かわいいホームズの親友ちゃんは、相棒の座を奪われて焦心苦慮 作:くぁwせdrftgyふじこlp
【みのるSide】
思い立ったが吉日、という言葉の意味を今日ほど実感したことはない。
ジェット先輩の設計した機械が、まるで工場の生産ラインのように絶え間なく動き続けている。
プラスチックが組み合わさっただけのはずなのに、その稼働音はどこか頼もしく、商品が次々と形になっていく様子を眺めていると、自分たちが本当に「お店」を開こうとしているのだという実感が、じわじわと胸の奥に染み込んできた。
先輩、すごいな。
毎回思うけど、本当に。
「それじゃあ……」
ジェット先輩が大量に積み上がった商品の前で、ふっと息を整えた。
その横顔はどこか真剣で、まるで大舞台に臨むアスリートみたい。
「プリプリ、プリティスマ~イル!!」
おまじないというか、呪文というか。
力を込めた瞬間、無機質だった商品たちが見る見るうちに鮮やかに変わっていく。
色が乗り、デザインが生まれ、さっきまでただの「物」だったはずのそれらが、急に愛らしく輝き始める。
「「プリプリ、プリティスマ~イル!」」
背後から元気な声が重なった。
振り返らなくても分かる。
あんなとみくるだ。
二人は揃って先輩のポーズまで真似していて、私は思わず小さくため息をついた。
呆れているわけじゃない。
ただ、あの二人はどこまでも澄んだ明るさがあって、それが眩しいような、少し羨ましいような、そんな気持ちになることが時々ある。
二人は引き続き店内の掃除を担当していてその休憩中に様子を見に来ている最中で、私はジェット先輩が完成させた商品を黙々と箱に詰め始めた。
……なんで私、こんなに重労働ばかりなんだろう。
箱を抱えて二階へ。
降りてきてまた詰めて、また二階へ。
運動が苦手な自覚はあるつもりだけど、こう何度も往復していると、自分の体力のなさが数値で可視化されているようで少し悲しい。
でも誰かがやらなきゃいけないし、何より文句を言える雰囲気じゃない。
みんな動いている。
私だけ止まるわけにはいかなかった。
カランコロン、と玄関のドアベルが鳴った。
「こんにちはー!カメリアインテリアです!ご注文の収納ケース、持ってきました!」
明るい声と一緒に入ってきたのは、前田ちほさんだった。
以前、拠点部屋のインテリアを揃えに行ったときにお世話になった店員さん。
これで会うのは二度目になる。
柔らかい笑顔は、あのときと変わっていなかった。
「ちほさん!ありがとうございます。二階の棚の整理に使いたくて」
あんなが駆け寄りながら声を上げる。
「じゃあ二階に運んでおけば良い?」
「お願いします!」
その会話を耳の端で聞きながら、私はまた箱を抱えて動く。
と、そこへ今度は別の人物が扉をくぐってきた。
「こんにちは!フラワーショップ花森です。鉢植えや切り花、いろいろ持ってきました!」
花森もりおさん。
フラワーショップの店員さんで、その名の通りお花を抱えてやってきた。
ケースの中には観葉植物や色とりどりの切り花が並んでいて、彼が一歩踏み込んだ瞬間、部屋の空気がふわっと変わった。
甘くて、青くて、どこか懐かしいような香り。
思わず、手が止まる。
こういう瞬間に、ここを「お店」にするんだという実感がまた一層、重みを帯びてくる。
「ありがとうございます!お店に飾ってみて決めていいですか?」
「もちろん!」
みくるが生き生きとした顔で応対している。
花が好きなんだろうな、と思う。
ちほさんと入れ替わるようにして、また一人、扉から顔を覗かせた。
「ジェット君、いつものスイーツ持ってきたよ」
「店長!いつもありがとう!」
パティスリーチュチュの浅井たいらさんだ。
以前、エリザさんのペンが怪盗団ファントムに盗まれた騒動のとき、一緒に探し回っていた人でもある。
ジェット先輩の手元に大量に積まれているお菓子が、あのお店から仕入れたものだとは薄々気づいていたけれど、改めて確認した形になった。
「お礼を言うのはこっちだよ。ジェット君、うちの常連だから」
「ちょっと待って、お金取ってくる」
「オッケー。じゃ、ケーキを冷蔵庫に入れとくね」
二人のやり取りは、何の気負いもなく、自然に流れていく。
長い付き合いって、こういう感じなんだろうな。
ずっと事務所にこもっているイメージがあったジェット先輩に、こんなふうに外の人たちとの繋がりがあったことが少しだけ意外だった。
いや、考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。
人も妖精も、自分が見えていない場所でちゃんと生きているのだから。
たいらさんが台所の方へと向かっていき、部屋の空気が少し落ち着いた。
ジェット先輩が財布を取り出して、お金を数えようとしたその瞬間だった。
「うわ!?」
パラパラと軽い音を立てて、数枚の小銭が財布から飛び出す。
コインたちは思い思いの方向に転がり、あっという間にソファの下へと吸い込まれていった。
「私たちも手伝うよ!」
あんなが声をかけた。
「サンキュ」
ジェット先輩はゴーグルを外して机の上に置き、私たちは揃ってソファの前に向かう。
床に頬をつけるようにして隙間を覗き込むと、薄暗い奥にいくつかの銀色がきらりと光っている。
手を伸ばして、一枚ずつ。
幸いそこまで奥に転がり込んでいなかったので、指先でなんとか届く。
冷たくて平らな感触を確認するたびに、少しだけほっとする。
こういう地味な作業が、なぜか嫌いじゃない。
「……?」
ふと、何かを感じた。
感じたというか、気配とでも言うべきか。
言葉にするのが難しい。
視線じゃない。
音でもない。
ただ、何かがそこにあったようなそんな感覚。
反射的に机の方へ振り返った。
誰もいない。
「どうしたみのる?」
ジェット先輩が私の顔を覗き込んでくる。
「……いや、何でもない」
首を振って、手元に意識を戻す。
気のせい、だろう。
疲れているのかもしれない。
さっきからずっと箱を運び続けていたし。
「ありがと、やっと取れた!」
小銭を全て集め終えて、先輩の手のひらに乗せると、先輩は少しほっとしたような顔をした。
ソファを動かさずに済んでよかった、と思いながら立ち上がる。
「……ポチ?」
すると、あんなが抱いているポチタンが何かに反応している。
いつもみたいに激しくはない。
でも確かに、何かを感じ取っているときのあの独特の緊張感がポチタンの小さな体に走っていた。
そしてあんなの表情も、それを察したように、すっと引き締まる。
嫌な予感がした。
どの事件のときも、ポチタンは誰よりも先に気づいていた。
視線が自然と机の上へ向く。
……ない。
ジェット先輩のゴーグルが、ない。
確かにここに置いていた。
さっき私も目で追っていた。
なのに今、そこには何もない。
机の表面だけが、静かに光を反射している。
さっきの気配は、気のせいなんかじゃなかった。
「……ジェット先輩のゴーグルがない」
できるだけ落ち着いた声で、ただ事実だけを告げた。
「「え!?」」
あんなとみくるの表情が、同時に険しくなる。
その直後だった。
「うわああああああああああっ!!!?」
ジェット先輩の絶叫が、事務所中に響き渡った。
思わず肩がびくりと上がる。
「!?」
台所にいたたいらさんが、音を聞きつけて慌てて駆け込んでくる。
「ない!ない、ない!!」
「どうしたんですか!?」
部屋の外にいた花森さんとちほさんまでもが騒ぎを聞きつけて飛び込んでくる。
一気に人が増えて、静かだった空間が混乱に塗り替えられた。
「ゴーグルがない!!確かにここに置いたのに!?」
「まさか怪盗団ファントムが!?」
もしそうなら、本当にまずい。
敵に、ここの場所が——名探偵プリキュアの本拠地がバレてしまった可能性がある。
考えたくないけど、考えないわけにはいかない。
でも今、動揺している時間はない。
「私たちに任せて!」
あんなとみくるがすでに動いていた。
こういうとき、二人は誰よりも速い。
二人が取り出したのは、伝説のプリキット。
「オープン!プリキットミラールーペ!」
手掛かりを見つけることに特化した、鑑識の要素を一つに詰め込んだ道具。
浄化のときだけじゃない、ちゃんと探偵の道具としても機能する。
「カバーを外して……」
「「ルーペモード!ON!」」
鏡のカバーをめくると軽やかな効果音が鳴り、レンズが起動する。
「ミラールーペがあれば、どんな手掛かりだって見つけちゃう」
あんなが言う。
その声には、不安よりも闘志の方が滲んでいた。
レンズが捉えたのは、複数の足跡だった。
ただ、ぐちゃぐちゃに入り乱れている。
「足跡がいっぱい……」
みくるが呟いた。
レンズ越しに見えるのは、重なり合い、踏み荒らされたような無数の跡。
誰がどこを歩いたのか、一見しただけでは到底判別できない。
「私たちの足跡は消して!」
あんなが指示した瞬間、レンズの中でいくつかの跡がすっと消えていく。
あんな、みくる、私、ジェット先輩の足跡が、まるで最初からなかったかのように。
そして残ったのは三色に色分けされた三つの足跡——たいらさん、花森さん、ちほさんのもの。
……本当に何でもできるんだな、このプリキット。
改めて実感しながら、私は少しだけ呆れる。
便利すぎて逆に怖い、というのが正直な感想だけど、今は助かることの方が大きい。
「はなまる発見!足跡は3つ!」
「3つの足跡は……ちほさん、花森さん、たいらさんのもの」
みくるが静かに確認する。
ちほさんとたいらさん。
その名前を頭の中で繰り返して、私は思わず苦い気持ちになった。
また、この二人が事件に巻き込まれている。
前回もそうだった。
ただそこにいただけなのに、気づけば騒ぎの渦中にいる。
花森さんは今日が初めてだ。
来たばかりなのに、こんな形で関わることになってしまって申し訳ない気持ちもある。
「ポチタンが反応していたのは、ジェット先輩のゴーグル?」
あんなが問いかけると、ポチタンが元気よく答えた。
「ポチポチ!」
やっぱり。
ジェット先輩のゴーグルには、マコトジュエルが宿っている。
ファントムがそこに接触したのを、ポチタンは感じ取っていたんだ。
あのとき私が感じた、あの奇妙な気配。
それがこれだったのかとようやく腑に落ちる。
「ゴーグルはファントムが盗っていって、ファントムらしき足跡はない」
「ということは、ファントムは三人のうちの誰か」
また変装か。
そう理解した瞬間、胸の中に冷たいものが落ちてきた。
私たちのすぐそばに、平然とした顔で紛れ込んでいる。
そういうことだ。
でも変装をしたところで、あんなとみくるを欺くことはできない。
この二人は、そういうときに限ってぶれない。
それが分かっているから、私とジェット先輩は何も言わずに一歩引いた場所に立っていた。
邪魔をしてはいけない——以前はそう言い聞かせていた。
でも今は違う。
ただ純粋に、二人の活躍を見届けたいと思っている。
それだけだ。
「犯人は……」
「この中にいる!」
あんなとみくるが並んで言い切った。
三人は横一列に並んでいる。
この中の誰か一人が、怪盗団ファントムの誰かに成り代わられている。
その事実と今自分が見ている光景を重ねようとすると、どうしても頭がついていかない部分がある。
普通の顔をして笑っていた人が、別の誰かだなんて。
まずちほさんが口を開いた。
「ご注文いただいた収納ケースを置いて、それから店内を見て回りながら、インテリアのアイデアを考えてました」
穏やかな声、淀みない。
次はたいらさん。
「ケーキを探偵事務所の冷蔵庫まで入れに行ってました」
こちらも自然だ。
焦りも、動揺も、見えない。
最後に花森さん。
「持ってきた花を二階に運ぼうと階段を上っていたら、声が聞こえてきたから慌てて戻ってきたんだ」
三者三様。
それぞれが別の場所で、それぞれの仕事をしていた。
机の近くに近づく理由も機会も、一見すると誰にもない。
どうやってゴーグルを持ち去ったのか。
隙がどこにあったのか。
誰かが嘘をついている。
そう考えるしかない。
でも、どこに嘘があるのかが見えない。
「みんなの行動や証言におかしいところはない」
「一体誰が……?」
二人が眉を寄せて考え込んだ、その沈黙の中に。
ぐう、という音が割り込んできた。
「ポチ~……」
全員の視線が、あんなの腕の中のポチタンへ向く。
そういえばまだミルクを飲んでいなかった。
ちょっと間が悪かったな、と思ったけれど、問題はそこじゃなかった。
「え!?今、ポチって……」
「ポーチが喋った!?」
ちほさんとたいらさんが目を丸くして固まっている。
そりゃそうだ。
何の前触れもなく、持ち物から声がしたように聞こえたんだから。
妖精の存在は、プリキュアと同じく秘密にしなければならない。
ポチタンのことも、この世界の人たちに知られてはいけない。
「き、気のせいだよ!ね!」
「わ、私のお腹の虫です!ポチポチ……お腹空いちゃったな~」
あんなとみくるが懸命にフォローしている。
あまりにも苦しい誤魔化し方だけど、今はそこに突っ込んでいる場合じゃない。
私はさりげなく三人の表情を確認した。
ちほさんは目を丸くしたまま、たいらさんは口元に手を当てて首を傾けている。
どちらもまだ状況を飲み込めていない顔だ。
でも、花森さんだけが違った。
「あはは……元気なお腹の虫ですね!」
笑っている。
穏やかに、自然に、笑っている。
……普通じゃない。
喋るポーチなんて、普通は見たことがない。
驚くのが当たり前だ。
ちほさんもたいらさんも、声を上げて固まった。
なのに花森さんは、まるでそれが当然であるかのように受け流した。
まるで最初から、ポチタンが喋ることを知っていたかのように。
違和感が、確信へと変わっていく輪郭をなぞるような感覚があった。
あんなとみくるも、同じ瞬間に捉えていた。
「「見えた!これが、答えだ!」」
「犯人は……あの人だ!」
二人の視線が重なり、向かう先は一つ。
花森もりお。
ポチタンが喋ったことに、一人だけ驚かなかった人物。
それだけで十分だった。
ポチタンの存在を知っていて、かつゴーグルを盗む動機と機会がある者。
条件を満たす答えは、一つしかない。
私の中で、すとんと何かが落ちた。
_______________
花森さんがこっそりと事務所を出ていく背中を、私たちは逃さなかった。
「待って!!」
事務所の前で放たれた声は、鋭く、迷いがなかった。
足が止まる。
逃げようとしていたのか、ただ帰ろうとしていたのか。
でも足が止まったという事実が、答えを物語っている気がした。
「ゴーグルを奪った犯人は……」
「「あなたです!!」」
あんなとみくるの人差し指が、まっすぐに花森さんへと向けられた。
「え、犯人?ボクが?何のことです……?」
しらを切る声が返ってくる。
でもその声は、さっきまでの花森さんじゃなかった。
低く、どこか薄暗い響きを持ったその声は、花森さんのものじゃない。
「惚けても無駄だよ!」
「『ポーチが喋った!?』ってみんなが驚いてたのに、あなただけが驚かなかった!」
そう、それだけでよかった。
ただそれだけで、全部崩れた。
ポチタンの存在に慣れているが故の、致命的な失策。
周囲に溶け込むための変装は完璧だったかもしれない。
でも、人として自然に驚く、そのただ一つのことができなかった。
それが綻びになった。
「私たち以外でポチタンのことを知っているのは……」
「怪盗団ファントムだけ!」
二人の目が、花森さんの姿をした何者かを射抜く。
逃がさないという意志が、空気ごと縫い止めているみたいだった。
観念したのか。
それとも元々こうするつもりだったのか。
花森さんに化けていた人物は、ゆっくりと、わざとらしいほど優雅に拍手をした。
「スバラシイ!美しい花のように、完璧な変装のまま、この場を去ろうとしたのだがね!」
その声の抑揚。
その仕草の作り方。
ああ、あの人だ。
「よく見抜いたね、ベイビー」
変装が解けて、現れたのは。
「「ニジー!!」」
あんなとみくるの声が重なった。
……ニジー。
私は心の中で小さく息を吐いた。
あれだけ警戒していたのに、いざ正体が明かされたらいつも通りのニジーだった。
正直なところ、肩透かしというより、ちょっと呆れに近い感情が湧いてくる。
この前あれだけボコボコにされたのに、またこうして名探偵プリキュアの前に立っている。
懲りない、という言葉がこれほど似合う存在もなかなかいない。
そろそろ学習した方が身のためなんじゃないか、という至極真っ当な感想が喉元まで出かかって、私はかろうじて飲み込んだ。
「ゴーグルを返せ!!」
ジェット先輩の声に、怒りが滲んでいた。
当然だ、大切なものを盗まれたんだから。
でも私の口から出てきたのは、まったく違う言葉だった。
「良かった、無事だった……あ!?」
自分の声を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
慌てて両手で口を塞ぐ。
でも遅い。
もう出てしまった。
ニジーを心配する言葉が、よりによってこの場で。
ジェット先輩が怒り心頭で詰め寄ろうとしているまさにそのとき、私だけが真逆の感情で声を上げていた。
全員がこちらを向いた。
「「「え!?」」」
あんなも、みくるも、ジェット先輩も。
三対の目が一斉に私に集中する。
「な、何でもない……無事で済むと思うなよ!!」
絞り出した言葉がそれだった。
……最悪だ。
自分でも分かる、これは完全に誤魔化せていない。
取り繕おうとして余計に怪しくなる、あの典型的なパターン。
さっきのあんなとみくるの誤魔化し方に呆れていた自分が恥ずかしい。
人のことを言えた口じゃなかった。
それに、これじゃまるで裏切り者みたいじゃないか。
ニジーは敵だ。
分かっている。
何度も邪魔をされて、今日だってゴーグルを盗んでいって。
怒るのが正しい。
先輩みたいに。
なのに私の中の何かが、あの姿を見て安心してしまった。
……今は考えるのをやめよう。
「残念だけど、それはできない」
ニジーの声が空気を切る。
そして懐から取り出されたのは、ジェット先輩のゴーグルだった。
「ウソよ覆え!出でよ、ハンニンダー!」
「ハンニンダー!!」
投げた薔薇がゴーグルへと吸い込まれる。
宿っていたマコトジュエルが、見る間に黒く染まっていく。
そしてゴーグルをかけた異形の影が、ハンニンダーとして形を成した。
「シニアンのゴーグルが!!」
ジェット先輩の声が、痛みを帯びた。
怒りとは違う、もっと深いところからくる声だ。
あのゴーグルには、シニアンから受け継いだ想いが、マコトジュエルとして宿っていた。
それが歪められていく様子を目の当たりにして、先輩がどれほどの思いでいるか、私には想像しかできない。
「ジェット先輩、大丈夫だよ!」
あんなが振り返らずに声をかけた。
その背中は小さいけれど、ぶれていない。
何があってもそこに立ち続けるような、静かで強い背中だ。
救世主って、きっとこういう人のことを言うんだと思う。
「私たちが絶対……」
「「取り戻す!!」」
ジュエルキュアウォッチのペンダントが掲げられ、二人の声が重なった。
私はその場で、ただ見ていた。
手を出す力も、変身する力も、私にはない。
でも今この瞬間、二人の背中に全部を託している気持ちは、誰にも負けないと思っている。
取り戻してほしい。
ジェット先輩のゴーグルを。
ジェット先輩の大切なものを。
頼んだよ、二人とも。
_______________
【ジャックSide】
――気配が、揺れた。
それだけで分かった。
「ニジーが動いた……」
ほんの一瞬の揺らぎ。
普通の人間には感じ取れないような、空気のほつれ。
だがニジー独特のあの気配は、一度覚えたら間違えない。
薔薇の香りに似た、どこか過剰な存在感。
身体は既に動き出していた。
考えるより先に、足が前へ出る。
思考と行動の間に、迷いは挟まらない。
それが役割を担う者の在り方だと、私はずっとそう刷り込まれてきた。
「ウソノワール様が言うには、全く別の場所でマコトジュエルの在処がわかったと……」
口にしながら、頭の中で地図を広げる。
名探偵プリキュア。
キュアアンサーとキュアミスティック。
二人の動きは読める。
いや、正確には読みやすすぎる。
あの二人は必ず、事件の臭いのする方へ向かう。
それが彼女たちの強さであり、同時に行動の予測を容易にする。
問題は、そこじゃない。
脳裏に浮かぶのは、ふわりとした毛並み。
「……ポチタン」
声に出すと、自然と口調が硬くなった。
あれはただの妖精じゃない。
それはこれまでの調査で、嫌というほど思い知らされてきた。
マコトジュエルに危機が迫れば即座に反応する、生きた警報装置。
どれだけ巧妙に立ち回っても、どれだけ完璧に変装を施しても、最終的には必ず追いつかれる。
推理で暴かれ、逃げ道を塞がれ、詰められる。
「……厄介だね」
小さく吐き捨てる。
自分でも気づかないうちに、足が少し速くなっていた。
さらに問題がある。
あの道具だ。
「プリキット……」
名探偵プリキュアが使う、発明家の妖精が生み出した代物。
現代の技術水準を明らかに逸脱している、あのチートじみた装備の数々。
足跡を色分けし、証拠を炙り出し、変装も移動も翻訳も。
どんな手掛かりも見逃さない。
あれがある限り、力でねじ伏せようとしても、証拠を消そうとしても、どこかで必ず綻びが出る。
ならどうする。
走りながら、思考を研ぎ澄ませていく。
正面から突破できないなら、構造そのものを崩せばいい。
一点に集中した防御は、複数の同時攻撃には対応できない。
それはどんな戦術にも通じる、単純な理屈だ。
口の端が、静かに歪んだ。
――別行動で、同時に仕掛ける。
劇場から移動する道中で、ニジーと話し合った。
ニジーも納得してくれた。
別々でマコトジュエルを同時に狙う。
つまり、チャンスは二つある。
プリキュアがどちらかに現れることは確実だ。
ポチタンが反応し、二人はそちらへ向かう。
だが。
もう一方は、どうなる。
その瞬間が見えた気がして、私は思考の中で静止した。
片方に意識が向いた瞬間、もう片方は無防備になる。
仮にポチタンが両方の異変を同時に感知したとしても、情報が分散すれば判断は遅れる。
二人のプリキュアが二手に分かれれば、それぞれの戦力は半減する。
分かれなければ、片方は手が届かない。
どちらに転んでも、隙は生まれる。
その一瞬で、十分だ。
どちらかが必ず持ち帰る。
確信を胸の奥に押し込めながら、私は足を止めずに走り続けた。
感情を動かす必要はない。
迷う必要もない。
ただ、役割を果たすだけだ。
それだけが、私に与えられたことだから。
「……完璧だね」
笑いが漏れた。止めようとも思わなかった。
走る速度が、自然と上がっていく。
身体が軽い。
こういうとき、いつもそうだ。
成功のイメージがはっきりと見えているとき、身体はまるで重力を忘れたように動く。
名探偵プリキュア。
確かに厄介な相手だと思っている。
頭が切れる。
連携が巧み。
あの妖精を含めた3つの組み合わせは、これまでに何度も計算を狂わせてきた。
それは認める。
だが。
「名探偵プリキュアも……意外とバカなんだね」
小さく、冷たく言葉が落ちる。
「こんなことも予想できないなんて」
風を切りながら、私は影の中へと消えた。
既に勝負は始まっている。
あとは、奪うだけだ。
人混みの中に滑り込み、視線だけを静かに動かす。
焦ってはいけない。
焦りは全てを雑にする。
動きが、判断が、存在の消し方が。
感情がほんの少し滲んだだけで、人は途端に目立ち始める。
だから私は常に、凪いでいなければならない。
「……見つけた。あれだね」
前を歩く一人の女性。
その腕に大事そうに抱えられた一冊の本。
装丁の質感、色合いの微妙な偏り、そしてほんの僅かに漂う異質な気配。
未来自由の書が示していた特徴と、全て一致する。
周囲をさりげなく確認する。
プリキュアの気配はない。
ポチタンの気配も、今のところは感じない。
だが、それで油断するほど甘くはない。
あの妖精は予告なく反応する。
こちらが動いた瞬間に気配を察する可能性もある。
だから。
最悪を想定して、最短を選ぶ。
本そのものには用はない。
狙うのはその中に宿るもの、それだけだ。
本を盗めば女性は気づく。
騒ぎになれば、注目を集める。
そうなれば逃走に余計なコストがかかる。
だから本には触れない。
触れたとしても、それは一瞬だけ。
足音を殺しながら、自然な歩行の流れの中で距離を詰めていく。
周囲の誰も、私に視線を向けていない。
ただの通行人。
それ以上でも以下でもない存在として、雑踏に溶け込んでいる。
女性との距離が縮まる。
すれ違う、その刹那。
私は手を伸ばした。
本の表紙に、軽く触れる。
ほんの一瞬。
触れたかどうかも分からないほどの接触。
でもそれで十分だ。
内部に宿る力の位置を正確に捉えて、そのまま引き抜く。
抵抗はない。
糸を解くように、するりと。
感触が指先に絡みついて、そして離れる。
取れた。
確かな手応えが、掌の奥に残った。
女性が一瞬、不思議そうにこちらを見た。
私は視線を合わせなかった。
ただ歩き続ける。
それだけで十分だ。
女性はすぐに興味を失い、何事もなかったかのように歩き去っていく。
当然だ。
本はそのままそこにある。
重さも、見た目も、何一つ変わっていない。
盗まれたという事実が、彼女の認識の中には存在しない。
私はその場で立ち止まることもなく、人の流れに溶け込んだまま歩き続ける。
そして、ゆっくりと手を開いた。
掌の上に、小さな輝き。
マコトジュエル、間違いない。
任務完了。
胸の内で静かに結論を下しながら、私は再び歩き出す。
警戒は解かない。
だがそれでも、口元がほんの少しだけ緩んだ。
我ながら、楽勝だった。
雑踏は続いている。
人々は笑い、話し、歩いている。
誰も気づいていない。
何も起きていないように見えるこの日常の中で、確かに一つ、大事なものが消えたということに。
それでいい。
気づかれない方が、都合がいい。
私は視線を前に向けたまま、静かに歩き続けた。
任務は終わった。
マコトジュエルはこの手の中にある。
計画通り、完璧に。
それは事実だ。
だが。
歩きながら、胸の奥にある小さな引っかかりを意識した。成功の余韻に浸れるほど、私は楽観的にできていない。
劇場に帰っても、安心はできない。
理由は明確だ。
ただ一人の存在が、頭の隅に居座り続けている。
キュアアルカナ・シャドウ。
怪盗団ファントムに加わった、新参の存在。
その肩書きだけでも既に十分に異質だ。
プリキュア。
本来であれば、完全に相容れない側にいるはずの存在が、なぜかここにいる。
価値観も、思想も、何もかもが根本から違うはずなのに。
ただの裏切り者ならまだ読める。
迷い子なら、なおさら扱いやすい。
だがあの女は、そのどちらでもない気がしてならない。
感情をほとんど表に出さない。
常に冷静で、状況を見極めることに長けている。
あの目は、何かを常に測っているようで。
気に食わない。
率直に言えば、そういうことだ。
自分が何を考えているのか、何を狙っているのかを悟らせない相手というのは、どんな局面でも最も厄介だ。
そもそも、あの女は――
思考がある一点で止まった。
脳裏に、光景が蘇る。
ニジーが召喚したハンニンダー。
暴れ狂うそれに対して、あの瞬間、彼女は攻撃を妨害した。
敵であるはずの攻撚を。
一瞬の出来事だった。
だが見間違えるはずがない。
あれは意図的な行動だった。
反射でも、偶然でもない。
あの一瞬で、確信した。
あの女はいずれ、裏切る。
断言できる。
問題はいつか、だ。
今はまだ何かを窺っている段階なのか。
それとも既に機は決まっていて、ただタイミングを待っているだけなのか。
どちらにせよ、放置するには危険が過ぎる。
把握しておかなければならない。
屋根の端を蹴り、次の建物へと飛び移った。
風が頬を切り裂く。
街の賑やかさが遠くに広がっていて、ここから見れば何もかもが静かに見える。
思考は止めない。
劇場では、芝居をする。
マコトジュエルは奪えなかったと、そういうことにする。
それはすでにウソノワール様に伝えてある。
あの方なら、この判断の意図も理解しているはずだ。
下手に成果を見せれば、アルカナ・シャドウに嗅ぎつけられる可能性がある。
情報は隠してこそ価値がある。
失敗した側に回る方が、今は都合がいい。
キュアアルカナ・シャドウについては、報告が必要だ。
いずれ組織にとって致命傷になりかねない存在を、野放しにしておく理由はない。
だからこそ今のうちに、芽を正確に把握しておく。
「……とにかく、今は急ごう」
小さく呟いて、速度を上げた。
屋根から屋根へ、影のように渡っていく。
足音は立てない。
存在を消すことには、もう慣れすぎている。
街は平和だ。
でもその平和の裏で、確かに何かが軋み始めているのを感じる。
見えないところで、少しずつ。
そしてその中心に向かって、私は今も走っている。
手の中のマコトジュエルの感触を確かめながら。
何も知らないふりをして。