「美緒ー!遅刻するよー!」
「もう行くから!大丈夫だって!」
前髪がぜんぜん決まらない……。
鏡の前で、もう10分くらい前髪と格闘してる気がする。いつもはもっと、バシッとすぐに決まるのに。
ママが急かすのもあるけど、一番はやっぱり。
「昨日のアレ、なんだったんだろ……」
バイトの帰りに見かけた、フードを被ったみたいな黒い人影。何をしてるかよくわからなかったけど、足元の黒い塊が煙みたいに消えてなくなったところで、怖くなって逃げた。
通報した方がよかったのかな。
でも暗くてよく見えなかったしなあ。見間違いだったら、私すごい迷惑な人になっちゃうし。
「お。きた!」
やっと理想の前髪ができあがった。
急いでリュックを背負って、洗面所を出る。
「お弁当持った?」
「持った」
「鍵は?」
「持った!」
「行ってきますは?」
「行ってきまーす!」
ダッシュで駅まで、いつもの時間になんとか間に合ってホッとする。
「う」
ただし、朝の用意に遅れた私への天罰か、今朝は座れなさそうだ。
学校まで20分くらいだけど、それでも座れるものなら座りたい。チビだから吊り革を掴むのも大変なんだ、こちとら。
仕方なく棒を掴んで揺られていくことにする。
どんどん変わっていく景色を見るのも飽きて、視線を下にすると、私の前に座っている人が、同じ学校の制服を着てる男子なことに気がついた。
なんか難しそうな小説を読んでる。揺れる車内で、微動だにしないで、本からまったく視線をそらさずにいる。すごい体幹だ。
本からはみ出す顔を見て、その男子が誰かわかった。
クラスメイトの頸木くんだ。武曽、武曽……啓一郎!
もう入学から1ヶ月経つのに、同じ時間の電車を使ってることに初めて気がついた。違う車両に乗ってて、今まで会わなかったのかもしれない。
頸木くんとはあんまり話したことはないけど、なんか静かで、大人っぽい印象だった。運動部の連中と違いすぎて、本当に同い年なのか疑問に思ったほどだ。
学校ではずっと本読んでるけど、電車でも読んでるんだ。すげー。本なんて漫画しか読めないや、私。
『間もなく芽野、芽野。お出口は右側です』
ぼーっと頸木くんを見てたら、もう学校の最寄り駅に着いていた。
ぞろぞろ降りる人の波に混ざって、私も降りる。当然、頸木くんも降りる。
こうして見るとよくわかる。くっそー、綺麗な顔しやがって……。お化粧なんてしてないだろうに、なんだその肌の白さ、髪の艶。くっそー。勝負の前から負けた気がする。
あ。でも、履いてるローファー、普通のよりヒールが高い。身長、気にしてるのか?
仕方ないな。弱点を見つけてしまったが、目をつぶっておいてやろう。チビは辛いもんね。わかるわかる。
お嬢ちゃん小学生?ざっけんな花の女子高生だわ。今年16歳なんですけど。制服着てるんですけど。あーやだやだ。
武曽くんは言うほどチビじゃないと思うけど、男子だもんなあ。私なんかより深刻なんだろう。
同じ悩みを持つ者どうし、勝手にシンパシーを感じてしまう。前から気にはなってたし、今日くらい話しかけてみようかな。武曽くん、友達とか少なそうだし。
話題は……なにがいいだろう。小説はよくわかんないしな。音楽とか聴くなら、そっちから攻めていけるけど。まあ、今どき音楽聴かない高校生もいないか。
「美緒ー」
アイドルは知らなそうだなー。流行りとかも気にしてなさそう。洋楽とか?私が知らん。邦ロックしか聴かんし、私。
やば。引き出しなさすぎ。
「美緒!」
「おっ、ぶ。え、なに」
びっっくりした。和佳奈だ。不審者かと思った。
「さっきから呼んでんのに無視すんだもん。心配するわ」
「ごめんて。無視してたんじゃないから」
……和佳奈も美人系なんだけど、武曽くんを見た後だからか、なんかパッとしないな。
「? なに、なんかついてる?」
「青のり」
「えっ、嘘」
「嘘」
「てめっ、んなろっ」
羽交い締めにされて、ズルズルと引きずられていく。チビに為す術はない。
そのまま、駅前から教室まで引きずられていった。抵抗しない私も私だけど、こいつもよくやるわ。
肩で息をする和佳奈を尻目に、私はしれっと自分の席に腰かける。
「大丈夫?」
「……いい、運動になった」
「そんな重くないよ」
HRまでは時間があるので、いつものように集まってくる友達と、雑談でもして時間を潰す。
「美緒、また軽音やんない?ギターの子やめちゃってさあ」
「ゴメン。バイト始めちゃってえ……」
なんか、いつもこんな感じだ。学校行って、友達と話して、バイトして、ちょっとだけ勉強して、気づいたら週末。
こんなんでいいのかなあとは思うけど、別に何かを変えようとは思わない。焦りというよりは、たぶん、ただの平和ボケだから。
「それよりさ、動画見た?」
「なに、なんの?」
「なんか、不審者のやつ。フードの。あと、変なのが写ってる」
「なにそれ」
フードの不審者なら知ってるけど、動画は知らない。そういえば、さっき男子がそんな話してたな。
「黒い変な……とにかく変なのと、フード被った人が出てるやつだよ。たまたま回ってきたんだけど、あれこの辺で撮られたやつっぽくてさ。なんか気持ち悪いじゃん」
「えー、流行りのAIなんじゃないの?」
「美緒もそう思う?ま、やっぱそうだよね」
「遊び半分で作ったんでしょ。住んでる方の気持ちも考えてほしいもんだね」
「本当にねー」
ちら、と隣の席を見ると、相変わらず、難しそうな本をずっと読んでいる彼がいる。
話しかけるなオーラ満載。この守りを崩すのは、かなり厳しそう。でも、1日中こうってわけじゃないでしょ。どっかのタイミングで、隙を見せるときがくるはず。話しかけるのは、その時でいいか。
◇
1日が終わった。終わってしまった。
結局、武曽くんはまったく隙を見せることなく下校していった。
なんだその鉄の意志。どんだけ話しかけられたくないんだ。どんだけ面白いんだ、その本。
私は本以下か!……本以下か。
頭のいい人が心血注いで書いたものに、ただの女子高生が叶うはずないか。悔しい。
悔しすぎてバイトも集中できなかったし。時間経つの遅かったー今日。なんでこんなモヤモヤしなきゃいけないんだ。
あー思春期。思春期だ。ぜんぶ思春期のせいだ。私は悪くない。思春期と名著と鈍感が悪い。
「…………なんだろ」
ぼーっと歩いてたせいか、夜は使わない近道に来てしまっていた。別に治安が悪いなんてことはないけど、暗いし、狭いしで、危ないからバイトの帰りは通らないことにしている小路。
昼間はなんてことないのに、夜になると急に不気味になるから、もともと人通りは少ない。
けど、今日は、いつもとなんか違う気がする。
空気がネバネバしてるというか、気持ち悪い感じだ。長くいたいとは思わない。
でも、もう半分くらいのところまで来てしまっている。引き返すのも面倒だし、このまま行っちゃうか。
早足で歩いていくと、なんだか体の動きに心の方まで引っ張られるみたいで、自然と焦るような気持ちになってくる。
なんでこんなにドキドキしてるんだろう。だいたい、こういうのって何もないのに。
私がビビりなだけかと納得して、再び踏み出しかけた足を止めた。
先の方に、見覚えのない何かがいた。
暗くてよく見えないけど、黒い塊のような何かがいる。それは、どことなく四足歩行っぽくて、赤い光が2つ、車のライトみたいに光ってる。
でも、どう考えても車なわけがない。車が通れるほど、この道は広くない。
だったら、なんだろ、アレ。
見間違いかと思って、バカみたいに目をこすって、もう一回、確かめてみる。
いる。確かにあれはそこにいる。
しかも、さっきより大きくなってる、そんな気がして。
「こっちきてんじゃん……!」
大きくなってるんじゃない!近づいてきてるんだ!
ヤバいと思って反対に向かって走り出す。
でもダメな気がする。どんどん近づいてくるのが音で分かる。どたどた足音がしてる。それに、犬みたいな、ハアハア荒い息が後ろから聞こえる。
反射的に振り返って、後悔した。
それは、今まで見たどんな生き物より気持ち悪かった。
全身が真っ黒で、毛はなくてツルっとしている。
4本の足だと思っていたものは、人の腕だった。
2つの光は、無数の小さい赤い光の粒が集まってできた目みたいだった。虫の目と同じだ。
「なにこれ、なにこれなにこれ……!」
どうして私がこんな目に遭っているんだろう。
普通に学校に行って、普通にバイトして、普通に生活してただけなのに。
なんでこんな、心臓バクバクいわせて必死に走らなきゃいけないんだろう。
なんでこんな、死ぬみたいな────────。
死ぬ?
私、死ぬの?
「あ」
一瞬でもそんなことを思ってしまって、心が折れた。走れなくなった。
嫌だ。逃げなきゃ。よくわかんないけど、こいつに捕まったらダメだ。
わかってるのに、足が動いてくれない。
棒立ちのまま、焦る心だけが心臓をどんどん動かしている。こんなに大きな心臓の音を聞いたのは、生まれて初めてだった。
「ゔっ、ぁ」
背中のリュックを掴まれて、地面に引き倒される。
黒い塊が私の顔を覗き込む。
そいつには、鼻も、口も、耳もない。虫みたいな、寄り集まった無数の赤い目が、私を見てる。
ああ、私、今日ここで死ぬんだ。
理由なんてよくわからないし、こいつがなんなのかもわからないけど、とにかくここで、こいつに理不尽に殺されるんだ。
もう、心臓は落ち着いて、いつもと同じように脈打っている。心だけじゃなくて、体の方も諦めてしまったんだ。
こういう時、意外と何も浮かばない。そんな余裕なんてない。まだ死にたくない、としか思わない。
化け物の無数の赤い目が、笑ったように見えた。
次の瞬間、私は死ぬんだ。そう思った。
でも、そうはならなかった。
不思議に思っていると、化け物はもう、私を見てはいなかった。
まっすぐ前の方を向いて、別の何かを見ている。
その方向にいたのは。