【結末】
広間の空気は、重かった。
警察が一通りの説明を終えたあとも、
誰も席を立とうとしない。
黒川は、静かに前へ出た。
「一つ、はっきりさせておきましょう」
全員の視線が集まる。
「これは事故ではありません。
そして──」
言葉を切る。
「この中に、犯人がいます」
誰かが小さく息を呑み、
誰かが椅子を軋ませた。
刑事が頷く。
「被害者・赤司恵美さんは、
深夜、何者かに山頂へ呼び出されています」
黒川が続ける。
「相手は、彼女が警戒しない人物。
ゴンドラに同乗することを拒まない相手です」
沈黙。
「山頂で、背後からロープをかけられ、首を絞められた。」
「死亡推定時刻は、午前六時二十分過ぎ」
刑事が言った。
「問題は、そのあとです。
犯人はどうやって宿へ戻ったのか」
誰かが呟く。
「……ゴンドラじゃ不可能だろ」
黒川は、ゆっくり頷いた。
「ええ。通常のルートでは、時間的に不可能です」
一拍置いて、言う。
「だから警察は"戻れない"と考えた。ですが──
私は、別の可能性に気づきました」
黒川は、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「昨晩、皆さんの調書を読み返していた時、
一つだけ、気になる言葉がありました」
視線が、一人に集まりかける。
「『キャニオニング』」
黒川は淡々と説明する。
「調べる前はただの山登りだと思っていました。
ですが調べてみると、こう書いてあった」
───
キャニオニングとは、
渓谷を舞台に、体一つで川の流れに沿って下るアクティビティ。
滝つぼへジャンプし、
ロープで岩場を下る、アドベンチャーです。
───
「滝に、飛び込む」
空気が張り詰める。
「もし、あの高さの滝に飛び込める人間がいたとしたら。
宿へ戻る"不可能"は、"可能"に変わります」
刑事が口を挟む。
「だが、凶器は?」
黒川は、静かに答えた。
「それも、説明できます」
懐から、小さな証拠袋を取り出す。
中には、細い繊維状の破片。
「山の下流で、私が見つけました。
ナイロン製の破片です」
ざわめく。
「被害者の首には、
ロープの痕が二本ありました」
黒川は、視線を宮下颯太へ向ける。
「キャニオニングでよく使われるのは、
ツインロープ。」
「二本一組で使う、安全確保用のロープです」
刑事が低く言う。
「ツインロープなら、首に二本の圧痕が残る……」
「さらに」
黒川は、静かに追い詰める。
「ナイロン製のツインロープは、
水に沈む性質がある」
一瞬の沈黙。
「つまり──
凶器は滝の底に沈められた」
黒川は、確信を込めて言った。
「宮下颯太さん。
あなたは夜、恵美さんを山頂に呼び出した。
そして、ゴンドラの中で、何かを説得した」
颯太の喉が鳴る。
「しかし、交渉は決裂。逆上したあなたは、
"ツインロープ"で彼女を殺害した」
黒川の声は低い。
「その後、ロープを滝に沈め、
あなた自身も滝へ飛び込んで宿へ戻った」
「そして、濡れた体と滝の匂いを誤魔化すために
風呂へ入った」
──あの時のことが、脳裏をよぎる。
(風呂で、
不自然なほど香ったあの"水臭さ")
黒川は、最後の一押しを加える。
「恐らく、三つのうち、いずれかの滝の底に凶器であるツインロープが見つかるはずです」
空気が、完全に止まっていた。
──
「……あいつが悪いんだ」
宮下颯太は、床を睨みつけたまま、吐き捨てるように言った。
「俺は……普通に生きたかっただけなんだ」
誰も口を挟まない。
警察官ですら、ただ黙って見ていた。
「最初は、ゲームだったんだよ」
かすれた声で、颯太は続ける。
「オンラインのゲームで知り合って……恵美とは、そこで話すようになった。
向こうも暇そうでさ、夜になるとよく通話してた」
一瞬、顔を上げる。
「でも、途中で喧嘩した。
価値観が合わないっていうか……もう冷めてた」
拳が、ぎゅっと握られる。
「その頃に、今の彼女と出会ったんだ。
相談してるうちに……好きになった」
声が震え始める。
「俺はちゃんと選んだ。
恵美とは、終わったと思ってた」
誰かが、息を呑む。
「……でも、あいつは違った」
颯太の顔が歪む。
「別れたあとも、メッセージを送ってきてさ。
無視しても、消しても、何度も」
唇を噛みしめる。
「最近になって……俺が結婚するって話を、どこからか聞きつけたんだ」
ゆっくりと、首を振る。
「そしたら急に、態度が変わった」
声が低くなる。
「不倫してたこと、全部バラすって」
ざわ、と周囲が揺れる。
「ゲームの仲間にも、職場にも、婚約者にも、全部言うって。スクショも残ってるって」
颯太は、乾いた笑いを漏らした。
「……俺の人生、終わるだろ」
視線が宙を彷徨う。
「だから、頼んだんだよ」
ゴンドラの中を思い出すように、目を閉じる。
「もうやめてくれって。
過去のことだろって。
結婚も決まってる、今さら壊すなって」
一拍。
「でも、あいつは笑った」
喉が鳴る。
「"山の上で、ちゃんと話そう"って」
沈黙が落ちる。
「……頭に血が上った」
肩が、小さく揺れた。
「俺は……怖かったんだ。全部奪われる気がして」
声が、ほとんど囁きになる。
「山頂で、また言われた。
"言うのをやめてほしいんだったら、私に何かしてくれないとね?"って」
その先を、誰も促さない。
「……気づいたら、ロープをかけてた」
両手を見る。
「力、入れすぎたんだと思う。
抵抗された感触は……正直、あんまり覚えてない」
沈黙。
「終わったって思った瞬間、急に現実に戻った」
震える息。
「やべぇ、って。
捕まる、終わる、全部終わるって」
顔を覆う。
「だから……投げた」
滝を思い出すように、視線を落とす。
「ロープも、自分も」
警察官が一歩前に出る。
「……俺は、幸せになりたかっただけなんだよ」
声は、もう泣き声だった。
「ちゃんと結婚して、普通に暮らして……
それだけだったのに」
黒川は、何も言わない。
ただ、その言葉の軽さと、取り返しのつかなさが、
広間全体に静かに沈んでいった。
──
「……連れて行ってください」
颯太は、力なく手を差し出した。
警察官が、静かに一歩前へ出た。
「……宮下颯太さん」
名を呼ばれても、颯太はもう顔を上げなかった。
ただ、差し出した両手を、そのまま宙に置いている。
金属の音が、小さく鳴る。
かちり。
一度で、確実に。
もう一方も、同じ音を立てて閉じられた。
その瞬間、颯太の肩が、ほんのわずかに落ちた。
抵抗はない。
逃げようともしない。
ただ、力を失った人間のように、その場に立ち尽くしている。
「……すみません」
誰に向けたのかも分からない、か細い声だった。
警察官が腕を取り、向きを変える。
歩き出す前に、颯太は一度だけ振り返った。
若者たちの顔。
信じられないものを見る目。
恐怖と、嫌悪と、後悔が混じった沈黙。
そして——黒川。
颯太は何か言おうとして、結局、口を閉じた。
言葉はもう、必要ないと悟ったのだろう。
警察官に促され、廊下へと連れて行かれる。
足音が、遠ざかる。
宿に残ったのは、
湯の冷めた湯呑みと、
誰も触れなくなった朝食、
そして、重すぎる沈黙だけだった。
黒川は、ゆっくりと息を吐いた。
真実が明らかになっても、
この山が何かを返してくれるわけではない。
——ただ、奪われたものの大きさだけが、静かに残る。
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