日が落ちきる前の時間帯は、空の色が完全に消えきらず、昼と夜の境界が曖昧に残り続けていた。
大学からの帰り道に漂う空気は、昼間の喧騒をわずかに引きずりながらも、確実に静けさへと移行している最中だった。
特に約束を交わしたわけではなかったが、気づけば同じ方向へ歩くことが増えている。
それは偶然の積み重ねというよりも、同じものを共有した人間同士に生まれる、自然な流れのようなものだった。
隣を歩く久遠寺は、いつも通り前だけを見ており、余計な動きも言葉もほとんどない。
だが、その沈黙は気まずさではなく、互いに状況を理解しているからこそ成立する静けさだった。
「……あの時の件、まだ引っかかってるのか」
視線を動かさないまま投げられた言葉は、問いかけというより確認に近い響きを持っている。
あらかじめ答えを知っている相手に対して、最終確認だけを行うような口調だった。
「まぁな。消えたはずなのに、妙に残ってる感じがしてさ」
軽く肩をすくめながら答えるが、その内容自体は誤魔化しではない。
歓迎会の時に感じた、あの一瞬の歪みは、あまりにも弱かったがゆえに記憶に残り続けている。
「完全に消えたとは言い切れない、という判断でいい」
「お前も気づいてたんだろ」
「ああ。だが、あれは単体の現象としては弱すぎる」
久遠寺の言葉は淡々としているが、その裏には明確な警戒が含まれている。
強すぎる異常は対処できるが、弱すぎる異常は正体を掴みにくく、結果として厄介になる。
「弱いから厄介、ってやつだな」
「そういうことだ」
短いやり取りで会話は途切れるが、その沈黙は途切れではなく、共有の延長だった。
言葉を重ねなくても同じ認識に辿り着いているという事実が、余計な説明を必要としなかった。
しばらく歩いたところで、久遠寺の足が不意に止まる。
それに合わせてこちらも自然と歩みを止めるが、周囲には人の気配がほとんど残っていない。
川沿いの遊歩道は、この時間帯になると驚くほど静まり返り、都市の音が一段遠くなる。
風が水面を撫でる音だけが残り、余計な雑音が削ぎ落とされた空間が広がっていた。
「……透」
名前を呼ばれた瞬間に、空気の質がわずかに変わる。
それは緊張というよりも、これから扱う話題が日常の延長ではないと示す変化だった。
「どうした」
「話がある」
短く区切られた言葉は、普段の情報共有とは明確に違う重みを持っている。
雑談ではなく、判断を伴う内容を切り出す時の声音だった。
「珍しいな。お前から切り出すの」
「そうでもない。ただ、タイミングの問題だ」
そう言いながら、久遠寺はポケットへ手を入れる。
取り出されたのは、見慣れた形状でありながら、微妙に異なる光を帯びた二枚のワールドシールだった。
「……二枚か」
「そうだ。俺が保持していた分になる」
差し出される動作はいつも通り正確だが、その一瞬だけ僅かな躊躇いが混じる。
それは判断を誤ることへの恐れではなく、判断の結果に責任を持つ覚悟の重さだった。
「今まで渡さなかった理由、聞いていいか」
すぐに受け取ることはせず、先に問いを投げる。
この男が持ったままにしていたものには、必ず明確な理由が存在する。
「簡単な話だ」
久遠寺は一度だけ視線を落とし、そのまま言葉を続ける。
感情を挟まず、事実だけを並べる時の話し方だった。
「全てが揃った時に何が起きるか、確定していなかった」
「まぁ、それはそうだろうな」
ここまで揃っていて、最後だけ不明という状況も、ある意味ではらしい。
完全な情報がないまま進むのは、これまでと変わらないとも言える。
「仮説はいくつか存在していた」
久遠寺は続ける。
「門が開く可能性、新しいシールが生成される可能性、あるいは何も起きない可能性」
「ずいぶん幅が広いな」
「もう一つある」
そこで一瞬だけ言葉が切れるが、それは迷いではなく区切りだった。
「……最悪のケースだ」
声のトーンがわずかに落ちる。
「ワールドシールは、それぞれが別の世界の解釈を分割して保持している」
「分割、か」
「本来は交わらない法則を、安全に扱うための構造だ。だから同時に存在できる」
確かに、それは納得できる説明だった。
あれは世界そのものではなく、あくまで翻訳された断片に過ぎない。
「それが全て揃った場合」
久遠寺は、こちらへ視線を向ける。
「分割が維持される保証はない」
風が一度だけ強く吹き、川面に映っていた光が大きく揺れる。
その揺らぎが、これから起こるかもしれない変化を暗示しているようにも見えた。
「……つまり?」
「一つに戻る可能性がある」
短く断定される。
「全部まとめて、ってことか」
「ああ」
そこまで言ってから、わずかに言葉を補足する。
「ただし、それが完成とは限らない」
差し出された二枚のワールドシールを見つめる。
これで全てが揃うという事実は、単純な達成ではなく、未知への入口でもある。
ここまで来て、何も確かめずに終わることも出来る。
だが、それを選ぶことは、おそらく自分には出来ない。
「……まぁ」
小さく息を吐く。
「ここまで来て、最後だけ見ないってのも、気持ち悪いよな」
軽く言うが、その中身は冗談ではない。
「そう言うと思った」
久遠寺はわずかにだけ表情を緩める。
「止める気はないのか」
「止める理由はある。だが、進まない理由にはならない」
それが、この男の出した結論だった。
「見えてるなら、言っとけよ」
「言っている。危険だ」
「それでも、だろ」
「……ああ」
手を伸ばし、差し出された二枚のワールドシールを受け取る。
重さはほとんどないはずなのに、これまでの積み重ねがそのまま手の中にあるように感じられた。
「場所、変えるか」
「その方がいい」
短い同意が返ってくる。
ここは日常に近すぎる。
何が起きてもおかしくない以上、距離は取っておくべきだった。
再び歩き出す。
目的地を明確に決めたわけではないが、自然と足は人の気配が少ない方向へ向かっていた。
まだ、何も起きていない。
だが、それは嵐の前の静けさに似ている。
確実に、何かが始まろうとしていた。