未だにワールドシールに関する戦い。
それが現実味もなく、俺は日常を過ごしていた。
朝の空はやけに白く、雲の端が千切れた紙みたいに薄い。歩道のタイルを踏む音が、いつもより硬く響く。耳の奥に残る、消えきらない雑音。気のせいだと決めつけてしまえば楽なのに、喉の奥に小さな石が転がっているみたいで、飲み込めないまま歩いていた。
「おいおい、何をそんなに落ち込んでいるんだよ、透!」
隣で三枝が肩をぶつけてくる。いつもの距離、いつもの調子。なのにその声だけが、妙に遠い。笑い声が、通学路の空気に吸われるように薄まっていく感覚がある。
「お前は相変わらず陽気だな、三枝」
呆れたふりをして返した。口が勝手に軽口を探す。怖いものから目を逸らす癖が、無意識に働く。制服の襟元が妙に冷たい。風は吹いていないのに、首筋だけが冷える。
「だってよぉ、マジで漫画みたいな現象があるからよ!もしかしたら、俺も異世界に行けるかもしれないって思うとワクワクするじゃないか」
三枝の目は輝いていた。街角のコンビニのガラスに映る二人の姿が、ほんの一瞬だけ遅れて動いた気がした。瞬きをしたら元に戻る。足を止めるほどのことじゃない。そう思い込もうとして、胸の奥がざらつく。
「・・・異世界か」
声が掠れた。たった三文字が、舌に引っかかる。頭の中に、行ったことのある世界が浮かびかけては消える。剣の重み、雨に混じる鉄の匂い、息をすると肺の奥が痛んだ夜。三枝の期待に合わせる言葉が見当たらない。
「透は、今までどんな世界に行ったんだ?その辺は結構気になるから」
踏切が近い。警報機は鳴っていないのに、耳の奥でチリチリとノイズが鳴る。視界の端が、暗い。太陽は上にあるのに、影が足元から伸びてくるみたいに感じる。
「そんな面白い話じゃないぞ」
軽く返したつもりだった。けれど声の温度が、自分で思ったより低い。三枝が気づく前に、冗談めかした空気に戻したかった。
「そう言うなよ、それこそ、王道のヒロインとかいたのか?」
「ヒロインって、そんなのは」
そう、呟いた次の瞬間。
感じたのは殺気。
背中の皮膚が、氷水を浴びせられたみたいに縮む。音が消える。車の走行音も、他の学生の話し声も、遠くで膜を隔てたように鈍る。代わりに、心臓の鼓動だけが耳の中で暴れる。
「三枝、離れろ!」
声が裏返りそうになるのを噛み殺し、腕で押す。三枝の肩が半歩ずれた。その瞬間、空気が裂けたような感触が走る。
「えっ」
三枝が振り向いた顔に、理解が追いついていない色が浮かぶ。言葉を重ねる暇はない。直感が叫ぶ。ここにいると、取られる。
腰に手をやる。いつもなら大げさに感じる動作が、今日は自然に出た。ベルトを巻く。金具が噛み合う音が、やけに大きい。指先が冷たく、わずかに震える。
けれど、それよりも早くシジルドライバーの装填口に何かが張り付く。
ぬるり、と。
粘り気のある感触が金属に広がる。赤黒い。光を吸う色。嫌な匂いがする。鉄と、温い生臭さが混じった匂いが、鼻の奥に絡みつく。
「これは血っ」
言った瞬間、背後から息が触れた。耳たぶのすぐ横。笑う声が、甘いのに冷たい。
「つぅかまえたぁ♡」
背筋を凍らせるような何か。言葉の柔らかさが、逆に刃物みたいに鋭い。次の瞬間、体ががっしりと捕まる。腕が回り込んで、肋骨が軋むほど強く締められる。抱き締められているのに、守られている感じがしない。鳥籠に閉じ込められたみたいに、呼吸の自由だけが奪われる。
抵抗しようとして、足が滑る。地面が遠い。いや、上体が持ち上がっている。靴底がふわりと浮いたところで、胃が冷える。
後ろを見れば。吸血鬼を思わせる仮面。
口元の形が笑っているように見える。目の部分は暗く、こちらの顔だけを映しているみたいだった。人間じゃない“何か”の距離の詰め方。皮膚が粟立つ。
それが、仮面ライダーである事を理解する。
理解した途端、余計に恐ろしい。味方か敵か、そんな分類が追いつかない。ライダーという言葉が、現実のはずなのに夢の中のラベルみたいに頼りない。
「行きましょう」
囁きが耳の奥まで入り込む。甘い。次の瞬間に冷える。温度差で意識が揺れる。息が白くならないのに、肺だけが冷たい。
「っ」
声が出ない。喉が塞がる。指がシジルドライバーに届きそうで届かない。血が張り付いた装填口が、まるで“もう遅い”と告げる印みたいに見える。
同時に、俺はその場から連れ去られていく。
景色が引き裂かれて、通学路の色が線になって後ろへ流れる。三枝の顔が小さくなり、声だけが遅れて追いかけてくる。
「透!!」
叫びが、遠ざかる。
それでも耳の奥のノイズだけは、最後までぴたりと貼り付いていた。