かわいいホームズの親友ちゃんは、相棒の座を奪われて焦心苦慮   作:くぁwせdrftgyふじこlp

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ジェット先輩の不思議なパワー

【みのるSide】

 

キュアット探偵事務所——今日も依頼のない、穏やかな朝だった。

 

窓から差し込む柔らかな光が、事務所の小さな机の上に落ちている。

 

私は椅子に腰かけながら、この平和な空気をしみじみと味わっていた。

依頼がないことを嘆くべきかもしれないけれど、事件がないのは良いことだ。

 

「ポチポチ~ポチ!ポチ、ポ~チ!!」

 

——そして今日は、ポチタンの姿がいつもと違う。

 

ポチタンが、キュアアンサーの衣装に身を包んでいた。

 

紫を基調にした小さなコスチューム。

ふわりと広がったスカートの裾。

かわいらしい決めポーズ。

 

小さな体いっぱいに誇りを込めたその姿は、まるで本物のプリキュアが目の前に降臨したかのようで——いや、むしろ天使と言ったほうが正確かもしれない。

 

「ポチタンはなまるかわいい~!」

 

あんなが両手を頬に当てて悶絶している。その声には魂の叫びが詰まっていた。

 

「かわいさ……100点満点!」

 

みくるが数字で表現した。100点。いや、あえて言うなら200点でも足りないかもしれない。

 

「もう写真集とか作っちゃおうよ」

 

冗談半分、でも本気も半分だ。

この愛らしさはきちんと記録に残すべきだと思う。

 

そんな私たちのやり取りを、ジェット先輩はいつも通り、机に広げた本に視線を落としながら聞いていた。

 

感情の起伏を表に出さない、いつものジェット先輩の佇まい。

 

「お前たち、いつもよりテンション高いな…」

 

少しだけ呆れたような、でも決して嫌がっているわけではない声色。

 

「「だってかわいいんだもん!!」」

 

あんなとみくるの声が完璧に揃った。

 

「ポチ!」

 

ポチタンも誇らしげに一声。

 

私は心の中でうなずいた。

 

——そうだよ、かわいいんだから仕方ない。

異論は認めない。

 

それにしても、とふと思う。

 

ポチタンが着ているその衣装、近づいてよく見れば見るほど、どこかのお店で買ってきたものではないことがわかった。

 

縫い目が細かく、丁寧だ。

 

小さな髪飾りや装飾すべてに手間をかけた跡がある。

素材もしっかりとしていて丈夫そうで、安っぽさが微塵もない。

 

誰が作ったんだろう。

 

みくるは編み物が得意だけれど、私たちはこの衣装の存在を知らなかった。

 

彼女が作ったわけじゃないだろう。

あんなも、私も、裁縫なんて縁遠い。

 

「ところで、この服どうしたの?」

 

「どこからか発注したの?」

 

知らない私たちが作れるはずもないから、消去法でジェット先輩だろうとは思う。

でも発注先が気になる——そう思っていた矢先、ジェット先輩はさらりと言い放った。

 

「作ったに決まってるだろ?」

 

……え。

 

「作ったって……ジェット先輩が?」

 

みくるの口から出た言葉は、ぽかんとした響きを帯びている。

 

隣を見れば、あんなも同じ顔をしている。

口を半開きにして、瞬きを忘れたみたいにジェット先輩を見つめている。

 

きっと私も同じ顔をしているんだろうな、と思った。

 

「ああ。ポチタンもプリキュアになりたそうだったから、デザインを考えて作ってやったんだ」

 

なんでもないことのように言う。

本当になんでもないことのように。

 

「「「……………」」」

 

沈黙が降りた。

事務所の中に、しばらくの間、音が消えた。

 

ジェット先輩が本から顔を上げた。

 

「ん、なんだ?」

 

——声が出なかった。

 

意外すぎたのだ。

 

普段から道具を発明してしまうとんでもない技術を持っているとは知っていた。

 

でも、裁縫まで。

しかもこの精緻さで。

ポチタンのためにデザインを考えて、一から作り上げてしまうなんて——。

 

道具の発明に裁縫までこなしてしまう、超万能型妖精。

そんな言葉が頭の中をぐるぐると回った。

 

「「すっごい!!!」」

 

突然、あんなとみくるが同時に叫んだ。

 

「うわっ!?」

 

ジェット先輩が飛び上がって、その拍子に妖精の姿に戻ってしまった。

 

思わず笑いそうになるのをこらえながら、私は静かに言った。

 

「へえ...やるじゃん」

 

「お前はなんで上から目線なんだよ」

 

即座につっこみが返ってきた。

妖精の姿のまま眉間にしわを寄せるジェット先輩は、それはそれで可愛らしい。

 

私はそれ以上言わずに、ポチタンの衣装をもう一度見つめた。

 

妖精というのは、人間とは違う何かを持っているのだと以前から感じていた。

 

ポチタンの時間を移動する力もそう。

怪盗団ファントムの幹部たちの身体能力や変装術もそう。

 

そしてジェット先輩の発明の才能も——それはきっと、人間の尺度で測れるものではないのかもしれない。

 

「こんなかわいいものを作れちゃうなんて凄すぎる!」

 

「ただでさえかわいいポチタンが、お洋服を着てかわいさ100倍だよぉ~~!」

 

二人が感極まった声を上げた。

 

私は衣装をじっくりと観察しながら、静かに口を開いた。

 

「荒い縫い方でもなく、細かな装飾まで一針一針丁寧に作られていてこだわりを感じる。まさに職人技」

 

「「「ジェット先輩天才!!」」」

 

三人の声が重なった。

 

ジェット先輩はそっぽを向いていたけれど、その耳がほんの少し赤くなっていたのを、私はしっかりと見ていた。

 

完全に上機嫌だ。

 

私も頭が良い天才と言われたことがある。

でも私は違う。

 

天才という言葉がふさわしいのは——きっとジェット先輩のほうだ。

 

「知ってる!」

 

人間の姿に戻ったジェット先輩が、得意げに言い放つ。

 

でもその頬が、ほんの少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

 

自画自賛しているみたいで、本当は嬉しいんだ。

 

かわいいやつめ。

口には出さないけれど。

 

「ポチタンの衣装だけじゃなくて、二人が使うプリキットも凝ったデザインが多いよね?」

 

私が話を続ける。

 

名探偵を支える6つのプリキット。

どれもプロのデザイナーが手掛けたような洗練されたデザインをしている。

 

機能性を持ちながら、見た目のかわいさも一切妥協していない。

あれを一匹の妖精が生み出しているという事実を、私はあらためて噛み締めた。

 

「そうだね!前から謎だなって思ってたんだけど、ジェット先輩が作るものってすっごくかわいいよね!」

 

あんなが目を輝かせながら言う。

その疑問は私も同じだった。

 

「どうしてこんなにかわいいもの作れるの?」

 

ジェット先輩はしばらく間を置いてから、少し照れたように答えた。

 

「天才だから!…まあでも、最初からこうだったわけじゃない。かわいいについてかなり研究したからな」

 

——最初からじゃない。

 

その言葉が静かに私の胸に刺さった。

 

今の技量は、長年積み重ねてきた努力が実ったもの。

誰よりもかわいいを追求して、研究して、試行錯誤を繰り返してきた結果。

 

最初から天才だったわけじゃない。

 

私とは大違いだ。

 

頭の中に、苦い自覚がよぎる。

 

私は昔から、努力というものをあまりしてこなかった。

 

テストの点数だけは良かった。

 

でもそれは積み重ねの賜物ではなく、ただ要領よく知識を詰め込んだだけで——根っこに何かを深く掘り下げた経験は、ほとんどなかった気がする。

 

ジェット先輩が今持っているものは、そういう地道な積み重ねの上に立っている。

それがなんとなく、眩しかった。

 

「プリキット、すごくかわいいもんね!私たちだけのものにしておくの、もったいないよ~!」

 

あんなの明るい声が、私の思考を現在に引き戻した。

あんなの手の中で、プリキットライトが柔らかく光っている。

 

オープンタイプとキーホルダータイプ、どちらも違ったかわいさがあって——そう、まるでブランド品だ。

 

「お店に出せそうなデザインだよね」

 

私は思ったままを口にした。

 

「お店……はっ!」

 

私の言葉に、あんなの目が突然きらりと光った。

 

「ジェット先輩!お店、やらない?」

 

「お店??」

 

ジェット先輩が首を傾げる。

 

あんなはもう完全に乗り気だ。

瞳の中に炎が灯っている。

 

どこでお店を開くのかという問題はひとまず置いておくとして、確かにこれほど凝ったデザインのアイテムが私たちの間だけで眠っているのはもったいない気がした。

 

それはあんなの勢いに引っ張られたわけじゃなく、自分でも素直にそう思う。

 

「ジェット先輩が作ったプリキットを何かかわいいグッズにして、お店をやったら良いと思うんだ!」

 

「それ良い!二階の空いてる部屋をお店にしたらどう?」

 

みくるが提案する。

 

「いいね!」

 

二階。

その言葉で、私はふと記憶を探った。

 

そういえば、この事務所に二階があったっけ。

 

でも不思議な作りで、屋外の階段からしか上がれない。

建物の中から二階へ行く扉はなかったはずで、私はまだ一度も足を踏み入れたことがない。

 

「空いてる部屋って?」

 

「前に私とみくるが掃除した部屋だよ。今は倉庫だけど、お店を開けるくらいの広さはあるよ!」

 

「へぇ、そんな部屋があったんだ」

 

倉庫。

私たちが最初にこの事務所に来た時、ほとんどの部屋が物で溢れていた。

 

二階はさらに手付かずだったらしい。

 

あんなとみくるが掃除したというのは知らなかった。

 

この事務所には、まだ知らない場所があるんだな。

どこか新鮮な気持ちで、私は天井を見上げる。

 

「みのるも良いアイデアだと思うよね!」

 

あんなに話を振られて、私は少し考えてから答えた。

 

「確かに、このデザインをモチーフにした商品を売るのは悪くないと思う。特にあんなが変装に使ったプリキットグロスは、そのまま化粧品として売ることもできそうだし」

 

「「確かに!!」」

 

二人の顔が、同時にぱっと明るくなった。

その笑顔を見ていたら、私も自然と口元が緩んだ。

 

他のプリキットも何かしらのグッズにアレンジできるかもしれない。

漠然とした話ではあるけれど、不可能だとも思えない。

 

むしろ、少し楽しみだと思っている自分がいた。

 

「みのるもこう言ってるし、私たちも手伝うから。どうかな?」

 

あんなが笑顔でジェット先輩に詰め寄る。

私もその言葉に小さくうなずいた。

 

でも、ジェット先輩の表情は晴れなかった。

 

「うーん…でもな…」

 

腕を組んで、どこか渋い顔をしている。

提案そのものが嫌なわけじゃないのだろう——それはなんとなくわかる。

 

ただ、何かが引っかかっているようだった。

 

「発明品は、探偵業務のために作ってるんだよなぁ…」

 

そこか、と私は思った。

 

あくまで業務用、非売品。

プリキットはそういう位置付けのものだ。

 

それをたとえグッズ化するにしても、公の場に出すことへの懸念がある——ジェット先輩がためらうのは、至極真っ当な話だと思った。

 

沈黙が少しだけ漂った。

 

そこに、みくるが静かに口を開く。

 

「ジェット先輩、これはキュアット探偵事務所のためでもあるんだよ?」

 

穏やかな、でも芯の通った声だった。

 

「お店にお客さんが来る。必ず探偵事務所の前を通る。『探偵事務所があるんだー!』って知ってもらえる。知っていれば、何か困った時に頼ってもらえると思うの」

 

みくるの言葉を聞きながら、私は心の中で感心していた。

 

さすが知能担当。

私なら数字やデータで説得しようとしてしまうところを、みくるは相手の心に届く言葉を選ぶ。

 

「なるほど、一理あるな…」

 

ジェット先輩の表情が、少しずつほぐれていった。

 

まさに一石二鳥だ。

商品が売れて、事務所の認知度も上がる。

 

業務用という制約に縛られていたジェット先輩の視野が、みくるの一言で広がったように見えた。

 

「よし、やってみるか!お店!」

 

「「やったー!!」」

 

ジェット先輩が決断した瞬間、あんなとみくるが飛び上がるように喜んだ。

その声に事務所がぱっと明るくなる。

 

「ポチ~!」

 

ポチタンも便乗する。

 

「やるからには売れる商品作って、ガッポガッポ稼ぐぞー!」

 

「…お金目当てじゃないよね?」

 

つい突っ込んでしまった。

 

「ちゃ、ちゃんと依頼のことも考えてるぞ!」

 

ジェット先輩が少しだけ慌てる。

まあ、商品を作る立場である以上、売り上げを気にするのは当然とは思う。

 

でも第一声がそれかい、とも思う。

 

「はいはい!さっきみのるが言ってた、グロスを商品にするのはどう?」

 

あんなが勢いよく話を進める。

 

「良いね!私、メイクにちょっと憧れてて!」

 

みくるが目を輝かせた。

 

「じゃあコスメショップで!いい香りがするもの欲しいなあ!」

 

二人のテンションが加速していく。

次から次へとアイデアが溢れ出て、会話の速度がどんどん上がっていく。

 

私とジェット先輩を、完全に置き去りにして。

 

「あの…勝手に話進めないで…」

 

「お前たち、自分が欲しいだけじゃないのか?」

 

「「えへへ…」」

 

にこにことごまかしている。

 

まあ、張り切ること自体は良いことだ。

悪意があるわけじゃないのもわかっている。

 

ただ——店を開く、という言葉が頭に引っかかり始めていた。

 

コスメ、商品、販売、店舗。

 

——待って。

手続きが必要になるんじゃないか?

 

頭の中で、知識が勝手に整理され始めた。

こういう時に限って、いらない情報が流れるように出てくる。

 

いらないとは言っても、実際には必要な情報なのだが。

 

「まあとりあえず…試作品、作ってみるか」

 

ジェット先輩が張り切った顔で言った。

その横で、私はすでに別のことを考え始めていた。

 

「市販コスメを仕入れて売るだけなら基本的に古物商許可不要だけど、自社製造・充填するなら『化粧品製造販売業許可』が必要…。次に税務署へ開業届。個人事業主なら『個人事業の開業・廃業等届出書』が…」

 

「お、おい…みのる…」

 

「みのるがなんかめちゃくちゃ難しいこと言ってる!?」

 

「戻って来てみのる!!」

 

三人の声が、遠くから聞こえてきた気がした。

 

現実に引き戻されて、私はゆっくりと顔を上げる。

三人がこちらをじっと見ていた。

 

ジェット先輩は若干引き気味で、あんなとみくるは半笑いになっている。

 

「…ごめん、少し整理してた」

 

「整理ってレベルじゃなかったぞ」

 

とジェット先輩が呟く。

せっかくの穏やかな一日だったのに、と思う自分もいる。

 

でも、みんながやると決めたなら、決まったからには全力でやるしかない。

それが筋というものだ。

 

私はそう思って、小さく息を吐いた。

 

——頑張るか。

 

 

_______________

 

 

 

【るるかSide】

 

緞帳の向こうで、映写機が白い光を投げかけていた。

 

薄暗い空間に浮かび上がるのは、ハンニンダーとプリキュアが激突する映像の数々。

戦いの記録、敗北の記録。

 

誰が撮ったのかはわからない。

ただ、その映像は確かに存在していて、怪盗団ファントムの現状を雄弁に物語っていた。

 

ニジーは、その映像を背に立っていた。

 

「我らの行く手を阻む、名探偵プリキュア。邪魔者はこのニジーが、今度こそ、今度こそ片付けてご覧に入れましょう!」

 

言葉巧みに、流れるように語りかける。

声には熱があって、瞳には炎があった。

 

私はその姿を少し離れたところから眺めながら、密かに感心していた。

 

あれだけプライドをへし折られて、退場寸前まで追い込まれて、あの落ち込みようを私は知っている。

 

それがもう、すっかりいつもの調子に戻っている。

ある意味、鋼のメンタルかもしれない。

 

「必要ない」

 

ウソノワールの声が、静かに空間を切り裂いた。

 

「ぇ?」

 

ニジーの言葉が、宙で止まる。

 

未来自由(ミラージュ)の書が、新たなマコトジュエルを示している。ジュエルを集めてくるのだ」

 

「ですが!」

 

「お前たちは、マコトジュエルを奪うことだけに専念せよ」

 

短く、明確に。

それ以上の言葉はいらないとでも言うように。

 

私はその言葉の意味を、静かに噛み砕いた。

 

——そういうことね。

 

マコトジュエルさえ手に入れれば、世界は嘘に塗り替えられる。

プリキュアの滅亡も、同時にやってくる。

 

プリキュアと正面からぶつかる必要など、最初からない。

 

突然のプリキュア誕生があった当初、ウソノワールが実力のつく前に阻止しようとしていたのはわかる。

 

だけどその後——いつの間にか、プリキュアを倒すことそのものが目的にすり替わっていた。

マコトジュエルの収集という本来の目的が、霞んでいる。

 

以前、ニジーが虹ケ浜で決戦を仕掛けたあの日も、ウソノワールはプリキュアを倒せとは一言も言っていなかった。

あれはニジーの独断だった。

 

ウソノワールは、その歪みを懸念している。

 

私の中でそういう理解が静かに積み上がっていく中、ウソノワールは続けた。

 

「…言い忘れていたが、今回示されたマコトジュエルは2つ存在する」

 

「は!?」

 

「「同時に2つ!?」」

 

ニジーたちの声が重なって、空間に響いた。

私も思わず息を呑んだ。

 

今まで、未来自由の書がマコトジュエルの在処を同時に複数示したことは一度もなかった。

それが今回、2つ同時に。

 

怪盗団ファントムにとって、またとない大チャンス。

頭ではそう理解できる。

 

でも同時に、何かが胸の端に引っかかった気がした。

うまく言葉にはできない、微かな違和感。

 

「そのため、この任務にはもう一人が同行する」

 

ウソノワールの声はいつも通りだった。

感情というものを一切感じさせない、静かで冷たい声。

 

なのにどうして、こんなにも不穏に響くのだろう。

私の背筋を、細い針が撫でていくような感覚。

 

「もう一人?」

 

ニジーが露骨に眉をひそめた。

その表情を見て、私は内心ため息をつく。

 

ニジーはわかりやすい。

自分の縄張りに誰かが踏み込んでくることを、体全体で嫌がるタイプだ。

 

「ならアゲが行くしかないっしょ!」

 

「いや、このオレだ!」

 

間髪入れず、アゲセーヌとゴウエモンが同時に声を上げる。

 

いつもの光景。

自信満々の声、疑いを知らない目——自分こそが最適だと、微塵も迷っていない。

 

私は黙ったまま、その様子を眺めていた。

 

この先に何が待っているのか、まだ何も見えない。ただ、何かが動き始めているということだけは——確かに感じていた。

 

「お前たちではない」

 

「「へ?」」

 

ウソノワールの声は、やはり静かだった。

それだけなのに、空間の空気がわずかに変わった。

 

アゲセーヌとゴウエモンが止まる。

やる気満々の二人の勢いが、音もなく削がれていく。

 

——じゃあ、誰?

 

自然と、意識が自分の方へ向いた。

 

違う、と胸の奥で声がした。

私でもない。

 

そう思う、そう思うのになぜか落ち着かない。

名前を呼ばれないことへの、奇妙な不安。

 

期待していたわけじゃない。

むしろ呼ばれたくないとすら思っていたはずなのに——それなのに、じっとりとしたものが胸にまとわりつく。

 

自分の感情が、よくわからなかった。

 

「な……まさか」

 

ニジーの声が震えた。

 

その言葉の意味を探ろうとした瞬間、心臓が一度だけ、強く打った。

 

「そう、そのまさかだよ!!」

 

声がどこからか響いた。

 

直後、暗闇を切り裂くようにスポットライトが灯る。

眩しい白光が舞台を照らし、ニジーの背後の影がゆっくりと形を持ち始めた。

 

「怪盗団ファントム『ジャック』、ただ今戻りました!!」

 

高らかな声。

 

白と紫を基調にしたフリルのワンピースが、光を受けてひらりと揺れる。

顔にはニジーたちと同じ仮面——でもその奥から滲み出てくる気配は、どこか、異質だった。

 

黒いロングのツインテールが静かに流れる。

頭には黒百合の髪飾り。

 

存在感が、不気味なほど鮮明だった。

 

——誰?

 

思考が、一瞬だけ止まった。

 

その人物を見つめながら、私は息を浅く吸う。

 

胸の奥がざわついている。

怪盗団ファントムに、まだこんな幹部がいたなんて——聞いていない。

 

情報として、存在しなかったはずだ。

 

そんなはず、ない。

でも、目の前にいる。

 

自分の中で積み上げてきた前提が、音もなく崩れていく感覚。

冷静でいようとすればするほど、違和感だけが鮮明になっていく。

 

「てっきり三人だと思ってたけど、これは想定外ね」

 

隣でマシュタンが呟いた。

その声にも、確かに戸惑いが滲んでいた。

 

——よかった、私だけじゃない。

 

そう思ったら、少しだけ息ができた気がした。

自分の動揺が間違いじゃないと、そっと確認できたような感覚。

 

(そうだよね……普通、そう思うよね)

 

三人で成立していたバランスの方が、もしかしたらもとから不自然だったのかもしれない。

それでもいきなり現れた存在に、すぐ納得できるほど私は柔軟じゃない。

 

「うわ、もう戻って来ちゃったわけ?」

 

アゲセーヌの声が響いた。

露骨に嫌そうな、隠す気もない声色。

 

あの反応——少なくとも初対面ではないらしい。

だけど歓迎しているようには、どこをどう見ても見えない。

 

——関係は、良くないんだ。

 

この怪盗団は、もともと一枚岩じゃない。

それは知っていた。

 

でも今、そのひびがさらに広がっていくような、不安定な感触がある。

 

私は黙ったまま、舞台の上の『ジャック』を見つめ続けた。

 

「……ジャックがボクと一緒に行くのか?」

 

ニジーの声は低かった。

 

不機嫌を隠そうともしていない、露骨な声色。

表情も同じだ。

 

まあ、当然かもしれない。

ニジーの性格を思えば、他人と組んで動くことなど想像もできなかった。

 

「あ、それに関しては後でちゃんと説明するから気にしないで」

 

ジャックが軽い調子で言った。

その瞬間——

 

(……え?)

 

一瞬だけ、視線が合った気がした。

 

ほんの刹那。

本当に、瞬きひとつほどの短さ。

 

でも確かに——こちらを見た、ような。

 

心臓が、ドクンと大きく鳴った。

 

(今……私を見た?)

 

次の瞬間にはもう、ジャックの視線は別の方向を向いていた。

何事もなかったかのように、何の感情も乗せず。

 

——気のせい?

 

そう思おうとした。

そう処理しようとした。

でも頭の片隅に引っかかりが残る。

 

あの一瞬に込められていた何かが——何だったのかを特定できないまま、うまく消えてくれない。

 

(……考えすぎ、だよね)

 

自分に言い聞かせる。

 

でも、こういう違和感は大抵外れない。

それも、経験から知っていた。

 

「とにかく、ボクの邪魔だけはしないでくれよ」

 

ニジーが念を押すように言った。

警戒と苛立ちが、声の端にはっきりと滲んでいる。

 

「わかってるって」

 

ジャックの返しは、あまりにも軽かった。

本気で受け止めているとは思えない、さらりとした声。

 

ニジーの言葉の重さを、どこか素通りさせているような。

 

片方はうっすらと拒絶していて、もう片方はそれを意に介していない。

噛み合わない会話ほど不気味なものはない——空回りするほど、ずれていくほど、どこかで何かが弾けることがある。

 

気づかないうちに、手をぎゅっと握りしめていた。

 

「励むことだ…ライライサー」

 

「「ライライサー」」

 

ニジーとジャックの声が重なった。

 

二人の声が揃う。

それだけは揃う。

 

「プリキュアと関わらずに集められるかな?」

 

隣でマシュタンが小さく呟いた。

 

「さあ…」

 

私は正直に答えた。

 

マコトジュエルがあるところにプリキュア在り——今やそれが当たり前になっている。

 

一切接触せずに奪い取るなど、ほぼ不可能に等しい。

 

でも今回は違う。

2ヶ所に同時に出現したマコトジュエル。

 

だから二人が選ばれた。

別々の場所に向かい、別々に動く。

 

——名探偵プリキュアは、どうするんだろう。

 

二手に分かれた怪盗団に対して、どう動くのか。

全員で一方を追うのか、それとも自分たちも分かれるのか。

 

答えは、まだ見えない。

 

薄暗い空間の中で、映写機だけが静かに光を投げかけ続けていた。

 

 

_______________

 

 

 

【みのるSide】

 

「まずはお掃除だね!頑張ろう!」

 

「おー!!」

 

「ポチー!」

 

二階に置きっぱなしだった残りの荷物を運び下ろし、整理して、そこからさらに掃除——なかなかの肉体労働だ、と私は内心ため息をついた。

 

体を動かすこと自体は嫌いじゃないけれど、これが依頼もない穏やかな一日の使い方になるとは思っていなかった。

 

(こうなってるのか、二階…)

 

お店を開くのに飛び抜けて広いわけじゃない。

 

でも使い方次第では、十分に活かせそうな空間だった。

 

部屋の奥には屋根裏へ続く階段まであって、延べ床面積は見た目より広そう。

知らなかった空間が、こんなところに眠っていた。

 

「ほら、みのるも!」

 

「お、おお~」

 

みくるに促されて曖昧に返しながら、私は窓の掃除を担当することになった。

あんなが床を、ポチタンとみくるがカウンターを拭いている。

 

「ここに商品をずらっと並べたいね!収納のケースとかほしいなー」

 

「この辺りにお花を置くのはどうかな?」

 

「いいね!お花屋さんに頼もうよ!」

 

二人が掃除をしながらレイアウトを話し合っている。

その声を耳に入れながら窓を拭いていると、ふと気になったことが口をついて出た。

 

「そういえば、ジェット先輩が道具を作るところって…見たことないな…」

 

独り言のつもりだったのに、あんなとみくるがすぐに反応した。

 

「確かに!ジェット先輩っていつも研究室にこもってるから見たことないよね!」

 

「しかも入るなって書かれたプレートがドアに掛けてあるから入りにくいよね」

 

二人も、気になっていたらしい。

 

現代の技術を遥かに凌駕する道具を、一体どうやって作っているのか。

私としてもかなり気になっていた。

 

でも「入るな」のプレートが掛かっている以上、無闇に覗くわけにもいかない。

まるで鶴の恩返しみたいな状態だ、とぼんやり思う。

 

「じゃあ、こっそりなら大丈夫だよね?」

 

「「え?」」

 

「ポチ?」

 

みくるの大胆な一言に、私とあんなとポチタンの声が同時に出た。

 

 

_______________

 

 

 

「…来ちゃったけど本当に大丈夫なの?」

 

「本当に少しだけだから、バレなきゃ大丈夫だよ」

 

「その発言だとバレるのがオチだから」

 

気がつけば、掃除を中断して地下まで来てしまっていた。

 

研究室のドアの向こうから、微かに作業音が聞こえてくる。

何をしているのかまではわからない。

 

入るなのプレートは、今日も静かにそこに掛かっていた。

 

(……一応、止めたからね)

 

心の中で言い訳を用意しながら、私は壁際に立つ。

 

「しーっ、そっと開けるよ…」

 

みくるがドアにそっと手をかけた。

ゆっくりと、音を立てないように。

 

隙間が、少しずつ広がっていく——

 

「プリプリ、プリティスマ~イル!」

 

……。

 

私たちの思考が一瞬で停止した。

 

妖精姿のジェット先輩が、お尻を左右にふりふりしながら、両手でハートの形を作っている。

 

そのハートから生まれたエネルギーが、作業台の上に置かれた無地の香水瓶へと注がれていく。

 

するとみるみるうちに、鮮やかな紫色の——かわいらしいデザインの香水へと変わっていった。

 

技術はすごい。

でも今の私が一番気になっているのはそこじゃない。

 

あの動き、あのポーズ、あの掛け声。

 

「プリプリ…」

 

「プリティ…」

 

「スマイル…」

 

気づいたら、口が動いていた。

三人で無意識に復唱していた。

 

「いいいいいいいいっ!!?」

 

ジェット先輩の叫び声が地下に響いた。

 

普通に気づかれていた。

 

一番見られたくかったであろう場面を、まるごと目撃された時の反応だった。

 

すぐに人間の姿に戻ったジェット先輩の顔は真っ赤で、あたふたとしている。

 

「きゅ、急に入ってくるなよ!!」

 

「かわいいハートが飛んでたよね!今の何!?」

 

あんなが恥ずかしそうなジェット先輩にお構いなしに部屋へ踏み込んでいく。

 

純粋なのは良いことだと思う。

でもたまにこうして強引に踏み込んでくるところがあって、私は少しだけ怖い。

 

悪意がないぶん、止められない。

 

「う、今のは仕上げだ!プリキットを小さくする時にやるみたいな!」

 

「これ?」

 

みくるがジャケットをめくると、内側に吊り下げられた数多のプリキットが揺らめいた。

 

「ああ、妖精の特別な力をぎゅっと詰め込む」

 

……そういうことか。

 

私は無言でそれを咀嚼した。

 

つまり、あの万能すぎる機能を持った道具は、妖精の力を注ぎ込むことで完成する。

作り方が気になっていたのに、人間にはどうしようもない領域の話だった。

 

「パワーを込めただけで今の技術を超えるなんて、毎日のように成果を上げようと励んでる科学者や研究者の面子丸潰れだね」

 

気づいたら、口から出ていた。

 

「容赦ないなお前…」

 

ジェット先輩が苦笑いする。

自分でも少し言いすぎたかな、とは思う。

 

でも嘘ではない。

妖精と人間の間には、努力では絶対に埋まらない決定的な差がある——それをあらためて、はっきりと理解した。

 

「そのゴーグル、何か特別な力があるの?」

 

今度はあんながジェット先輩のゴーグルに目を向けた。

 

肌身離さず身につけているそれ。

何か特別な思い入れがあるのだろうとは、薄々感じていた。

 

「ゴーグルに力はない。これをつけるのは、おまじないみたいなものだ」

 

——やっぱり。

 

「昔、仲間たちと一緒に発明品を作ってて、誰が一番優れた発明家なのかみんなで競い合ってた」

 

「「仲間がたくさんいたんだ!」」

 

あんなとみくるが目を輝かせた。

掃除のことは完全に忘れているようだ。

 

ジェット先輩だけじゃなく、他にも妖精がいて、仲間と切磋琢磨しながら腕を磨いていく。

 

私はその情景を、静かに頭の中で描いた。

どんな場所で、どんな顔をして競い合っていたのだろう。

 

「その頃のボクは、発明で一番大事なのは機能で、見た目は関係ないって思ってた。でも……」

 

ジェット先輩の視線が、机の上に並んだ道具たちへと向いた。

 

「いつも一番人気だったのは、ボクらの先生…『シニアン』の発明品だった」

 

「ジェット先輩の師匠にあたる妖精かな?」

 

「まあ、そんな感じだ」

 

シニアン。

 

私はその名前を、静かに記憶に刻んだ。

ジェット先輩が今のようになったのは、きっとその存在があったから——そう直感して、黙って続きを待つ。

 

「そんなシニアンがある日、ボクに話しかけてきて、『プリプリ、プリティスマイル』と唱えたら、持っていた無機質なペンがかわいらしい柄に変わったんだ」

 

——あの動きは、シニアンから受け継いだものだったのか。

 

部屋に入った時に見た光景が、頭の中で重なった。

恥ずかしそうに顔を赤くしていたジェット先輩。

 

でもあれは、師匠から受け継いだおまじないだったんだ。

 

「それで、シニアンがこう言ったんだ」

 

ジェット先輩の声が、少し柔らかくなった。

 

『それを使うみんなが、笑顔になれますようにっておまじない。発明品は、暮らしや仕事を便利にする。でも、心を豊かにすることも忘れてはいけないよ。笑顔を作るドキドキワクワクも大事!』

 

「それからボクも、発明品にかわいさを加えるようになったんだ」

 

言い終えて、ジェット先輩は静かに机の上の発明品へ視線を戻す。

 

穏やかな顔だった。

自分が作ったものを、愛おしむような目で見ている。

 

私はその横顔を見つめた。

 

機能だけを追い求めていた頃のジェット先輩と、今のジェット先輩。

その間に、シニアンという存在があった。

 

たった一言が、一人の発明家の在り方を変えた。

 

——そういうことが、あるんだな。

胸の奥が、静かに動いた気がした。

 

「確かに、ジェット先輩が作ったものを見ると、自然と笑顔になっちゃうよね」

 

あんなが言う。

みくるも頷いた。

 

「お世話になった妖精の意志を受け継いで、こんな素敵な道具を作れるようになった…。『天才』の一言では表せない努力があったんだ…」

 

「とっても素敵な先生だね」

 

柔らかい雰囲気が研究室に溶けていく。

 

天才、私もジェット先輩のことをそう思っていた。

 

でもそれは違った。

天才という言葉の裏に、見えていなかった積み重ねがあった。

 

かわいいについて研究した時間。

師匠の言葉を受け止めて、自分の在り方を変えた時間。

一針一針、丁寧に縫い上げた時間。

 

——それは、私にはできないことだ。

 

私は頭が冴える。

テストの点数は良い。

 

でもそれは、努力の上に立っているものじゃない。

 

ただ要領よく、必要なことを必要なだけ処理してきただけだ。

ジェット先輩みたいに、何かを深く掘り下げて、苦労して、それでも続けた——そういう経験が、私にはない。

 

ちゃんと頑張った人の方が、ずっとカッコいい。

 

それは本当のことで、だからこそ少しだけ胸に刺さった。

 

「これはシニアンが使ってたゴーグルで、工房を卒業する時譲り受けたんだ」

 

ジェット先輩がゴーグルに触れた。

何の変哲もない、古びたゴーグル。

 

でも長年の想いが込められた、特別なゴーグル。

 

「ジェット先輩の宝物だね!」

 

「…まあな」

 

ジェット先輩がかすかに微笑んだ。

ゴーグルに触れる指先が、そこにある記憶を確かめるように、ゆっくりと動く。

 

「それでずっと実力を磨いて、他の人のために発明品を作ることになったの?」

 

みくるが続けた。

自然な流れで出た質問だったと思う。

 

私もなんとなく、そういう話の流れだろうと思っていた。

 

「いや…少し違う」

 

ジェット先輩の声が少しだけ変わった。

 

低くなった、というより——遠くなった、という感じ。

どこか別の時間を見ているような声だった。

 

「実力は身についたが……ボクが実際に人のために道具を作る発明家として本格的に活動するようになったのは、とある依頼がきっかけなんだ」

 

依頼。

その言葉が空気に落ちた瞬間、あんなとみくるの目が開いた。

 

「えっ、ジェット先輩も探偵みたいに依頼を受けたことがあったんだ!」

 

期待が声に滲んでいる。

でも——ジェット先輩は、静かに首を横に振った。

 

「……一回きりだな」

 

「一回?」

 

胸の奥がかすかに引っかかった。

 

一回きり。

その言葉の重さを、私は黙って測る。

 

成功して満足したのか。

それとも——そうじゃないのか。

 

「依頼された道具が難しかったのと、不具合の危険性から見て、無理な要求にはあまり応えるものじゃなかった」

 

淡々とした口調だった。

感情を抑えているのか、それとも本当に淡々としているのか、私には判断できない。

 

でも——危険性、という言葉だけが、妙に強く耳に残った。

 

ただの失敗、じゃない。

なんとなく、そう感じた。

 

ジェット先輩は普段、どんな状況でも自分の判断を曲げない。

やると決めたことはやり切る。

 

その人が「一回きり」と言い切るのは、よほどのことがあったはずだ。

 

「依頼はボクには合わないのかもしれないな……」

 

視線が少し落ちた。

 

その顔を見て、私は何も言えなかった。

 

静かな表情だった。

穏やかに見えて、でもどこか遠いところを見ているような。

 

合わない、か。

 

本当はやりたくなかったのか。

それとも——やりたかったのに、できなかったのか。

 

どちらなのか、この距離からは読めなかった。

 

でも、どちらであっても、ジェット先輩の中に何か重いものが残っているのは確かだと思った。

 

聞きたいことがいくつかあった。

 

どんな依頼だったのか。

何が起きたのか。

どうしてそこまで言い切れるのか。

 

「どんな依頼だったの?」

 

あんなが身を乗り出した。

 

好奇心が瞳いっぱいに広がっている。

みくるとポチタンも、静かにジェット先輩を見つめている。

 

(……私も気になる)

 

さっきの「合わない」という言葉が、頭から離れなかった。

ただの昔話じゃない——そんな予感が、胸の奥でじっとしていた。

 

「これは15年くらい前のことだった」

 

静かな一言だった。

 

「意外と最近!」

 

あんながぱっと反応した。

 

確かに。

ジェット先輩は222年生きている。

そう考えれば、15年前なんてほんの昨日みたいなものだ。

 

でも——だからこそ、重く感じた。

 

その「最近」の出来事が、今のジェット先輩の考え方に影響を与えているということ。

 

遠い過去の話じゃない。

まだどこかに、残っているものがある。

 

そう思った瞬間、15年という時間がまったく違う重さに感じられた。

 

「……話を続けるぞ」

 

少しだけ間を置いてから、ジェット先輩は静かに続けた。

 

声は落ち着いているのに、どこか記憶をゆっくりとなぞるような慎重さがある。

 

「その日にボクはいつも通り、ロンドンの探偵事務所で道具の研究や発明をしている時、ドアを叩く音が聞こえた」

 

ドアを叩く音。

 

私は無意識に、その情景を頭の中に描いていた。

静かな作業場に突然響くノック。

 

普段は来客などほとんどない場所に——。

 

「来客はほとんどなかったから、珍しいなと思って玄関のドアを開けたら……」

 

言葉が、わずかに区切られた。

 

自然と息を詰めていた。

続きを、待ってしまう。

 

「そこにはフードを被った男の人がいたんだ」

 

「男の人?」

 

みくるが首をかしげた。

私も同じ疑問を抱いていた。

 

フードを被った男。

ただの来客なら、そんな描写は必要ない。

 

顔を隠すようにフードを深く被って、発明家の元を訪ねてくる。

わざわざ人目を避けるような格好で。

 

「表情はフードで隠れてほとんど見えない。だけど——」

 

ジェット先輩が、当時の光景を思い出すように目をわずかに細めた。

 

「男性が最初に話した言葉が、『私の娘を助ける道具を作ってほしい』という依頼だった」

 

その言葉が、静かに空気を変えた。

 

娘を、助ける。

 

胸がきゅっと締まった。

思わず、その男の姿を想像してしまう。

 

顔は見えない。

でも——その言葉だけで、なんとなく見えてくるものがある。

 

お父さん、なのかな。

 

自分の娘を助けたい一心で顔を隠して、見ず知らずの相手の元へ来る。

 

しかも相手は妖精であるジェット先輩だ。

普通の人間が、そんな存在に頼ろうと思うだろうか。

 

よほどのことがなければ——よほど追い詰められなければ——。

 

それだけ、必死だったってこと?

じわじわと胸の中に不安のようなものが広がっていく。

 

「どんな内容?」

 

気づいたら、口が動いていた。

 

知りたかった。

でも同時に、少し怖かった。

 

ジェット先輩は少しだけ間を置いてから、答えた。

 

「依頼を受けるつもりはなかったから、断ろうかと思ったけど……君にしか頼れないからと必死になってたから、とりあえず話だけでも聞こうと思って聞いたんだ」

 

小さく息を呑んだ。

 

「君にしか頼れない」

 

——その言葉を言わせるほどの状況に、その父親は追い込まれていたということだ。

すがるような気持ちで、知らない妖精のドアを叩いた。

 

(最初から、引き受ける気はなかったんだ……)

 

さっきの話と、静かに繋がった。

 

無理な要求には応えない。

危険なものは作らない。

 

ジェット先輩は、そういう線引きをきちんと持っている人だ。

 

感情で動くのではなく、自分の判断軸で決める。

そういう人だと、一緒にいてわかっていた。

 

それなのに、

 

(話を聞こうって思わせるほど、必死だったってこと……)

 

フードを被った男の姿が、頭の中でよりはっきりとした輪郭を持ち始める。

見えないはずの表情が、なぜか伝わってくるような気がした。

 

焦り、恐怖、絶望——そして、最後の一縷の希望にすがる必死さ。

 

そんな人を前にして、完全に突き放すなんてできないよね。

 

私は無意識に手をぎゅっと握りしめていた。

 

そして同時に、別の問いが静かに浮かぶ。

 

(そんなジェット先輩が……唯一、引き受けた依頼)

 

胸の鼓動が少しだけ早くなる。

期待と不安が入り混じって、落ち着かない。

 

どんな内容だったのか、知りたいという気持ちと——知るのが少し怖いという気持ちが同時にある。

 

でも、目を逸らしたくはなかった。

 

「その男性の娘は、二つの人格を持つ人物だったんだ」

 

その言葉を聞いた瞬間、頭の中で一つの言葉が浮かびあがった。

 

「……解離性同一性障害」

 

ほとんど反射のように私は呟いていた。

空気が、少しだけ張り詰める。

 

「え、何それ??」

 

あんなが目を回したような顔でこちらを見た。

 

無理もない。

聞き慣れない言葉だし、響きだけでも難しそうだ。

 

「二重人格。簡単に言ったら、一人の中に全くの別人がいるような状態のことを言うんだよ」

 

みくるがやわらかい声でそう補足した。

 

助かった、と内心で息をついた。

 

私が説明すると、どうしても知識の羅列になってしまう。

前は時差についてだったからわかりやすく教えられたけど、専門的な要素になると自信がない。

 

みくるの言葉の方が、ずっと届きやすい。

 

でも——その説明を聞いたあんなの顔は、安心するどころか、逆に強張っていった。

 

「自分だけじゃなくて、自分の中に別の人がいる……」

 

あんながぽつりと繰り返す。

 

その声には、はっきりとした戸惑いと——恐怖が混じっていた。

額にじわりと汗が浮いているのが見える。

 

無理もないよね、と思った。

 

私も頭では理解している。

でも、改めて言葉にされると——現実味が薄いような、それでいて妙に生々しいような、奇妙な感覚がある。

 

 

一人の人間の中に、複数の人格が存在する。

それらが交代で表に出てくる。

 

——それって、自分って何なんだろう。

 

そんな考えが、一瞬よぎった。

 

自分の意思で動いているはずの体を、別の誰かが使うかもしれない。

自分が知らない間に、自分じゃない誰かが話して、動いて、選択している。

 

想像しただけで、背筋がぞくりとした。

 

その娘さんは——どんな状態だったんだろう。

 

ただの知識として頭に入っているのと、実際にそれで苦しんでいる人がいるのとでは、重みがまるで違う。

 

しかも——

 

助けてほしい、と言うくらいなのだから。

 

きっと、日常生活に支障が出るほど深刻だったはずだ。

 

父親が顔を隠してまで、妖精の元を訪ねるほどに。

 

(その依頼で……先輩は何を作ろうとしたの?)

 

胸の奥で、不安がゆっくりと広がっていく。

ただ治すだけの話じゃない——そんな気がしてならなかった。

 

「男性によると、その娘は……言いにくいが、いじめを受けていた」

 

その一言が、胸の奥に重く落ちた。

 

「えっ……」

 

声が漏れていた。

 

頭の中が、一瞬だけ真っ白になる。

 

いじめ。

 

その言葉は、ただの情報として流せるものじゃなかった。

 

どうしても、自分の中の何かと重なってしまう。

 

私が、小学生の頃と同じだ。

 

教室の空気。

向けられる視線。

ひそひそと聞こえてくる声。

無視される感覚。

 

居場所がどこにもないような、あの息苦しさ。

 

意識しないうちに、記憶が蘇ってくる。

 

「みのる……」

 

隣から、みくるの声が聞こえた。

心配そうな、静かな声。

 

はっとして顔を上げる。

 

みくるの目が、こちらをちゃんと見ていた。

 

今にも手を伸ばしてきそうな——そんな目で。

 

気づかれてる。

 

胸が、少しだけ締まった。

 

でも——

 

「大丈夫、続けて」

 

私は静かにそう言った。

無理に笑わなかった。

 

ただ、真っ直ぐに。

 

もう終わったことだ。

今さら、あの頃に引き戻されるつもりはない。

 

大丈夫。

 

自分に言い聞かせる。

 

完全に消えたわけじゃない。

でも、乗り越えてきたはずだから。

 

ジェット先輩は一瞬だけこちらを見た。

それから、静かに話を続けた。

 

「度重なるいじめに、娘はストレスに耐えきれなくなったのか……自身を守る、全く別の攻撃的な人格を持った、もう一人の娘が誕生してしまったんだ」

 

その説明を聞いて、私は小さく息を吐いた。

 

——やっぱり。

 

予想はしていた。

むしろ、それ以外の理由が思いつかなかった。

 

人はそんなに強くない。

 

耐えきれないほどの苦しみが続けば——壊れる。

いや、壊れるといっても一部は正確じゃないかもしれない。

 

自分を守るために、変わる。

 

身体的な暴力、精神的な圧力、長く続く孤立——耐え難い苦痛から逃れるために、人は意識や記憶を切り離すことがある。

 

解離

 

その果てに、もう一人の自分が生まれることがある。

 

その子にとっては——必要だったのかもしれない。

 

攻撃的な人格。

それはきっと、誰にも傷つけられないための盾だった。

 

そして同時に、刃でもあったはずだ。

 

でも——

 

それって、本当に助けるべきものなのかな。

 

疑問が、静かに浮かんだ。

守るために生まれた存在を、消すことが救いになるのか。

 

それとも——消してしまうことが、また別の何かを壊すことになるんじゃないか。

 

考えれば考えるほど、答えが見えなくなる。

 

拳を握りしめた。

この依頼が、ただの治療で終わるはずがないと——はっきりと感じていたから。

 

「そのもう一人の人格の娘が、かなり凶暴で……いじめは一瞬でなくなったほどなんだ」

 

「そんなに……」

 

みくるの小さな呟きがやけに遠くに聞こえた。

 

私も息を呑んでいた。

いじめが——一瞬でなくなるほど。

 

それは、どれだけの強さなのか。

 

そしてどれだけの恐ろしさなのか。

 

頭の中に、ぼんやりとした光景が浮かぶ。

 

怯えていたはずの少女が、ある日を境に全く別人のように振る舞う。

 

誰も逆らえないほどの威圧。

誰も近づけないほどの攻撃性。

 

いじめていた側は——どんな顔をしたんだろう。

 

それを考えた瞬間、なんとも言えない感情が、胸の奥をざわりと揺らした。

 

(……それなら、確かにいじめはなくなる)

 

でも、それは解決なんかじゃない。

 

「しかし、その人格は消えたわけじゃなかった」

 

ジェット先輩の声が、静かに続く。

 

「元は優しい性格の娘が、何の前触れもなく、いきなり暴れだしたり攻撃的になったりすることがあったらしく……日常生活に大きな爪痕を残してしまった」

 

胸の奥が、ぎゅっと締まった。

 

——ああ。

 

簡単に、想像できてしまった。

 

普通に笑って、普通に話していたはずの子が、次の瞬間にはまるで別人のように変わる。

 

周りの人は戸惑う、怖がる、距離を取る。

 

そして、また孤立する。

 

いじめがなくなっても、結局は居場所がなくなっていく。

 

形を変えただけで、苦しみは続いていく。

それどころか——もしかしたら、余計に深くなっていくかもしれない。

 

「医療機関を受診しても、彼女の心に負った傷は相当なもので……なかなか緩和されなかったらしい」

 

その言葉に、私はゆっくりと視線を落とした。

 

病院でも——どうにもならなかったんだ。

 

専門家でさえ手を焼くほどの状態。

それだけ、彼女の中に積み重なったものは深くて、重い。

 

気づけば、誰も口を開いていなかった。

あんなも、みくるも、ポチタンも——ただ静かに話を聞いている。

 

さっきまでの好奇心は、もうどこにもなかった。

空気が重く、しんと静まり返っている。

 

あるのはただ——

つらい、という感覚だけだった。

 

見えないはずの家族の時間が、胸に刺さる。

 

突然暴れ出す娘を前にした恐怖。

どう接すればいいかわからない不安。

 

そして——何もできない、無力感。

 

父親も、娘も、どれだけ苦しかったんだろう。

 

だから——最後の希望として、ジェット先輩のもとを訪ねたんだ。

 

妖精であり、常識を超えた発明をする存在。

 

普通では届かない領域に手を伸ばせる、唯一の可能性。

 

でも——

 

ふと、別の疑問が浮かぶ。

 

どうやって、ジェット先輩のことを知ったんだろう。

 

普通の人間が、そんな存在に辿り着けるとは思えない。

それほどまでに追い詰められていたのか、あるいは何か特別な繋がりがあったのか。

 

「その男性は、どうやってジェット先輩のことを知ったの?」

 

あんなが口にした。

私が考えていたことと、同じ疑問だった。

 

私は黙って、ジェット先輩に視線を向ける。

 

でも——先輩は、わずかに首を傾けるだけだった。

 

「ボクにもわからない。当時はなぜか、あまりおかしいとは思わなかったんだよな……」

 

その言葉に、胸の奥がざわりと揺れた。

 

おかしいって、気づかなかった?

 

普通なら、そんな存在を知っている時点で違和感を覚えるはずなのに。

 

それすら感じなかった。

なぜ。

 

「不思議だね……」

 

あんながぽつりと呟く。

 

——うん、不思議。

 

でも、その違和感のなさが——逆に引っかかる。

 

疑問を持つこと自体が、何かによって封じられていたような。

そんな奇妙な感触。

 

他にも、妖精の存在を知っている人間がいる?

 

その考えが頭をよぎった瞬間、背筋がかすかに冷えた気がした。

もしそうだとしたら、この世界は私が思っているよりずっと広くて——ずっと複雑だ。

 

私はジェット先輩の続きを、静かに待った。

 

「それで、依頼されたのが――」

 

ジェット先輩の声が、重くなった空気を引き戻す。

 

「『人格を吸い取る道具を作ってほしい』というものだった」

 

一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

 

「人格を……吸い取る?」

 

みくるが戸惑いながら繰り返す。

その隣で、あんなも顔をしかめた。

 

「なんかヤバそうな道具だけど……」

 

——ヤバい、どころじゃない。

 

私は息を詰めていた。

 

人格を、吸い取る。

つまり——その人の中にいるもう一人を、取り出すということ。

 

頭では理解しようとしているのに、感覚が追いつかない。

 

一人の中に存在する、もう一つの人格。

それはただの異常じゃない。

 

耐えられないほどの苦しみの中で、自分を守るために生まれたものだ。

 

——それを、取り除く?

 

ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。

 

もしそれを無理やり引き剥がしたら、どうなるのか。

残された本来の人格は、本当に無事でいられるのか。

 

想像するだけで怖い。

 

ここまで来ると、もう常識の範囲じゃない。

 

医学とか、治療とか、そういう次元を完全に超えている。

現代の医学ですら届かない領域に、無理やり踏み込むみたいなものだ。

 

助けたいという気持ちはわかる。

でも——その方法が、あまりにも。

 

胸の奥で、警鐘のようなものが鳴り続けていた。

 

「そんなもの作って大丈夫なの?」

 

あんなの声は、さっきまでよりもはっきりとした不安を帯びていた。

 

私も同じことを思っていた。

 

ジェット先輩は、ゆっくりと目を伏せてから口を開いた。

 

「大丈夫なわけがないだろう。直接、人体の重要な部分である脳をいじる道具を作ることになるんだからな」

 

低くて、重い声だった。

 

はっきりと言い切られて、逆に現実味が増す。

 

危険なんて曖昧な言葉じゃ足りない。

もっと根本的に——触れてはいけない領域だ。

 

脳……人の意識も、人格も、記憶も、すべての土台。

そこに直接干渉するなんて。

 

失敗したら——

 

そこまで考えて、思考を止めた。

 

想像したくなかった。

 

沈黙が落ちる。

 

さっきまでよりもずっと重い、息苦しい沈黙だった。

 

「断ろうとはしたが……あまりに必死だったから、結局依頼を引き受けた」

 

ジェット先輩の言葉が、静かに響く。

 

あの父親の姿を思い出す。

顔を隠して、それでも必死に縋りつくように頼み込む姿。

 

あれを前にして——できるわけないよね、突き放すなんて。

 

理解はできる。

でも同時に、別の感情も静かに湧き上がる。

 

——それでも。

 

踏み込んじゃいけない領域だったんじゃ。

 

胸の奥がざわつく。

 

その二つの気持ちが、うまく折り合えないまま、ただ胸の中に並んでいた。

 

「それで……本当に作れてしまったんだ」

 

その一言に、空気が凍りついた気がした。

 

「本当に作っちゃったの!?」

 

あんなが声を上げる。

 

——作れて、しまった。

 

その言い方が、妙に引っかかった。

 

できた、じゃなくて——できてしまった。

 

まるで、できてはいけなかったものが、できてしまったような響きで。

 

すごい、はずなのに。

全然そう思えない。

 

むしろ——

 

怖い。

 

「ただ、あまりにも複雑な構造だから、シニアンが発明した人工知能を使って何回もシミュレーションしたら……至るところで副作用が出た」

 

「ふ、副作用……」

 

みくるの声が震えた。

 

——副作用。

 

その言葉だけで、十分すぎるほどの不安が広がる。

むしろ、副作用が出ないはずがない。

 

脳に干渉して、人格を切り離す。

そんな無茶なことをすれば、何が起きてもおかしくない。

 

どんな副作用なのか。

 

怖い。

正直、聞きたくない。

 

でも——それ以上に、知りたかった。

 

この話の先に何があるのか。

目を逸らしたくなかった。

 

「ボクが作った人格吸収装置は……」

 

ジェット先輩の声が、やけに遠く感じた。

嫌な予感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。

 

「約70%の確率で、人格を抜かれた人の記憶が消える」

 

——え。

 

一瞬、理解が追いつかなかった。

 

「約20%の確率で、感情が消滅する」

 

感情が——消える?

 

それってもう、生きているって言えるのだろうか。

 

人の感情を消すということは、その人が積み重ねてきた喜びも、悲しみも、怒りも——すべてがなくなるということだ。

 

それは、その人そのものを消すのと、どう違うのか。

 

「残りの10%は……脳死状態になる」

 

その言葉が落ちた瞬間、頭の中で何かが弾けた。

 

脳死。

 

つまり——死と、ほとんど変わらない。

 

「成功したのは、僅か0.01%にしか満たない」

 

空気が凍りついた。

 

成功率、0.01%……ほとんど成功しないと言っているのと同じだ。

 

助けるどころか——ほぼ確実に壊してしまう道具じゃないか。

人格を一つ消す代わりに、記憶か、感情か、あるいは命そのものを奪う。

 

「しかもエネルギー消費量も膨大で、一回使用すれば、その道具は使えないただのガラクタになる」

 

淡々とした説明。

それなのに——内容があまりにも重すぎた。

 

「「「……………」」」

 

誰も、何も言えなかった。

言葉が出ない。

 

頭では理解しているはずなのに、感情が追いつかない。

いや——追いつくのを、どこかで拒んでいるのかもしれない。

 

ジェット先輩が、こんなものを作った。

 

信じられない。

信じたくない。

でも、現実なんだ。

 

胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。

 

これはもう危険なんてレベルじゃない。

ほとんど破壊だ。

 

そんなものを、あの父親は——

そこまで考えて、思考が止まった。

 

何も言えなくなる理由が、わかってしまったから。

 

「恐がってるみたいだけど――」

 

ジェット先輩が、少しだけ苦いような声で言った。

 

「もちろんボクも、こんなリスキーな道具を渡すわけにはいかないと言ったんだ。副作用がなくなるまでもう少し改良する時間をくれと」

 

——よかった。

 

心のどこかで、ほっとした。

 

それが当然の判断だと思ったから。

 

同時に——ジェット先輩らしいとも思った。

 

引き受けはした。

でも、ただ言われたままに渡すような人じゃない。

 

ちゃんと、自分の判断軸を持っている。

私はゆっくりと息を吐いて、続きを待った。

 

「しかし、男性は――」

 

ジェット先輩の声が、さらに重くなった。

 

「『もし失敗しても全て自己責任にするから、その道具でいい』と……首を縦に振らなかった」

 

「「!!」」

 

——そんな。

 

思わず、息が詰まった。

 

あの成功率で。

あの副作用を知った上で。

 

それでも、その道具でいいと言った。

 

正気じゃない——そう思いかけて、すぐにブレーキがかかった。

 

——違う。

 

正気じゃないんじゃない。

 

追い詰められていたんだ。

もうそこまで来ていたんだ。

あの父親は。

 

「ボクは『大切な娘に、こんな危ない道具を使って何とも思わないのか!?』と説得しようとはしたんだ……」

 

ジェット先輩の言葉が続く。

 

その時の光景が、頭の中に浮かんでくる。

必死に止めようとするジェット先輩と、それでも引かない父親。

 

どちらも必死で、どちらも——間違っていないはずで。

 

「だけど頑なに男性は譲らずに、娘がこれ以上苦しむのは見たくないと聞かなかった」

 

——ああ。

 

胸の奥が、じわりと痛んだ。

 

苦しむのを見たくない。

その気持ちは、痛いほどわかる。

 

自分の大切な人が壊れていくのを、何もできずに見ているしかない。

そんな時間が続いたら、耐えられないよね。

 

でも——その選択は。

 

——間違ってる。

 

はっきりと、そう思ってしまう。

 

感情がそれを否定しようとしても、頭がそう言っていた。

 

間違ってる。

でも責めることが、できない。

 

「失敗すれば、もっと娘が苦しむことになるのに……男性は頭に血が上ったのか、その道具を無理矢理持って、報酬だけ置いて出ていってしまったんだ……」

 

「ええ!?」

 

「そんな…無理矢理…」

 

心臓が、強く脈打った。

 

——無理矢理。

 

止める間もなく、奪うように持っていった。

ジェット先輩の制止を振り切って、装置を抱えて去っていく男の背中。

 

その背中には、きっと迷いなんてなかった。

 

それだけ——追い詰められていたんだ。

 

でも同時に——止まれなかったんだ。

 

誰にも止められないところまで、もうとっくに行ってしまっていた。

 

「どれだけ探しても……その男性は二度と見ることはなかった……」

 

言葉が、出なかった。

 

——そんな。

 

探しても見つからない。

つまり——その後どうなったのか、誰にもわからないということ。

あの装置が使われたのか。使われなかったのか。

 

そして——娘は、どうなったのか。

 

わからないまま——終わった。

 

胸の奥に、重たい何かが沈んでいく。

 

救われた可能性だって、あるかもしれない。

 

0.01%は、ゼロじゃない。

でも同時に——最悪の結末だって、十分にあり得る。

 

記憶を失ったか、感情を失ったか、あるいは。

確かめることすら、できない。

 

こんなに後味の悪い話があるだろうか。

 

ジェット先輩は、静かに目を閉じていた。その表情は穏やかに見えた。

でも——どこか、消えない影が差しているようで。

 

ずっとそこにある何かを、抱えているようで。

 

15年経っても消えなかった何かを。

 

——ずっと、引っかかってるんだ。

 

あの時、止められなかったこと。

渡してしまったこと。

そして、その先を知らないこと。

 

何も言えなかった。

軽々しく言葉をかけていい話じゃない。

 

ただ胸の奥に残るのは——

 

これが、依頼が合わないって言った理由なんだ。

 

重くて、苦くて、どうしようもない——後悔のような感情だった。

 

「ジェット先輩に、そんなことがあったなんて……」

 

「ポチ…」

 

あんなの声は、しんみりとしていた。

ポチタンも小さく鳴いて、空気の重さをそのまま映しているようだった。

 

——あんな結末、誰だって引きずるよね。

 

どうなったかもわからないまま終わった話。

後悔だけが残るような出来事。

 

胸の奥に、まだ重たいものが沈んでいる。

 

「ボクもその時は気になって仕方なかった。ただ、話はまだ続きがあってな」

 

その一言に、空気がわずかに揺れた。

 

——え?

 

思わず顔を上げた。

 

「1年後くらいに、その男性から手紙が届いたんだ」

 

心臓が、どくんと鳴った。

 

「読んでみると――『娘が元の生活を送ることができました』と書いてあったんだよ!」

 

「「「!!」」」

 

衝撃だった。

頭の中で、さっき聞いた数字がぐるぐると回る。

 

成功率0.01%。ほとんど成功しないはずの道具。

 

——それが、成功した?

 

信じられない。

でも、本当に?

 

胸の奥に、じわじわと熱が広がっていく。

 

「すごい!! そのお父さんと娘さん、嬉しかっただろうなぁ……!」

 

あんながぱっと明るい声を上げた。

さっきまでの重たい空気が、嘘みたいにほどけていく。

 

「やっぱり奇跡って起こるんですね!」

 

みくるも、心から嬉しそうに笑った。

 

——奇跡。

 

その言葉が、やけにしっくりきた。

 

普通ならあり得ない確率。

それでも掴み取った成功。

 

あの人たち——救われたんだ。

 

ずっと胸に引っかかっていたものが、少しだけ軽くなる。

 

想像してみる。

あの父親が手紙を書いている姿を。

もう怯えなくていい日常を取り戻した娘の姿を。

 

——よかった。

 

心の底から、そう思えた。

 

「本当だよ。その時に初めて、人の役に立てると自信がついて――本格的に発明家として活動するようになったんだ」

 

ジェット先輩の声は、さっきまでとは少し違っていた。

 

どこか静かな確信が、言葉の端に滲んでいる。

 

——そっか。

 

あの出来事は、ただの後悔じゃ終わらなかったんだ。

危険で、間違いで、取り返しのつかない可能性もあった。

 

それでも、救えたっていう事実が、先輩を変えたんだ。

 

——それでも、紙一重だったんだよね。

 

奇跡が起きたからよかった。

 

でも、もし違っていたら。

0.01%の外側に落ちていたら。

 

その可能性を、私は完全には消せなかった。

 

小さく息を吐いた。

 

それでも今は——ただ、その奇跡を信じたかった。

信じていたかった。

 

あの父親と娘が、ちゃんと笑っている場所にたどり着けたことを。

 

研究室の中に、少しだけ柔らかい空気が戻ってきていた。

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