かわいいホームズの親友ちゃんは、相棒の座を奪われて焦心苦慮 作:くぁwせdrftgyふじこlp
【みのるSide】
学校が休日でも、キュアット探偵事務所は毎日が賑やかだ。
プリティホリックが開店して早数日。
多くのお客さんがこの店を訪れ、事務所の知名度は少しずつ大きくなってきた頃だろう。
そんなある日の朝、私たちは事務所の一室でちょっとした特訓を開いていた。
「い……いらっしゃい……ませ……」
ジェット先輩が、ぎこちなく両手を前に揃えながら言葉を絞り出す。
その表情ときたら、笑顔を作ろうとしているのだろうけど、頬の筋肉がひきつって歪んだなんとも言いがたい顔になっていた。
これで接客されたら、お客さんはドン引きどころか逃げ出してしまうかもしれない。
「うーん……」
「ポチ……」
みくるとポチタンが同時に顔をしかめる。
当然だ。
私だって同じ気持ちだ。
「ジェット先輩、もう一回!」
あんなに促されて、先輩はもう一度挑戦する。
「あ……ありがとうございました……」
さっきより表情が歪んで、さらに酷いことになっていた。
「違う違あああああう!!」
「全然ダメだね」
「ポチポチ!!」
「もっとかわいく!もう一回!」
私も含めて、ジェット先輩への酷評がとまらない。
それにしても不思議だった。
シニアンから受け継いだ「プリプリ!プリティスマイル!」は、一体何だったんだろう。
あの時の先輩の笑顔は、正真正銘の、まっすぐで純粋な笑顔だったのに。
「それだとひきつってるから、もっと自然な笑顔に!」
「いつものプリティスマイルはどこへ行ったの?こんなもんじゃないでしょ?」
あの笑顔を忘れるはずがない。
先輩を取り囲んで好き勝手言っていると、ついにジェット先輩がブチキレた。
「いい加減にしろ!!!なんでボクがこんなことを!!!」
至近距離で怒鳴り散らされて、鼓膜がびりびりと震える。
少し耳鳴りがしたけど、耳は無事だった。
それでも、特訓が必要なくらい接客が絶望的なのは確かだ。
「だって……」
「プリホリでの接客を見てると……」
私の頭に、あの光景がよみがえってくる。
お客さんたちが笑顔で店内を歩き回っている中、一人だけカウンターで棒立ちになりながら、死んだような表情で立ち続けるジェット先輩の姿。
開店直後はまだ多少マシだったのに、時間が経つにつれてどんどんやる気がなくなって、まるでロボットみたいになっていった。
『いらっしゃいませー、ありやとうございあしたー』
最近に至っては、発音すら適当という始末だ。
その様子を見ていた小さい子が怖がって、お母さんにぎゅっとしがみついていた光景まで目に浮かぶ。
「もっと愛想良くしないと!!」
「店の評判が下がってお客さんが減るよ!!」
「うんうん!!」
「ぅ……ぐ……」
痛いところを突かれたのか、ジェット先輩が言葉に詰まる。
笑顔を作るのが苦手なら、次の手段だ。
強制的に笑わせるしかない。
「ほら!笑顔笑顔!こちょこちょこちょこちょ……!」
あんながジェット先輩の弱いところをくすぐりはじめると、さすがの先輩も耐えきれなくなった。
「お、おい!い、いや……やめろ!あはは!あはははは!!」
「これで自然な笑顔に~!」
ところが、やりすぎてしまったらしい。
次の瞬間、ジェット先輩は妖精の姿になってしまっていた。
「「「あ」」」
そのままぐったりと力尽きて、床に突っ伏す。
ちょうどそのタイミングで、部屋の扉がゆっくり開いて、一人の女性が顔を覗かせた。
「あの……」
「「うぁ!!?」」
もしかして依頼人だろうか。
だとしたら、この状況を見られたらまずい。
私は慌ててあんなとみくるの背中に隠れながら、伸びている妖精姿のジェット先輩をそっとつまみ上げ、ポチタンに目配せして別の場所へ運んでもらった。
「「ようこそ!キュアット探偵事務所へ!」」
バタバタと足音を立てて、二人が依頼人の女性へと満面の笑顔で駆け寄っていく。
――いや、困って依頼しに来た人に、そんな全力の笑顔で飛びついていくのはどうなんだろう。
久々の依頼人に喜んでいるのが、これでもかというくらい露骨に伝わってしまっている。
私はこっそりため息をついてから、お茶でも用意しようと、静かに台所へと向かった。
_______________
春の陽気がテラスをやわらかく包んでいた。
太陽の日差しのおかげで、周囲よりもひと際暖かく感じられるこの場所に、あんな、みくる、ジェット先輩、そして向かい側には依頼人の女性――斉木萌絵さんが座っている。
テーブルには二人の名刺がそっと置かれていた。
「どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
ティーカップに入った紅茶を萌絵さんの前に静かに置いてから、私もみくるたちの隣に腰を下ろし、萌絵さんの話に耳を傾けることにした。
「本日は、どのような依頼で?」
「この絵の謎を解いてほしいんです。母が生前描いた自画像です」
萌絵さんがバッグの中から一枚の写真を取り出して、私たちに差し出した。
そこに描かれていたのは、足を組んでポーズを決めている金髪の女性。
背景はよくわからないが、立っているようにも、横になっているようにも見える不思議な構図だった。
それに、この金髪の女性……どこかで見たことがある気がした。
「最近海外で見つかったものが自宅に届いて……」
萌絵さんがそう言いかけたとき、ジェット先輩が突然声を上げた。
「あ!?クリスティーナ・ピポポヴィッチ文江だ!」
そのクセのありすぎる名前を耳にした瞬間、私の中でもぱっと記憶が繋がる。
以前、本でこの人について書かれた記事を読んだことがある。
ジェット先輩は以前ロンドンにいたのだから、名前を知っていても不思議ではない。
「クリスティーナ……何?」
「クリスティーナ・ピポポヴィッチ文江。約30年くらい前に海外……特にヨーロッパで有名だった画家の一人、だよね?」
「みのるも知ってるの!?」
みくるが目を丸くして驚く。
まあ、私の海外に関する知識はほとんど雑誌や本から仕入れたものだから、何でも知っているわけじゃない。
ただ、この絵には――普段のピポポヴィッチ文江の作品には見られないような要素がある。
それがずっと引っかかっていた。
「うん。でも……何かおかしいんだよね。彼女は風景画家として人気だったはずだけど……」
「それはボクも思った。彼女……風景画しか描かなかったような……」
そう、彼女は風景画家だ。
様々な土地を旅しながら、その景色を丁寧にキャンバスへ刻みつけてきた人物。
自分自身を描いた作品など、これまで一度も見たことがなかった。
現地のことに私よりずっと詳しいはずのジェット先輩でさえ知らないというなら、その事実の信憑性は高い。
「ええ、母が人を描いたのは、その一枚だけ。どうして自画像なんて描いたのか……」
萌絵さんの声に、静かな寂しさが滲んでいた。
今回の依頼は絵画の謎を解くこと。
怪盗団ファントム絡みじゃなくて、まずは一安心だ。
「その謎を解けば良いんですね!」
「ちなみに、絵のタイトルは?」
みくるの質問に、萌絵さんは一瞬だけ、落ち込んだような表情を浮かべた。
その表情がほんの少し気になったが、萌絵さんはゆっくりと口を開く。
「………『最高の幸せ』と言います」
「最高の幸せ……か」
この絵の何が幸せなのだろう。
そして、彼女がこの自画像を描いた理由は――。
そんな私の思考を遮るように、やる気に満ちた二人がさっと立ち上がった。
「「よし!!」」
「名探偵の私たちに任せてください!」
「さっそく調査にしゅっぱ~つ!」
「おー!」
二人の声に引っ張られるようにして、ポーチになりきっていたポチタンまで声が出てしまった。
「ポチ~!」
「………ポチ??」
「……………」
危ない。
すぐに静止してポーチに戻りきるが、ポチタンの額からじわりと冷や汗が浮かんでいる。
毎回この調子だから、いつかボロが出てしまうんじゃないかとヒヤヒヤしてしまう。
「ったく……毎回ハラハラさせやがって……」
「あはは……」
ジェット先輩の呟きに、私は思わず苦笑いを返した。
そんなこんなで、みくる、あんな、私の三人は事務所を出て、クリスティーナ・ピポポヴィッチ文江のことを知っていそうな人物を探しに動き出した。
_______________
版来堂書店。
私が何度か立ち寄っているこの書店の店長さんなら、何かしら知っているはずだ。
実際、ピポポヴィッチ文江さんについて書かれた雑誌の記事を読んだのも、この店だった。
「く……クリスティーナ・ピポポヴィッチ文江じゃと!? もちろん!彼女の本は全て揃っておる!」
事情を話すと、店長さんは目を輝かせて大喜びし、店中にある彼女に関連した雑誌を片っ端から集め始めた。
文江さんのことを知っていたのは大方予想通りだけど、次々と積み上げられていく本の山を見て、さすがに量が多すぎる気がしてくる。
「よもやよもや、お嬢さんの口からその名前を聞けるとは!」
「あ……いや……ありがたいんですけど、私たちが知りたいのは絵について……」
店長さんは私の言葉も耳に入っていないのか、次々と本を取っては机の上に並べていく。
彼女のファンだというのはよくわかった。
それにしても、これだけ大量の本がどこに置いてあるか全て把握しているというのも、それはそれで衝撃だ。
「彼女はワシの青春そのものじゃ!」
「よーし!画集を見れば、絵の描き方とか色使いで、自画像の謎を解くヒントがきっと見つかるはず!」
みくるが適当に本を一冊手に取り、あんなも雑誌をぱらぱらとめくりはじめる。
しかし、それらしい記事はなかなか見つからない。
「でも、ファッションにグルメ……旅行雑誌ばっかりで、肝心の画集がないね……」
「テレビにもよく出ておって、人気者じゃったからのう」
有名すぎて、画家以外の仕事や撮影にもスカウトされていたらしい。
それだけ勢いのある人物だったんだと窺えた。
萌絵さんは積まれた雑誌の中に母親の写真を見つけたのか、ページを開いたまま、またあの落ち込んだような表情を浮かべた。
「風景画も少しは載ってるけど、これじゃよくわかんないなぁ……」
「『群青のスカイ』……『プリズムの光沢』……『夕暮れのウィング』……『羽ばたくバタフライ』……『マジェスティ・ラプソディ』……関連性の高いタイトルはなさそうだし、風景画ばっかりだね……」
何冊か手に取って確認してみたが、風景画の中に特に気になる作品はなく、自画像に関する情報も当然見つからなかった。
ただ、全部調べていると日が暮れてしまう。
この調子だと他の冊子にも大した情報はないだろうと判断して、途中で切り上げることにした。
「だったらあそこに行ってみようよ!」
あんなが顔を上げて、次に情報を知っていそうな場所を思いついたようだった。
_______________
アトリエプレンティ絵画教室。
ここは以前、私が散々な目に遭った時に訪れた場所だ。
「この前はありがとうございました」
「また何かあればお任せください!」
あの入れ替わったバッグは、あんなたちが無事に届けてくれたので、トラブルに遭うこともなく元の場所へと戻った。
途中で偶然にも私が二人よりも先に答えにたどり着いてバッグを見つけてしまうという失態を犯してしまい、今となっては苦い思い出である。
「それで、これなんですけど……どうして風景画家の文江さんが自画像を描いたのかわかりますか?」
「うーん、そうですね……」
みくるが差し出した自画像を、絵画教室の先生が真剣な顔で眺める。
絵の専門家として、この作品に込められた心情を読み取ることはできるだろうか。
「あ!うまーい!」
「だろ!結構上手く描けたんだー!」
「すごーい!」
部屋では小さい子たちが思い思いに絵を描いていて、色とりどりのかわいらしい作品を彩っていた。
「騒がしくてすみません……」
「いえ……私も子供の時は、楽しく絵を描いていましたよ……」
萌絵さんが笑みを浮かべる。
でも、すぐにまた曇った表情に戻ってしまう。
母親との間に、何かしらあったのだろうか。
幼い頃に両親に見捨てられた私には、その気持ちがどれほどのものなのか、本当の意味では理解してあげられない。それが、少し心に引っかかった。
「………」
「どうかしました?」
「い、いえ!」
教室の先生に問いかけられても、萌絵さんは作った笑顔でさらりとかわしてしまう。
――以前の私に、似ている。
一人で落ち込んで、心配されても平気なふりをして、また勝手に気分が沈んでいくあの頃の私に。
「……ん?なんだろう?」
気がつくと、絵を描いていた大勢の子どもたちが一斉に奥の部屋へと吸い寄せられるように集まって、何やら騒いでいる。
面白いものでも見つけたのだろうか。
様子を見に行ってみると――
「「うぇ!? ポチタン!?」」
ポチタンが気になって、子どもたちが周りに殺到していたのだ。
ポチタン自身はフィギュアのようにポーズを取って静止しているけれど、見たことのない生き物を発見したときのような反応をしている子どもたちに取り囲まれているのはまずい。
急いで回収した。
_______________
「絵の構図や色使いに関しておかしな点はなさそうって言ってたけど……」
「はっきりした手がかりはなかなか見つからないね……」
結局、空振りに終わってしまった。
行く宛もなく、私たちは街をぼんやりと彷徨う。
「そもそも海外で活躍した画家だから、こっちで調べられる要素も限られるし……」
「「はぁ……」」
後ろからついてきている萌絵さんも、ずっと浮かない顔をしている。
今回の依頼は、かなり難航しそうだ。
どうしたものかと頭を抱えていると、不意に声をかけられた。
「浮かない顔してどうしたんですか?」
「「え?」」
前を向くと、青髪のロングヘアの少女が立っていた。
この子には見覚えがある。
「あ!パティスリーの!」
「帆羽くれあです」
初めてジェット先輩と会った日、そしてエリザさんのペンが奪われた場所のお店にいた少女だ。
確か、通信障害のことを伝えてくれた人物だったはず。
_______________
洋菓子店、パティスリーチュチュ。
あの時は食事どころじゃなかったからゆっくりできなかったけど、今日はちゃんと落ち着いてこの店のメニューを堪能できそうだ。
初めて食べることになるこの店のお菓子に、少しわくわくする気持ちが湧いてくる。
ずっと頭を使い続けていたし、萌絵さんも疲れているはずだから、ここで一服することになった。
「うわ~!」
「はなまるかわいい!」
「美味しそうなケーキだね」
テーブルに並べられた様々な種類の洋菓子が、見ているだけで食欲をそそる。
あんなはブルーベリータルト、みくるは好物のミルフィーユ、萌絵さんはチーズケーキを注文した。
私は無難に、苺の乗った定番のショートケーキにした。
「お菓子を食べて、元気だしてね」
くれあさんはそう言い残して、店の中へと戻っていった。
見た目は高校生くらいだろうか。
まだ少女なのにしっかりとした佇まいで、まるで生まれながらの看板娘のようだ。
「ん~!すっごく美味しい!」
「ミルフィーユも最高!昔海外にいた時、おばあちゃんと一緒によく食べてて、それで好きになったんだよね!」
「そうなんだ!」
私もショートケーキをひと口食べてみる。
ほどよい甘さと、ふんわりしたスポンジ、それにホイップクリームが良いアクセントになっていて、すごく食べやすくて美味しい。
自炊はしていたけれど、お菓子を作ったことは一度もないから、そのクオリティに思わず驚かされる。
特にケーキのような洋菓子は、私たちが思っている以上に難しいはずだ。
素直に尊敬する。
「最初、みくるの好物を聞いた時は私もびっくりしたよ。小さい子がミルフィーユ好きってどういうこと!?って思ってね」
「あはは、確かに普通の人からすると意外だよね」
みくるのミルフィーユ好きは、小さい頃に海外に住んでいた名残だ。
海外に住んだり転校したりと、みくるの家族はいったいどんな人たちなんだろう。
残念ながら、私もみくるの家族については何も知らない。
「素敵なところね……今度娘と来てみようかな……」
店内には数人のお客さんが、お菓子を食べながら思い思いにくつろいでいた。
明るすぎない、やわらかなオレンジ色のライトが店内をほんのりと照らしている。
「プリホリにも一緒に行ったんですよ!探偵事務所を知ったのもその時に」
「そうだったんですね!」
プリティホリックの開店による効果が、少しずつ確実に現れはじめているということだ。
もちろん依頼が少ない方が世の中が平和だという証拠でもあるけれど、困っている人を助けるのが探偵の仕事。
笑顔になる人が増えれば、それだけやりがいも生まれてくる。
「私が作った新作、良かったら食べて」
あんながポチタンにミルクを飲ませていると同時に、くれあさんが店内から戻ってきた。
新作……この若さで自分でお菓子を作っているのか。
すごいなぁ、と素直に思う。
「マカロンだ!」
「かわいい!」
運ばれてきたのは、フランスを代表する焼き菓子として有名なマカロンだった。
ピンクや紫など、色とりどりのマカロンが並んでいて、見ているだけで楽しい気持ちになってくる。
「「ん~!」」
「美味しい!ふわふわした食感がクセになりそうだね」
味も最高だった。
ショートケーキとはまた違った、ふんわりとした食感と香りが口の中いっぱいに広がる。
とてもこの少女が作ったとは思えない完成度だ。
非の打ち所がない。
「海外にいた時に、母がよく買ってきてくれました。あの頃を思い出します……」
マカロン……萌絵さんにとって、思い出のお菓子なのかな。
「でも正直、あまり美味しいとは思えなくて……。なんだか形も歪でしたし……」
「そう……ですか……」
くれあさんが少ししょんぼりとした表情を浮かべる。
パティシエとして、何か思うところがあったのだろう。
買ってきたマカロンが美味しくなかった……そんなことがあるとは思えないけれど。
「萌絵さん?」
「あの!文江さんのことについて教えてくれませんか?」
「え?」
あんなが声を上げた。
「お母さんが、実際にどんな人だったのか……萌絵さんはどう思っていたのかなって」
萌絵さんの過去……何度か垣間見えたあの曇った表情が、ずっと気になってはいた。
でも、あまり良い感じではなさそうだったから、私はずっと聞かないでいた。
あんなは人の過去を無理やり探るような子じゃない。
あくまで調査のために知りたいのだろう。
萌絵さんは、ゆっくりと、重く口を開いた。
「……母は、美とおしゃれを愛した人でした。ファッションや食べ物、住む場所、何もかも全てにこだわる人で……」
「芸術家らしいですね」
「私もそういったものに触れて、その良さを知ることもできました。でも私は……そんなものよりも……」
……お母さんと一緒に、いたかったんだね。
言葉にはしなかった。
でも、胸の中でそう思った。
「母は我が道を進み、好きなように生きた。一緒に調べていてそれがわかりました」
「だから思うんです。母にとって最高の幸せとは、自分自身のことだろうって……」
「自分自身……」
「それが、最高の幸せ?」
静かになった。
風の音だけがやけに耳に残る。
なのに、その言葉は妙に重くて、テーブルの上の空気をそっと沈めていくようだった。
私は少しだけ目を伏せた。
――どう答えればいいんだろう。
こういうとき、正しい言葉なんてきっとない。
慰めも、共感も、たぶんどこか嘘になる。
だって私は――親がいない。
最初から、いなかった。
だから「母に愛されなかった気持ち」は分からない。
でも……
「……いいな、って思います」
気づいたら、そんな言葉が口からこぼれていた。
「……え?」
「み、みのる!?」
萌絵さんが驚いたように私を見る。
少しだけ、傷ついたみたいな顔で。
当然だと思う。
今のは、あまりにも無神経に聞こえる。
私は慌てて、でも逃げないように続けた。
「ごめんなさい!変な意味じゃなくて……」
言葉を探す。
胸の奥に沈んでいる、ずっと形にならなかったものを、無理やり引き上げるみたいに。
「私、最初からいないんです。お母さんも、お父さんも」
「……!」
口に出すと、不思議と実感が遠のいた。
何度も繰り返してきた事実なのに、やっぱりどこか現実味がない。
「だから、憎むこともできないし……嫌いになることもできないんです」
萌絵さんは、何も言わない。
ただ、じっと聞いている。
「自分は愛されていないって思ったとしても、それでも……そこにいたんですよね。お母さんが」
自分でも、うまく言えていない気がする。
それでも止まらなかった。
「ぶつかることも、怒ることも、傷つくこともできる相手が、ちゃんといたってことだから」
私は小さく笑った。
でも、それはうまく笑えていなかったと思う。
「私には、それすらな゙がっ゙だがら゙っ……!」
「みのる!?」
「大丈夫!?」
自分でもわからない。
急に声が裏返って震え、涙が溢れてきた。
みくるとあんなが私の背中をそっとさすってくれる。
少し冷たいそよ風が吹いた。
萌絵さんの目が、揺れている。
くれあさんが固まっている。
当然だろう、いきなり泣き出してしまったんだから。
慣れたつもりなのに、いきなり感情が高まるなんて……本当に勘弁してほしい。
「……でも」
涙を拭って、私は顔を上げた。
萌絵さんを、まっすぐ見る。
「それでいいって言ってるわけじゃないです」
はっきり言った。
「大事にしてくれなかったこと、悲しかったですよね。きっと、ずっと」
萌絵さんの唇が、かすかに震える。
「私には分からないけど……でも、それは"なかったこと"にはならないと思います。嫌いでも、憎んでも、いいと思います」
言いながら、素直じゃない自分の胸が少しだけ痛んだ。
――羨ましい、なんて思ってるくせに。
「だって、それだけちゃんと向き合ってたってことだから」
沈黙が落ちた。
長い時間みたいに感じたけど、実際はほんの数秒だったかもしれない。
やがて、萌絵さんはぽつりと呟いた。
「……もう、いないのに」
その言葉は、ひどく小さかった。
私は息を吸う。
自分の胸に、手を当てた。
「……いなくても、残ってるものは消えないと思います。優しかったことも、嫌だったことも、全部」
その人の目から、一滴の涙が落ちた。
「……いいと思いますよ。好きでも、嫌いでも、そのままで」
「……あなたは、強いですね」
その人は、涙の残る目でそう言った。
まっすぐに向けられたその言葉に、私は一瞬だけ息を詰まらせて――
「いいえ……」
ほとんど反射みたいに、答えていた。
強いなんて、そんなことありえない。
だって私は、さっきまで泣いていた。
言葉を紡ぎながら、胸の奥がぐちゃぐちゃになって、どうしようもなくなって――結局、涙を堪えきれなかった。
強い人は、あんなふうに崩れたりしない。
私は、全然強くない。
ただ――背中に、やさしい手のひらの感触が今もある。
「……みのる……ゆっくりで良いから」
あんなの声。
もう一つ、反対側からも温もりが伝わってくる。
「無理しなくていいからね」
みくるの声。
二人とも、そっと背中をさすってくれている。
その手があるだけで、胸の奥のざらついた痛みが、少しずつほどけていくような気がした。
私は、一人じゃないから。
だから、まだ壊れていないだけ。
前にも思ったことだけど、もしこの手がなかったら。
もし、あんなとみくるがいなかったら――きっと私は、とっくにどこかで崩れていた。
立っていられなかった。
平気な顔なんて、できなかった。
「……私は、強くなんてないです」
小さく呟いた。
その人は何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
「支えてもらってるだけです。隣で、ずっと」
少しだけ視線を落とす。
自分でも、わかっている。
このままじゃいけないって。
ずっと誰かに寄りかかって生きていくなんて、きっとできない。
そんなの、許されない。
「……でも、いつかは」
あんなの手が、少しだけ強くなる。
みくるの手も、同じように。
それでも私は、言わなきゃいけない気がした。
「一人で生きていけるようにならなきゃって……思ってます」
怖い。
正直に言えば、すごく怖い。
この温もりがなくなる未来なんて、考えたくもない。
でも、それでも。
ずっとこのままではいられないって、どこかでわかっている。
萌絵さんは、ゆっくりと息を吐いた。
「……それでも、あなたは優しいです」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
優しい、なんて。
そんなふうに言われる資格が、自分にあるとは思えなかった。
でも――背中に触れる手が、また温かくなる。
私は、何も言えなかった。
ただ、泣きそうになるのをこらえながら――二人の手のひらに、そっと身を預けていた。
「あの、マカロン……少しで良いので、召し上がってみてもらえませんか?」
「……ええ、少しだけなら」
くれあさんが口を開いて、萌絵さんは言われるがままに、マカロンをひと口だけ食べた。
途端に、萌絵さんの表情が変わる。
「……美味しい!……どうして!?」
「萌絵さんが食べていたマカロン、本当に買ったものだったんでしょうか?」
「え?」
くれあさんがそう言って、静かに微笑んだ。
なるほど……萌絵さんが歪な形のマカロンを、お店で買ってきたものだと思い込んでいたとしたら、話は変わってくる。
「そうか!くれあさんのおかげでピンと来た!きっとマカロンは、お母さんの手作りだったんだよ。だからお店のものに比べると、味や形がイマイチだったのかも!」
お菓子を作るのは難しいから、プロじゃない人が何度も失敗するのは当たり前だろう。
多分私がやっても、きっと同じことになる。
「でも、母が作っているところなんて一度も見たことないですし……」
「この絵と同じですよ!風景画ばかり描いていた文江さんの自画像だって、誰も見たことなんてなかった」
「うん!もしかしたら隠された本当の姿があるのかも!」
その人の知らない部分を知るのは、怖いことだと思う。
でも、わからないまま過ごしていくのも、きっと不安だ。
私だって、どうしてお父さんとお母さんが私を捨てたのか、本当のことを知りたいと思っている。
だから、萌絵さんの気持ちが少しだけわかる気がした。
「………」
「萌絵さん!実際の絵を見せてもらえませんか?」
「写真だとわからないことが、謎を解く手がかりが見つかるかもしれません!」
あんなとみくるの声が、萌絵さんの心をそっと動かしていく。
真相を解き明かすのが探偵の仕事。
そして「困っている人見たらすぐに助けたい」のが、二人の使命だ。
だからどんな結末が待っていたとしても、二人がきっと笑顔に変えてくれる。
そう信じた。