かわいいホームズの親友ちゃんは、相棒の座を奪われて焦心苦慮 作:くぁwせdrftgyふじこlp
【みのるSide】
朝食を終え、私たちを乗せたバスは名古屋市街を離れて北へと走っていく。
窓の外では高い建物が少しずつ姿を消し、落ち着いた街並みへと景色が変わっていく。
その先にある目的地は愛知県犬山市。
今日の午前中は、国宝犬山城の見学と城下町の自由散策だ。
昨日と同じように空は雲一つない青空。
6月に入ってから一気に暑くなったせいか、外へ出るだけで夏の気配を肌に感じる。
でも、それ以上に熱気を放っているのは私たち生徒の方だった。
「早く城に入りたい!」
「あっちで食べ歩きもしたい!」
そんな声があちこちから聞こえてきて、修学旅行2日目になってもみんなの元気は衰える気配がない。
やがてバスが停まり、目の前に姿を現したのは木曽川を見下ろす高台にそびえる犬山城。
日本に現存する十二天守の一つ。
そして国宝に指定されている五城の一つ。
さらに現存する木造天守としては日本最古ともいわれる、歴史そのもののような建物。
天文六年、織田信長の叔父、織田信康によって築かれたとされ、その白く美しい姿から「白帝城」という別名でも親しまれている。
教科書や写真でしか見たことのなかった城が今は目の前にある。
歴史の中に自分が足を踏み入れる。
そんな不思議な感覚を覚えながら、私は城内へと入っていった。
木の香りがほのかに漂う内部は、外から想像していたよりもずっと複雑だ。
床板が軋む音や柱の太さ。
何百年もの年月を支えてきた木材の色合い。
その一つ一つが「本物なんだ」と静かに語りかけてくる。
「はえー、中って意外と複雑な構造をしてるんだね」
「中に入るとこんな造りなんだね。いつも外からしか見ないから不思議」
りえとあんなは柱を見上げながら興味深そうに呟いている。
「敵に攻められても反撃できるように、いろんな工夫がされているんだよ。例えば、この階段だってそう」
そう言って指差した先には、見ただけで思わず足がすくみそうなほど急勾配の木製階段があった。
「あんなに急な階段だけど……」
「階段の角度を急にして、敵が一斉に上がってこれないようにしてるんだよ。この構造は犬山城だけじゃなくて、他の天守でもよく見られるんだけどね」
「ちょっと私の出番!」
ゆみが話す前に私が説明すると抗議してきた。
「ご、ごめん」
「もう、みのるは詳しいんだからたまには私に任せてもいいんだよ?」
修学旅行を真剣に考えてくれたゆみの出番を奪うわけにはいかないから今回は大人しくしていよう。
「みのるって本当に知識が豊富なんだね。その頭脳を分けてほしいよ」
「そんな大したものじゃないよ。本を見るのが好きなだけだから……」
褒められるのは嬉しいけれど、それは本当に自分の実力なのか疑わしい。
歩いているうちに1階の広い空間へと出た。
中央に部屋があり、その周囲をぐるりと幅の広い廊下が囲んでいる独特な造り。
「あれ?ここの廊下って広いね。何か意味があるのかな?」
「この廊下は『武者走り』って呼ばれてるんだよ。戦になった時に兵士が素早く移動できるように設計されてるの」
「なるほど……」
確かに、ただ広いだけではない。
戦国時代という命懸けの時代を生き抜くための工夫が、そのまま建物の構造になって残っている。
さらに1階には、天守の入口を突破しようとする敵を横から攻撃するための張り出した空間――付櫓も設けられている。
2階には武器や武具を保管する部屋。
3階には、寺院建築にも用いられる優雅な曲線を描く華頭窓。
外から見れば美しい装飾のように見えるその窓も、中へ入ると柔らかな自然光を取り込み、歴史ある木造空間を穏やかに照らしていた。
実用性と美しさ。
その両方を何百年も前の人たちが考え抜いて造り上げたことに、私は素直に感心してしまう。
「ちゃんと城主を守るように工夫されてるのね……」
「うん。ただ頑丈な建物を造るだけじゃなくて、どうすれば少ない人数でも守り切れるかまで考えられてるんだ」
こうして実際に歩いてみると、お城は単なる観光名所ではない。
そこには戦国時代を生きた人々の知恵と覚悟が、柱一本、階段一段にまで刻み込まれていた。
最上階である4階へ足を踏み入れると、それまでの木の床とは雰囲気が大きく変わっていた。
床一面には、落ち着いた赤茶色の絨毯が敷かれている。
木造天守の中に絨毯という組み合わせは少し意外だったけれど、その理由も歴史の中にあった。
江戸時代、犬山城主である成瀬家七代当主がオランダ商館長と親しい関係にあり、その縁から最上階へ絨毯が敷かれたと伝えられている。
そして昭和の大修理の際、その痕跡が実際に見つかり、現在の姿へと復元されたらしい。
歴史というものは、本当に面白い。
「……とりあえず調べたのは全部紹介したけど、どうだったかな?」
一通り説明を終えたゆみが、少しだけ緊張した表情で私たちを見回す。
「すごいよ!本当にガイドさんみたいだった!」
「努力の賜物ね。あれだけ熱意を持ったんだからすごいものだよ」
「みのると良い勝負できそうだよね!」
三人の評価はとても高い。
ゆみも少し照れくさそうに頭をかく。
……良い勝負、か。
私は心の中で静かに首を振る。
違う、ゆみはこの日のために資料を集めて一生懸命調べて、みんなに楽しんでもらおうと努力してきた。
私はただ、昔から自然と覚えていただけ。
努力して積み重ねた知識と、何となく身についた知識では重みが違う。
私なんかより、ゆみの方がずっとすごい。
そんなことを口にしても、きっとみんなは「そんなことないよ」と否定するだけだろう。
だから私は何も言わない。
「どうだった!?私の解説、ちゃんとできてた!?」
期待と不安が入り混じったような目でゆみが私へ問いかける。
私は素直な気持ちをそのまま言葉にした。
「う、うん。完璧だと思う」
「……だって!いっぱい調べてきた甲斐があったよ!」
ゆみは満面の笑みを浮かべ、飛び跳ねそうなくらい喜んでいた。
努力が報われる瞬間というのは気持ちのいいものなんだろう。
「あっ、見て!あそこから外の景色が見えるよ!」
あんなは窓の向こうにある廻縁へ勢いよく駆け出した。
「わっ、あんな!走ると危ないよ!」
みくるが慌てて追いかけていく。
歴史ある木造建築だけあって床も階段も急だ。
転んだら怪我をしてしまう。
「みくるって、なんかお母さんみたいだよね」
「言われてみると確かに…」
そう見えなくもない。
あんなは思い立ったら一直線。
気になったものへ迷わず飛び込んでいく。
その度にみくるが慌てて追いかけ、危ないことを止めたり落ち着かせたりしている。
今までそんな光景を見てきた。
姉妹というよりは、どちらかと言えば母親と娘。
そんな微笑ましい関係にも見える。
私が知っている二人は、それだけじゃない。
ハンニンダーとの戦いではお互いが何も言わなくても動きが噛み合う。
片方が攻めれば、もう片方が自然と援護に回る。
一緒に戦う程、その連携は目に見えて洗練されていった。
まだアルカナ・シャドウや圧倒的な実力を持つジャックには届かない。
それでもあの二人なら、きっといつかその壁さえ乗り越える。
そんな未来を、私は不思議と信じられた。
「相棒だから息が合ってるんだよ」
「同じ探偵で相棒同士ってことなんだね」
「探偵ってすごいよね。手掛かりを頼りに推理しながら事件を解決するなんて、私じゃさすがに無理だよ」
「それがあの二人の得意な部分でもあるから。探偵に対する熱量が並大抵じゃないよ」
みくるもあんなも事件を解決したいという気持ちは誰にも負けない。
だからこそ、あれほど真っ直ぐ前へ進めるのだ。
そして、その姿は誰かによく似ている。
私はゆみへ視線を向けた。
「楽しい修学旅行を目指して努力するゆみと一緒だよ」
探偵として事件に全力を尽くす二人。
そして、みんなが笑顔になれる修学旅行を作ろうと何日も準備を重ねてきたゆみ。
目指すものは違っても、そのひたむきさは同じ。
私はその努力を尊敬していた。
_______________
犬山城を後にし、私たちは城下町へと足を踏み入れる。
天守から見下ろしていた木曽川はすぐ近くをゆったりと流れ、その川面を渡ってきた風が火照った頬を優しく撫でていく。
6月の日差しは少しずつ夏らしさを増していたけれど、川風のおかげで思っていたよりも心地よかった。
石畳の道の両側には、歴史を感じさせる木造の建物が軒を連ねている。
看板もどこか昔ながらの趣があり、歩いているだけで時代をさかのぼったような気分になる。
そんな風情ある景色の中に、味噌や醤油が焼ける香ばしい香りが漂ってきた。
食欲を刺激するその匂いに誘われるように、みんなの足も自然と止まる。
「このお餅おいしい!なんて言う食べ物なの?」
「五平餅だね。中部地方の郷土料理だよ」
甘辛い味噌だれが香ばしく焼かれた五平餅は、見ているだけでもお腹が空いてくる。
「お餅でもこんなに変わるんだね。きな粉をつけて食べるだけだと思ってたよ!」
「それは知らなすぎ……」
ほとんどの人はきな粉とかあんこをつけて食べるからあまり知らないのもわかる。
「わらび餅とかもあったよね?」
りえが話題を広げる。
私は何となく思いつくまま口にしていた。
「角餅、丸餅、切り餅、鏡餅、あんころ餅、羽二重餅、桜餅……」
「みのるは知りすぎ……」
「いや、全部食べたことがあるわけじゃないから、そこまで詳しいわけじゃないよ」
知識として知っているだけ。
実際には名前しか知らないものもある。
少し話しすぎてしまったかもしれない。
すると、少し先を歩いていたみくるが一軒のお店を指差した。
「あのお店は団子を売ってるみたいね」
「えっ、本当?私、みたらし団子も食べてみたい!」
「ちょっと待ってよ〜!」
あんなが走ってみくるが慌てて後を追いかける。
本当に元気だな。
興味を持ったものがあればすぐ駆け寄って、楽しそうに笑って、また次のお店へ向かう。
まるで子どものようにはしゃぐ姿が微笑ましい。
それに比べて私はあるにはあるが、昔から感情を大きく表に出すことが少ない。
嬉しくても静かに笑う程度だし、はしゃぐこともほとんどない。
だから周りから見たら楽しんでいないように映ってしまうこともある。
……浮いて見えていないかな。
そんな不安が頭をよぎる。
でも今日は違う。
私はちゃんと楽しい。
犬山城を歩いて、みんなと話して、こうして城下町を歩いているだけでも十分楽しい。
だから余計な心配はさせないようにしよう。
私なりにこの時間を楽しめばいい。
「食べ歩きは良いけど、あまりお金を使いすぎない方が……」
実行委員長らしくゆみが注意するも、その言葉が終わる前にりえは別の場所へ向かう。
「あっちはお土産屋があるよ!何か買って行こうよ!」
「言った側から……」
ゆみは額に手を当ててため息をつく。
大変そうだけど、興奮するのも当然だろう。
「まあまあ修学旅行なんだし、楽しんでくれたらゆみも嬉しいでしょ?」
「うん、もちろん無理には止めないよ。楽しんでくれるのが一番だから。笑顔はお金じゃ買えないからね」
「…………」
笑顔はお金じゃ買えない。
それは当たり前のようでいて、とても重みのある言葉だ。
この修学旅行のために、ゆみは誰よりも時間をかけて準備をしてきた。
歴史を調べ、みんなが楽しめるように考え、少しでも思い出に残る三日間にしようと努力を続けてきた。
その原動力は、自分が目立ちたいからでも褒められたいからでもない。
ただ、みんなに笑っていてほしい。
その一心だった。
その「笑顔はお金じゃ買えない」という言葉には何よりも説得力がある。
……この修学旅行の実行委員長がゆみで良かった。
そう思いながら、私は再びみんなの後を追いかけた。
_______________
木曽川は陽の光を受けてきらきらと輝く。
川面を渡る風は少しひんやりとしていて、城下町を歩いて火照った体を心地よく冷ましてくれる。
待ちに待った遊覧船はゆっくりと岸を離れ、水面が細かく揺れ、小さな波紋が幾重にも広がった。
川の流れは穏やかで、船もほとんど揺れない。
思っていた以上に静かな時間だった。
「いいそよ風……」
みくるが空を見上げながら小さく呟く。
私も同じように空を見上げる。
雲一つない青空。
その下を流れる木曽川。
そして川沿いに広がる緑。
高台の上には先ほどまで歩いていた犬山城が堂々とそびえ立っていた。
城下町から見上げる姿とも、天守から眺める景色とも違う。
川の上から見上げる犬山城は、まるで木曽川を見守る番人のようだ。
「すごい……」
「本当にお城って感じだね」
犬山城は木曽川を天然の堀として利用できる場所に築かれている。
敵が攻めてくるなら、まずこの川を越えなければならない。
こうして川から見上げてみると、その理由がよく分かる。
高台に築かれた天守は想像以上に高く、攻める側からすれば圧迫感しかない。
昔の武将たちは、この景色を見ながら戦略を考えていたのだろう。
歴史の教科書では分からないことが、実際に訪れると自然と伝わってくる。
船はそのままゆっくりと進み、今度は城下町の前を通る。
黒い瓦屋根が並び、古い町並みが川面に映り込んでいた。
さっきまで歩いていた通りが、今は少し遠くに見える。
「あそこ歩いてたよね!」
「あのお店で五平餅食べたんだよ」
「あっ、団子屋さんも見える!」
みんな楽しそうに身を乗り出した。
さっきまで歩いていた場所を違う角度から眺めるだけで新しい発見がある。
同じ景色でも、見る場所が変わればこんなにも印象が違うものなんだ。
船は木曽川の流れに身を任せるように進み続ける。
水面では魚が小さく跳ね、岸辺には水鳥が羽を休めていた。
聞こえてくるのは水をかき分ける穏やかな音だけ。
忙しかった日常を忘れさせるような、ゆっくりとした時間が流れていた。
私は犬山城へもう一度目を向ける。
四百年以上もの歳月を越え、戦国時代から令和まで変わらずこの場所に立ち続けている国宝。
数え切れない人々がこの景色を見て、同じように感動してきたのだろう。
そんな歴史の一瞬に自分も立ち会えている。
それだけでも、この修学旅行へ来た価値は十分にあった。
船は静かに岸へ向きを変え始める。
ゆっくりと遠ざかっていく犬山城を見つめながら、私はこの穏やかな景色を心の中へそっと刻み込んだ。
きっと何年経っても、この木曽川の風と、川面から見上げた犬山城の姿は忘れない。
そんな気がした。
_______________
【あんなSide】
散策の時間は楽しいほどあっという間に過ぎていく。
充実した時間も終わりを迎え、私たちはみのると別れて再びバスへ乗り込んだ。
窓の外では、さっきまで近くにあった犬山城が少しずつ遠ざかっていく。
次の目的地は名古屋港水族館。
犬山市は岐阜県との県境近くにあるけれど、水族館は名古屋港の海沿い。
当然ながら距離もあり、しばらくはバスでの移動になる。
最初は流れていく景色をぼんやり眺めていたものの、それも十分ほどで見慣れない町並みが続くだけになり、自然とみんなの興味は会話へ移っていった。
「そうだ!」
何かを思いついたようにゆみが手を叩く。
「みんな、何のお土産買ってきたの?」
それぞれの自由時間で何を選んだのか気になる。
お土産でみんな何かを買ってるのは見えたけど、詳しくは見ていない。
「じゃあ私から!」
真っ先に手を挙げたのはりえ。
嬉しそうに袋から取り出したのは、どこか昔ながらの雰囲気が漂う小箱。
「まずは私、『げんこつ飴』!」
「おお!やっぱり犬山市と言えばげんこつ飴だよね!」
「何これ?きな粉?」
名前は飴なのに表面にはたっぷりときな粉がまぶされている。
私が知っている飴とはまるで違う見た目だった。
「確かこれって郷土菓子だね」
「正解!げんこつ飴は犬山市で長く愛されてきたお菓子なんだ」
ゆみはすっかり観光ガイドのような口調で説明を始めている。
「きな粉と水あめを原料に作られていて、口いっぱいにきな粉の香りが広がるんだよ。それに、もちっとした独特の食感も人気なんだ」
「へぇ……」
聞いているだけでおいしそう。
散策中はいろんな食べ物に目移りしていたから買わなかったけれど、今になって少し後悔してしまう。
あの時食べておけば良かったなぁ。
そんなことを考えているうちに、次はゆみの番になった。
「私はこれ!」
そう言って取り出したのは、落ち着いた色合いの上品な箱。
「『栗羽二重』!」
「これは何が入ってるの?」
箱には大きく商品名が書かれているだけで、中身は見えない。
「栗って書いてあるし、栗のお菓子?」
「うーん……想像つかない」
みくるも珍しく自信がなさそうだった。
だかゆみは得意そうに笑う。
「これは地元で大人気の和菓子店の商品でね、しっとりした栗きんとんを、なめらかでもちもちした羽二重餅で包んだ和菓子なんだよ!」
「へぇ~、そういうのもあるんだ」
「説明だけ聞いたら食べたくなっちゃうね……」
栗きんとんだけでも十分おいしいのに、それをお餅で包むなんて贅沢すぎる。
またしても「買えば良かった」という気持ちが湧き上がってきた。
……これはまた犬山に来る理由ができたってことにしよう。
その時、ある単語が気になった。
「そういえば羽二重餅って何?」
さっきから当たり前のように出てきているけれど、私は詳しく知らない。
すると、待ってましたと言わんばかりにみくるが身を乗り出した。
「福井県を代表する銘菓だよ。もち粉を蒸して砂糖や水飴を加えて丹念に練り上げた『求肥』の一種で、高級絹織物の『羽二重』みたいにきめ細やかなことからその名前が付いたんだ。口に入れた瞬間にふわっと溶けるようななめらかな食感と、上品な甘さが特徴で――」
「……あ、うん」
情報量が多い。
私の頭の中では単語だけが次々と流れていき、最後には「福井県のお餅」という結論だけがなんとか残った。
「みくる、あんなが混乱してるからほどほどにね」
「あっ……ご、ごめん」
みくるは照れくさそうに頬をかき、少し恥ずかしそうに笑った。
みのると同じく知識が豊富なのはみくるの良いところだけど、たまに説明が専門家みたいになるんだよね。
げんこつ飴に栗羽二重。
同じ犬山のお土産でも、それぞれ選ぶものが違うのが面白い。
「順番的に次は私ね」
そう言ってみくるが膝の上の紙袋をごそごそと探り始めた。
何を買ったんだろう。
興味津々で見守っていると、取り出されたのは丁寧に包装された小さな箱だった。
「あれ?」
箱には大きな商品名も写真もなく、包装紙に包まれているだけで中身がまったく想像できない。
「これって……」
「『お城もなか』っていう、犬山城の形をしたもなかなんだって。気になったから買ってみたんだ」
「えー!みくるはもなかか~、なんか意外!」
確かにみくるは海外に滞在してたし好物もミルフィーユだから洋菓子を選びそうなイメージがある。
「いろんなお菓子があるんだね」
「これも老舗の和菓子屋さんの商品だよ。普通のもなかって既製品の型を使うことが多いんだけど、このもなかは違うんだ」
「違う?」
「犬山城の望楼や欄干、破風まで再現したオリジナルの最中皮を使ってるの。お城そのものをお菓子にしたみたいな感じなんだよ」
「へぇ……」
そんなところまでこだわっているなんて知らなかった。
観光地のお土産というより、一つの作品みたいだ。
食べるのがもったいなくなりそう。
「みんな違った名物スイーツを買って来てるんだね!」
ゆみが嬉しそうに笑う。
確かにその通りだった。
げんこつ飴に栗羽二重にお城もなか。
誰一人として同じものを選んでいない。
それだけ犬山には魅力的なお土産がたくさんあるということなのだろう。
そしてみんなの視線が一斉に私へ向いた。
……来た。
最後は私の番。
「じゃあ、あんなは何を買ったの?」
ゆみに聞かれ、私は少しためらう。
みんながおしゃれな和菓子を選んでいる中、私だけ少し毛色が違うからだ。
なんとなく気まずくなりながら、紙袋から箱を取り出した。
「えっと……これ」
三人の前にそっと差し出す。
「…………」
「…………」
「…………」
三人とも、ぴたりと動きが止まった。
反応に困るのは当然だ。
私が選んだのは他の三人が選んだお土産とはかけはなれている。
「も……守口漬?」
「……大分渋いね」
私が買ったのは、お菓子ではなく『守口漬』。
世界一長いといわれる守口大根を使った、犬山市や木曽川流域を代表する名産品だ。
しかも何年もかけて何度も酒粕に漬け込むという伝統製法で作られていて、芳醇な香りとシャキシャキした歯応えが特徴らしい。
説明を読んで「すごい」と思い、そのまま買ってしまった。
「……あんなって漬物が好きだったの!?」
「ち、違うよ!何を選んでいいかわからなかったから、とりあえず有名なのを買おうって思って……!」
本当にそれだけだった。
甘い物も好きだけど、種類が多すぎて決められなかった。
だったら名産品を買えば間違いないだろう――そんな単純な発想である。
「まあ、人それぞれだよね」
ゆみは私の肩にそっと手を置き、真剣な表情で頷いた。
「大丈夫」
「え?」
「どんなあんなでも、私は受け入れるよ」
「急にシリアスにしないで!?」
漬物を買っただけで人生の重大な告白でもしたような空気になっている。
そのあまりにも大げさな言い方がおかしくて、りえが吹き出し、みくるも笑い始めた。
「ふふっ……!」
「あははは!」
私も結局つられて笑ってしまった。
バスの中には四人の笑い声が響き、退屈になりがちな移動時間は、いつの間にかかけがえのない思い出の一つへと変わっていた。
_______________
バスに揺られることおよそ1時間。
窓の外の景色は街並みから港の風景へと変わっていった。
空はどこまでも青く、その下には穏やかな海が広がっている。
やがてバスは大きく右へ曲がり、名古屋港水族館の駐車場へと静かに滑り込んだ。
ブレーキの振動とともに車内がざわめき、先生の「忘れ物のないように」という声が響く。
私は荷物を肩に掛けてバスを降りた。
外へ出た瞬間、ほんのりと潮の香りが鼻をくすぐる。
海風が制服の裾を揺らし、さっきまで歩いていた犬山の城下町とはまるで違う空気が広がっていた。
同じ愛知県でも、場所が違えば景色も匂いもこんなに変わるものなんだなと改めて思う。
先生やガイドさんの案内に従いながら、私たちは入口へ向かって歩き始めた。
「修学旅行後半戦のトップバッターは名古屋港水族館!いや~、時間が経つのは早いですな~」
相変わらず元気いっぱいのゆみが、両手を広げながら笑った。
「ただ、来るなら北館がオープンしてからの方が良かったかもね。今は工事中だし」
「タイミングが悪かったみたい……」
「……北館が工事中?」
ゆみたちの言葉にハッとした。
そうだった。
私は未来――2027年からこの時代へ来ている。
だから私の知っている名古屋港水族館と、今ここにある水族館は同じじゃない。
私の知る水族館には北館があって、大きなイルカプールでは迫力満点のイルカショーが毎日のように行われていた。
けれど今は1999年。
まだ北館は建設途中。
つまり――
「そんな……イルカショーが見れないなんて……」
そんな本音が零れてしまった。
「「「え?」」」
三人の視線が一斉に私へ集まり、心臓が一気に跳ね上がる。
「あ、いや……なんでもないよ!あはは……」
慌てて笑ってごまかす。
危ない危ない。
未来から来たことが知られたら何が起きるか分からない。
今までだって何度も気をつけてきたんだからこんなところでうっかり口を滑らせるなんて駄目だ。
これ以上ボロは出さないようにしないと。
そんな私の内心など知らず、ゆみはいつもの調子でしおりを開く。
「この水族館は大きく五つのエリアに分かれてて、『日本の海』『深海ギャラリー』『赤道の海』『オーストラリアの水辺』『南極の海』の違った生き物が見れるんだ。ちなみにこの順番なのは、南極観測船が辿った航路を追体験できるように作られたんだよ」
実行委員長らしく、ここも事前にしっかり調べてきたらしい。
みくるは興味津々に館内の案内図を眺めている。
「海は繋がってるからどこも同じ生き物がいると小さい頃は思ってたけど、こうして見ると地域ごとにいろんな生き物がいるんだね」
「確かにね……」
私も深海魚の特集を図鑑やテレビで見たことがある。
暗闇の中で光る魚。
異様に大きな目を持つ魚。
見た目だけなら同じ地球の生き物とは思えないくらい不思議な姿ばかりだった。
海という一つの世界の中にも、これほど多様な命がある。
考えれば考えるほど、生き物という存在は奥が深い。
入口が少しずつ近づく中、みくるが腕時計へ目を向けた。
「犬山市内の散策とバス移動でかなり時間を使ったみたいだね……」
今の名古屋港水族館はまだ未完成。
そのため修学旅行の日程も、犬山城や城下町で多くの時間を使うよう組まれている。
だからこの水族館で自由に過ごせる時間は長くない。
南館だけでも十分見応えはあるけれど、全部をじっくり見て回るには足りないだろう。
東山動物園の時と同じだ。
限られた時間の中で、どれだけ楽しめるか。
それが今日の勝負になる。
私は気合いを入れるように軽く拳を握った。
「よし、巻きで見よう」
「いや、仕事じゃないんだから」
「こういう時こそ、しおりの出番だよ~」
ゆみは自信満々にしおりを掲げた。
「私たちには実行委員長のゆみがいる。きっと大丈夫だよ!」
ゆみはやっぱり恥ずかしそうにしてるが、実行委員長がいるだけで大分心強かった。
_______________
館内へ一歩足を踏み入れると、外の夏の日差しとはまるで別世界のような、ひんやりとした空気が私たちを包み込む。
照明は少し落とされ、青く揺れる光が床や壁に反射している。
まるで本当に海の中へ潜っていくような、不思議な感覚だった。
最初に私たちを迎えてくれたのは、「日本の海」エリア。
そして、その入り口に堂々と構えているのが、この水族館を代表する展示の一つ――黒潮大水槽だ。
目の前いっぱいに広がる巨大なガラス。
その向こうには、果てしなく続く青い世界が広がっている。
「うわ~、すごい!」
思わず声が漏れた。
テレビや写真で見たことはあったけれど、実際に目の前で見ると迫力がまるで違う。
水槽の中では、数え切れないほどのマイワシが群れを作り、一つの生き物のように形を変えながら泳いでいた。
右へ流れたと思えば一瞬で向きを変え、銀色の体が照明を反射してきらきらと輝く。
海の中に大きな銀色の雲が漂っているみたいだった。
その群れの合間を、大きなエイが翼を広げるようにゆったりと泳いでいく。
優雅で力強く、それでいてどこか神秘的。
海の王様のような風格に見とれてしまう。
「イワシの群れがこんな近くで見れるなんて!」
ガラスにくっつきながら水槽の中を見るゆみ。
普段なら海の中へ潜らなければ見られない光景が、目の前にそのまま広がっている。
これこそ水族館ならではの魅力なんだろう。
ゆみは案内板へ目を向けながら嬉しそうに説明した。
「普段は海の中でしか見られない部分も、水族館なら再現できちゃう!」
「なるほどね……」
確かにそうだ。
海へ行っても、こんなに透明な状態で魚の群れを見ることなんて滅多にない。
ましてや大型のエイまで一緒に観察できる機会なんてほとんどないだろう。
人間の技術って本当にすごい。
すると、りえが巨大な水槽を見上げながらぽつりと呟いた。
「こんなに大きい水槽……どうやって作ったんだろう……」
その一言で、私も改めて水槽全体を見回す。
何メートルあるのか分からないほど高いガラス。
その向こうには膨大な量の海水が満たされ、数え切れないほどの魚たちが自然に近い環境で暮らしている。
これだけの施設を造るには、一体どれだけの人が関わり、どれだけの時間をかけたんだろう。
今は北館も建設中で、私の住む時代ではもっと大きな水族館になっている。
でも、この時代だからこそ見られる景色も確かにある。
まだ完成していない水族館。
それでも、この黒潮大水槽は十分すぎるほど私たちを圧倒していた。
_______________
黒潮大水槽の壮大な景色を後にして、私たちはその隣にある「深海ギャラリー」へ足を運ぶ。
入口へ近づくにつれて照明はさらに暗くなり、青白い光が静かに展示室を照らしている。
深海――太陽の光がほとんど届かず、水圧も想像できないほど高い、海の底の世界。
テレビや図鑑では何度か見たことがあるけれど、実際にその生き物たちを目の前で見るのは初めてだ。
水槽の中には、独特な姿をした生き物たちが静かに暮らしている。
どれも浅い海の魚とはまるで違う雰囲気をまとっていて、「深海」という未知の世界を感じさせた。
「このカニ、すごく足が長い!」
りえの声がする方向へ私も視線を向けると、大きな体に信じられないほど細長い脚を持ったカニがゆっくりと動いていた。
その姿は脚だけで歩いているようにも見える。
「タカアシガニだよ。太平洋側の沖に生息していて、現在の節足動物では世界最大を誇る生き物なんだ」
「世界最大!?すごい!」
世界一大きい節足動物。
そんな肩書きを持つ生き物が、日本の海に暮らしているなんて想像もしていなかった。
テレビでは何となく見ていたけれど、実物を見るとその迫力は段違い。
こんな巨大なカニが海の底を歩いていると思うと、不思議な気持ちになる。
私が感心していると、りえが今度は別の水槽を指差した。
「こっちは何?成長しすぎたダンゴムシ?」
そこにいたのは、灰色の硬い殻に覆われた丸っこい生き物。
一見すると巨大化したダンゴムシに見える。
「ダイオウグソクムシだね。これも等脚類では世界最大で、深海底に沈降してきた大型魚類やクジラなどの死骸や弱った生き物なんかを食べることから、『海の掃除屋』とも言われてるんだ」
「海の掃除屋……」
少し怖そうな見た目なのに、海の環境を支える大切な役目を担っている。
見た目だけで判断しちゃいけないんだな、と改めて思う。
「外見はダンゴムシみたいだけど、分類としてはフナムシに近いかもね」
「えっ、そうなの?」
みくるの補足にも驚く。
ダンゴムシじゃないんだ。
似ているようで違う生き物。
生き物の分類って、本当に奥が深い。
「みんな詳しすぎるよ!」
ゆみは生き物の知識が豊富で、案内板を読むより早く説明してくれる。
みくるも図鑑で読んだことがあるのか、さらりと補足を入れる。
りえは素直な疑問を口にしてくれるから、話もどんどん広がっていく。
私はというと、「すごい!」とか「へえ!」ばかりだけれど、それでも十分楽しかった。
知らないことを知るたびに世界は少し広がっていく。
深海という暗く静かな世界には、まだまだ私の知らない驚きがたくさん眠っているのだと、そんなことを思いながら、私は次の展示へと歩き出した。
_______________
深海ギャラリーを後にした私たちは、順路に沿って次の展示エリアへ向かった。
案内板には「赤道の海」と書かれている。
赤道付近の暖かい海に暮らす生き物たちを紹介するエリアらしい。
歩みを進めていくと、目の前の景色が突然大きく開けた。
「……うわ………」
息を呑む光景とはこのことなんだろうか。
目の前には、1階から3階までを貫く巨大な「サンゴ礁大水槽」が広がっていた。
そして、その中を通るように造られたガラス張りのトンネル。
床以外のほとんどが透明なガラスになっていて、見上げても左右を見ても、そこには青く澄んだ海の世界が広がっている。
海の底を歩いているみたいな景色に言葉が出ない。
色とりどりの熱帯魚たちが群れになって泳ぎ、サンゴの隙間を小さな魚がすり抜けていく。
青い魚、黄色い魚、縞模様の魚。
どの魚も図鑑で見たよりずっと鮮やかで、生き生きとしていた。
頭上では少し大きな魚がゆったりと泳ぎ、その影がガラス越しに私たちの上を横切る。
本当に海の中へ迷い込んでしまったような錯覚を覚える。
「水槽のトンネルだ……すごい迫力」
隣でみくるも静かに感嘆の声を漏らした。
その表情を見ていると、この景色がどれほど特別なのかが伝わってきた。
一方、ゆみは案内板を見つけると、待ってましたと言わんばかりに説明を始める。
「世界最大のサンゴ礁の『グレートバリアリーフ』をモチーフにしてるんだって。ちなみに他の水槽では飼育が非常に難しい本物のサンゴ礁が展示……」
いつもの知識モード全開だ。
説明を聞いていると「へぇ」と思うことばかりで勉強になる。
「はいはい、そんな説明ばかりしてると疲れちゃうから落ち着いて」
「あっ……ご、ごめん!」
説明を聞くのも楽しいけれど、この場所は理屈よりも先に景色を楽しみたくなる。
海で見られる全てが一つの大きな景色になっていて、ただ眺めているだけで心が落ち着いていく。
私はゆっくりとトンネルを歩きながら、何度も上を見上げた。
未来でもこの景色は知っている。
それでも、実際に歩いて体験する感動はまったく色褪せない。
水族館という建物の中にいながら、本当に海へ潜ったような気分を味わえる。
そんな不思議な時間を噛みしめながら、私たちはゆっくりと赤道の海の世界を進んでいった。
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赤道の海の幻想的な景色を満喫した私たちは、そのまま順路に沿って4つ目のエリアへと進んだ。
案内板には「オーストラリアの水辺」と書かれている。
名前のとおり、オーストラリア北部に広がる熱帯や亜熱帯の自然環境を再現した展示らしい。
展示室へ足を踏み入れると、それまでとは雰囲気ががらりと変わった。
青い海の世界ではなく、目の前には緑が生い茂る湿地や川辺の景色が広がっている。
大きな木の根が複雑に絡み合い、水辺には植物が生い茂り、本物のジャングルを切り取ってきたようだった。
「ここの水槽、中はなんか暑そうだね」
「それにジメジメしてそう……」
水槽の内側はどこか空気まで重たそうに見える。
葉には水滴が付き、湿気をそのまま閉じ込めているようだった。
「よく気づいたね。この水槽内は年間を通じて水温と気温が約28℃、湿度が約80%に保たれてるんだ」
「その生き物が本来いた環境に合わせてるんだね」
ただ生き物を展示するだけじゃない。
その生き物が暮らしていた世界そのものまで再現してしまう。
水族館って、水槽を並べるだけの場所じゃないんだ。
生き物が自然に近い生活を送れるよう、見えないところでたくさんの工夫がされている。
耳を澄ませると、どこからともなく鳥のさえずりが聞こえてきた。
人工的な音とは思えないほど自然で、目を閉じれば本当にオーストラリアの森へ迷い込んだような気分になる。
水槽の中には、生きた化石と呼ばれるオーストラリアハイギョがゆったりと泳ぎ、その近くでは豚のような丸い鼻を持つブタバナガメがのんびりと水底を歩いていた。
(鼻、本当に豚みたい……)
図鑑では見たことがあったけれど、実際に動いている姿を見ると想像以上に愛嬌がある。
世界にはまだまだ知らない生き物がたくさんいるんだなあと改めて実感した。
そのまましばらく水槽を眺めていると……
――ザーッ!!
突然、展示室に激しい雨音が響き渡った。
「えっ!?」
驚いて顔を上げると、水槽の中では滝のような勢いで雨が降り始めている。
「え!?急に雨が降りだしたよ!どうなってるの!?」
何の前触れもなかっただけに、本当に天気が変わったようにしか見えない。
しかし、ゆみは驚くどころか嬉しそうに笑った。
「これはラッキーだね。一日に数回、水槽内にスコールを降らせる演出があるんだ」
「熱帯特有の気候まで再現されてるなんて流石ね」
みくるも感心したように雨の様子を見つめる。
勢いよく降る雨を浴びながら、生き物たちはまるで普段と何も変わらないように動き続けている。
湿った空気まで伝わってきそうな景色は、本物の熱帯雨林そのものだった。
私はガラス越しにその光景を見つめながら、小さく息をつく。
ただ展示するだけではなく、生き物たちの「日常」まで見せてくれる。
だからこの水族館はこんなにも面白いのかもしれない。
限られた時間の中でも、次々と新しい驚きに出会うことができる。
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オーストラリアの水辺も後にし、順路の最後にたどり着いたのは「南極の海」エリア。
館内を歩いているだけなのに、目の前の景色は熱帯から一転して極寒の世界へと変わる。
白や青を基調とした展示は、氷の大陸そのものを切り取ってきたようだった。
ここは南極観測船がたどり着く終着点をイメージしたエリア。
修学旅行で巡る名古屋港水族館も、いよいよ最後の見どころだ。
「このエリアは何と言ってもペンギンだよね。ここには4種類のペンギンが飼育されてるんだよ」
ゆみの声に導かれるように視線を向ける。
そこでは、たくさんのペンギンたちが思い思いに過ごしていた。
大きく堂々とした体つきのエンペラーペンギン。
小柄で愛らしいアデリーペンギン。
すいすいと水中を泳ぐジェンツーペンギン。
そして、顎の下の細い黒い線が特徴的なヒゲペンギン。
4種類それぞれに体格も模様も違っていて、見比べているだけでも面白い。
「動物園とはまた違った雰囲気があるね」
東山動物園でもペンギンは見たけれど、水族館では水中を勢いよく飛ぶように泳ぐ姿まで観察できる。
陸の上では少しよちよちと歩いていたペンギンが、水に入った瞬間別の生き物のように滑らかに泳ぎ出す。
「ちなみにこの水槽も南極の環境に近づけるために、室温がマイナス二度、水温六度の環境を再現しているよ」
「へえ~。ここも再現されてるんだ」
外は夏の暑さなのに、この水槽の中だけは真冬。
熱帯雨林の環境まで再現したかと思えば、今度は南極まで再現してしまう。
この水族館のこだわりには、本当に驚かされる。
そんなことを考えながら歩いていると、誰かいないことに気がつく。
「あれ?そういえばみくるは?」
さっきまで隣を歩いていたはずなのに、その姿が見当たらない。
「どこ行ったの?」
「あそこにいるよ!」
りえが少し離れた場所を指差した。
視線の先には、小さな展示水槽の前でじっと立ち止まっているみくるの姿がいた。
周りの展示には目もくれず、水槽の中を真剣な表情で見つめている。
私たちは揃ってそちらへ歩いていった。
「みくる!勝手に動いちゃダメだよ! ……何見てるの?」
ゆみが少し注意しながら尋ねると、みくるは振り返り、少し申し訳なさそうに笑った。
「あ、ごめんね。この水槽にいるエビみたいな生き物が気になって」
その一言を聞いたゆみが展示を覗き込むと――。
「それ!『ナンキョクオキアミ』じゃん!!」
館内に響きそうなくらい大きな声を上げた。
「どうしたの?急に大声出して?」
水槽を覗き込むと、そこには小さな透明っぽい体をした生き物が静かに泳いでいた。
見た目だけなら本当に小さなエビにしか見えない。
「珍しいの?」
「珍しいも何も、このナンキョクオキアミって物凄く飼育が難しくて、世界でも唯一繁殖に成功した水族館がここなんだ!」
「そんなに!?」
こんな小さな生き物が、そんなに貴重だったなんて。
「それにナンキョクオキアミはデリケートな生き物だから、この水族館でも飼育が難しすぎていつも展示されてるわけじゃない。今見れたのは幸運だよ」
その言葉を聞いて、私は改めて水槽を見つめた。
さっきまでは「小さなエビみたい」としか思っていなかった生き物が、急に特別な存在に見えてくる。
世界で唯一。
その言葉の重みは想像以上だ。
「ゆみが興奮してるってことは相当すごいんだね、この生き物……」
「世界で唯一ならしっかり目に焼きつけておかないと!」
小さな体で南極の海を支えるナンキョクオキアミ。
その存在は目立たないけれど、だからこそ今この瞬間に見られたことが、特別な思い出になる気がした。
こうして私たちは、水族館最後の展示で思いがけない「世界で唯一」と出会い、その小さな命を胸に刻みながら、南極の海エリアを後にした。
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南極の海エリアを後にすると、順路はいよいよ出口へと続く。
生徒たちの密度も上がって集合時間が近いことを知らせている。
「そろそろ戻らなきゃだね」
「思ったより時間が経つの早かったなあ」
名残惜しいけど仕方がない。
館内へ入ったときは「時間が足りるかな」と思っていたのに、気づけばもう出口が目の前まで来ている。
本当にあっという間だった。
私たちは最後にもう一度だけ館内を見回しながら入口のあるロビーへ向かって歩いた。
窓の向こうには名古屋港の青い海が広がり、その景色を眺めていると、今日見てきた展示が頭の中によみがえってくる。
黒潮大水槽で目の前を埋め尽くしたマイワシの群れ。
深海ギャラリーで出会ったタカアシガニやダイオウグソクムシ。
海の中を歩いているような気分になれたサンゴ礁大水槽。
熱帯雨林をそのまま閉じ込めたようなオーストラリアの水辺。
そして、可愛らしいペンギンたちや、偶然見ることができた世界でも貴重なナンキョクオキアミ。
どれも印象深く、一つひとつが忘れられない思い出になっていた。
この名古屋港水族館はまだ完成した姿ではない。
未来を知る私にとっては、それがよく分かる。
北館はまだ工事中。
イルカショーも見ることはできなかった。
最初は少し残念だと思った。
でも実際に歩いてみるとその気持ちはいつの間にか消えていた。
確かに北館はない。
けれど、それだけで物足りないなんてことは少しもなかった。
南館だけでも十分すぎるほど広く、生き物たちの魅力がぎっしり詰まっていたからだ。
完成前だから価値が低いなんてことはない。
むしろこの時代だからこそ見られる景色を私は見ている。
そんな特別な時間を過ごせたことが嬉しかった。
「楽しかったね」
「うん!」
「北館がなくても、こんなに楽しめるなんて思わなかった」
「でしょ?完成したらもっとすごいんだろうけど、今しか見られない水族館って考えると、これも貴重な思い出だよ」
未来では当たり前になっている景色も、この時代ではまだ「これから」なんだ。
この未完成の名古屋港水族館も、2027年にはもう戻れない、この時代だけの風景だ。
集合場所へ着くと、すでに他のクラスの生徒たちも少しずつ集まり始めている。
先生が人数を確認し、ガイドさんも笑顔で私たちを迎えてくれる。
私は最後にもう一度だけ水族館の建物を振り返った。
まだ片翼だけの名古屋港水族館。
それでも、その中には数え切れないほどの驚きと感動が詰まっていた。
犬山城の歴史ある景色から始まり、海の神秘で締めくくられた修学旅行二日目の午後。
限られた時間だったからこそ、一つひとつの景色がより鮮明に心へ刻まれた気がする。
私は満ち足りた気持ちのまま、みんなと一緒に次の目的地――ホテルを待つバスへと歩き出した。