戦いの熱がようやく引きはじめた屋上には、砕けたコンクリートの粉と、遅れて戻ってきた夜風の冷たさだけが静かに残っていた。
俺は変身を解いたあと、まだ少し痺れている脚をかばいながらフェンス際まで歩き、そこへ背中を預けて長く息を吐いた。
少し離れた場所では、朔也が新しく手にしたドライバーを掌の中で確かめるように見つめていて、その視線だけがさっきまでよりも明らかに重くなっている。
「で、結局どうなんだよ」
先に口を開いたのは俺の方だったが、声の調子だけはいつも通りにしておいた。
ここで妙に気を遣った言い方をすると、あいつはたぶん余計な理屈で身を固める。
朔也はすぐには答えず、ドライバーの縁へ親指を滑らせながら、夜景の向こうへ視線を逃がした。
遠くのビルの灯りがその横顔の輪郭を薄く照らしているせいで、考え込んでいるのか、まだ迷っているのか、そのどちらも同じ顔に見える。
「何が、とは聞かないのか」
「聞かなくても分かるだろ」
俺が肩をすくめると、朔也はようやく小さく息を吐いた。
その吐き方が、さっきの戦闘での疲れよりも、もっと別の重さを含んでいるのが分かる。
「私は、あの場で必要な判断をしただけだ」
やっぱりそこから来るかと思って、思わず口元が緩んだ。
予想通りすぎて笑えてくるのに、本人は本気でそう整理しようとしているから、余計に朔也らしい。
「難しく言うなって、そういうのじゃなくてさ」
俺はフェンスから背を離し、少しだけ体を朔也の方へ向ける。
あいつもそれに気づいたのか、今度は視線を外さなかった。
「お前、何見て手を伸ばしたんだ」
問いかけたあと、夜風が一度だけ強く吹いた。
砕けた床の上を転がっていた小さな破片が、かすかな音を立てて足元で止まる。
朔也は返事の前に、握っていたドライバーを一度だけ見下ろした。
その沈黙は長かったが、ただ黙り込んでいるわけじゃないことくらいは分かる。
あいつは言葉を探しているというより、逃げ道にならない言葉だけを選ぼうとしている。
「見えてしまったんだ」
出てきた声は低くて静かだったが、変身前より少しだけ芯が通っていた。
俺は口を挟まず、その続きを待つ。
「見ているだけでは足りない場面があることは、ずっと前から知っていた」
朔也の指先が、ドライバーの表面をなぞる動きをそこで止めた。
さっきまで冷静に観測していた人間の手つきではなく、自分でも持て余すものを確かめるみたいな触れ方だった。
「知っていたのに、私は観測していればいいと決めていた」
「決めてた、っていうか、そうやって逃げてたんだろ」
俺がそう返すと、朔也はすぐには否定しなかった。
むしろその沈黙の方が、変に言い訳されるよりずっと正直だった。
「……そうだな」
その一言は短かったが、たぶんあいつにとってはかなり大きな譲歩だった。
自分でそう認めるまでに、どれだけ時間がかかったのかを思うと、からかう気も少しだけ失せる。
「資格がないと思っていたんだろ」
俺がそう言うと、朔也は目を細めた。
責められたからじゃなく、図星を先に言われた時の顔だった。
「今も、資格があるとは思っていない」
そこは変わらないのかと、一瞬だけ拍子抜けしかける。
けれど、その続きを聞いて、ようやく腑に落ちた。
「だが、資格がないという言葉を盾にして、後ろへ下がり続けるつもりもない」
夜の空気が、その言葉のあとだけ妙に澄んだ気がした。
ずっと曖昧なまま胸の奥に沈めていたものへ、ようやく輪郭がついたのだと分かる。
「じゃあ今は、何だよ」
俺はあえて単純な聞き方をした。
朔也みたいなやつは、そこで難しい言い方へ逃げようとするからだ。
案の定、あいつは一度だけ視線を逸らしかける。
けれど、すぐに戻した。
「責任だ」
短く落ちたその言葉には、変な飾りがなかった。
だからこそ、逆に重かった。
「見えてしまう以上、私はもう知らないふりが出来ない。知っていて手を出さないなら、それは判断ではなく放棄だ」
そこまで言ってから、朔也はわずかに肩の力を抜いた。
ようやく、自分の中で言葉が噛み合ったのだろう。
「前に出続ける人間を、後ろから観測していれば済むと思っていた。だが、今日それは違うと分かった」
俺はその言い方に、思わず鼻で笑った。
相変わらず遠回しで、しかもちゃんと俺のことを指しているくせに、直接そうとは言わないのがあいつらしい。
「それ、俺のこと言ってるだろ」
「他に誰がいる」
「もっとこう、分かりやすく言えよ」
そう返すと、朔也はほんの少しだけ口元を緩めた。
戦闘の最中にも見なかった笑い方だったから、逆にちょっとだけ安心する。
「君を見ていたから、という言い方では不足か」
「不足じゃないけど、固ぇな」
俺が笑うと、朔也はまた小さく息を吐いた。
今度のそれは、さっきまでみたいな重いものじゃなく、少しだけ肩から力が抜けた時の呼吸に近い。
「で、これからも変身するのか」
俺がもう一度だけ核心を突くと、朔也は今度は迷わなかった。
ドライバーを握る手に、無意識じゃない力が入る。
「必要になってからでは遅い場面があることを知っている」
その答えは、あいつらしく回りくどい。
けれど、意味は十分だった。
「つまり、やるってことだな」
「そうなる」
やっとそこまで来たかと、胸の奥で張っていたものが少しだけほどける。
俺はフェンスへもう一度背中を預け、空を見上げながら肩を回した。
「だったら次からは、容赦なく前に出てもらうぞ」
軽く言ったつもりだったが、朔也は真面目な顔のまま頷いた。
その素直さがなんだか可笑しくて、俺は小さく笑う。
「お前さ、今まで後ろにいすぎた反動で、最初から全力で背負い込みそうで怖いんだよ」
「その時は、君が止めればいいだろう」
「簡単に言うなよ。止まる気ない奴を止めるの、けっこう面倒なんだからな」
そう言うと、朔也は少しだけ目を伏せたあとで、静かに言った。
「それでも、今回は止めなかった」
その一言に、俺は返す言葉を少しだけ失う。
止めなかったんじゃない。止める理由がなかった。
そう言いかけて、やめた。
「……まあな」
代わりにそうだけ返す。
そのくらいの方が、今はちょうどいい気がした。
夜風が、俺たちの間をゆっくり抜けていく。
戦いの熱はもう薄れていたが、さっきまでそこになかったはずの何かだけが、確かに残っている。
観測者のままで終わらないと決めた男と、最初から前へ出続けていた俺。
たぶん今日で、ようやく同じ戦場の上に立てたのだと思う。
「朔也」
「なんだ」
「悪くない答えだった」
俺がそう言うと、朔也は少しだけ驚いた顔をして、それから夜景の方へ視線を戻した。
その横顔が、変身前よりわずかに軽く見えたのは、たぶん気のせいじゃない。