三つ滝の宿   作:小説練習家

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第3話

【小さな騒ぎ】

「朝食、だな」

 

黒川は小さく呟き、布団を抜け出した。

足の裏に、朝の冷えがじかに伝わる。冬の宿は、陽が昇りきるまで容赦がない。思わず肩をすくめ、上着を羽織った。

 

腹は減っている。

頭は、まだ少し重い。

 

どちらも、温かいものを腹に入れれば多少はましになるだろう。

 

黒川は静かに戸を開け、まだ半分眠っている宿の気配の中へと足を踏み出した。

 

階段を下り、一階の食事処へ向かう廊下に差しかかると、すでに空気が違っていた。湯の匂いの代わりに、炊き立ての米と味噌汁の香りが漂っている。その中に——若い声が混じっていた。

 

昨夜、どこかで聞いた気がする声だ。

 

食事処を覗くと、案の定だった。

長い卓を囲み、数人の若者たちが、すでに朝食を前にしている。髪は寝癖のまま、目は半分しか開いていない者もいる。それでも声だけはやけに元気だった。

 

「結局さ、昨日何時まで飲んでたの?」

 

箸を動かしながら、誰かが言う。

 

「俺は気付いたら部屋で寝てたわ。記憶ないし」

笑い声が重なる。

 

「僕は眠かったから、一足先に部屋戻って寝てたよ」

 

それぞれが、好き勝手に話し出す。会話はまとまりがなく、同時にいくつも飛び交っていた。

 

「そういえばさ、ほかの奴らは?」

 

一番背の高い男が、湯飲みを置きながら周囲を見回した。

 

「あー、颯太は多分、朝風呂でしょ?」

別の男が即座に返す。

「あいつ、やたら風呂好きだし」

 

「たしかに。昨日も一番長風呂してたやん、あいつ」

 

そこへ、別の声が軽く笑い混じりに続く。

 

「てか、あいつ昨日ずっとスマホいじってなかった?」

「いじってた、いじってた。飲んでる最中もずっと。どうせゲームの周回かなんかだろ」

 

「オフ会中にゲームとか流石にゲーム依存症過ぎね?俺らが言えることじゃないけどな」

 

からかうような調子で、話題は流れていく。

 

だが──

 

「……あれ?」

 

箸を止めた誰かが、ふと声を落とした。

 

「そういえばさ」

視線が卓の上を一周する。

「颯太はいいとして……恵美は?」

 

一瞬、音が消えたように感じられた。

 

「え?」

「まだ寝てるんじゃない?」

 

「いや、恵美って朝弱くないやろ」

「昨日も割と元気やったし」

 

冗談めかした声の裏に、わずかな違和感が混じる。

 

「まさか、まだ外で寝てるとか?」

笑いながら言うが、どこか歯切れが悪い。

「それだったら風邪ひくし、さすがに心配だな」

 

「私、外探してくるね」

 

そう言って、ひとりが椅子を引き、立ち上がった。

慌てる様子はない。

ただ、なんとなく気になったから。

そんな動きだった。

 

黒川は、少し離れた席に腰を下ろしながら、その様子を静かに眺めていた。

 

朝の匂いは穏やかなはずなのに、胸の奥にだけ、冷たいものが残る。

 

この山は、どうやら一日の始まりから、

何かを隠すつもりらしい。

 

─────────────────────────────────

【盗み聞き】

朝食を終え、黒川は湯のみを静かに置いた。

腹は満たされたが、頭の重さはまだ抜けきらない。結局、朝風呂に行くという当初の目的は変わらなかった。

 

食事処を出て、浴場へ向かう廊下へ足を向ける。

その途中——玄関ホールの方から、少し騒がしい声が聞こえてきた。

 

聞き覚えのある声だ。

 

黒川は歩調を緩め、柱の陰からそっと様子を窺った。

 

そこには、さきほど朝食を共にしていた若者たちが集まっていた。人数は多い。加えて、その輪の中に、黒川が朝食時には見なかった男が一人混じっている。

 

「恵美がいない?」

 

低く、落ち着いた声。

新しく加わった男だ。少し疲れたような表情をしている。

 

「マジで?」

「え、朝食食べに行ってるんじゃないの?」

 

ざわりと空気が揺れる。

 

「電話も出ないし、メッセも既読つかない」

一番背の高い男はポケットから携帯を出し、画面を見せるように振った。

 

「昨日の夜から、ずっと」

 

その仕草に、別の男が顔をしかめる。

 

「いや、でもさ。恵美って、たまに一人でフラッとどっか行くやん」

「そうそう、考えすぎじゃね?」

 

男は首を横に振った。

 

「それでも、朝になったら必ず連絡は入れる」

一瞬、言葉を探すように視線を落とし、続ける。

「……俺がいないときでもな」

 

誰かが、小さく息を吸った。

 

「隼人、お前……」

 

「彼氏だから言ってんの」

隼人と呼ばれた男は、きっぱりと言った。

 

冗談めいた空気は消えていた。

玄関ホールの広さが、やけに寒々しく感じられる。

 

「紗香が、外探しに行ってるんだっけ?」

「うん、まだ戻ってきてない」

 

「ゴンドラの駅の方を見に行ってるらしい……」

 

会話は、次第に具体的になっていく。

「いない」という事実が、少しずつ現実味を帯び始めていた。

 

黒川は、壁際に立ったまま、その様子を黙って見ていた。

 

──朝食のときとは、空気が違う。

 

あの時は、まだ「遅れているだけ」だった。

今は、「いない」という可能性が、確かにそこにあった。

 

黒川は、浴場へ向かう足を止めたまま、玄関ホールに集まる若者たちから目を離さなかった。

 

─────────────────────────────────

【察し】

黒川が見守る中、玄関ホールの会話は途切れがちになった。

 

誰もが次に何をすべきか分からず、ただ立ち尽くしている。そんな沈黙を破ったのは、ガラス越しに外を見ていた若者の声だった。

 

「……なあ」

 

低く、戸惑いを含んだ声。

 

「外、なんか止まってないか?」

 

全員の視線が、一斉に玄関の外へ向いた。

 

山麓駅の脇、ゴンドラの発着場近くに、見慣れない車が一台。白と黒の配色が、冬の景色の中でやけに浮いて見える。

 

「え……あれって……」

 

「警察じゃない?」

 

誰かがそう口にした瞬間、空気が張り詰めた。

 

「なんで警察が、こんなとこに……?」

 

若者たちは顔を見合わせる。誰も答えられない。

その中で、隼人だけが黙ったまま、外を凝視していた。

 

「……ちょっと、聞いてくる」

 

そう言ったのは、先ほどまで恵美の名前を何度も口にしていた女性だった。

玄関へ向かって歩き出す。

 

「待って。俺も行く」

 

背の高い男が、慌てて後を追う。

 

黒川は一拍遅れて、二人の後ろについた。

距離を保ち、会話に割り込まない位置を選ぶ。

 

玄関を出ると、冷たい冬の空気が頬を打った。

警官は二人。ゴンドラの駅舎を背に、何かを待つように立っている。

 

若者が声をかけた。

 

「あの……すみません。こちらの宿の者なんですが……」

 

警官の一人が振り返り、穏やかな表情で頷いた。

 

「はい。何か?」

 

「その……警察の方がいらっしゃるって聞いて」

言葉を選ぶように、一度息を吸う。

「何か、あったんですか?」

 

警官は、少しだけ視線を駅舎の方へ向けた。

 

「実は、山の頂上付近で遺体があるという通報がありまして」

淡々とした声。

「確認に向かいたいのですが、ゴンドラの運行が珍しく三十分ほど遅れていて、ここで待機しているところです」

 

若者たちの間に、はっきりとした動揺が走った。

 

「……遺体?」

 

誰かが、かすれた声で繰り返す。

 

隼人が、一歩前に出た。

 

「……その」

喉が鳴る。

「通報のあった遺体って……性別は、分かってますか」

 

警官は一瞬、言葉を探すように間を置いた。

それから、事務的に答える。

 

「現時点の情報では、女性とのことです」

 

その言葉が落ちた瞬間、若者たちの顔色が変わった。

 

誰も声を出さない。

否定も、確認も、できない。

 

黒川は、その沈黙の重さを、はっきりと感じ取っていた。

 

──同じ名前を、誰も口にしない。

だが、誰もが同じ人物を思い浮かべている。

 

遠くで、ゴンドラの到着を告げる低い音が、山に反響した。

 

隼人は、拳を強く握りしめたまま、動かなかった。

 

その背中を見つめながら、黒川は悟る。

 

──彼女は、二度と、この宿へは帰ってこない。

 

─────────────────────────────────

【聴取】

玄関前の冷えた空気の中、警官の一人が黒川の顔を見て、わずかに目を細めた。

 

「……黒川、さん?」

 

確認するような声だった。

 

黒川は否定も肯定もせず、軽く会釈をする。

 

その仕草だけで、警官の表情が変わった。

驚きと、戸惑いと、そして遅れてくる緊張。

 

「元……警官の黒川さん、ですよね」

 

一瞬、言葉を選ぶ間があった。

 

「あ、失礼しました。

今は、探偵をやられているんでしたね」

 

形式ばった敬礼こそなかったが、声の調子が一段落ちる。

"扱い方"を切り替えたのが、はっきりと分かった。

 

黒川は曖昧に笑った。

 

「肩書きは、もう関係ないですよ」

 

「いえ……」

 

警官は小さく首を振る。

 

「こちらとしては、そういうわけにもいかなくて」

 

一拍置き、言葉を続ける。

 

「正直に言います。

事故として処理するには、違和感が多すぎる。

ですが、事件だと断定するには、まだ材料が足りない」

 

視線が、黒川に向けられる。

 

「……元とはいえ、あなたなら、

その"境目"が見えるんじゃないかと思いまして」

 

黒川は、ゴンドラの発着場を一度だけ見やった。

 

まだ、来る気配はない。

 

「黒川さんには動機もアリバイもあるようですし、協力していただけませんか…?」

 

警官は機嫌を伺っている様だった。

 

「協力という形でなら」

 

そう前置きしてから、静かに言った。

 

「できる範囲で」

 

警官は、ほっとしたように息を吐いた。

 

「助かります」

 

その言葉には、立場を越えた率直さがあった。

その程度の距離感が、今はちょうどいい。

 

──

 

『松川誠』(まつかわ・まこと)

 

最初に話を聞かれた松川は、落ち着いた様子だった。

 

「夜は、みんなで部屋飲みしてました。

 途中で眠くなって、そのまま寝たと思います」

 

「何時頃でしょう」

 

「三時前後、だったと思います」

 

はっきりしないが、無理に作った曖昧さではない。

記憶を探る時の自然な間だ。

 

──

 

『岡村浩二』(おかむら・こうじ)

 

「俺は十二時過ぎには部屋に戻ってます。

 年なんで、無理すると翌日に響くんですよ」

 

苦笑混じりの口調。

 

「一人部屋でしたし、そのまま寝ました」

 

特別なことは、何もない。

それが、かえって自然だった。

 

──

 

『早河愛莉』(はやかわ・あいり)

 

「私は……二時くらいに先に部屋へ戻りました」

 

声は小さいが、内容は明確だ。

 

「赤司さんは、その時はまだ起きていました」

 

それ以上、付け加えることもない。

 

──

 

『石田隼人』(いしだ・はやと)

 

隼人は、少しだけ姿勢を正して答えた。

 

「恵美とは、夜は一緒でした。

 途中で外に出ると言って、それきりです」

 

「喧嘩などは?」

 

「…ありません」

 

何かを隠している様な、短い返答。

 

 

『宮下颯太』(みやした・そうた)

 

最後に呼ばれた颯太は、穏やかな調子だった。

 

「途中で風呂に行って、部屋に戻りました。

 そのまま寝たと思います」

 

「時間は?」

 

「四時前くらい、ですかね」

 

誰かと口裏を合わせた様子もなく、

かといって無防備すぎるわけでもない。

 

──

 

警察官は一通り話を聞き終え、メモを閉じた。

 

「現時点では、大きな食い違いはありません」

 

それを聞いて、誰かが小さく息を吐いた。

 

警察官が黒川の方を向く。

 

「何か気になる点は?」

 

黒川は、首を横に振った。

 

「いえ。この場では」

 

それは、本心だった。

 

──この時点では、誰も怪しくない。

 

聴取が終わり、人がばらけ始めた頃。

警察官の一人が、黒川に声を落として言った。

 

「もし何か気づいたことがあれば、教えてください。正直、山のことも、この宿のことも、我々は詳しくない」

 

黒川は、静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

その瞬間、彼は理解していた。

 

警察は「協力」を求めているだけだ。

だが、その隙間にこそ、探偵の居場所がある。

 

真実は、たいてい静かな顔をしている。

 

─────────────────────────────────

【聴取(続き)】

警察が山へ向かったあと、宿は奇妙な静けさに包まれた。

騒がしさも、ざわめきも、すべて置き去りにされたようだった。

 

黒川は、宿の一室で若者たちを順に迎え入れた。

事情を整理するため──そう説明すれば、誰も拒まなかった。

 

──

 

松川誠

 

「23です。

趣味は、まあ……ゲームですね。仕事でシステムエンジニアやってるのもあって。今日も『ディフェンスサバイバーゲーム』のオフ会で集まってるんですよ」

 

そう言って、少し照れたように笑う。

 

「ギルドのマスターやってます。

 今回の集まりも、俺が声かけました」

 

黒川は、湯呑みを置きながら尋ねた。

 

「今回が初めての旅行でしたね」

 

「はい。今まではご飯会だけで」

 

「赤司さんとは?」

 

「普通に、仲間です」

 

一瞬、言葉が止まる。

だが、それ以上は続かない。

 

──責任者という立場が、彼を必要以上に目立たせていた。

 

──

 

岡村浩二

 

「31です。

趣味は筋トレですね」

 

岡村は、腕を軽くさすりながら言った。

 

「毎日ジム行ってます。

体動かしてないと落ち着かなくて」

 

「昨夜も?」

 

「さすがに旅先では。

でも、部屋で軽くストレッチはしました」

 

何気ない言葉だが、

"体力がある"という印象は、強く残る。

 

──

 

石田隼人

 

「26です」

 

短く答える。

 

「趣味は……特に」

 

赤司の話題になると、視線が少し逸れた。

 

「付き合ってました。だから、心配してます」

 

それ以上は、語らない。

言葉を抑え込む態度は、

誠実にも、隠し事にも見えた。

 

──

 

宮下颯太

 

「29です」

 

颯太は、気負いなく答えた。

 

「趣味はキャニオニングとか、温泉に入って景色見る事ですね」

 

黒川は、軽く頷くだけだった。

 

「小さい頃から自然が好きで」

 

説明はそこで終わる。

誇示も、詳細もない。

 

──ただのアウトドア趣味。

今は、それ以上でも以下でもない。

 

──

 

早河愛莉

 

「22です。趣味は……あまり」

 

言葉を探すように視線を落とし、

やがて小さく付け加えた。

 

「私、心配性で……」

 

黒川は、少し間を置いて言った。

 

「何か、気づいたことは?」

 

愛莉は、一瞬だけ周囲を気にしてから、声を落とした。

 

「松川さんが……

恵美のこと、ちょっと気になってたみたいで…」

 

「どうしてそう思いましたか」

 

「よく話しかけてたし、

今回の旅行も、恵美が行くって言ってから

決まった気がして……」

 

愛莉は、慌てて首を振った。

 

「でも、悪い人じゃないです。

本当に、ただ気になっただけで」

 

黒川は、その言葉を否定も肯定もしなかった。

 

──

 

聞き取りを終え、黒川は一人、部屋に残った。

 

年齢。

趣味。

関係性。

 

どれも、決定打にはならない。

だが、誰にでも「物語」はある。

 

責任を背負う者。

体力に自信のある者。

恋人。

好意を抱く者。

ただ、場にいる者。

 

──この中に、嘘をついた者がいるとは限らない。

 

黒川は、静かに立ち上がった。

 

警察が戻るまで、まだ時間はある。

そして、真実はいつも、

人の言葉の外に残る。

 

─────────────────────────────────

【不可能な殺人】

警察が戻ってきたのは、午後も少し傾いた頃だった。

 

玄関の引き戸が開く音がして、冷たい外気が廊下に流れ込む。

宿の空気が、わずかに張り詰めた。

 

若者たちは、自然と玄関ホールに集まっていた。

誰も声を出さない。

だが、全員が「何を告げられるのか」を分かっている顔だった。

 

警察官の一人が、一歩前に出る。

 

「……確認が取れました」

 

短い言葉だった。

 

「山頂付近で発見された遺体は、赤司恵美さんで間違いありません」

 

誰かが、息を呑む音がした。

別の誰かが、何か言おうとして、言葉を失う。

 

「死因は──」

 

警察官は、一瞬だけ言葉を選んだ。

 

「ロープによる窒息死です」

 

静寂が落ちた。

 

滝の音だけが、遠くで変わらず響いている。

 

「事故ではありません。

 明確な他殺です」

 

その場にいた全員が、同時に理解した。

"事件"になったのだと。

 

警察官は続ける。

 

「現在、詳しい状況を確認中です。

 皆さんには引き続き、宿の中で待機していただきます」

 

形式的な説明だったが、

それ以上の言葉は必要なかった。

 

──

 

人が散り始めた頃、

警察官の一人が、黒川にだけ近づいてきた。

 

声を潜める。

 

「……黒川さん」

 

「はい」

 

「本当は、こういうことは出来ないんですが」

 

一瞬、周囲を確認してから、続けた。

 

「山の捜索で手が取られていて、正直、人手が足りない。

 あなた、事件を見る目はあるでしょう」

 

黒川は、答えなかった。

 

警察官は、上着の内ポケットから、折りたたんだ写真を一枚取り出した。

 

「見るだけでいい。

 外には出さないでください」

 

黒川は、黙ってそれを受け取った。

 

写真の中で、

白い雪と、暗い岩肌の間に、恵美の身体が横たわっていた。

 

悪の所業だな。

 

視線は、自然と首元へ向かう。

 

──ロープ。

 

黒川は、ほんの一瞬、眉をひそめた。

 

首に残る圧痕。

だが、それは一本ではなかった。

 

「……」

 

写真を返しながら、黒川は静かに言った。

 

「ロープの跡が、二本ありますね」

 

警察官が、目を見開く。

 

「……ええ。

 現場でも話題になりました」

 

「一本で絞めたなら、跡は一つになる。

 二本並ぶのは、珍しい」

 

黒川は、それ以上言わなかった。

今は、指摘するだけでいい。

 

警察官は、少し間を置いてから続けた。

 

「死亡推定時刻は、午前六時二十分過ぎです」

 

その言葉に、黒川の意識が切り替わる。

 

「山頂で殺害された後、

 犯人が宿に戻るには、ゴンドラを使うしかない」

 

警察官は、頷いた。

 

「ええ。

 ですが、ゴンドラは一本しかありません」

 

黒川は、頭の中で時間をなぞった。

 

六時二十分過ぎ。

山頂。

ゴンドラ。

 

「しかし、昨晩は三十分の遅れがあった。頂上へ行くのに十分」

 

「そこから降りるのにまた十分」

 

警察官が言った。

 

その瞬間、黒川は思い出す。

 

──朝。

 

七時前。

玄関ホール。

 

全員が、そこにいた。

 

警察官も、同じ結論に辿り着いていたらしい。

 

「黒川さんも、その場にいましたよね」

 

「ええ」

 

「つまり……」

 

警察官は、低い声で言った。

 

「この宿に戻ってくるには、

 時間的に不可能です」

 

アリバイは、完璧だった。

完璧すぎるほどに。

 

黒川は、写真の中の首元を、もう一度思い出す。

 

──二本の線。

 

不可能な時間。

不可能な移動。

 

それでも、人は死んでいる。

 

黒川は、静かに言った。

 

「……誰かが、山から戻ってきていない。

 もしくは──」

 

言葉を、そこで切った。

 

警察官は、続きを促さなかった。

 

この事件は、

「不可能」から始まる。

 

黒川は、そう確信していた。

 

─────────────────────────────────

【攻め合い】

広間に沈黙が落ちたのは一瞬だった。

最初に、それを破ったのは誰かの小さな舌打ちだった。

 

「……結局さ」

 

低い声で、隼人が言う。

 

「全員、何かしら怪しいってことだよな」

 

その言葉を合図に、矛先は一人ずつ、確実に向けられていった。

 

「まず岡村さん」

 

鋭い視線が、浩二に向かう。

 

「首を絞めたって話なら、一番力あるのはあなただよね」

「抵抗されても、押さえつけられる」

 

浩二は顔をしかめた。

「待てよ、それだけで俺か?」

「力があるってだけで犯人扱いかよ」

 

「でも、"できる"のは事実でしょ」

 

その一言が、場を冷やした。

 

次に、愛莉へ視線が移る。

 

「愛莉さ最初ギルドの中心に居たのに、恵美が来てから中心の位置取られちゃったよな」

 

愛莉の眉が跳ね上がる。

 

「……だからって何?」

「嫉妬してたって言いたいの?」

 

「否定できる?」

 

返事に詰まった一瞬が、致命的だった。

 

「別に……好きじゃなかった、とは言わないけど」

「だからって殺すなんて──」

 

言い終わる前に、視線はもう別の人物へ移っていた。

 

「いや、そういう隼人だってさ」

 

今度ははっきりとした声。

 

「昨日、喧嘩してたよな。声、結構響いてたって聞いたけど」

 

隼人が立ち上がる。

 

「それだけで疑うのか?口論したカップルなんて、山ほどいるだろ」

 

「でも、"最後に揉めてた"って事実は残る」

 

隼人は唇を噛み、何も言い返せなかった。

 

誰かの視線が、颯太へ向いた。

 

「……そういえばさ」

 

誰かが、思い出したように言う。

 

「颯太、朝ひとりで風呂行ってなかった?」

 

空気が一気に張り詰める。

 

「俺ら、誰も一緒に行ってないよな」

「正直、どこにいたか分かんないんだけど」

 

疑念が、はっきりと言葉になった瞬間だった。

 

颯太は、一瞬だけ目を伏せた。

それから、静かに顔を上げる。

 

「それは違う」

 

声は、思ったより落ち着いていた。

 

「俺、朝は一人じゃない。

そこの探偵さんと一緒に温泉入ってた」

 

そう言って、颯太は黒川を見る。

 

「時間も覚えてるし、ちゃんと一緒だった」

 

一斉に、視線が黒川へ集まる。

 

「それにさ」

 

颯太は、少し語気を強めた。

 

「俺、もうすぐ結婚するんだ」

「今の時期に、殺人なんてするわけないだろ。全部失うの分かってて、やると思うか?」

 

誰も、すぐには言い返せなかった。

 

だが、疑いが晴れたわけではない。

ただ、別の場所へ移っただけだ。

 

最後に、松ちゃんが、苦笑いを浮かべた。

 

「じゃあさ」

 

軽く両手を上げる。

 

「頭いいギルドマスターの俺が、この場所選んだんだから」

冗談めかした口調で言う。

「最初からトリック考えてて、完全犯罪狙ってた……って線も、なくはないよね」

 

笑いは起きなかった。

 

最後に、誰かがぼそりと呟く。

 

「……じゃあ、誰なんだよ」

 

その言葉で、場の空気は完全に壊れた。

 

黒川は、その様子を一歩引いた位置から見ていた。

ここにいても、これ以上は悪くなるだけだ。

 

──調べに行くか。

 

警察に協力するか。

それとも、独自に動くか。

 

黒川は、静かに決断の岐路に立っていた。

 

─────────────────────────────────

 

警察に協力する➪『第4話』へ

 

自分一人で調査する➪『第5話』へ

 

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