夜の大学屋上には、昼間の喧騒が嘘みたいに残っていなかった。
コンクリートに溜まった昼の熱もほとんど抜けていて、フェンスの向こうに広がる街の灯りだけが、遠くで静かに呼吸しているように瞬いている。
透は段差になった縁へ腰を下ろし、肘を膝に乗せたまま、手の中のシジルドライバーをぼんやりと眺めていた。
金属の表面を親指でなぞるたび、月明かりを鈍く返すその感触が、妙に現実味を帯びて指先に残る。
少し離れた場所では、久遠寺朔也がフェンスに背を預け、腕を組んだまま夜景を見ていた。
その横顔はいつも通り落ち着いているのに、肩だけがわずかに強張っていて、言葉にしていない何かをずっと噛み締めているように見えた。
透はドライバーを軽く持ち上げて、そこに映った自分の顔を一瞬だけ見てから、小さく笑うように息を吐いた。
「それにしても、こうやってお前と話をするのもそんなに珍しくないよな」
軽い調子で投げた言葉だったが、屋上の静けさのせいか、思ったよりも真っ直ぐに響いた。
朔也はすぐには振り向かず、夜景へ向けていた視線を少しだけずらしてから、低い声で答える。
「・・・君との付き合いはまだ一ヶ月程度だがな」
その返しを聞いて、透はわざと大げさに眉を上げた。
けれど否定する気にはなれず、ドライバーを膝の上で転がしながら、ぽつりと独り言みたいに漏らす。
「一ヶ月ねぇ、確かにこれを手に入れてから、もうそんなに経っていたか」
シジルドライバーの重みが、言葉のあとに少し遅れて掌へ沈む。
透はそれを握り直し、表面に刻まれた細い線を見つめたあと、何でもない風を装って顔を上げる。
「なぁ、朔也」
朔也は腕を組んだまま、今度はきちんと透の方を見た。
暗がりの中でも、その目だけは妙にはっきりしている。
「なんだい?」
透は一度だけ唇を舐め、少し笑ってから言った。
「お前は、仮面ライダーにならないのか」
言った瞬間、風の流れが変わった気がした。
フェンスがかすかに鳴り、朔也の視線がほんのわずかに細くなる。
「・・・なぜ、それを聞く」
返ってきた声は低いが、怒っているというより、どこか踏み込まれたくない場所に触れられた時の硬さがあった。
透は肩をすくめ、手の中のドライバーを少し持ち上げて見せる。
「これは元々はお前のドライバーだ。だったら、お前が本来の変身者だ、だから」
最後まで言い切る前に、朔也の声が重なる。
「余計な事を言うな」
その一言は短い。
けれど語尾に含まれた重さが、屋上の空気ごと押し下げる。
朔也は組んでいた腕をほどき、フェンスから背を離して一歩だけ近づいた。
光の薄い場所から出てきたせいで、表情がさっきよりはっきり見える。
「俺はお前にそのドライバーを託した。何よりも――」
そこまで言って、言葉が途切れる。
透は余計な相槌を打たず、黙って待つ。
朔也は視線を落とし、開いた手をゆっくり握り直してから、吐き出すように続けた。
「・・・俺にはそのドライバーを使う資格はない」
その言い方は、誰かに言い聞かせるためのものではなかった。
ずっと前から胸の奥で固めていた結論を、ようやく外へ出した時の硬さが残っていた。
透は少しだけ首を傾け、膝に肘を乗せたまま朔也を見上げる。
からかうような顔を作ろうとして、やめる。
「使う資格ねぇ、そういうのは俺には分からないわ」
朔也は眉間を押さえるように指先を当て、深く息を吐いた。
その仕草だけで、今の言葉がどれだけ本心から外れているか分かってしまう。
「はぁ、お前は本当に」
言い終える前に、朔也は小さく首を振った。
責めるつもりがあるわけではないのに、透の軽さに救われることも、逆に追い詰められることもあるのだろうと、透はなんとなく思う。
黙ったままでは空気が深く沈みすぎる。
透はドライバーを脇へ置き、足元のコンクリートを靴先で軽く蹴りながら話題を変えた。
「そう言えば、朔也って、どんな世界に行ったんだ」
朔也は一瞬だけ怪訝そうな顔をする。
それでも、今度は拒絶せずに問い返した。
「いきなりなんだ」
透は笑う。
いつもの調子を崩さないように、わざと肩の力を抜いて答える。
「なんか気になって」
その返事を聞いた朔也は、すぐには口を開かなかった。
フェンスの向こうに目をやり、遠くの灯りを数えるみたいに短く黙り込む。
「そうだな、現代とはあまり変わらないように見えるが、実際には超能力者がいた世界だ」
その言葉に、透の目が少しだけ明るくなる。
反射みたいに身を乗り出していた。
「おっ、やっぱりいるよな、超能力者」
朔也はわずかに口元を緩めた。
夜の空気の中では、それだけでも十分に柔らかい変化だった。
「そういう世界にも行った事があるのか、さすがと言うべきか」
透は曖昧に笑いながら、しかしすぐに冗談を引っ込めて問いを重ねる。
「それで、その世界ではどうだった」
今度の沈黙は少し長かった。
朔也の喉が一度だけ動く。
「・・・正直に言うと、今、思い出しても地獄だよ」
その声には芝居がなかった。
淡々としているのに、逆にその方が生々しい。
「超能力という力で格差があって、生きた心地はなかった」
屋上を抜ける風が少し強くなる。
透は膝の上で組んだ指をほどき、言葉を選ぶように息を吸った。
「かもしれないな。けど、それだけじゃないだろ」
朔也の視線が、そこで初めて透に戻る。
逃げ場を探すような目ではなく、見透かされたのを諦めたような目だった。
「あぁ、あの世界で、俺は多くの人を助けられた」
その一言のあとに置かれた間が、何より重い。
透は黙って続きを待つ。
「だけど、俺は途中で死んでっ」
言葉が途中で途切れる。
喉の奥で引っかかるように止まったその音を、透は聞き流せなかった。
「朔也」
呼びかけると、朔也は自嘲気味に口元を歪める。
笑おうとしたのに、うまく形にならなかった顔だった。
「まぁ、こんな事を言っても、無駄かもしれないが」
その瞬間、空気の密度が変わった。
夜の静けさの中で、何かが擦れるような嫌な音が混ざる。
透の背筋に、ぞわりとした感覚が走った。
「っこれは」
反射的に立ち上がる。
足元のコンクリートの冷たさが、靴裏越しに急にはっきり伝わる。
朔也もすぐに視線を巡らせた。
屋上の端、フェンス近くの空間が、水面みたいにゆっくりと歪んでいる。
「エコーか」
低い声が落ちる。
さっきまでの会話の余韻は、もう残っていない。
透は脇に置いていたドライバーを掴み、腰へ当てる。
指先が自然に動き、ワールドシールが装填口へ滑り込む。
「全く、こういう時に」
半ば呆れたように言いながらも、目はすでに歪みの中心を捉えていた。
久遠寺が一歩下がる気配を背中で感じる。
「変身!」
『シジル・コンパイル!ファンタジーフォーム!』
電子音が屋上の夜気を切り裂き、赤い装甲が透の身体を一気に包み込む。
フード付きのマントが翻り、ドラゴン意匠のマスクが月明かりを受けて鈍く光る。
透は拳を握り、足の位置を整えた。
歪んだ空間の向こうで、影の輪郭がゆっくりと形を持ち始める。
「さて、行くか!」
戦いの気配が、屋上の静けさを完全に塗り潰した。