仮面ライダートラヴァース   作:ボルメテウスさん

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恐怖の記憶

空気が変わった。

 

先ほどまでの硝煙の臭いが、いつの間にか薄れている。代わりに——甘い。蜂蜜のような、熟れ果てた果実のような香りが鼻腔をくすぐる。だがそれは同時に、腐敗した花蜜のような濁りを伴っていた。甘美さの裏に潜む、生物が死に至る前の異常な発酵臭。

 

「……何だ、これ」

 

三枝が顔をしかめる。彼の目はまだ慣れない暗がりを探っている。俺は違う。身体が——経験が——警告を発している。これは「気配」の質量だ。特定の能力が周囲の空間を圧迫している証拠。

 

腰のドライバーが微かに振動した。反応するべき未知の刻印を感知したのだ。だがドライブは起きていない。つまり——相手も同じものを保持している。

 

「こんにちは」

 

朗らかな挨拶。その声だけで皮膚が粟立った。甘ったるいのに喉奥に鉛が絡みつくような粘性。振り向いたとき、廊下の闇を背景に一つの人影があった。

 

蜂蜜色に染まった装甲。肩や胸部にふさふさとした毛皮。頭部は丸みを帯びた大型哺乳類の骨格を思わせるシルエット——その顔に貼りついているのは、笑みに似たフェイスライン。額に光るのは獣の双眸を模したレンズ。牙の如きマウスピースが上下に並び、その隙間から呼気が洩れるたびに微かな電子音が混ざった。

 

右腰。そのベルトには——俺と同じドライブサドルとシジルドライバー。違いといえば色彩と装飾品くらいだ。赤いドラゴンの紋章が刻まれているはずの位置には、三日月型の毛皮と、それを咥えたヒグマの彫刻が彫り込まれている。

 

「……ライダー?」

 

思わず問いかけた。相手は小さく肩を揺らした。笑いなのか頷きなのか区別のつかない曖昧な動きだ。

 

「はじめまして。僕は《ラブズリー》」

 

明朗すぎる声量なのに耳へ届くたびに湿気に蝕まれていく感覚……。

 

「君が探しているワールドシール……くれないか」

 

「———いや、無理だな」

 

即答した瞬間、空気が凍りついた。いや、凍るのは温度じゃない。恐怖だ。ラブズリーの腰から、微かに毛皮の隙間から漏れるような低周波が空間を満たす。

 

「そうか。残念だ」

 

彼の声は相変わらず明るい。だが、その右手が動いた。背後にあった大きな影——俺が気づかぬうちに持ち出していたのか——を振り下ろす。鎖の音。重い金属質の軋り。それが一瞬で加速し、目の前を覆った。

 

シジルゼッターを横に構える。左手で柄を握り直し、右手で刀身を掴む。レリックブレードユニットが回転し、杖から剣へと再構成される。間に合うか——

 

『ソードモード』

 

ギィンッ!!

 

金属同士が火花を散らす衝撃音。俺のシジルゼッターの刀身がラブズリーの大鎌——シジルゼッター・サイズモードを受け止めた。刃先がぶつかり合い、互いの刻印線が青白く共鳴する。火花どころか、小さな電磁干渉が生まれて視界を霞ませる。

 

「……っく」

 

腕にかかる重みは尋常じゃない。こいつ——見た目より遥かにパワーが桁違いだ。ヒグマの体格は伊達じゃない。膂力だけならゲートナイトに匹敵するかもしれない。

 

「僕はね」ラブズリーは笑っている。「本当に君たちを傷つけたくないんだよ」

 

嘘だ。彼の言葉の裏に隠された欲望と狂気が滲み出ている。そして何より——恐怖のオーラが濃くなっている。三枝の方を見ると、彼は踊り場の隅で震えながら膝をついていた。顔面蒼白。呼吸すら浅い。

 

「透……」三枝がかすかに俺の名を呼ぶ。「……逃げろ……」

 

その声に応えたい。だが——後退すれば大鎌の追撃が来る。それにこいつをこのまま放置すれば、三枝以外にも被害が出る。

 

「悪いな、三枝。もう少しだけ頑張ってくれ」

 

そう言いながら剣を押し返す。拮抗していた刃が僅かにずれた。その刹那を見逃さず、鍔で鎌の腹を払い除けた。

 

「さぁ———始めるか」

 

軽口を吐き捨てる余裕はある。でも内心では警戒レベルを最高値に切り替えていた。

 

「……君も、怖がってほしいんだ」

 

ラブズリーの声が、蜂蜜に浸された糸のように絡みつく。彼は左手で腰のマズルを——三日月型の毛皮に包まれた、熊の彫刻が施された装置を——摘み上げた。グリズリーマズル。俺のドラゴンマズルと同型の筐体に、異なる魂が宿っている。

 

鎌の柄へ。接続部へ。マズルが滑り込む音が、妙に湿っぽく響いた。

 

「グリズリーマズル、リンク」

 

機械的な音声ではない。彼自身の声が、哄笑じみた響きを帯びて呟く。そして——

 

「シジル・オン」

 

ドライバーのコアが唸りを上げる。蜂蜜色の光が鎌の刃にまとわりつく。匂いが濃くなった。腐りかけた林檎のような甘ったるさと、獣脂を焼いたような焦げ臭さが交錯する。空間の湿度が急激に上昇し、頬に汗粒が浮かぶ。喉が渇く。唾を飲み込んだだけで心臓が跳ねた。

 

「なんだ……」

 

奇妙な重み。肺ではなく胃の腑から押し上げられるような圧迫感。反射的に胸元を掻く。指先がかすかに震えている——違う。震えているのは身体だ。

 

(まずい……これは……)

 

思考がまとまらない。理由がわからないまま、後ろへ足が動いていた。踵が床を蹴った感触。自分で踏み出したのか、無意識なのか区別がつかない。

 

「———っ!?」

 

俺の意思に反して背後の壁際へ後退している。距離にして半歩。それが生死を分ける境界になることはわかっていた。でも、止まらない。

 

「ほうら。やっぱり怖いんだね」

 

ラブズリーが微笑む。蜂蜜色の瞳が俺を捉えている。その視線だけでも胸中を締め付ける。まるで無数の蜘蛛の糸に絡め取られるような不快感だ。

 

(まさか……これがあいつのマズルの能力か)

 

恐怖を操る。相手を怖がらせ、自由意志を奪う。それだけじゃない。恐怖は感染する。俺だけでなく——

 

視界の端で三枝が震えている。呼吸は荒く、涙腺まで刺激されているようだ。目尻に大粒の涙が溜まっている。彼はただ立っているだけで精一杯なのだ。

 

「ふふ……」

 

ラブズリーは嬉しそうに鎌を掲げた。蜂蜜色の光が弧を描き、空気に溶け込むように拡散する。匂いがさらに重くなる。脳髄に直接入り込むような、粘ついた芳香。意識が侵食されていく感覚。このままでは———

 

(いや、待て。こんなことで俺が膝を折るなんて……)

 

思い切り奥歯を噛みしめる。痛みが一瞬、理性を呼び起こした。俺の脳裏で過去の経験がフラッシュバックする。燃え盛る森の中を逃げた夜。毒沼で仲間が崩れていく瞬間。どれも恐ろしかったが——それでも戦った。戦い続けた。恐怖は誤魔化すもの。でも今日は違う。恐怖に飲まれそうだ。

 

「……くそっ」

 

小さく呟きながら膝を折りそうになるのを堪える。右足の裏に床の硬さを確かめると少しだけ安定感を取り戻すことができたように思えたものの依然として視界には不安定さがあったこともまた確かだと言えるであろうことは言うまでもないことでしょうきっと間違いなくそうなのでしょうから。

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