翌日の夕方、駅前から二つ離れた商店街の外れでエコーが出たと聞いた時、俺は三枝の顔を見ただけで、あいつが昨日のことをまだ引きずっているのだとすぐに分かった。
いつもなら事件の話より先に軽口の一つでも飛ばしてくるくせに、その日は妙に口数が少なく、歩きながらも何度か朔也の横顔を盗み見ている。
「なんだよ、さっきから人の顔ばっか見て」
俺がわざと軽い調子で言うと、三枝は気まずそうに眉を寄せてから、すぐには誤魔化しきれないと悟ったらしく肩をすくめた。
朔也はそのやり取りを聞いていたはずなのに、何も言わず、ただ前方の曲がり角へ視線を固定したまま歩いている。
「別に、見てるっていうか……いや、やっぱ見てるわ」
三枝がそんな曖昧な答えを返した直後、前方で人の叫ぶ声が重なった。
商店街の通りへ飛び込んだ瞬間、視界に入ったのは、壊れた自転車と、倒れた屋台の骨組み、その間を縫うように逃げる買い物客の群れだった。
そして、その中心にもう一つ、見覚えのある黒と赤の背中が立っている。
バンガル――炎鳥宮は、俺たちが着いた時にはすでに一体を仕留め終えていて、次に来る個体へロッドを低く構えながら、視線だけで通り全体を測っていた。
「またお前かよ」
俺が半ば呆れたように声をかけると、宮は振り返りもしないまま、前へ出ようとした子どもの肩を片手で後ろへ押し戻した。
乱暴に見える動きだったが、その力加減は正確で、子どもは転ぶこともなく母親の背中へ押し返される。
「下がれ。足を止めるな」
短い一言だけを残して、宮は次のエコーへ踏み込んだ。
ロッドの石突きで膝裏を払われた個体が大きく体勢を崩し、その喉元を横から斬り裂かれた瞬間、切断面がじゅ、と嫌な音を立てて赤く焼ける。
「一般人には本当に優しいんだな、あの人」
三枝が小さく漏らす声には、昨日よりも戸惑いが混じっていた。
冷たいはずなのに助け方に迷いがなく、突き放しているようでいて、逃がすべき相手は必ず逃がす。
そのねじれが、あいつの中でまだうまく噛み合っていないのだろう。
「透、来るぞ」
朔也の声が飛んだ瞬間、俺はほとんど反射でシジルドライバーへ手を伸ばしていた。
エコーの一体が屋台の残骸を踏み越えて跳び上がり、その背後で黒い煙みたいなものが地面に散っていく。
「変身!」
『シジル・コンパイル! ファンタジーフォーム!』
赤い装甲が身体へ噛み合い、手の中へ戻ったシジルゲッターの重みが、ようやく遅れていた呼吸を戦闘の方へ引き戻してくれる。
俺は正面の個体へ斬り込みながら、もう一体、その後ろで膨らみ始めている黒い煙を視界の端に入れた。
「また増えるタイプか」
昨日の個体と同じだと気づいた瞬間、床へ落ちた残骸の一部が、泡立つみたいに持ち上がって形を作り始める。
核を壊し切らずに散らすと、その散った破片が別の個体へ変わる厄介な構造だ。
俺が核へ向けて踏み込もうとした時、横から朔也の声が飛んだ。
「核は後だ、先に左の路地を空けろ」
言われたまま反射で視線を向けると、逃げ遅れた老婆が一人、倒れた自転車と看板の間で身動きを失っていた。
その更に奥では、新しく膨らみ始めた黒煙が、ちょうどその路地を塞ぐように伸びている。
「おい、先にそっちか」
口ではそう言いながらも、俺の足はすでに左へ切れていた。
剣で看板の脚を払って道を作り、路地へ伸びかけた煙の塊をまとめて薙ぎ払う。
背後で三枝が老婆の肩を支え、商店街の奥へ誘導しているのが見えた。
その間に、宮は別の個体を二体まとめて処理していた。
切って、熱し、増える前に核を崩す。
あの男の戦い方には本当に一切の無駄がない。
「最短で終わらせろ、長引かせるな」
宮が低く言う。
その言葉は俺に向いているようで、実際にはもっと別の方向へ投げられていた。
朔也はその声に何も返さず、通りの中央ではなく、奥まった十字路の方を見ていた。
エコーの核よりも先に、増殖した時の流れと、人が逃げる向きと、どこを切れば被害が一番少なくなるか。
それを数えている目だった。
そして、その瞬間だけ、俺は妙なものを見た。
朔也の視線が、一度だけ右手の菓子屋の前で尻もちをついている男を捨てて、その奥の家族連れへ移った。
ほんの一拍だ。
次の瞬間にはもう違う手を探していたし、実際には男を見捨てるような指示も出さなかった。
それでも、その一瞬で「どちらを切れば全体が助かるか」を計算したように見えて、俺は思わず息を呑んだ。
三枝も、たぶん同じものを見た。
路地の入口で老婆を支えていた手が、一瞬だけ止まっていた。
「……久遠寺」
小さく漏れた名前に、朔也は視線だけをそちらへ向ける。
その顔にはいつもの静けさがある。
あるはずなのに、ほんのわずかだけ、遅れている。
「右の家族を先に出せ」
結局、朔也が選んだのは別の手だった。
俺が中央の個体を引きつけ、宮が分裂しかけた残滓を焼き切り、その間に三枝が男の腕を引っ張り起こして路地の外へ押し出す。
全員を捨てずに済む細い手順を、朔也はギリギリで拾った。
だが、その過程で何を見たのかは、三枝の表情を見れば分かる。
あいつはいま、自分が感じた引っかかりに、ようやく名前をつけかけている。
「やはり、そういう見方をするか」
宮の声が、いつの間にか近くで落ちた。
ロッドの先にはまだ熱を帯びた切り口の煙が細く揺れている。
昨日みたいに踏み込んで断罪する口調ではないが、観察の結果を確認するような冷たさは残っていた。
「違う」
朔也は短く返した。
理屈で切り返す声色だったが、その芯に揺れがあることは、俺にも三枝にも分かる。
「可能性を並べただけだ。切る前提で考えたわけではない」
「同じだ」
宮はそれ以上、押し込まなかった。
それでも、その二文字だけで十分だった。
見ている角度が近いからこそ、危うさも見える。
そう言われている気がした。
最後の個体を俺が斬り伏せた時、黒い煙はもう膨らまず、そのまま地面へ沈んで消えた。
通りを塞いでいた空気がようやくほどけ、逃げ遅れていた人々の泣き声と、遠くのサイレンが遅れて戻ってくる。
変身を解いたあとも、三枝はしばらく黙ったままだった。
宮は助けた一般人へ向けても礼を受け取らず、「怪我人を先に運べ」とだけ言い残して、商店街の奥へ歩いていく。
最後まで一度も、誰かに認められようとはしていなかった。
「……お前、さっき何見てたんだ」
ようやく三枝が口を開いた時、その問いは俺ではなく朔也へ向いていた。
朔也は少しだけ視線を落とし、壊れた屋台の脚を見つめるようにしてから答える。
「被害が広がる順番を見ていた」
「それだけじゃねぇだろ」
三枝の言い方は強くない。
責めるというより、自分の見たものを確かめたいだけの声だった。
朔也はすぐには答えず、その沈黙がかえって言葉より正直に見えた。
「……最悪の手も、一度は考えた」
その返答に、三枝は目を見開く。
けれど、すぐ怒鳴ることはしなかった。
「でも、やらなかった」
「やらずに済む手順が見えたからだ」
朔也の声は平坦だったが、そこに混ざった疲れは、戦闘のものというより別の重さだった。
俺はその横顔を見て、昨日のバンガルの言葉が、まったくの外れではなかったことを嫌でも悟る。
三枝はすぐには納得しなかった。
それでも、「お前がそう考えたこと自体が怖い」とは言わなかった。
しばらく黙ってから、ようやく吐き出すように言う。
「……分かんねぇよ、正直。けど、ただ冷たいってだけじゃねぇのは分かった」
朔也がわずかに目を上げる。
三枝はそっちを見ないまま、倒れた看板を足でどかして通り道を作っていた。
「見えすぎてるから、止まるのかもしれねぇな」
その言葉を聞いた瞬間、朔也の肩からほんの少しだけ力が抜けたのが分かった。
救われた顔ではない。
だが、少なくとも一人には、完全な誤解のまま見られていないと分かった時の、静かな呼吸だった。
その時、足元でぱち、と小さな音がした。
さっき消えたはずのエコーの残滓が、灰になった紙片みたいな形で燃え残っている。
黒く焦げた札のようにも見えるそれを、朔也がしゃがんで拾い上げた。
「これは……」
指先でつまんだ瞬間、紙片の表面に細い紋が一瞬だけ浮かぶ。
俺はその見慣れない気配に、思わず眉をひそめた。
朔也の表情も、さっきまでとは違っていた。
観測者の顔だ。
だが今度は、迷いより先に警戒が立っている。
「次は、面倒だぞ」
いつの間にか立ち止まっていた宮が、背を向けたままそれだけ言った。
振り返らないその声が、夕方の空気の中で妙に乾いて響く。
商店街にはようやく日常のざわめきが戻り始めていたが、俺たちのいる場所だけは、まだ別の夜の入口に立っているみたいに静かだった。