顔だ。
「ん?」
「やっぱ今日もボーッとしてんな」
「大丈夫だって。ちょっと睡眠不足なだけ」
嘘だ。三枝は知っている。昨日見たものを。だからこそ心配してくれている。けれど真実を明かすわけにはいかない。異世界の転移だの、ドライバーだの、ゲートナイトだの——そんな話を始めたら、きっと彼の方が壊れてしまう。
俺は右手のペンをくるっと回した。手首の腱がわずかに疼く。昨日、キックの反動を左脚だけで受けたせいで、今朝から神経がじりじりしている。無理をして握ると震えが出る。ペン先が紙面を揺らした。
「なぁ、透」
三枝の声が一段階沈んだ。
「まだ帰ってこれねぇ感じ?」
「へ?」
「昨日のアレ……全部夢じゃなくてさ。なんかどっか別の世界に……」
「あー」
軽く笑った。肩を竦めるジェスチャー付きで。
「まぁそういう夢見てたかもな。最近忙しすぎたせいじゃないか?」
「……夢じゃなかった」
「いやいや、夢夢」
手の震えをごまかすために机を二度叩いた。音が思ったより大きく響いてしまい、数人の学生がちらとこっちを見る。慌てて咳払い。
「本当に大丈夫。明日になったら治ってるって。心配すんな」
「——お前さ」
突然、三枝が身を乗り出してきた。視線の奥で何かが揺れている。恐怖だ。自分の足元が崩れる恐れ——今まで信じていた「普通」の土台がなくなってしまう予感。
「俺……家に帰ってからずっと考えてたんだよ。もし昨日みたいなので地球が変わっていったら? 警察とか消防とかじゃどうにもならない戦いが毎日起きたりしたら? そしたらさ——俺たちの『普通』ってどこに残るんだろうって」
言葉に詰まる三枝を見て、俺は微笑んだ。作り笑いではないと思う。多分本気で、安心させてやりたかった。
「まぁ、そしたらそんときはまた一緒に考えるしかないだろ。とりあえず俺がサバイバル知識教えてやるよ」
「違うって……そんな軽い話じゃないだろ……お前だって昨日、普通じゃなかったんだから」
「ああ、だから言ったじゃん。ちょっと睡眠不足。それだけだよ」
さらりと言い捨てて立ち上がる。トイレに行くふりをして講義室を出た。
廊下を歩く。足音がペタペタと響く。途中で男子トイレに入る。一番奥の個室に閉じこもり、鍵を掛けた瞬間——ふっと肩の力が抜けた。
震える唇で息を吐き出す。
《現実に戻れない恐怖》。
まったくもって同感だよ、三枝。
だがそれを口に出してしまったら——
あの世界に足を踏み入れることを認めたということになる。
俺たちは「普通の世界」の住人なんだ。少なくともそうやって生きられる権利があるはずなんだ。
俺が「旅人」になったのも、戦ったのも——お前たちを守るためだ。
だから怖いと言ってくれ。不安だと言ってくれ。
それでいい。その不安を笑って受け流してくれる誰かが必要なんだろ?
大丈夫。俺が演じるさ。
「普通」っていう役を——もう少し。
扉を軽く叩いて出ると、洗面台で手を洗っていた先輩らしき学生がぎょっとした顔で振り返った。
「あ、すみません。ちょっとおなかの具合悪くなっちゃって」
笑顔でぺこり。そのまま講義室に戻るまでの廊下で深呼吸を試みる。まだ少し胸が締め付けられているが——仕方ない。これくらいは慣れっこだ。
講義室内に戻ると、ちょうど教授が問題提起をしていて教室がざわざわしていた。俺も適当に手を挙げる。
「ハイハイ先生! GDPの計算方法なら任せてください!」
周囲からクスクス笑いが起こる。三枝は微妙な顔をしながらも安堵しているようだった。
——ありがとうな。
心の中で呟く。お前はちゃんと日常に戻れた。
そして俺は……
いつも通りの俺になれた。
大学の食堂は、いつもより騒がしかった。
昼時の混雑というより、何かが詰まったような——空気の密度が違う。俺はトレーを手に取りながら、無意識に視線を巡らせる。窓際の席でノートを広げている女子学生。列の途中でスマホを弄る男子。カウンターの向こうで豚汁をよそっている厨房のおばさん。全員が「普通」であるはずなのに、どこか輪郭が滲んで見える。
——刻印が、染み出している。
言葉にできない。目に見えるわけでもない。ただ、皮膚の内侧で何かが粟立つ。あの世界で幾度となく死を覚悟した身体が、現代日本の空気の中で「違和」を検知している。異世界の空気——鉄と硫黄と、何か別の法則が混じった大気——を覚えている細胞が、ここにも同じ匂いの片鱗を嗅ぎ取っている。
「こっちだ」
声がして振り向くと、朔也が柱の陰に立っていた。群青のニットにスモークグレーのコート。いつもの観測者の目つきで、食堂の喧騒を評価するように見渡している。
「来てもらう」
有無を言わせず歩き出す。俺はトレーを返却台に置き去りにしてその後に続いた。廊下を横切り、非常階段の鉄扉を開ける。錆びた踊り場に冷たい陽が差していて、埃が金色に舞っている。
「まずは簡潔に説明する」
朔也は眼鏡のフレームを指で押し上げた。
「エコー現象——あれは『反響』だ。世界を越えてこぼれ落ちた法則が、この物理層を塗り替えようとしている。ゲートナイトはその集合体。成熟した中心核をもつ怪物。ミニオンは末端。分裂した触手のようなもの」
「つまり、最初にミニオンが湧くのは必然ってわけか」
「そう。前触れとしては——ノイズが聴こえる。景色の歪み。刻印が肌に浮かぶように沁みてくる」
喉の奥が干いた。説明されるまでもなく、もう身体で理解している。あの夜道で感じた皮膚の震えはノイズだった。食堂の澱みは刻印の予兆だ。
「シジルドライバーに入ったシールについてだが……帰還鍵の可能性もある」
朔也はそこで区切った。
「だが確定ではない。鍵ならば誰かが鍵穴を探しているはずだが——肝心の管理者はまだ特定できていない」
管理者——か。
誰が扉を開き、誰が扉を閉じるのか。そして俺は何度この鍵を握れば、元の世界で「普通」に戻ることができるのか。
「あと一点」
朔也が続けた。
「敵の出現は必ずある。完全な無秩序ではない。法則はあるが不明瞭だ。ただ前兆はある——ノイズ。刻印の染み出し。あとは」
言葉を選ぶように躊躇して、
「君のような人が『匂い』として感じるものだ」
そうだよな。俺たちはもうその匂いを知っている。言葉にすれば陳腐になってしまうほど、鋭敏になっている。
非常階段の窓外に灰色の雲が垂れ込めてきていた。寒気が入り込んできて肩が震えたけれど、これは天候のせいだけではない。もっと深いところの警告だ。
「それで、どうする」
俺が聞くと朔也は肩を竦めた。
「監視を続ける。幸い君には感知器官がある」
「褒めてるのか貶してるのかわかんねぇな」
「必要だと言っている」
そう言って朔也は踵を返し、階段を降りていく。俺はしばらく踊り場に留まって、眼下の校舎を見下ろした。窓硝子が太陽を反射して煌めいている。あのどこかで、また「染み」が広がっているかもしれない。
——大丈夫。言葉にしなくても分かる。
あの空気の濁りを避ければいい。それだけのことだ。
けれど「それだけ」のことが途方もなく難しいことも知っている。
屋上の鉄扉を開けると、風が頬を撫でた。夕陽が建物の影を長く伸ばし、遠くのビル群が錆びた刃のように並んでいる。朔也は手すりに凭れ、指尖にシジルドライバーのパーツを弄んでいた。分解した状態だ。核心部のコアが、まるで小さな心臓のように脈動している。
「話を続ける」
彼は振り向かないまま言った。声は風に乗って千切れ、俺の耳朶に届く。
「ワールドシールは九種ある。それが揃うと——帰還ゲートが起動する」
「帰れるってことか」
「そういう解釈もできる。だが帰るのは『この元の世界』ではない。世界そのものの帰還先は不定だ。だからこそ鍵が機能する」
説明は慎重かつ最小限。朔也はこういう物言いが得意だ。無駄を排し、核心だけを摘出する医師の手術刀めいた話し方。
「条件がある。誰がゲートを『どの世界』へ開けるか——決める権利だ」
「権利?」
「そう。所有数。最後に装填したシール。そしてマズル——魂の共鳴」
朔也がようやくこちらを向いた。眼鏡越しの瞳には分析と期待と一抹の翳りが交錯している。
「つまり九枚を独占すれば好きに使える。二枚持っていれば優先順位が上がる。最後にゲートを使う意思表示をした者が暫定支配者になりうる。そして——マズルが『帰還願望』と強く結びついている場合、システムはそれに応じて調整する」
喉が乾く。唾を飲み込むと、胃が小さく捻れた。
「例えば透くん。君のマズルはドラゴンマズル。強化系だろう? それは『突破したい願望』と紐づくことが多い。だからもしゲートを『突破』する目的で使うなら適合率は上がる」
「他のやつだったら?」
朔也は指で鼻梁を撫でながら答えた。
「求愛系であれば『大切な人と一緒に行きたい場所』を選択肢として提示するし、追悼系なら『失った場所を取り戻す』帰還先を生成する可能性がある。あくまで『君ではない誰かのために』働いてしまう。そういうシステムだ」
風が強くなった。屋上の給水塔が低い唸りを立てている。どこか遠くで犬の吠え声がかすかに響いた気がした。
「誰もがこの世界に帰りたい訳はないって事か」
「特に『転移先』に帰属してしまう人は尚更だ」
朔也は視線を西日に向けた。橙色に照らされた横顔が少年っぽい丸さを湛えている。
「例えば向こうで家族を持ち、役割を与えられ、技術や魔法も手に入れたとする。それを手放してこの世界に戻ってくることは……想像してほしい。何もかもが『中途半端』になってしまう。年齢もそのまま。魔法もない。仲間は誰もいない」
彼がここで初めて口調を変えた。抑揚の少ない観察者らしい平坦さから、ほんの少しだけ情感を滲ませる柔らかさへと。
「つまり——彼らにとって『帰るべき場所』はもうこっちじゃないってこと」
言われた瞬間、俺は自分の中で何かがひび割れる音を聞いた。確かに俺自身、何度も異世界で生死を彷徨った。そこには友情があり、使命があり——命懸けで守るものがあった。けれど現代日本に帰ってきた今、技術や魔法は使えない。そもそも信じてもらえない。親しい人間もいない。
——だからといって?
俺の足元はここにある。帰るべき場所はここなんだ。
そう思いたいのに。
「朔也」
「ん?」
「もしお前がシールを集めていたら——どこに帰るつもりだ」
問いは唐突だった。自分でもなぜ訊いたのかよく分からない。朔也は眼鏡の奥の瞳を伏せ、しばし黙った。そしてぽつりと言う。
「わからない。今はただ——この現象がどういう規模か観測し続けるしかない。けれど」
一旦言葉を切り、
「もし私が選べるとしたら……」
そこから先は紡がれなかった。風が彼の声をさらったのか、朔也が意図的に遮ったのか。いずれにせよ会話はそこで終わりを告げた。
俺は空を見上げる。藍色のヴェールが東の空から忍び寄っている。これから夜が来る。そして夜と共に現れるかもしれない『訪問者』。
「・・・まずは、奴らをなんとかするか」