この素晴らしい世界に滅却師の王を! 作:sk20100626
カズマは、王都エルロードの城壁から眼下に広がる光景を視て、自身のジョッキを持つ手が、もう一時間以上も震え続けていることに気づいた。
「おい……夢だって言ってくれよ。なぁ、アクア」
「……カズマ、残念だけど、これは夢じゃないわ。私の神聖な加護が、あんなにボロボロに切り裂かれてるもの……」
隣に立つアクアの声には、いつもの自信や傲慢さが欠片もなかった。 眼下では、王国の精鋭騎士団が、たった数人の「子供」のような風貌をした集団に蹂躙されていた。
侵略。 それ以外の言葉が見当たらない。 魔王を倒したあの日、世界は平和になったはずだった。だが、九年の沈黙を経て現れたのは、魔王軍よりも遥かに規律正しく、冷徹で、そして「絶対的な死」を体現した軍勢だった。
王都の正門前。 黄金の王女、アイリスが率いる騎士団が、一人の白髪の男を前にして膝をついていた。
ハッシュヴァルト。 カズマがかつてアクセルの街で見かけた時、継嗣の影に隠れていたあの少年だ。彼は今、天秤を模した盾を掲げ、ただそこに立っているだけで戦場の「幸運」をすべて吸い取っていた。
「……ありえねえ。アイリスの聖剣が、なんで当たらないんだよ!」
カズマが叫ぶ。アイリスが放つ渾身の一撃は、ハッシュヴァルトに届く直前、まるで物理法則が書き換わったかのように軌道が逸れる。あるいは、剣の柄が不自然に折れ、アイリス自身が反動で吹き飛ぶ。
「無駄だ、王女よ。貴様の『正義』という幸運は、すべて我が天秤が不運として精算した」
ハッシュヴァルトの冷徹な声が、戦場を凍りつかせる。 その後方では、赤い髪の少年――バズビーが、指先から放つ炎だけで城門を溶かし、リルトットという少女が、王国の魔法兵たちが放った上級魔法を「おやつ」でも食べるかのように飲み込んでいた。
「継嗣……お前、本気で世界を終わらせるつもりかよ……」
カズマは奥歯を噛み締めた。 この九年、平和に慣れきっていた自分たちへの、これはあまりにも残酷な「お返し」だった。
「お客様様、そんなに震えていては、商機を逃しますぞ」
背後から聞こえた、妙に明るい、だが底知れない声。 カズマが振り返ると、そこには仮面の悪魔――バニルと、おどおどした表情のウィズが立っていた。
「バニル! ウィズ! 来てくれたのか!」
「フハハハハ! 汝の絶望に満ちた負の感情……実に美味! だが、今の『見えざる帝国』とかいう連中に世界を支配されては、我輩の商売あがったりよ。……約束の報酬、一億エリスはしっかり頂くぞ?」
「ああ、わかったよ! この際、貯金なんてどうでもいい! あいつらを止めてくれ!」
カズマは、冒険者カードに残った全財産をバニルに差し出した。 対価は支払った。地獄の公爵と、伝説のリッチー。この二人が加われば、いくら継嗣の部下たちが強くても……。
「ウィズ、行くぞ! 氷の結界で、あの炎のガキを封じ込めるのだ!」 「は、はい、バニルさん! ……ごめんなさい、白銀の騎士団の方々! カースド・クリスタル・プリズン!」
ウィズが放った超位の氷結魔法が、城門前で暴れていたバズビーを襲う。 絶対零度の氷がバズビーを包み込み、一瞬、戦場に静寂が訪れた。
「やったか!?」
カズマが身を乗り出した、その瞬間。
「……おいおい。氷なんて、今の俺には『涼しい』くらいだぜ」
パキィィィィィィン!!
バズビーを閉じ込めていた氷が、内側から弾け飛んだ。 バズビーの指先には、一筋の細い、だが太陽の核をも思わせるほど濃縮された炎が灯っていた。
「バーナー・フィンガー・ワン」
放たれた一閃。 それはウィズの防御魔法を紙のように貫き、バニルの仮面の端を掠めて、後方の石造りの建物を一瞬で消滅させた。
「……フム。今の攻撃、悪魔の防御を透過したな。魔力ではなく、魂そのものを焼く霊子。厄介極まりない」 バニルが珍しく、冷や汗を流していた。
「ウィズ、下がれ。あれはリッチーが相手をしていい敵ではない」
戦場が混沌を極める中、王都の上空に、巨大な「影」が広がった。 その中心から、ゆっくりと一人の男が降りてくる。
佐藤継嗣。 白銀のマントを翻し、九年前よりも遥かに落ち着いた、深淵のような威厳を纏った姿。 彼は空中に立ち、ただ眼下を見下ろしているだけで、王都のすべての活動を停止させるほどのプレッシャーを放っていた。
「……カズマよ。悪魔を雇い、死者に頼るか。それもまた、貴様の『生きる』ための足掻きなのだな。私はそれを否定せぬ」
継嗣の声は、驚くほど丸くなっていた。 かつての、カズマを小馬鹿にするような皮肉はない。ただ、万物を包み込むような、絶対的な王の口調。
「継嗣! お前の『全知全能』がなんだか知らねえが、こんなやり方……っ!」
「安心せよ、カズマ。今の私に『全知全能』は使えぬ。私は今、ただの男としてここに立っている。……九日間の猶予の三日目。今日は、ただ貴様たちの顔を視に来ただけだ」
継嗣が静かに手をかざすと、バズビーたちが一斉に攻撃を止めた。
「今日はこれまでだ。……ハッシュヴァルト、戻るぞ。彼らには、まだ考える時間が必要だ。絶望を抱き、それを昇華させるための時間がな」
「御意、陛下」
白銀の軍勢が、影の中に消えていく。 カズマは、剣を構えたまま動けなかった。 力が戻っていないと言いながら、あの圧倒的な存在感。 九日間で力が戻る。もし、あの「全知」が戻ってしまったら、世界は本当に、あいつの指先一つで書き換えられてしまう。
戦場に夜の静寂が戻り、アイリスたちの治療が進む中。 王都の瓦礫の上に、場違いな男が一人、座っていた。
「……いやぁ、えらいことになっとるなぁ。この世界も」
カズマたちが驚いて振り向くと、そこには法衣のような漆黒の衣装を纏った、恰幅の良い大男がいた。 長い顎髭を蓄え、首には巨大な数珠。そして、その目は細く笑っているが、奥底にはすべてを見透かすような鋭さがある。
「……誰だ、あんた。王国の関係者か?」
カズマが警戒する。 バニルが、その男を見て、一歩後退した。 「……お客様。気をつけろ。この男、悪魔である我輩ですら、その『名前』を読み取れぬ。魂の底が真っ黒だ」
男は立ち上がり、巨大な筆を肩に担いで笑った。
「わしか? わしはただの通りすがりの坊主や。……名前は、まぁ『和尚』とでも呼んでくれや」
その男の雰囲気は、継嗣の「白」とは対極の、「黒」を体現していた。 男は継嗣が消えた影の残滓を見つめ、低く笑う。
「あの若造、エライもんを持ち込んできおった。……未来を視る眼か。……そんなもん、わしの『黒』で塗り潰してしまわんとなぁ」
カズマは、直感した。 継嗣とは別の、この世界の理(ルール)を根底から覆す、新たな「転生者」が現れたのだと。
「……あんた、継嗣の敵なのか?」
「敵か味方か。それは名前次第や。……さぁて、墨の準備をせなあかんなぁ」
男が筆を振ると、王都の闇がより一層深まった。 白銀の皇帝と、黒の和尚。 九日間の『奪還』は、今、予想だにしない三つ巴の戦いへと変貌しようとしていた。