仮面ライダートラヴァース   作:ボルメテウスさん

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恐怖ヲ冷静ニ

「もう、いいんだよ」

 

ラブズリーの声が耳元に寄り添う。物理的な距離はまだ三メートル以上あるはずなのに、思考の奥底で囁かれているような錯覚。蜂蜜の滴るような甘さに、腐りかけの肉の粘り気が混ざっている。

 

「怖がらなくていい。僕が全部、受け止めてあげるから」

 

大鎌が床に触れ、鈍い音を立てる。彼は歩み寄ろうとしていない。待っている。獲物が自ら膝をつくのを。恐怖に屈服し、依存し、彼の「愛」の中に逃げ込むのを。

 

(ああ———こいつは、そういうやつだ)

 

喉の奥で笑みが滲む。恐怖は確かにあった。心臓の鼓動が耳鳴りを上回る。手足の先が冷たく痺れている。だが——仮面の下で、俺は確かに笑っていた。誤魔化すための笑み。自分を騙すための、慣れきった防衛反応。

 

「残念だけどな、ラブズリー。俺の守るものは、愛されなくても構わないんだよ」

 

彼の表情が初めて歪んだ。瞳孔が収縮し、蜂蜜色の光彩が濁る。不愉快そうだ。愛情を与えるべき相手が跪かないことが、信じられないのだろう。

 

視線を落とす。腰のポケットから一枚のシールを取り出す。先ほど拾ったばかりのもの——サイバー・ワールドシール。表面にはデュアルバンド通信ポートに似た幾何学模様。中心の赤黒い眼球アイコンが脈動している。

 

「こいつでどうにかするしかないか」

 

触れた瞬間、電脳都市「ニューロン・ハイヴ」の記憶が蘇った。白銀のビル群。天井まで張り巡らされたサーバー網。空気を媒介せずネットワーク内で行われる会話。思考盗聴型の監視AI。恐怖に支配されるより早く——恐怖そのものを制御する術を学んだ世界だ。

 

(ここは現実じゃない。情報空間だと思え。感情も、恐怖も、ただのデータ入力に過ぎない)

 

シールを握り込む。体温が伝わり、刻印が一瞬で活性化する。微かな振動が掌に跳ね返り、脊椎を通って脳幹を震わせた。

 

「使ってみるか」

 

シールをドライバーの左スロットへ——差し込む直前、鋭い声が割って入った。

 

「待て!」

 

廊下の突き当たり、階段の踊り場から。黒いコートの裾を翻して現れたのは、久遠寺朔也だった。息は上がっていない。だが額には細かな汗が浮かんでいる。ここまで駆けつけたのだろう。理論家にしては珍しい、狼狈の色。

 

「そのシールは——危険だ!」

 

俺の手を止めるように、彼は両手を突き出す。いつもの冷静さを装いながらも、声音に微かな震えが混じっている。状況を理解し、予測を立て、そして——予測外の事態に対する恐怖を、彼なりに押し殺している。

 

「ワールドシールは『適合』が必要なんだ。その世界の経験がなければ、精神構造ごと捻じ曲げられる危険がある。特にサイバーは——現実と虚構の境目が曖昧な環境。君がもし未経験なら——」

 

未経験?

 

俺は思わず笑ってしまった。仮面越しでは朔也にも気づけまい。だが三枝は敏感に読み取ったのか、踊り場の隅でこちらを見つめながら目をぱちくりさせている。

 

「大丈夫だよ」

 

肩越しに視線を送ると、朔也は言葉を失ったようだった。俺はシールを改めて握り直し、胸の内に過去の景色を呼び出す。

 

 

全て通り過ぎてきた場所だ。数え切れないほどの世界を跨ぎ、生き延び、そして戻ってきた。何度転移しようと、「元の世界」が変わらないことは知っている。だからこそ——躊躇はない。

 

「数えたことなんてねぇな」

「え?」

 

朔也の困惑した声。俺はシールをドライバーへと押し込んだ。刻印が脈打ち、内部のLEDが青紫に瞬く。拒絶反応はなかった。代わりに脳髄を這い上がるような電脳ノイズ——ザッピングの砂嵐。懐かしい。この違和感こそが適合の証だ。

 

「俺が回った世界の数だよ。数え切れねぇぐらいさ」

 

『シール・セット!サイバー!ワールド・リード…オーケー』

 

機械的な音声が脳内に直接響く。いや、脳内というより——意識が引きずり込まれる。視界が分解した。廊下の暗がり、ラブズリーの蜂蜜色の装甲、朔也の青ざめた顔、三枝の震える肩——全てが水平線に延びる光の帯へと変容する。

 

『トランス・スタート!』

 

そして、門が開いた。

 

『シジル・コンパイル!』

 

意識の中に。いや、意識が門を通過する。無数の幾何学的図形が渦巻くトンネル。ニューロン・ハイヴの記憶が鮮やかに蘇る——白銀のビル群、張り巡らされたサーバー網、思考だけで行われる会話。ここは現実ではない。情報の海。データの羊水。己自身がバイナリへ変換されていく感覚。

 

(——潜る)

 

全身が分解され、再構築される。ファンタジーフォームの重厚な竜の甲殻が、青白い光の粒子へと溶解。代わりに走るのは、神経を模した発光ライン。ダークグレーの装甲が幾重にも重なり、隙のない密度で肉体を包む。無駄を削ぎ落とした、実戦向けのプロフェッショナルな輪郭。

 

『サイバー・フォーム!』

 

視界にHUDが展開する。敵の挙動予測、地形の危険度、己の体力消費率——全てが淡いネオンブルーで表示される。だが数値に縛られない。経験がデータと融合する。嫌な予感が、確率として可視化される。人命優先の選択肢が最適解のリストへ追加される。

 

『アーマー・メイク! レリック・リンク! エンチャント・オン!』

 

マントは健在。ただし質感が違う。薄い薄膜のように変質し、動作に追従する流体形状へ。動きの邪魔にならない。それでいて風を孕んで翻る。情報空間の“衣”となったのだ。

 

——完成。

 

『シジル・シフト完了』

 

声が外部へ放出される。電子的に修正された低音。喉の震えは感じない。これは身体ではなくコードで成り立つ声帯だからだ。

 

現実へ。ドアを抜けた先に廊下が広がっていた。床は元通りコンクリート。照明は薄暗い蛍光灯。だが壁一面に薄いノイズパターンが走る——電脳空間の痕跡が残留しているようだった。

 

「————?」

 

ラブズリーが鎌を止めて瞠目していた。蜂蜜色の瞳が揺れる。驚愕だ。彼にとって想定外の転移——いや、“適合”そのものが信じられないのだろう。

 

「透——」朔也の声は震えていた。「本当に使えるのか?」

 

答える代わりに指を鳴らした。装甲内のモーターが連動し、微かな電磁ノイズを撒き散らす。HUDが彼を解析する。“協力者”。脅威判定は除外される。

 

「ああ——使えたさ」

 

仮面の下で笑う。誤魔化すためではない。これは——“正しい選択”ができたことへの安堵。

 

「じゃあ、始めるか」

 

右手を横に伸ばす。掌の中でシジルゼッターが脈打っていた。まだ剣モードのままだ。赤銅の刀身に、サイバーフォームの青白い光が反射している。不釣り合い——いや、これから変わる。

 

『ガンモード』

 

意識で伝えるだけで良かった。サイバーフォームの神経接続は、思考の速度で機体を動かす。剣が分解する。刃が細片となり、柄が伸縮。内部の機構が再配置され、銃身が前方へ突出。レールシステムのように滑らかに、無駄な摩擦なく。

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