三つ滝の宿   作:小説練習家

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第8話

【結末】

広間の空気は、重かった。

 

警察が一通りの説明を終えたあとも、

誰も席を立とうとしない。

 

黒川は、静かに前へ出た。

 

「一つ、はっきりさせておきましょう」

 

全員の視線が集まる。

 

「これは事故ではありません。

 そして──」

 

言葉を切る。

 

「この中に、犯人がいます」

 

誰かが小さく息を呑み、

誰かが椅子を軋ませた。

 

刑事が頷く。

 

「被害者・赤司恵美さんは、

深夜、何者かに山頂へ呼び出されています」

 

黒川が続ける。

 

「相手は、彼女が警戒しない人物。

ゴンドラに同乗することを拒まない相手です」

 

沈黙。

 

「山頂で、背後からロープをかけられ、首を絞められた。」

「死亡推定時刻は、午前六時二十分過ぎ」

 

刑事が言った。

 

「問題は、そのあとです。

犯人はどうやって宿へ戻ったのか」

 

誰かが呟く。

 

「……ゴンドラじゃ不可能だろ」

 

黒川は、ゆっくり頷いた。

 

「ええ。通常のルートでは、時間的に不可能です」

 

一拍置いて、言う。

 

「だから警察は"戻れない"と考えた。ですが──

私は、別の可能性に気づきました」

 

黒川は、ポケットからスマートフォンを取り出す。

 

「昨晩、皆さんの調書を読み返していた時、

一つだけ、気になる言葉がありました」

 

視線が、一人に集まりかける。

 

「『キャニオニング』」

 

黒川は淡々と説明する。

 

「調べる前はただの山登りだと思っていました。

ですが調べてみると、こう書いてあった」

 

───

 

キャニオニングとは、

渓谷を舞台に、体一つで川の流れに沿って下るアクティビティ。

滝つぼへジャンプし、

ロープで岩場を下る、アドベンチャーです。

 

───

 

「滝に、飛び込む」

 

空気が張り詰める。

 

「もし、あの高さの滝に飛び込める人間がいたとしたら。

宿へ戻る"不可能"は、"可能"に変わります」

 

刑事が口を挟む。

 

「だが、凶器は?」

 

黒川は、静かに答えた。

 

「それも、説明できます」

 

懐から、小さな証拠袋を取り出す。

 

中には、細い繊維状の破片。

 

「山の下流で、私が見つけました。

ナイロン製の破片です」

 

ざわめく。

 

「被害者の首には、

ロープの痕が二本ありました」

 

黒川は、視線を宮下颯太へ向ける。

 

「キャニオニングでよく使われるのは、

ツインロープ。」

「二本一組で使う、安全確保用のロープです」

 

刑事が低く言う。

 

「ツインロープなら、首に二本の圧痕が残る……」

 

「さらに」

 

黒川は、静かに追い詰める。

 

「ナイロン製のツインロープは、

水に沈む性質がある」

 

一瞬の沈黙。

 

「つまり──

凶器は滝の底に沈められた」

 

黒川は、確信を込めて言った。

 

「宮下颯太さん。

あなたは夜、恵美さんを山頂に呼び出した。

そして、ゴンドラの中で、何かを説得した」

 

颯太の喉が鳴る。

 

「しかし、交渉は決裂。逆上したあなたは、

"ツインロープ"で彼女を殺害した」

 

黒川の声は低い。

 

「その後、ロープを滝に沈め、

あなた自身も滝へ飛び込んで宿へ戻った」

「そして、濡れた体と滝の匂いを誤魔化すために

風呂へ入った」

 

──あの時のことが、脳裏をよぎる。

 

(風呂で、

不自然なほど香ったあの"水臭さ")

 

黒川は、最後の一押しを加える。

 

「恐らく、三つのうち、いずれかの滝の底に凶器であるツインロープが見つかるはずです」

 

空気が、完全に止まっていた。

 

──

 

「……あいつが悪いんだ」

 

宮下颯太は、床を睨みつけたまま、吐き捨てるように言った。

 

「俺は……普通に生きたかっただけなんだ」

 

誰も口を挟まない。

警察官ですら、ただ黙って見ていた。

 

「最初は、ゲームだったんだよ」

 

かすれた声で、颯太は続ける。

 

「オンラインのゲームで知り合って……恵美とは、そこで話すようになった。

向こうも暇そうでさ、夜になるとよく通話してた」

 

一瞬、顔を上げる。

 

「でも、途中で喧嘩した。

価値観が合わないっていうか……もう冷めてた」

 

拳が、ぎゅっと握られる。

 

「その頃に、今の彼女と出会ったんだ。

相談してるうちに……好きになった」

 

声が震え始める。

 

「俺はちゃんと選んだ。

恵美とは、終わったと思ってた」

 

誰かが、息を呑む。

 

「……でも、あいつは違った」

 

颯太の顔が歪む。

 

「別れたあとも、メッセージを送ってきてさ。

無視しても、消しても、何度も」

 

唇を噛みしめる。

 

「最近になって……俺が結婚するって話を、どこからか聞きつけたんだ」

 

ゆっくりと、首を振る。

 

「そしたら急に、態度が変わった」

 

声が低くなる。

 

「不倫してたこと、全部バラすって」

 

ざわ、と周囲が揺れる。

 

「ゲームの仲間にも、職場にも、婚約者にも、全部言うって。スクショも残ってるって」

 

颯太は、乾いた笑いを漏らした。

 

「……俺の人生、終わるだろ」

 

視線が宙を彷徨う。

 

「だから、頼んだんだよ」

 

ゴンドラの中を思い出すように、目を閉じる。

 

「もうやめてくれって。

過去のことだろって。

結婚も決まってる、今さら壊すなって」

 

一拍。

 

「でも、あいつは笑った」

 

喉が鳴る。

 

「"山の上で、ちゃんと話そう"って」

 

沈黙が落ちる。

 

「……頭に血が上った」

 

肩が、小さく揺れた。

 

「俺は……怖かったんだ。全部奪われる気がして」

 

声が、ほとんど囁きになる。

 

「山頂で、また言われた。

"言うのをやめてほしいんだったら、私に何かしてくれないとね?"って」

 

その先を、誰も促さない。

 

「……気づいたら、ロープをかけてた」

 

両手を見る。

 

「力、入れすぎたんだと思う。

抵抗された感触は……正直、あんまり覚えてない」

 

沈黙。

 

「終わったって思った瞬間、急に現実に戻った」

 

震える息。

 

「やべぇ、って。

捕まる、終わる、全部終わるって」

 

顔を覆う。

 

「だから……投げた」

 

滝を思い出すように、視線を落とす。

 

「ロープも、自分も」

 

警察官が一歩前に出る。

 

「……俺は、幸せになりたかっただけなんだよ」

 

声は、もう泣き声だった。

 

「ちゃんと結婚して、普通に暮らして……

それだけだったのに」

 

黒川は、何も言わない。

 

ただ、その言葉の軽さと、取り返しのつかなさが、

広間全体に静かに沈んでいった。

 

──

 

「……連れて行ってください」

 

颯太は、力なく手を差し出した。

 

警察官が、静かに一歩前へ出た。

 

「……宮下颯太さん」

 

名を呼ばれても、颯太はもう顔を上げなかった。

ただ、差し出した両手を、そのまま宙に置いている。

 

金属の音が、小さく鳴る。

 

かちり。

 

一度で、確実に。

 

もう一方も、同じ音を立てて閉じられた。

 

その瞬間、颯太の肩が、ほんのわずかに落ちた。

 

抵抗はない。

逃げようともしない。

 

ただ、力を失った人間のように、その場に立ち尽くしている。

 

「……すみません」

 

誰に向けたのかも分からない、か細い声だった。

 

警察官が腕を取り、向きを変える。

 

歩き出す前に、颯太は一度だけ振り返った。

 

若者たちの顔。

信じられないものを見る目。

恐怖と、嫌悪と、後悔が混じった沈黙。

 

そして——黒川。

 

颯太は何か言おうとして、結局、口を閉じた。

 

言葉はもう、必要ないと悟ったのだろう。

 

警察官に促され、廊下へと連れて行かれる。

 

足音が、遠ざかる。

 

宿に残ったのは、

湯の冷めた湯呑みと、

誰も触れなくなった朝食、

そして、重すぎる沈黙だけだった。

 

黒川は、ゆっくりと息を吐いた。

 

真実が明らかになっても、

この山が何かを返してくれるわけではない。

 

——ただ、奪われたものの大きさだけが、静かに残る。

 

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