三つ滝の宿   作:小説練習家

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第1分岐
第2話


【先客】

「朝風呂、だな」

 

布団を抜け出すと、足の裏に冬の冷えが刺さる。思わず肩をすくめながら、上着を手に取った。

 

腹は減っている。

体は冷えている。

 

どちらも、湯に浸かれば少しは紛れるはずだ。

 

黒川は静かに戸を開け、まだ眠っている宿の気配の中へと足を踏み出した。

 

廊下を進むにつれて、空気がひときわ冷たくなった。夜明け直後の宿は、まだ完全には目を覚ましていない。足音も、話し声もない。ただ、どこかで湯が流れる低い音だけが、一定の間隔で聞こえてくる。

 

暖簾をくぐると、ほのかに硫黄の匂いが鼻をついた。

 

黒川は一瞬、立ち止まる。

 

──早起きは、自分だけじゃないらしい。

 

脱衣所の灯りはすでについていた。白熱灯の柔らかい光が、木の床に落ちている。ストーブの前には誰もいないが、籠が一つ、すでに使われた形跡を見せていた。

 

壁際の棚に、きちんと畳まれた上着。

その下に置かれた靴は、一足分だけ。

 

「……先客、か」

 

黒川は小さく呟き、周囲を見回した。人の姿は見えない。となると、もう湯に浸かっているのだろう。朝の静けさの中で、衣擦れの音すら妙に響きそうで、自然と動作が慎重になる。

 

黒川は衣服を静かに籠へ収め、浴場へと続く引き戸に手をかけた。

開けた瞬間、むっとした湯気が流れ出し、冬の冷気を押し返す。

 

石張りの床はしっとりと濡れ、奥の湯船からは、低く穏やかな水音が立っていた。湯気の向こうに、人影がひとつ見える。肩まで湯に浸かり、縁に肘をかけた男だった。

 

黒川は一礼し、声を落として言った。

 

「おはようございます。朝早いですね」

 

男は少し驚いたようにこちらを見てから、すぐに表情を緩めた。

 

「ああ、おはようございます。初めまして。いやあ、早く目が覚めちゃいまして……」

 

そう言って、照れたように小さく笑う。

 

「お兄さんこそ、ずいぶん早いですね」

 

黒川は腰まで湯に入り、そっと息を吐いた。冷え切っていた体に、熱がじわりと染み込んでくる。

 

「私も目が覚めたもので。それに、温泉がとても好きなんです」

 

「分かります、それ」

男は湯を手ですくい、肩にかけながら頷いた。

 

「それにしても、いい湯ですね。静かですし。ただ……少し水臭いのが気になりますけど」

 

男は湯の表面を見つめ、ゆっくりと答える。

 

「ああ、それは多分、近くに滝から流れている川が通っているからだと思います。三つ滝の水が、地下で混じっているんでしょう」

 

「なるほど……」

黒川は感心したように天井を仰いだ。

 

「自然の味、ってやつですね」

 

二人の間に、しばし沈黙が落ちる。

会話が途切れても気まずさはなく、湯の音と、遠くの滝の響きだけが、一定の調子で続いていた。

 

黒川は目を閉じる。

朝の湯は、思っていた以上に、頭を冴えさせるようだった。

 

─────────────────────────────────

【合流】

湯気の中に、低い足音が重なった。

 

沈黙を突き破るように、引き戸が立て続けに開く。冷たい外気が一瞬だけ流れ込み、白い湯気が揺れた。

 

「……あ、颯太。やっぱりここにいた!」

 

若い声が弾む。

湯船の縁に肘をかけていた男――颯太が、こちらを振り返って笑った。

 

「おお、松ちゃんたちも来たか。まじでいい湯だぜ、ここ」

 

ぞろぞろと若者たちが湯に入ってくる。沈んでいた浴場の空気が、一気に騒がしくなった。黒川は視線を伏せ、会話だけを拾う。

 

「……いや、そんなことよりさ」

 

少し低い声が割って入る。

 

「恵美がいないんだけど、誰か知らない?」

 

一瞬、湯の音だけが残った。

 

「え、恵美が?ごめん、俺は見てないな。」

「大丈夫そう?」

 

短い言葉が、ばらばらに飛ぶ。

 

「とりあえず、紗香が探しに行ってくれたけどさ」

 

「心配やな〜」

誰かが肩まで湯に沈みながら言った。

「俺、もう温まったし、先に出て探してくるわ」

颯太と呼ばれたその男は立ち上がりながら言った。

 

湯船の縁で水を切る音がする。

 

「てかさ、隼人も探さなくていいの?」

茶化すような声。

「一応、彼氏だろ?」

 

名前を呼ばれた男は、少し間を置いて鼻で笑った。

 

「うーん、いつものことだからなぁ」

肩をすくめる。

「どうせトイレで寝てるんじゃね?」

 

何人かが小さく笑った。

冗談として受け取ろうとする空気が、無理に作られている。

 

黒川は、湯の中で静かに目を閉じた。

 

湯は変わらず温かく、滝の音は遠くで規則正しく響いている。

それが、なおさら不自然だった。

 

─────────────────────────────────

【察し(1)】

浴場の空気は、まだざわついていた。

 

若者たちは湯船の縁に腰掛けたまま、恵美の話題を途切れさせることなく続けている。笑い声はもうなく、代わりに落ち着きのない視線と、意味のない相槌だけが行き交っていた。

 

黒川は、それを背にするように立ち上がった。

湯に浸かっても、腹の奥に沈んだ違和感は消えなかった。

 

「……失礼」

 

誰に向けたとも知れない一言を残し、黒川は浴場を後にする。

 

脱衣所で身体を拭き、衣服を整える。鏡に映る自分の顔は、思った以上に冷えていた。湯に温まったはずなのに、指先がわずかにかじかんでいる。

 

暖簾をくぐり、廊下を進む。

その先、ホールに出たところで、黒川は足を止めた。

 

先程、風呂を早々に出ていった颯太が、玄関近くに立っていた。

彼の前には、見知らぬ女が一人。宿の従業員ではない。厚手のコートに身を包み、どこか場違いなほど表情が硬い。

 

「……警察?」

 

女の肩口に覗く腕章が、目に入った。

 

その瞬間、背後から若者たちが追いついてきた。

 

「え、待って……あれ、警察じゃない……?」

 

誰かが息を潜めた声で言う。

 

「ほんとだ……ゴンドラの横に、車止まってる」

 

玄関のガラス越しに、山麓駅の方向が見える。白と黒の車体が、静かにそこにあった。

 

「え、嘘でしょ……?」

声が震える。

「恵美じゃないよね……? 私、聞いてくる」

 

一人の女性が駆け出した。

 

「ちょっと待って、俺も行く」

 

若者の一人が、慌てて後を追う。

 

黒川は一瞬ためらい、そして少し距離を空けて、その後に続いた。

気配を消すように、だが確実に。

 

玄関前で、二人は警官に声をかける。

 

「あの……すみません。何か、あったんですか?」

 

警官は一度こちらを見て、言葉を選ぶように間を置いた。

 

「ちょっと、山の頂上で遺体があるという通報を受けまして」

淡々とした口調。

 

「確認に向かいたいのですが、ゴンドラの運行が珍しく三十分ほど遅れていて、ここで待機しているところです」

 

若者の一人が、喉を鳴らした。

 

「……もしかして、その遺体って」

言葉が詰まる。

「女性だったり、しますか……?」

 

警官は、はっきりと頷いた。

 

「はい。情報では、女性とのことです」

 

その瞬間、空気が止まった。

 

誰も、次の言葉を発しなかった。

言わなくても分かってしまったからだ。

 

黒川は、若者たちの表情を順に見た。

血の気が引いた顔。

何かを否定したい目。

そして、静かに崩れていく現実。

 

──彼女は、もう戻ってこない。

 

その事実だけが、冷たい冬の朝よりもはっきりと、胸に落ちてきた。

 

遠くで、ゴンドラの到着を知らせる低い音が響く。

それは、この山が、次の段階へ進む合図のように聞こえた。

 

─────────────────────────────────

 

【聴取】

玄関前の冷えた空気の中、警官の一人が黒川の顔を見て、わずかに目を細めた。

 

「……黒川、さん?」

 

確認するような声だった。

 

黒川は否定も肯定もせず、軽く会釈をする。

 

その仕草だけで、警官の表情が変わった。

驚きと、戸惑いと、そして遅れてくる緊張。

 

「元……警官の黒川さん、ですよね」

 

一瞬、言葉を選ぶ間があった。

 

「あ、失礼しました。

今は、探偵をやられているんでしたね」

 

形式ばった敬礼こそなかったが、声の調子が一段落ちる。

"扱い方"を切り替えたのが、はっきりと分かった。

 

黒川は曖昧に笑った。

 

「肩書きは、もう関係ないですよ」

 

「いえ……」

 

警官は小さく首を振る。

 

「こちらとしては、そういうわけにもいかなくて」

 

一拍置き、言葉を続ける。

 

「正直に言います。

事故として処理するには、違和感が多すぎる。

ですが、事件だと断定するには、まだ材料が足りない」

 

視線が、黒川に向けられる。

 

「……元とはいえ、あなたなら、

その"境目"が見えるんじゃないかと思いまして」

 

黒川は、ゴンドラの発着場を一度だけ見やった。

 

まだ、来る気配はない。

 

「黒川さんには動機もアリバイもあるようですし、協力していただけませんか…?」

 

警官は機嫌を伺っている様だった。

 

「協力という形でなら」

 

そう前置きしてから、静かに言った。

 

「できる範囲で」

 

警官は、ほっとしたように息を吐いた。

 

「助かります」

 

その言葉には、立場を越えた率直さがあった。

その程度の距離感が、今はちょうどいい。

 

──

 

『松川誠』(まつかわ・まこと)

 

最初に話を聞かれた松川は、落ち着いた様子だった。

 

「夜は、みんなで部屋飲みしてました。

 途中で眠くなって、そのまま寝たと思います」

 

「何時頃でしょう」

 

「三時前後、だったと思います」

 

はっきりしないが、無理に作った曖昧さではない。

記憶を探る時の自然な間だ。

 

──

 

『岡村浩二』(おかむら・こうじ)

 

「俺は十二時過ぎには部屋に戻ってます。

 年なんで、無理すると翌日に響くんですよ」

 

苦笑混じりの口調。

 

「一人部屋でしたし、そのまま寝ました」

 

特別なことは、何もない。

それが、かえって自然だった。

 

──

 

『早河愛莉』(はやかわ・あいり)

 

「私は……二時くらいに先に部屋へ戻りました」

 

声は小さいが、内容は明確だ。

 

「赤司さんは、その時はまだ起きていました」

 

それ以上、付け加えることもない。

 

──

 

『石田隼人』(いしだ・はやと)

 

隼人は、少しだけ姿勢を正して答えた。

 

「恵美とは、夜は一緒でした。

 途中で外に出ると言って、それきりです」

 

「喧嘩などは?」

 

「…ありません」

 

何かを隠している様な、短い返答。

 

 

『宮下颯太』(みやした・そうた)

 

最後に呼ばれた颯太は、穏やかな調子だった。

 

「途中で風呂に行って、部屋に戻りました。

 そのまま寝たと思います」

 

「時間は?」

 

「四時前くらい、ですかね」

 

誰かと口裏を合わせた様子もなく、

かといって無防備すぎるわけでもない。

 

──

 

警察官は一通り話を聞き終え、メモを閉じた。

 

「現時点では、大きな食い違いはありません」

 

それを聞いて、誰かが小さく息を吐いた。

 

警察官が黒川の方を向く。

 

「何か気になる点は?」

 

黒川は、首を横に振った。

 

「いえ。この場では」

 

それは、本心だった。

 

──この時点では、誰も怪しくない。

 

聴取が終わり、人がばらけ始めた頃。

警察官の一人が、黒川に声を落として言った。

 

「もし何か気づいたことがあれば、教えてください。正直、山のことも、この宿のことも、我々は詳しくない」

 

黒川は、静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

その瞬間、彼は理解していた。

 

警察は「協力」を求めているだけだ。

だが、その隙間にこそ、探偵の居場所がある。

 

真実は、たいてい静かな顔をしている。

 

─────────────────────────────────

【聴取(続き)】

警察が山へ向かったあと、宿は奇妙な静けさに包まれた。

騒がしさも、ざわめきも、すべて置き去りにされたようだった。

 

黒川は、宿の一室で若者たちを順に迎え入れた。

事情を整理するため──そう説明すれば、誰も拒まなかった。

 

──

 

松川誠

 

「23です。

趣味は、まあ……ゲームですね。仕事でシステムエンジニアやってるのもあって。今日も『ディフェンスサバイバーゲーム』のオフ会で集まってるんですよ」

 

そう言って、少し照れたように笑う。

 

「ギルドのマスターやってます。

 今回の集まりも、俺が声かけました」

 

黒川は、湯呑みを置きながら尋ねた。

 

「今回が初めての旅行でしたね」

 

「はい。今まではご飯会だけで」

 

「赤司さんとは?」

 

「普通に、仲間です」

 

一瞬、言葉が止まる。

だが、それ以上は続かない。

 

──責任者という立場が、彼を必要以上に目立たせていた。

 

──

 

岡村浩二

 

「31です。

趣味は筋トレですね」

 

岡村は、腕を軽くさすりながら言った。

 

「毎日ジム行ってます。

体動かしてないと落ち着かなくて」

 

「昨夜も?」

 

「さすがに旅先では。

でも、部屋で軽くストレッチはしました」

 

何気ない言葉だが、

"体力がある"という印象は、強く残る。

 

──

 

石田隼人

 

「26です」

 

短く答える。

 

「趣味は……特に」

 

赤司の話題になると、視線が少し逸れた。

 

「付き合ってました。だから、心配してます」

 

それ以上は、語らない。

言葉を抑え込む態度は、

誠実にも、隠し事にも見えた。

 

──

 

宮下颯太

 

「29です」

 

颯太は、気負いなく答えた。

 

「趣味はキャニオニングとか、温泉に入って景色見る事ですね」

 

黒川は、軽く頷くだけだった。

 

「小さい頃から自然が好きで」

 

説明はそこで終わる。

誇示も、詳細もない。

 

──ただのアウトドア趣味。

今は、それ以上でも以下でもない。

 

──

 

早河愛莉

 

「22です。趣味は……あまり」

 

言葉を探すように視線を落とし、

やがて小さく付け加えた。

 

「私、心配性で……」

 

黒川は、少し間を置いて言った。

 

「何か、気づいたことは?」

 

愛莉は、一瞬だけ周囲を気にしてから、声を落とした。

 

「松川さんが……

恵美のこと、ちょっと気になってたみたいで…」

 

「どうしてそう思いましたか」

 

「よく話しかけてたし、

今回の旅行も、恵美が行くって言ってから

決まった気がして……」

 

愛莉は、慌てて首を振った。

 

「でも、悪い人じゃないです。

本当に、ただ気になっただけで」

 

黒川は、その言葉を否定も肯定もしなかった。

 

──

 

聞き取りを終え、黒川は一人、部屋に残った。

 

年齢。

趣味。

関係性。

 

どれも、決定打にはならない。

だが、誰にでも「物語」はある。

 

責任を背負う者。

体力に自信のある者。

恋人。

好意を抱く者。

ただ、場にいる者。

 

──この中に、嘘をついた者がいるとは限らない。

 

黒川は、静かに立ち上がった。

 

警察が戻るまで、まだ時間はある。

そして、真実はいつも、

人の言葉の外に残る。

 

─────────────────────────────────

【不可能な殺人】

警察が戻ってきたのは、午後も少し傾いた頃だった。

 

玄関の引き戸が開く音がして、冷たい外気が廊下に流れ込む。

宿の空気が、わずかに張り詰めた。

 

若者たちは、自然と玄関ホールに集まっていた。

誰も声を出さない。

だが、全員が「何を告げられるのか」を分かっている顔だった。

 

警察官の一人が、一歩前に出る。

 

「……確認が取れました」

 

短い言葉だった。

 

「山頂付近で発見された遺体は、赤司恵美さんで間違いありません」

 

誰かが、息を呑む音がした。

別の誰かが、何か言おうとして、言葉を失う。

 

「死因は──」

 

警察官は、一瞬だけ言葉を選んだ。

 

「ロープによる窒息死です」

 

静寂が落ちた。

 

滝の音だけが、遠くで変わらず響いている。

 

「事故ではありません。

 明確な他殺です」

 

その場にいた全員が、同時に理解した。

"事件"になったのだと。

 

警察官は続ける。

 

「現在、詳しい状況を確認中です。

 皆さんには引き続き、宿の中で待機していただきます」

 

形式的な説明だったが、

それ以上の言葉は必要なかった。

 

──

 

人が散り始めた頃、

警察官の一人が、黒川にだけ近づいてきた。

 

声を潜める。

 

「……黒川さん」

 

「はい」

 

「本当は、こういうことは出来ないんですが」

 

一瞬、周囲を確認してから、続けた。

 

「山の捜索で手が取られていて、正直、人手が足りない。

 あなた、事件を見る目はあるでしょう」

 

黒川は、答えなかった。

 

警察官は、上着の内ポケットから、折りたたんだ写真を一枚取り出した。

 

「見るだけでいい。

 外には出さないでください」

 

黒川は、黙ってそれを受け取った。

 

写真の中で、

白い雪と、暗い岩肌の間に、恵美の身体が横たわっていた。

 

悪の所業だな。

 

視線は、自然と首元へ向かう。

 

──ロープ。

 

黒川は、ほんの一瞬、眉をひそめた。

 

首に残る圧痕。

だが、それは一本ではなかった。

 

「……」

 

写真を返しながら、黒川は静かに言った。

 

「ロープの跡が、二本ありますね」

 

警察官が、目を見開く。

 

「……ええ。

 現場でも話題になりました」

 

「一本で絞めたなら、跡は一つになる。

 二本並ぶのは、珍しい」

 

黒川は、それ以上言わなかった。

今は、指摘するだけでいい。

 

警察官は、少し間を置いてから続けた。

 

「死亡推定時刻は、午前六時二十分過ぎです」

 

その言葉に、黒川の意識が切り替わる。

 

「山頂で殺害された後、

 犯人が宿に戻るには、ゴンドラを使うしかない」

 

警察官は、頷いた。

 

「ええ。

 ですが、ゴンドラは一本しかありません」

 

黒川は、頭の中で時間をなぞった。

 

六時二十分過ぎ。

山頂。

ゴンドラ。

 

「しかし、昨晩は三十分の遅れがあった。頂上へ行くのに十分」

 

「そこから降りるのにまた十分」

 

警察官が言った。

 

その瞬間、黒川は思い出す。

 

──朝。

 

七時前。

玄関ホール。

 

全員が、そこにいた。

 

警察官も、同じ結論に辿り着いていたらしい。

 

「黒川さんも、その場にいましたよね」

 

「ええ」

 

「つまり……」

 

警察官は、低い声で言った。

 

「この宿に戻ってくるには、

 時間的に不可能です」

 

アリバイは、完璧だった。

完璧すぎるほどに。

 

黒川は、写真の中の首元を、もう一度思い出す。

 

──二本の線。

 

不可能な時間。

不可能な移動。

 

それでも、人は死んでいる。

 

黒川は、静かに言った。

 

「……誰かが、山から戻ってきていない。

 もしくは──」

 

言葉を、そこで切った。

 

警察官は、続きを促さなかった。

 

この事件は、

「不可能」から始まる。

 

黒川は、そう確信していた。

 

【人狼ゲーム】

宿の一階、談話用に使われている広間。

警察が山へ向かってから、時間だけが中途半端に余っていた。

 

誰も口を開いてはいないが、みんな朝食に居なかった颯太を怪しんでいる様だった。

 

「ちょっと待ってくれよ」

 

苛立ちを隠そうともせず、手を振る。

 

「俺を疑ってる空気だけどさ……ありえないだろ。俺、もうすぐ結婚するんだぞ」

吐き捨てるように言ってから、付け加える。

「こんな時期に殺人なんて、人生ぶち壊しじゃん」

 

誰も、すぐには返事をしなかった。

沈黙が、逆に言葉を重くする。

 

その間を縫うように、岡村が低い声で言った。

 

「でもさ、首を絞めたって話だろ?」

肩をすくめる。

「だったら、一番力ある俺が一番簡単だよな。そういう意味じゃ」

 

冗談めかした言い方だったが、場の空気はさらに冷えた。

 

「ちょっと……」

 

愛莉が、堪えきれないように口を挟む。

 

「そもそも、恵美って途中からギルドに入ってきたよね」

 

一瞬だけ視線を伏せてから、続ける。

 

「なのに、すぐ中心みたいになって……いわゆる、お姫様ポジションっていうか」

 

誰かが息を呑む。

 

「愛莉、それ……」

 

「嫉妬でしょ、って言いたいんでしょ?」

慌てて言い直すが、言葉はもう戻らない。

 

「ただ、そういう感情がなかったとは言い切れないかも…」

 

今度は、隼人が立ち上がった。

 

「……いい加減にしてくれ」

 

声は荒れていた。

 

「恵美とは、昨日ちょっと言い合いにはなったけど」

拳を握る。

「だからって、喧嘩して殺したとか、そんな短絡的な話にされる筋合いはない」

 

それでも、誰かが小さく呟いた。

 

「でも、恋人同士のトラブルって、一番多いじゃん……」

 

その瞬間、空気が張り詰めた。

 

最後に、松ちゃんが、苦笑いを浮かべた。

 

「じゃあさ」

 

軽く両手を上げる。

 

「頭いいギルドマスターの俺が、この場所選んだんだから」

冗談めかした口調で言う。

「最初からトリック考えてて、完全犯罪狙ってた……って線も、なくはないよね」

 

笑いは起きなかった。

 

誰もが、誰かを見ている。

そして同時に、自分が見られていることも分かっている。

 

──擦り付け合いだ。

 

黒川は、その輪の少し外で、静かに立っていた。

言葉を挟むことも、止めることもできた。

だが、しなかった。

 

ここにいても、もう意味は薄い。

居心地が悪いというより、空気が澱んでいる。

 

真実は、こういう場所では見えてこない。

 

黒川は、そっと息を吐いた。

 

──離れよう。

 

警察に協力して、公式に現場を見るか。

それとも、誰にも言わず、独自に動くか。

 

どちらにせよ、ここに残るよりは、ずっとましだ。

 

黒川は、静かに視線を上げた。

 

さて

次は、どちらへ行くべきか。

 

─────────────────────────────────

 

警察に協力する➪『第4話』へ

 

自分一人で調査する➪『第5話』へ

 

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